学位論文要旨



No 125501
著者(漢字) 高槻,泰郎
著者(英字)
著者(カナ) タカツキ,ヤスオ
標題(和) 近世大坂米市場分析 : 効率的市場の形成と展開
標題(洋)
報告番号 125501
報告番号 甲25501
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第282号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 中林,真幸
 東京大学 教授 中村,尚史
 東京大学 教授 松村,敏弘
 東京大学 教授 大湾,秀雄
 東京大学 教授 藤田,覚
内容要旨 要旨を表示する

我が国において,いつ,いかにして市場経済が勃興し,展開したのか.この日本経済史上,極めて重要な問題に対して,近世期における米市場を素材に,一定の回答を試みることが本論文の主題である.

近世期に市場経済が進展したという事実について,異論を差しはさむ余地はもはやない.しかし,この事実をいかに評価するのか,という点については,未だ統一的な見解は打ち出されていない.そこには大きく分けて2つの立場が存在する.第1に,資本主義経済の萌芽は見出せるものの,封建的支配を打破できなかったという意味で,あくまでも"Pre-modern"と捉える立場である.第2に,近代的経済成長の開始点と捉える立場である.農業生産性の増大,人口の持続的成長.これらは近代経済成長の胎動を示すものと解釈され,それを実現した近世期は"Early-modern"として評価される.

後者の視角を提起した数量経済史研究は,近世日本経済史における伝統的視角,すなわち領主経済と農民経済とを対置し,後者が前者を包摂する形で,近代資本主義が勃興する過程を描く,という分析視角に疑問を投げかけたものである.そこでは,幕藩領主が市場に供給する米は,貢租として集荷されたがゆえに商品ではないとの伝統的見方に対し,米が商品性を有していたからこそ,貢租となり得たのだと理解される.「そこに住む人々が,最小の費用で最大の効用を獲得しようとする性向を持って経済活動を営む社会」,すなわち「経済社会」が近世において成立していたこと,これが数量経済史研究によって,まさしく数量的に明らかにされた事実である.

数量経済史研究が示した客観的事実は,それ自体価値のある発見であったと言えるが,伝統的研究に対する批判としては,未だ途上にある.そこには2つの課題が残されている.

第1に,近世において成立した「経済社会」とは,それ以前の「経済社会」と何が異なるのか,という点である.上述の定義による限り,中世,あるいはそれ以前の時代においても,「経済社会」は成立していたことになる.近世が,市場経済発展の画期であったとするならば,その画期性こそ,明示的に説明されなければならないのである.

第2の点は,幕藩領主による支配の捉え方である.数量経済史研究が「経済社会」の成立,経済合理性の存在,といった点を強調した背景に,伝統的研究が重きを置いてきた支配・隷属関係の存在を相対化する意図が込められていたことは明らかである.幕藩領主による支配の限界を強調し,領主権力でさえ規制し得ない,市場原理に基づく経済活動の展開を,数量的に把握するという手続きをとった点に,数量経済史研究の意義がある.そして同時に限界もそこには示されている.伝統的経済史研究を,批判的に乗り越える形で継承するならば,支配・隷属関係が持った意味,とりわけその経済学的意味を,正面に据えて分析を加えるべきである.商人,農民による自由な経済活動の展開と,幕藩領主による支配.この拮抗関係を経済学的に捉え直し,かつ史料に基づく帰納的実証分析を加えることが,近世日本経済史研究の課題であると言えよう.

以上の問題意識の下,本論文は,近世期大坂米市場を対象として,次に掲げる3つの論点を検証した.第1に,自由な取引を支えた制度的枠組みの解明である.自由な取引が拡大していくためには,契約履行の確実性が担保されなければならない.自由な取引の展開は,価格裁定機会をもたらし,経済主体がその裁定益を獲得せんと奔走することによって,経済厚生が結果として改善される.取引の範囲が最大化される時,すなわち誰とでも自由に取引ができる時,取引によって生ずる利潤は最大化される.しかし現実には,契約の履行が保障される仕組みが備わっていない限り,取引の範囲は極めて制限される.この仕組みが,近世社会に用意されていたのか否か.この点について,法制史研究は悲観的な見方を提供している.そこでは,金銀債権債務訴訟に対して冷淡な幕府の像が描かれている.

しかし,こうした理解では,幕府が,大坂においては金銀債権債務訴訟を例外なく取り上げていたという事実を説明できない,金銀債権債務訴訟に関する出訴権を否定したものとして有名な相対済し令は,大坂においては1度たりとも発令されていない.この事実は,幕府の司法政策が,対象とする地域によって異なっていたことを示唆しており,法制史研究が描いてきた幕府の像は,改めて検討される必要がある.

