学位論文要旨



No 125490
著者(漢字) 張,建
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ケン
標題(和) 中国都市部における後期中等教育と社会階層 : 教育機会格差の事例研究
標題(洋)
報告番号 125490
報告番号 甲25490
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第163号
研究科 教育学研究科
専攻 学校教育高度化専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本田,由紀
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 金子,元久
 東京大学 准教授 勝野,正章
 東京大学 准教授 佐藤,香
内容要旨 要旨を表示する

本研究の主題は、中国山東省の省都、済南市の後期中等教育を事例に、そこにおける教育機会と社会階層の関係を、計量的手法を用いて実証的に明らかにすることにある。具体的には、2002、04年に筆者が実施した中学生対象の質問紙調査と04、07年に実施した高校生対象の質問紙調査の量的分析を通して、中国都市部における社会階層間の教育機会配分と、そこに生じる格差の形成メカニズムを検討するものである。

中国の教育政策や教育制度の転機は、1978年に始まった改革・開放路線であった。このとき、中国政府は、従来の政治路線を大幅に転換して、経済発展を政策の中心に据えた。政府のこの政策転換は、中国の社会構造に根本的な変化をもたらした。と同時に、経済発展の要として重要視された教育は、経済的、社会的地位と社会移動に対するその影響を徐々に強めていったのである。教育機会も、義務教育、高等教育、後期中等教育の順番で拡大し、進学率も急激な増加を見せた。しかしながら、このような進学機会の増加は、教育機会の平等の促進を必ずしも意味していない。教育の規模が拡大し、とりわけ2000年以降に教育の市場化政策が導入されるのに伴って、教育機会における不平等問題も深刻化し、都市・農村間、地域間、階層間および学校間の格差が増大しつつある。

近年、このような状況に際して、中国の教育機会の平等を主題とする研究も盛んに行われるようになってきた。しかし、それらの研究の多くは、対象を高等教育に限定しているものである。義務教育と高等教育をつなぐ後期中等教育における教育機会には、研究者の関心が必ずしも集まらないのが現状である。この原因としては、中国に伝統的に存在する高等教育重視の考え方と、後期中等教育に関する社会調査全般の欠乏が挙げられる。しかしながら、中国の後期中等教育における機会の平等は、高等教育のそれに劣らない、あるいはそれ以上に重要な主題なのである。

中国の高校教育は、一種の大学予備選抜的性質を持ち、大学選抜の前に多くの生徒を振り分ける役割を持っている。高校への進学競争は大学へのそれよりも熾烈であり、そこで良質な教育機会を得ることが、名門大学への進学だけではなく将来の成功にとっても必要不可欠である。重点高校、非重点高校、職業類高校から成る厳然とした高校格差構造も、この構図を支えている。中国において、高校は義務教育から高等教育に至る単なる通過地点以上の意味を持つものであり、高等教育段階の不平等の多くの部分は、高校進学における不平等によってもたらされてきたと言えるのである。

本論文の第一章では、済南市の高校段階の教育機会の配分状況とそのメカニズムに関する考察を行った。まず、教育市場化改革の代表である03年の「三限政策」導入前後を対象に、そこにおける中学生の進学意識の変容と実際の進学行動を中学生と高校生に対する質問紙調査をもとに明らかにした。さらには、多様化しつつある高校進学ルートに着目して、その階層別利用状況や、入学試験で同じ成績をとった生徒のその後の進学行動を検討することによって、高校進学における階層の影響力を検討した。

これによって明らかになったのは、まず、社会階層と高校階層に対応関係が見られることである。重点高校には社会上層家庭が、職業類高校には下層家庭が多く集まる傾向が見られる。次に、済南市における多様な高校進学ルートは、それぞれ異なった性質を持っている。私費生ルートの利用は社会上層出身者に多く、教育機会平等に深刻な問題をもたらしているが、公費特別枠ルートは社会下層出身者に多く利用され、彼らの重点高校への進学に貢献している。さらに、同市の高校進学は、一見業績主義的であるが、同じ入試成績をとった生徒の進路を比較すると、階層的要因が強く影響していることが明らかになった。

