学位論文要旨



No 125499
著者(漢字) 大島,朋剛
著者(英字)
著者(カナ) オオシマ,トモタカ
標題(和) 近代日本酒造業発達史論 : 灘酒の市場形成と生産システム
標題(洋)
報告番号 125499
報告番号 甲25499
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第280号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 中村,尚史
 東京大学 准教授 中林,真幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦前期を通じた日本酒造業に固有の産業発展過程を、幕末期から今日にいたるまで一貫して清酒の最大産地であった、灘酒造業の展開の論理に即して明らかにすることを課題とする。分析にあたっては、明治期より第二次大戦に至る期間、すなわち19世紀後半から1937年頃までを、対象とする時期の中心に据えた。

近代日本酒造業に焦点を当てて分析するという課題設定は、これまで積み重ねられてきた「在来産業」研究に対する近年の経済史研究からの批判―その意義を、戦前日本の経済成長を主導したか否かにではなく、産業固有の生産形態が広汎に展開・維持し続けた理由の解明にこそ求められるべきであるとする―に触発されたものである。筆者は、「在来産業」論の意義について、近世に形成された生産形態の変革が見られない産業が、近代において、着実な産業発展を示したことを明らかにした点に見出したいと考える。それは、近世を起源とする「小経営」の連続性を論じた在来的経済発展論と共通する視角であるともいえるが、しかしそこでは、生産形態の特徴―小経営を基盤とした産業発展―への関心が強いため、雇用関係が展開した醸造業のような産業が上手く位置つかない。本論文は、近代の酒造業にみる産業発展の特質を分析するなかで、それがいかなる点で近世来の伝統を継承し、かつ新たな発展を見せたのかを明らかにし、それを通じて、近代日本における酒造業史の位置づけを考えることにした。分析結果を整理すると以下の通りである。

第1章では、清酒に関する各種統計データを用いたマクロ的な分析がなされる。まず戦前期の国内清酒需要を概観した上で、流通と生産の両面から産地の編成過程について検討した。全国統計の分析によって、明治後半期以降に生産地と消費地の分化が進展したことが示され、中でも近畿地方や中国地方からは、遠隔地(地方ブロック外)輸送の増大が確認された。このことは同時に、生産と消費をとり結ぶ流通のあり方を変化させ、全国的なブランド展開の可能性も示唆し、ひいては清酒の産地形成を促すことを意味した。その展開に深く関係していたのが、生産技術の進展であった。灘など先進地へのキャッチアップにとどまらず、新醸造法の積極的な導入によって市場確保のための品質差別化を図ろうとする広島などの新興産地の成長も、産地構成を変化させた要因の1つであった。しかし灘五郷はそうした中でも、戦前期を通じて清酒産地としての不動のシェアを維持した。この灘が清酒の大産地として安定的であった要因を探ることが、近代日本酒造業の特質を把握する上での課題となった。

第2章では、明治中期以降にみられた清酒流通の構造変化とその担い手の問題について検討された。灘の発展もこれに時を同じくして、地方市場(とくに東海道中心)への販路拡大によってもたらされていた。その際には、委託取引により取引価格や情報面で主導権を問屋が握る東京に比べ、指値による販売などメーカー主導を可能とした地方問屋との取引関係は、灘酒造家にとって情報の非対称性の解消や代金回収の早期化等の面で有利にはたらいたことと、地方問屋の経常発展が果たした役割が大きかったことが明らかとなった。

第3章では、さらなる販路拡大を図る灘の大規模酒造家が、全国ブランドを形成してゆく過程と、それに伴い変化した販売戦略について論じられる。清酒の商標確立には製品の味や品質の保証が必須となるため、メーカーは自醸酒と買酒との調合を行うようになり、また販売に占める瓶詰の比率も高めつつ、当時横行した流通段階における不正な製品操作の可能性を除去するなどの措置をとった。このことは、東京での問屋に対するメーカー優位の取引関係形成に結実した。しかし、生産過剰期になると一転、買酒が控えられ、自らが桶売りに転じて売れ残りリスクをヘッジした。こうして、大規模メーカーの競争力は流通過程における高収益性により維持されていった。

続く補論では、清酒醸造業の展開にも影響を及ぼすような、戦間期の酒類業界にみられた販売競争の激しさを示す事例として、ビール業が取り上げられた。大企業による生産体制が整えられていたビール業界では、メーカーが流通業者や時には消費者まで巻き込みながらシェア獲得競争が展開された。メーカー間で形成されたカルテルも機能せず、各社の厳しいプライス・ダウン競争は1933年半ばの企業合同、共販会社の設立まで続いた。

