学位論文要旨



No 125500
著者(漢字) 今泉,飛鳥
著者(英字)
著者(カナ) イマイズミ,アスカ
標題(和) 産業集積の歴史分析 : 戦前期東京の機械関連工業と集積の論理
標題(洋)
報告番号 125500
報告番号 甲25500
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第281号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 准教授 鈴木,淳
 一橋大学 教授 橘川,武郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、産業集積の存在が日本の経済成長や工業発展のなかでどのような効果をもたらしたのかを歴史的に明らかにすることである。「限られた地理的範囲に製造業が集まっている状態」は様々な産業において観察できるが、これら工業地域や工業地帯における経済活動が、一国の経済をかたちづくってきたと言っても過言ではない。本稿のモチベーションはすなわち、そうした産業の地理的集中が日本の経済成長にどのような影響を与え、またどのような変容を遂げてきたのかを明らかにしたいというところにある。

そこで本稿では、東京府に於ける機械関連工業(機械工業、船舶車輌工業、器具製造業、金属製品製造業)の産業集積の歴史的変遷を追うことにより、経済史研究と産業集積研究の両面への貢献を図ることを具体的な課題とする。

作業の基盤としては、1902年、04年、07年、09年調査の4冊の『工場通覧』と、1914年調査の『東京府工場統計書』、1922年調査の『東京市及隣接町村工場名鑑』、1924年、28年調査の『最近東京市工場要覧』、そして1933年調査の『東京市工場要覧』の記載情報から、経営の継続性に注目して当該期に東京府に存在した工場のパネルデータを作成、分析する。これらの名簿の記載情報を網羅的に利用することで、個別企業ではなくその土地に立地する多数の工場の属性や分布を把握し、地域的な傾向を捕捉することができる。そしてそこから得られた事実を理解するため、産業集積が何をもたらすかについて、集積分析の枠組みの在り方も含めて考察する。経済発展に対する産業集積の役割という関心の所在から、日本の近代的経済発展の初期まで可能な限り遡り、他産業に広く波及効果を持つ機械関連工業を分析対象とする。さらに、従来の産業集積論よりも広い視野で集積を捉えることとし、その際のポイント、すなわち都市との関連及び職住近接の問題を意識しながら分析を進めていくこととする。

まず、冒頭序章において本稿の土台となる先行研究整理を行い、特に地理学の分野の研究に学びながら、産業集積をコミュニティの形成可能な範囲を念頭に「同一産業の多数の工場が地理的に近接して存在している状態」と定義した。そして分析視角としては産業集積のもたらすメリットの働きに注目することとし、「土地」「集合」「組織化」の3種に分類されるその概念について解説を行った。

そのうえで第1章では明治後期の当該集積を観察し、相対的な平常時に集積のメリットがどのように発現していたかを考察した。東京府における機械関連工業の分布を観察し、全国の20から30%の工場数、及び15%から25%の職工数を占める東京府の斯業が、その内部においても芝・京橋、本所・深川、浅草・下谷という3地区に顕著に集積していたことを確認した。そしてその中では工場の存続率を高めるような、何らかの肯定的な効果が働いていたことが窺われた。同章におけるアネクドータルな資料の分析からは、工場間、及び工場と職工らの間の人的なネットワークが明らかになり、また、柔軟な取引関係のほか、熟練労働市場の形成、情報の共有など、「集合」のメリットに含まれるような種々の効果が発現していたことを記述資料から確認した。さらに、当該期の職工には強い独立自営志向が存在し、それを集積のメリットの存在が後押ししたこと、そして数年間の雇用労働後の独立自営という行動が繰り返されたことで、地域内に工場の系譜的な繋がりが形成されていったことにも触れた(特に芝・京橋)。

つづく第2章では東京市芝区に存在した大塚工場の経営資料をもとに、集積内の個別企業を取り巻く取引関係を産業集積との関連で明らかにした。芝区において雇用労働ののち独立自営した大塚栄吉の軌跡は、集積の中で技術力と縁故を形成・蓄積・活用した典型的な事例と見ることができる。そしてその経営のあり方も、全国からの受注に主に芝・京橋内での外注を活用することで対応するという、集積を基盤とした形となっていた。そしてこのような中堅メーカーが、集積に外部からの需要を持ち込む「リンケージ機能」を果たしていたことが明らかにされたのである。

また第3章では1910年代に相次いだ東京における機械工業関連の組合の結成過程を見た。すなわち第1章において明らかにしたような工場及び職工の関係が職住近接(未分離)の生活形態(第5章)とも相まって、当事者たちが同質でひとまとまりだと認識するような地域的な範囲を形成し、それが産業集積の単位となると考察した。第3章で扱う同業者組織化の動きは、まさにそうしたまとまりを単位として発生したことを確認したのである。