第二章では、済南市の高校生の学業達成に対する階層文化の影響力を考察した。この章では、学校を通じて獲得される文化資本が重要な役割を果たす「東アジア型文化再生産」という分析モデルを示し、それに基づいて、近年の同市における階層文化形成や、それが生徒の学業達成に与える影響を検討した。

それによって明らかになったのは、まず、済南市における各階層の文化資本には、両親の職業地位や家庭収入に強く規定される「階層文化資本」と、両親学歴に強く規定される「学校文化資本」の2種類が存在することである。これをさらに4種類に精緻化して行った分析では、学校文化資本に当たる文化資本が、同市の高校生の学業達成に正の影響を及ぼし、階層文化資本にあたるそれは、逆に負の影響を与えることが明らかになった。すなわち、高校生の学業的成功に重要なのは、両親が学校を通じて獲得した文化であり、再生産が行われるのも学校に関わる文化資本なのである。

第三章では、済南市の各高校種における学校文化の特徴と、それに対する各階層出身の生徒の学校適応状況を検討した。具体的には、まず因子分析によって各高校種における学校文化の特質を明らかにし、さらには、生徒がそれに適応するメカニズムや逸脱行為の発生原理を、学校種、性別や階層差に着目しつつ分析した。

この分析の結果は以下の三点である。まず、重点高校を頂点とする高校格差構造が、各学校文化を強く規定しており、学校種による文化の明確な差異が確認できる。次に、生徒の学校適応においては、階層的要因が強く作用している。適応における高校階層と社会階層の対応関係は、とりわけ男子生徒において顕著である。その一方で、女子生徒にはこの対応関係は必ずしも見られない。第三点目としては、地位欲求不満説は、同市の高校生の逸脱行為発生の分析にも適用できる。ただし、その際生徒が不満を抱くのは、学校内・クラス内における自らの地位である。逸脱行為発生に対して、学校種が有意な影響を及ぼさないのも、同市における大きな特徴である。

第四章では、済南市の高校生の進路意識が規定される構造とメカニズムを、生徒の出身階層や成績などの客観的要因と、価値志向などの主観的要因の二側面から検討した。分析枠組としては、まず、進路選択に与える影響として、出身階層による直接的影響と生徒の進路志望を経由する間接的影響の2つを設定した。さらには、進学希望の生徒における大学種選択に関しても、出身階層による直接的影響と、大学選択の際の重視要因を経由する間接的影響の2種類を仮定した。

これによって明らかになったのは、まず、出身階層が生徒の進路選択に有意な影響を及ぼすことである。次に、大学種選択において、上層家庭出身の生徒は大学の地位を重視し、下層家庭出身の生徒は経済的負担を重視する傾向が確認できる。これは、階層的要因が、一見主観的な個人の価値志向にまで影響を与えていることを示す。さらに、進路選択と大学種選択双方において、女子生徒が男子生徒より高い志望を持つことが明らかになった。

本論文では、さらに二つの補論によって、中国全体における教育政策の動向と済南市の地域的特徴や教育制度、教育政策を叙述し、各章で論じることができなかった、中国の全体的な趨勢と済南市の地域的特徴や独自性に関する概観を与えた。

以上の実証分析から指摘できることは、以下の四点である。

まず、現在の済南市では、市場化改革によって、高校への進学機会がお金で買える商品となりつつある。重点高校の有償化も進み、私学的な性質を持つ公立学校が多く誕生している。これは、一方で教育機会拡大に貢献しているが、他方では学校が本来持つ無償の部分を抑制し、拡大された有償の部分を高収入家庭に重点的に配分する結果となっている。

次に、社会階層下層出身の生徒は、教育機会の商品化だけではなく、家庭が所有する文化資本の面でも困難を抱える。済南市の学業達成に重要なのは学校文化資本だが、彼らはその所有量において圧倒的に不利である。教育機会と学業達成における二重の困難は、社会下層出身の生徒が良質な教育機会を獲得することを極めて難しくする。また、新自由主義的な市場化の流れでは、下層家庭の困難さは自己責任に矮小化して語られがちである。