大坂米市場における取引統治の仕組みを検討した結果,17世紀中葉から後期にかけて,米商人による米市が形成され,そこでは自生的な統治の仕組みが,取引の円滑な履行を担保していたことが明らかとなった.18世紀に入り,米市場が幕府の公許を得るに伴い,株仲間という,幕府権力に裏付けを与えられた組織によって,取引の円滑なる履行は担保されるようになった(以上,第1章).そこでは,流動性リスク,決済不履行のリスクを回避するべく,周到に設計された制度に基づいて,米切手取引が行われていた(第2章).

18世紀中葉になると,諸藩が発行した米切手について,その信用不安が問題となる.これに対して幕府は,一貫して強い司法を提供し,米商人の財産権を保護し続けた.米切手の発行量を諸家蔵屋敷の裁量に委ねる一方で,不渡りに関しては,強い司法を提供し,米切手所持人の蔵米請求権を尊重する.紆余曲折を経ながらも,18世紀中後期を通じて確立された,この政策方針が,大坂米市場における米切手取引を支えていたのである(第3章).

第2に掲げた課題は,効率性の実証分析である.伊藤隆敏と脇田成は,先物市場の効率性を測る上で一般的な,合理的期待仮説の検証を大坂米市場に当てはめ,両者共にその効率性を棄却している.しかし,伊藤については,ごく限られた期間のみを対象としていること,脇田については,検定モデルそのものに不備があることから,彼らの結論をそのまま一般化することはできない.

本論文では,情報効率性の概念を適用し,この問題に迫ることにした,情報効率性とは,どれだけ正確に,そしてどれだけ素早く情報が価格に反映されているかを図る尺度である.速度を検証する以上,年次や月次といった低頻度の米価系列をここで用いることはできない.現実に得られる中で,最も頻度が高いと思われる日次の米価系列を復元することが不可欠となる。本論文では,国文学研究資料館所蔵「近江国蒲生郡鏡村玉尾家文書」所収の「万相場日記」という相場帳から,大坂と大津,2つの市場における,現物価格,先物価格を日次で復元し,分析対象とした.

実証分析の結果,大坂米市場では,情報を速やかに反映する形で米価が形成されていたことが明らかとなった.そこでは,過去の値動きから何らかの傾向を読み取って,将来の値動きを予測することはできない状態が達成されていた.このことは,過去の値動きから,何らかの情報を引き出し,超過利潤を得ようとする投資主体が無数に存在していたことを同時に意味している,彼らの競争が,大坂米市場をして,情報効率的な市場たらしめていたのである(第4章).

そして,大坂で情報効率的に形成された米価は,米飛脚や手旗信号によって速やかに伝達され,大津米市場の価格に反映されていた.大坂米価という情報を,より速く手にした者が,より大きな裁定益を得る.これが大津米商人の超過利潤獲得競争を促し,大津米市場が大坂米価を反映するのに,1営業日も要さないという速度が達成されたのである,情報が価格に反映されるまでの速度.これこそが,近世を,それ以前の時代と明確に区別するものだったのである(第5章).

第3の課題は,大坂や大津において形成された米価が,農民の経済活動に与えた影響を考察することである.本論文では,上述の相場帳を,5代にわたって記録し続けた農家,玉尾家を対象として分析を行った.玉尾家は,近江八幡の西南に位置する鏡村で,肥料商米穀商,地主経営を営む農家であった.敦賀から琵琶湖舟運を経由して魚肥を仕入れ,近隣の農民に販売し,代価として米を受け取る.そしてその米を,大津御用米会所で販売する.これが玉尾家の基本的な経営内容であり,農村と市場との結節点に位置する農家であったと言える.農村と市場との結節点に位置した玉尾家は,自律的に再生産を維持できる農家には市場原理を,それができない農家には保護をそれぞれ与えることにより,リスクの調整弁としての機能を果たしていた.その一方で,玉尾家自身は,米市場における裁定益獲得機会を狙う経営体でもあった.5代にわたって,大坂米価,大津米価を記録し続けたこと,そしてそれが日次,あるいはそれ以上の頻度にて記録されていることは,玉尾家が速度の重要性を十分に理解していたことの現れであったと言える(第6章).