以上の3章は第1部を成し、産業特性及び歴史的な社会環境によって産業集積の在り方が規定されることを考察した。一方第4章と第5章からなる第2部では、産業集積に外的な力が加わった際の対応を観察し、以て集積のメリットの機能を考察する。具体的には関東大震災(突発的・一時的ショック)及び都市計画用途地域制(継続的制約)を事例として観察した。これら2つの制約はいずれも直接的には「土地」のメリットを増減させるものであったが、いずれの制約に際してもそれを集積(震災時は本所・深川、用途地域制導入時には芝・京橋)にとっての共通の損失として認識し、組織的に対処しようとする動きが現れた。そうした「組織化」のメリットの強化に加え、「土地」のメリットのカバー(震災時)、あるいはそれに対する制約が結果的に小さく済んだこと(用途地域制)によって、「集合」のメリットの復活ないし維持が可能になったと考察された。

以上のように、従来の研究で叙述的に、それもしばしば「集合」(外部経済)のメリットのみというように限定された視点から語られることの多かった集積の利点は、より視野を広げることで集積の諸活動をよりよく理解するための1つのツールとなり得る。さらに、メリットの有無、強弱、発現の仕方は企業を取り巻く社会環境のあり方に左右され、そうした歴史的社会環境から独立の、普遍的な集積のシステムを想定することは困難である。このような視角が、産業集積の形成、発展、維持の理解に当たって必要であると考える。

さらに、より広域の工業分布との関連に関しても各章で考察を行った。例えば第1章においては、中規模の工場が、集積内のメリットとそこでの混雑等のコストとを比較のうえ集積の外延部に移転し、その行動がまたその新天地での集積のきっかけとなっていく様が示された。つまり、集積はその近隣に新たな集積を作りだす力を有していたと考えられる。さらに第2章では、複数の集積が隣接していることにより中堅工場がそれらを柔軟に利用する様が描かれ、そのような環境が製品の変化や繁閑への対応に貢献していたことが明らかにされた。集積地が結果としてそれぞれ独自の技術を蓄積させていく場となるとすれば、東京のような都市は高い技術力を蓄積した集積が複数近接している場所と捉えることができる。そして、それらを柔軟に組み合わせて利用することのできる都市の企業は、全国的に競争力を持つ可能性のあることが明らかになったのである。

同様のことは第3章の同業者組織の形成においても窺うことができた。すなわち通常同業者組合は1つの集積を基盤として形成されると考えられるが、東京のように同(類似)業種の集積が複数隣接している場合には、それらを包含する組合が形成されるケースが見られる。この場合、組合内の情報共有、すなわち組合内・集積間の情報共有が機関化され容易になることで、やはり創造性や技術力、相互扶助などの面で単集積では期待し難い強力な効果が生じる可能性があるのである。

すなわち都市、あるいは工業地域と呼ばれるような地域は、本稿で分析対象としてきたような産業集積が、複数重合ないし隣接した状態と考えることができるのである。空間経済学の分析では、要素賦存の在り方、あるいは市場の存在、さらには政治的要因などが工業の分布の規定要因であると明らかにされてきた。より実態に即して言うならば、そうした要因が惹起・吸引するのは産業集積である。そのため、地理的・市場的その他さまざまな要因で有利な場所には複数の集積が連なっていき、さらにそこに他の産業の集積も重なりあっていくことになる。このようにして都市や工業地域は、「集積の集積」とも呼ぶべき存在として形成されるのである。こうした理解、及び本稿で見てきたようなその実態が、「都市化の経済」あるいは都市・工業地域の有利性を説明してくれると考えられる。

以上、本稿では経済史研究及び産業集積研究両面への貢献を目指して、東京府の機械関連工業集積の動態を観察した。主に経済地理学の研究に学びつつ、空間経済学と近年の産業集積論双方に目を配り、集積地から集積内企業が受け取り得る効果を「集積のもたらすメリット」として総合的に整理し利用した点に特色がある。また、工場名簿による大量の工場データを用いた分析や、存続率という指標からメリットの実証を試みた点も、今まで体系的にはあまり取り組まれてこなかった作業ということができるだろう。集積の重要性は本来、集積の存在が産業や地域の成長・発達に対してもつ意義を明らかにしてこそ主張し得る。従って産業集積の歴史研究は、産業史と土地利用の歴史・都市社会史などとの結節点としての可能性を有しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦前期東京における機械関連工業の集積の論理を明らかにすることを通じて、産業集積の存在が日本の経済成長や工業発展の中でどのような効果をもたらしたのかを、歴史的に検討することを目的としている。論文の構成は以下の通りである。