また、済南市の後期中等教育は、インプット、スループット、アウトプットの三段階において生徒の選抜を行い、そのアスピレーションを高めたり低めたりする。各学校種の文化への適応過程において、非重点高校と職業類高校の生徒の大学進学意欲は減退し、重点高校に在籍する下層過程出身の生徒も、経済的理由で自ら志望大学を低く設定するようになる。公立高校が主導するこのような階層再生産のメカニズムは社会の格差構造の固定化につながる危険性がある。

最後に、本論文で指摘した後期中等教育段階の教育機会配分の不平等は、政府の教育政策に多くを負っている。政府は、教育の規模拡大を市場メカニズムに任せることによって、教育発展促進の責任と、教育機会平等保障の責任との二つを同時に放棄した。これによって、高校間の既存の格差はさらに拡大され、高校教育における機会の平等は崩壊の危機にさらされている。政府は、教育投資、入試制度改革、社会下層家庭の生徒に対する文化的補償の三側面において、再度責任を負うべきである。そうしなければ、教育諸政策の効果はじき限定的なものになってしまうのである。

審査要旨 要旨を表示する

1990年代以降、市場経済への急速な転換を遂げてきた中国では、教育政策においても、教育の規模拡大の必要性と教育への公的投資の不足というジレンマの中で、学費の上昇と私費生制度の導入を柱とする教育の市場化が推進されてきた。本論文は、こうした政策転換が後期中等教育段階における生徒の進路選択や学校生活にいかなる影響を及ぼしているかを、山東省済南市の中学生・高校生に対する質問紙調査データの計量分析により検討している。

第一章では、重点高校・非重点高校・職業類高校という高校の階層構造と、生徒の出身家庭の社会階層との対応関係が、学業成績をコントロールした上でも強固に存在することが明らかにされる。特に、重点高校の私費生ルートは社会上層の生徒に多く利用されていることが指摘されている。

第二章では、ブルデューの文化資本概念に基づき、家庭の文化資本と高校生の学業達成との関係が分析される。分析の結果、今回の調査において文化資本は、両親の収入に強く規定される「階層文化資本」と両親の学歴に規定される「学校文化資本」との二種類に区別できること、これらのうち後者は他の諸要因の影響をコントロールしても生徒の学業達成に正の影響を及ぼすが、前者はむしろ負の影響を及ぼしていることが明らかになり、独特な再生産モデルが見出された。

第三章では、各高校種における学校文化の特徴と、それらに対する生徒の適応/逸脱が社会階層にいかに影響されているかが検討される。その結果、高校種によって伝達される知識の威信や生徒の管理・評価の厳しさが異なること、社会階層と各学校種への適応との間に対応関係があること観察された。さらに、高校種よりも各高校内部での学業成績上の地位が「地位欲求不満」のメカニズムを通じて逸脱行動を発生させていることが見出された。

第四章では、高校生の卒業後の進路意識に対する規定要因が検討される。その結果、高校種の影響に加えて上位階層出身者ほど四年制普通大学を志望すること、大学選択に関しては上位階層の生徒ほど大学の威信を重視し、下位階層ほど経済的負担を重視していることが明らかにされている。

終章では、上記各章の分析結果を総括した上で、中国における教育市場化政策が、生徒の出身社会階層による不平等を顕在化させていることが指摘される。

さらに、本論文の末尾には、1980年代以降の中国における高校政策の変化と、済南市の社会経済構造と教育システムに関する概観が、補論として添えられている。

以上のように、本研究は、教育社会学の諸知見を中国の一都市における中等教育に適用し、後発的経済発展を急激に遂げている社会に固有の社会階層と教育との対応関係が存在することを実証的に解明している。特定地域を対象とした一時期の研究であることの限界や、概念や分析をさらに精緻化する余地は残されているとはいえ、中国では中等教育に関する社会学的研究が遅れていることを鑑みるならば、本研究は中国の教育研究に多大な貢献をなすものである。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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