第4章では、戦前期灘酒造業にみられた「桶取引」について、桶売り、桶買い両者の視点から、それぞれが同取引を選択する要因が分析される。不況下で大手銘柄が自己生産量抑制や、買酒の減少を行うなか、中規模酒造家の中には、自己銘柄による販売の拡大を試みようとするものも現れた。しかし、自己銘柄での商売によるメリットを享受するためには、製品の「味」について負うべき責任や返品処理等による重い負担など、一定の壁が存在していたため、中規模酒造家は景気回復期を迎えるとともに、再度桶取引を選択するに至った。戦前には造石税が採用され、実際に醸造を行った者に対してのみ、年4回の納税義務が課せられていたため、自己のブランド力をもたない中規模メーカーは、確実な販売量の予測と早期の代金回収を可能にし、かつ品質に対し追うべき責任が相対的に軽くなる桶取引を選択したのである。しかし桶取引は、売り手だけにとどまらず、買い手である大手メーカーに対しても選択の誘引を与えた。1930年代の灘における桶取引の事例からは、買い手が継続取引を行うことによって、品質の予測可能性を高めてゆくようなタイプの桶取引が行われていたことも明らかとなった。また、その取引関係は、「多」対「多」の主体間で結ばれ、売り手である中規模メーカーが一方的な代金支払いの遅延化による不利を被るようなものでもなかった。ただし、継続取引と「多」対「多」の取引関係の両立は一見矛盾するかの如く捉えることもできる。しかしながら、調合を目的に複数の相手から桶物酒を買い集めることは、ブランドを確立した大手メーカーにとっても理に適った行動であった。こうして、売り手と買い手の双方に取引コストの節約をもたらしうる戦前の桶取引は発展したのである。

以上により、戦前期における灘酒造業の発展の姿とは、江戸時代にはいわばメトロポリタン・ブランドであった灘酒のナショナル・ブランド化の過程であり、それに対応した酒造業独自の生産組織の形成によって表されるものであったことが明らかになった。すなわち、問屋に対してメーカー優位の関係を築く中で地方市場に展開した灘酒造家が、自己生産量を増やしながら、商標付き商品と非商標商品を組み合わせて販売する中で、戦前期のナショナル・ブランド化は進展した。その際、販売儀増大に伴う生産規模の拡大は一定限度内に収まったが、補完的な形で産地内での桶取引が発展した。結果としてそれらは、個別企業の強弱だけでなく、産地の中に競争力を強める論理を生み出し、灘に相対的「先進性」と「安定性」をもたらしたのである。

それでは、そうした灘酒造業のあり方が明らかとなったことで、戦前同本の清酒醸造業に関する従来の歴史観を如何に相対化することが可能だろうか。とくに、地域内の同業者による結束が、大産地に取り込まれることなく中小の地方産地を存続させ、ひいては全国的な酒造業の集中化を緩やかなものにしたという、青木隆浩氏により提示された1つの戦前期酒造業史像に対して、本論文は以下に述べる意味で、異なる見解を示した。

まず、大産地の成長過程において、その中で全国ブランドを展開するような大手メーカーが複数出現し、一定程度までその発達が進むと、逆にその産地を構成する一定規模以上の生産者がむしろ非拡大的な行動をとるようになったことが注目される。ここでいう非拡大的な行動とは、例えば酒造家が1営業人当たり生産量の増大を無理にはおし進めずに、自製酒と買酒とのバランスを保ちながら、自社ブランドの維持を図ろうとすることなどを意味する。戦時や戦後と異なり、基本的には生産・販売の両面で自由競争の条件下にある中で、多くの全国銘柄を抱える大産地があえて乱売を避け、ブランドを維持しながら価格をつり上げておくような、いわば「自制的」な戦略を採られた。このことにより、各地に散在する地場ブランドと全国ブランドとの間には価格面での格差が生じ、セグメント化された市場に対して、中小の地方産地が新たに参入する余地が生まれた側面は否定できない。逆に、必ずしも積極的に市場セグメントを乗り越えないとすれば、地方の結束や競争力の維持はしやすくなる。このことは地方産地の結束力を重視する見方を相対化し、戦前期日本酒造業の特徴でもある緩やかに進んだ集中化の手綱が、大産地・灘によって握られていたと把握し直すことができる。

ただし、そのことを単純に「市場のすみ分け」の議論に落とし込むことについては、一定の留保が必要であろう。なぜならば、本論文が明らかにしたのは、灘酒が全国ブランドの展開を通じて市場を創造した過程であり、形成されたその市場もまた地方産地にとっての参入の場になったからである。すなわちこのことは、「市場のすみ分け」に示される断面的な把握だけでは表すことのできない、よりダイナミックな動きの中に、近代日本の酒造業が展開したことを示しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「戦前期を通じた日本酒造業に固有の産業発展過程」を、最大の清酒の産地であった灘酒造業の展開の論理に即して明らかにすることを課題としている。論文の構成は以下の通りである。