序章 研究課題、先行研究及びオリジナリティ

第1部 産業集積とそのメリットの発現

第1章 明治後期の東京府機械関連工業集積と産業集積のメリット

第2章 集積内工場を中心とする取引関係の地理的分布―大塚工場の事例―

第3章 同業者組織の形成と産業集積

第2部 産業集積のメリットの抑制に対する対応

第4章 関東大震災の影響と東京府機械関連工業集積―産業集積と一時的ショック―

第5章 用途地域制導入の影響と東京府機械関連工業集積―産業集積と立地規制―

終章 産業集積の論理と歴史分析

序章では、まず、産業集積に関連する先行諸分野―マーシャルを起源とする産業集積論、経済地理学、空間経済学など―がサーベイされ、近年の産業集積論では、集積内の取引システムの分析に視野が限定される傾向にあること、空間経済学の関心が必ずしも「多数経営の集積」にはないことが指摘され、むしろ現在省みられることが少ない1960・70年代の日本の経済地理学研究が、「地域的生産集団」「コンプレックス・エリア」などの有効な概念を提示していたとされる。また、経済史の分野で産業の地理的集中を論じるこれまでの議論では、論点が織物産地などの組織化過程に限定されており、経済発展の考察において重要な都市部の重工業の集積には、十分な関心が払われていなかったことが示される。以上の認識を踏まえ本論文では、集積の機能の包括的な把握を試みるために、産業集積を広く「同一産業の多数の工場が地理的に近接して存在している状態」と定義し、集積がもたらす肯定的効果を、「土地」、「集合」、「組織化」の3種類に区別して論じていくことが提起される。

第1部では、東京の機械工場の実態とそこでの集積の効果が、おもに明治中期から第一次世界大戦期までを対象に検討されている。第1章では、まず複数年の工場名簿から作成したパネルデータを用いて、機械関連工場の立地が東京中心部から周辺へと移動しつつ、この時期に3つの集積地を形成したこと、集積地では創業が活発であり、工場の存続率も他地域よりも有意に高かったことが、統計分析を交えつつ明らかにされる。ついで記述史料の渉猟によって、このような特徴的な行動の背景には高い自営志向と流動的な労働市場の存在があり、それが補助的産業の発達、熟練労働市場の形成、情報の伝播・共有といった「集合」の効果と相俟って、柔軟な分業のネットワークの形成と創業の活発化とを循環的に促進し、集積内の工場の存続可能性に肯定的効果を発揮したことが論じられる。

第2章は、芝・京橋の工場集積地で活動した中堅メーカ一(大塚工場)の取引行動に関するミクロ的な検討に充てられる。創業の1901年から1906年までをカヴァーする同工場「収支決算台帳」からは、入金先・出金先の人名・企業名が得られる。著者は関連史料との突合せによってこれらの取引先の属性を同定し、それを取引頻度・金額等の情報と組み合わせることによって、集積内の工場の取引の具体的な在りようを復元した。大塚工場はチルド鋳物製造技術をコアに、主要製品を製糸機械から車輪・車両、鉱山機械へと変化させながら、全国の企業を対象とした販売を行なっていた。それを生産面で支えたのは、集積内での製造委託を含む取引ネットワークであり、さらに近接する他の産業集積(深川の木工関連集積、埼玉県川口の鋳物業集積など)の諸企業との繋がりであったとされる。「集積の集積」ともいうべきこの他集積との関連は、都市立地の大きな利点であり、技術力・製品開発力の基盤であった。

第3章は、中間組織としての同業組合に着目し、その活動内容の検討を通じて集積の特質を論じている。東京府下の機械工業関連の商業者・製造業者は1920年代までに、それぞれが府下一円を対象とする同業組合を結成した。しかしその過程では、地域間の主導権争いがあり、また、実際の活動に際しても、地区ごとのまとまりの強さが観察される。また組合の活動は、技術水準向上のための啓発活動、および営業税撤廃を求める政府への請願などの渉外活動が中心であり、製品検査や生産統制といった、従来の産地論が重視してきた強制力を伴う活動は見られない。これらの事実から著者は、東京府の機械工業がいくつかの集積の集合体であったこと、また集積の性格によって「組織化」の程度は異なっていた事実を見出している。