序章 戦前期日本酒造業史分析の意義

第1章 清酒市場の展開と諸産地の動向―全国データの分析を中心に―

第2章 清酒流通の構造変化とその担い手―江戸積産地の盛衰―

第3章 生産者による清酒ブランドの形成

―辰馬本家にみる商標の統一化と販売戦略の変化―

補論 戦間期日本ビール業の競争構造―酒類業界にみる熾烈な販売合戦―

第4章 企業間取引による安定的生産システムの確立―灘における桶取引の分析―

第5章 酒造家の経営にみる収益基盤の変遷と多様化

―酒造業と多角的事業展開の関係性―

終章 戦前期日本酒造業の発達史像

序章では、酒造業の産業特性を概観する中で、近代酒造業史研究の論点が示されている。

酒造業では、近世の比較的早い時期から大きな資本と雇用労働を用いる産業経営体が生み出されており、これら近世の有力酒造経営の分析が、酒造業に関する産業史的研究をリードしてきた。しかし、資本主義発達史への関心を背景に資本規模と雇用労働に着目するこうした視角からは、機械制工場化の遅れを特徴とする近代酒造業は、本格的な研究対象とはされにくかった。他方、近世来の産業的系譜に着目する「在来産業」史研究においても、「在来産業」の基盤を「小経営」に置く傾向が強いため、大規模な雇用関係を内包する酒造業経営の位置づけは、不明瞭なままである。このような研究史への認識を背景に著者は、「近世に形成された生産形態を維持したまま、近代以降の市場化の進展に対応した産業発展の姿を明らかにする」ことを近代酒造業史研究の視角として設定し、市場形成と生産システムの2つの視点から、大産地・灘の発展の論理を分析することを本論文の直接の課題としている。

第1章では、各種の統計データをもとに、戦前期日本の清酒市場の特徴と清酒産地の動向が概観される。著者は、明治中期から1920年代にかけ、生産府県と消費府県の色分けが進展し、清酒の地域内・地域間流通量が増大したことを示したうえで、『大蔵省主税局統計年報』等から得られる府県別・郡市別の醸造家に関するデータを駆使し、清酒産地が早くから遠隔地への酒販売を行なってきた有力産地〔産地(1)〕、明治中期以降、生産地化していくややタイプの異なる2つの類型の新興地域〔産地(2)(3)〕、そして地位を落としていく在来産地〔産地(4)〕の、4つの産地類型に分けられることを明らかにした。灘は産地(1)に属し、第2章でそれと対比される知多は、産地(4)に含まれる酒造地であった。

第2章は、ともに江戸積の伝統を有する灘と知多の明治期における盛衰が、地方市場(静岡県)における清酒流通の実態解明を通じて論じられている。両産地はともに東京以外への販路開拓を積極化し、売手支配人(灘)や船頭(知多)による直接販売を経て、地方問屋との取引を拡大していった。著者はその過程を、知多の醸造家(中埜家・盛田家)が静岡県下に設立した中泉現金店(清水)および中埜酒店(沼津)の経営分析によって明らかにしている。これらの酒店は、知多酒の直販店として地域市場に販売網を広げ、東京積の減少に対して受け皿としての役割をになった。しかし知多酒造業の衰退傾向の中で、中埜酒店は地方問屋としての自立性を高め、知多酒以外の取り扱いを拡大し、灘で最有力な辰馬吉左衛門家との取引も始めている。一方辰馬家の側からも、価格決定権を保持し90日での代金回収を基本とする掛売方式での中埜酒店との取引は、問屋による仕切値の設定と年1-2回の代金回収を基本とする東京問屋との取引よりも望ましいものであったとされる。著者はここに、メーカー主導による取引への、早期の移行事例を見出している。

第3章では、この辰馬吉左衛門家の日露戦後から1930年頃までの経営発展が、販売戦略を中心に検討されている。日露戦後の辰馬家は、問屋指定銘柄の販売を強いられる東京市場への販売を縮小し、東海道地域や台湾・北海道といった新開地へ自己ブランド酒(印物)の販売を増大させた。その際には、供給量の増大が自醸酒の増加とともに、他酒造家からの「買酒」にも依存していたことが指摘される。他方1920年代に入ると、清酒市場全体の停滞の中で近畿市場および東京市場の比重が高まったが、その背後には、新興の問屋との瓶詰酒(自己ブランド酒)取引の増加があった。著者は、地方市場から始まった問屋に対するメーカー優位の関係が、大集散地にも及んでいたことを指摘するとともに、辰馬家がこの間、「桶売り」(無印物)も並行的に展開していた事実を見出し、自己ブランド酒への傾斜は、こうした売れ残りリスクをヘッジする仕組みの構築によって支えられていたとしている。

補論では、第1章で清酒需要停滞の一因とされた戦間期のビール業について、企業間競争の実態と流通構造の変化が検討されている。1920年代のビール市場は、生産能力の増強と新規参入によって過剰供給に陥っており、熾烈な販売競争が大日本・麒麟の二大メーカーの経営を圧迫していたこと、他方、新興の日本麦酒鉱泉は、生産コスト面での優位性と、従来の特約店制度を掘り崩す積極的な販売政策によって販売量の拡大を実現していたことなどが明らかにされる。結局1933年に大日本麦酒と日本麦酒鉱泉は合併するが、著者は日本麦酒鉱泉が単なるディスカウンターではなかったことを強調している

第4章は、灘の中規模メーカー・松尾仁兵衛家を取り上げ、清酒のメーカー間取引―「桶取引」―の実態とその特質が検討されている。1920年代後半に自己ブランド酒販売への傾斜を見せた松尾家は、1930年代に入ると一転して、造石高の大半を灘の有力メーカーへの「桶売り」に振り向けるようになった。自己ブランド酒は高価格での販売が可能となるものの、返品処理等にかかる負担が重いため、まとまった量を確実に売りさばける「桶売り」が販売戦略として選択されたのである。その際、複数の取引先が確保されており、中規模酒造家にとって「桶売り」は、大手メーカーへの専属化・下請化ではなかったとされる。一方、買い手にとっても松尾家の「桶売り」は、安定した品質の酒を確実に調達する手段として重要であった。これらの事実から著者は、この時期の「桶売り」「桶買」は、「多」対「多」の主体間で結ばれる分業関係を意味するものであり、それが灘の産地としての安定性を支える一因であったと評価している。

最後の第5章では、辰馬家経営の全体像とその変遷が検討される。幕末以降、酒造業とそれに付属する金融業・廻漕業を営んできた辰馬家は、日露戦後に汽船会社設立による海運部門の拡大を図ったが、その汽船会社が、第一次世界大戦期に莫大な貸船料収入を得た。その蓄積は、辰馬家本店雑部によって主に株式投資および銀行預金で運用されていく。戦間期の辰馬家は、酒造業関連をはるかに上回る規模の資産を維持・運用していたのである。著者は、一方で金融資産の運用を図り、必ずしも酒造経営の拡大を志向しない辰馬家の経営手法を、戦前期の自由競争下にある酒造家の、経営安定化のための1つの手段であったとしている。

終章では、以上の内容が、灘酒のナショナル・ブランド化と酒造業独自の生産組織の形成過程としてまとめられる。問屋に対するメーカー優位の形成は、一定程度の生産の拡大と、産地内の桶取引の発展によって支えられ、それが灘に相対的「先進性」と「安定性」をもたらし、かつ全国ブランドの展開を通じた清酒市場の創造につながったとされる。著者はそこに、「市場のすみ分け」では表すことのできない、近代日本酒造業におけるダイナミズムが示されているとしている。

本論文の最大の特徴は、最有力生産地の灘を正面から取上げ、その近代における展開過程を一次史料に基づき分析したことにある。近世期に傾斜していた酒造業史研究に対して、近年、新しい視角から近代酒造業に注目する研究が現れている。しかし、そこで取上げられる対象は、東北・中国地方の新興産地や、各地に分布する中小産地であった。それに対して本論文は、近世以来の有力酒造地であった灘が、明治以降も産業発展をリードする存在であったことを明らかにし、近代酒造業史にとって、有力産地の分析が欠かせないことを示している。また方法的にも、自己ブランド酒への志向性と「桶売り」・「桶買」の実践が同一メーカーの中で並存していたとする議論は、ブレンド(調合)による酒質管理への着目とも相俟って、品質管理や企業間関係の分析を通じて、酒造業の生産・流通を一貫した視角から把握しうる可能性を示唆しており、興味深い問題提起を含んでいる。本論文の成果は、近代酒造業史の全体像を構想する上で、欠くことのできない重要な位置を占めるものと考えられる。

豊富な事実発見が、一次史料の博捜に裏打ちされたものであることも、本論文の価値を高めている。複数の主要なアクターの検討がすべて経営史料の分析に立脚している本論文は、実証的な経済史研究の醍醐味を体現するものといえよう。

もっとも、本論文にも問題点が残されている。課題として挙げられる「固有の産業発展」の含意が、結論においても明示されていないため、課題設定と実証分析との関連が明瞭ではない部分がある。また、松尾家の桶取引が1930年代の現象であるのに対して、辰馬家の経営分析が1930年頃を下限としているため、松尾家の事例の1930年代における代表性については、別途、確認がなされる必要がある。議論を進める上での実証的根拠の提示や因果関係の説明に関して、十分に説得的ではない叙述も散見された。

しかしこのような問題点をもつとはいえ、本論文に示された研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を備えていることを十分に示している。したがって審査委員会は、全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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