第2部では視点を変えて、現存する産業集積に外的な力が加えられた際の対応が観察される。その狙いは、外的制約の発生に対する対応如何を通じて、集積の機能を考察することにある。第4章では、集積に突然加えられた外的制約の事例として、1923年の関東大震災が取上げられている。通説的なイメージでは、震災は焼失した市部から郡部への工場移転を促したとされる。しかし震災前後の工場名簿から作成したパネルデータの分析によれば、地震とそれに引き続く火災は、短期的には集積に大きな負の影響を及ぼすものの、5年のスパンでみれば集積は工場数を回復し、集積状態を維持しながら復興を進めていた。統計分析は、むしろ非焼失地よりも焼失地のほうが、工場存続に肯定的な影響をもたらしたことを示しているのである。ここで問われるべき問題は、ショックを生き延びた工場主が、集積の各メリットの弱化にどのように対応したかである。著者は一時的ショックの後に再集積した工場群で、震災以前からの人的繋がりを基盤とする「組織化」のメリットが機能したこと、それに続いて大都市の経済的メリットの発現と政府の復興方針の表明が、復興需要と復興計画への強い期待を醸成し、「土地」のメリットが回復・改善されたことを明らかにしている。それを条件として、人為的な制御が困難な「集合」のメリットが回復軌道に乗り、集積が復活したのである。

関東大震災が一時的なショックであったのに対して、第5章で取上げる都市計画用途地域制の導入による立地規制は、1920年代後半以降、集積のメリット(「土地」の効果)に対する持続的な制約となった。著者はまずその制約が、工場の新規設立を抑制する効果をもっていたことを工場パネルデータから統計的に検証する。次いで、これらの規制に対する工場関係者の反発の内容を検討し、郡部への移転の強制が孕む問題は、移転費用にとどまらず、市部の郡部に対する立地上の優位性にあったことを明らかにした。市部には郡部では未だ発達途上の集積のメリットが存在し、また経済地理学が謂うところの、住工混住の「産業地域社会」が形成されていた。工場経営者たちは、そのような立地状況こそが集積のメリットの発揮に適していると認識していたのである。

終章では以上の内容が、序章で示した産業集積のもたらす3種類のメリットに即して整理された上で、このような集積のメリットの多様性の認識と、そのメリットの発現と歴史的社会環境との関連の把握が、産業集積の形成、発展、維持の理解に必要であることが主張される。最後に、1902年を起点とする全国の工場分布のマクロ的な観察から、1935年にかけて「太平洋ベルト地帯」に近い工場地域の形成が見られることが指摘され、その動力を、産業集積の「複数重合」として理解することの可能性が示唆されつつ、本論文が締めくくられている。

このような内容をもつ本論文については、以下の点で高い評価を与えることが出来る。「産業集積」は社会科学の諸分野で注目を集め分析がなされてきた現象であったが、歴史的なアプローチをとる研究は乏しい。他方、経済史研究の中での産業集積への言及は増えているが、その大半は、産業史研究の一論点としての扱いに留まる。そのような研究状況にあって本論文は、産業集積の形成と維持・発展の論理を歴史分析の中から探ることをメインテーマとしており、その課題設定の独自性を指摘できる。また戦前期東京の機械関連工業を対象としたことは、機械工業の分析に立脚することの多い現状分析と、繊維産業を中心とする経済史の議論の双方を繋ぐ上でも、的確な選択である。先行研究の浩瀚なサーベイの中から日本の経済地理学の諸業績を「再発見」し、全体の議論に取り入れていることも、独自な考察の成果として評価に値する。

定量的な検討と記述資料による論述を相互補完的に組み合わせた分析内容も、周到な分析と資料渉猟に裏打ちされており、歴史実証研究として高い水準にあるといえる。特に外部的制約の影響の分析を通じて、集積効果の有無を論じた第2部は、新たな実証方法の提示ともなっている。また発掘の難しい中小工場の経営史料に基づいた第2章が、中小企業史研究の成果としても価値が高いこと、都市計画に対する工場側の反応を論じた第5章が、都市の社会経済史研究にも一石を投じる考察を含んでいることは、本論文の内容の豊かさを示す証左といえよう。

もっとも本論文にも、やや物足りない点が残されている。産業集積の効果の実在をめぐる独自性の高い議論の展開に比べ、集積のメリットに関する論議の中では、メリットの整理分類にエネルギーが傾注される一方で、メリットの具体的な内容の分析は、既存研究で出されている論点の確認に留まっている面がある。また集積の地理的範囲の設定については、概念上および自然地理の観点から、より立ち入った考察が求められよう。

しかしこれらの点は、本論文の問題点というよりも、著者の今後の検討課題というべきものである。本論文に示された卓越した研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を備えていることを十分に示している。したがって審査委員会は、全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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