国家によって財産権,契約の自由が普遍的に保障され,その下で自由な取引が進展することが近代的経済であるとするならば,本論文が明らかにした大坂米市場を軸とする経済関係は,もはや近代と呼ぶにふさわしい実質を備えていた.幕藩体制という枠組みを所与とした次善解としての制度が構築され,自由な経済活動と,支配の保護下に置かれた経済活動とが,拮抗しつつ進展した時代.それが近世という時代だったのである.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は近世期の大坂および周辺地域の米市場を対象として、効率的な市場経済の形成と取引統治の制度の関わりを分析することを課題としている。論文の構成は以下の通りである。

序章

第1章 幕府直轄米市場の形成

第2章 米市場の制度的基礎

第3章 財産権の保護

第4章 大坂米市場の情報効率性

第5章 米市場の連動と統合

第6章 地方米市場の展開

終章

序章においては近世期市場経済の理解をめぐる研究史整理の上に、本論文の課題が設定される。著者は近世期における市場経済の発展に関する理解の相違を、研究史上の重要な焦点と位置づける。マルクス経済学に基づく経済史研究は、財の交換において、生産者である農民間の市場を介した商品交換が支配的な位置を占めることはついになく、貢租関係が支配的な、その意味で、資本主義経済の萌芽が見出されるものの封建的支配を打破できなかった社会と考えてきた。一方、1980年代以降に活発に進められた数量経済史研究は、「人々が、最小の費用で最大の効用を獲得しようとする性向を持って経済活動を営む社会」、すなわち経済社会が近世において成立していたことを強調し、そして、貢租関係において交換された財の主要部分を占めた米にあっても、ひとたび領主が年貢として収納した後、大坂を始めとする市場において商品として取引されたことを明らかにした。こうした研究史の状況を踏まえ、著者は数量経済史研究を批判的に継承しつつ、もってマルクス的な経済史研究を乗り越えたいとする。

著者によれば、まず第一に、近世の経済成長と近代の経済成長を連続的に捉える視角を提供すべく、近世期に経済社会が成立していたことを強調する数量経済史研究は、それでは近世経済の何が中世経済と異なっていたのか、中世経済と比べて何が近世経済の発展なのかを捉えてはいない。そして第二に、貢租関係が財の交換において重要な位置を占めていたことが事実である以上、貢租関係において国制上は分断されていた在方の米市場と貢租米市場である大坂市場との関係を明らかにしない限り、貢租関係が市場とは独立に社会関係を支配していたとする、マルクス的な経済史学が描いてきた近世社会像を克服したことにはならないとする。

こうした重大な論点が今日まで残されてきた実証上の理由は大きく三つに分けられる。

第一は、従来の数量経済史研究が、市場の存在を実証したのみで、それがいかにして存在しえたのかを明らかにはしてこなかったことである。ゲーム理論以前の経済学に基づく数量経済史研究は、市場を成り立たせるために不可欠な取引統治の制度に十分な関心を払わず、それゆえに、封建権力が市場を成り立たせるための制度を創り出してきた過程は関心の中心にはなかった。

第二は、数量的な実証においても、年次米価系列を用いて日本各地の米価が相関していたことを示すに止まっており、高頻度系列による実証を欠いていたことである。中世の交通条件を以てしても1年以内に財が日本各地に運ばれることは容易であったから、年次系列による市場機能の分析は、前近代に市場が存在したことを示すものではあっても、中世に対して近世が達しえた発展を示すものではありえない。

第三には、中央市場と地方市場の関係についても高頻度系列による実証を欠き、また、在方商人の活動に関する経済学的な分析もなされてこなかったことである。

本論文はこうした課題のすべてに応えることを試みたものである。

自由な交換の拡大は厚生を増大させるが、契約の履行を保証する仕組みが備わっていない限り、取引の範囲は極めて限定される。この点に関して、従来の法制史研究における近世史像は悲観的であった。町奉行所における金銀債権債務訴訟の受理を裁量的に制限する「相対済し令」が18世紀以降、江戸でたびたび発令されたからである。しかし、実際には、近世市場経済の中心である大坂において、「相対済し令」は一度も発令されておらず、町奉行所が債権債務関係の統治に責任を負う原則が維持された。特に、米取引において町奉行所の統治機能は一貫して強化されていったのである。

大坂においては、17世紀中後期に米商人の間に自生的な統治の仕組みが形成され、そのことが、券面記載量の米を振り出した蔵屋敷が支払うことを約した証書である米切手の取引市場を拡大させ始めた。18世紀に入ると米商人の組織は幕府によって株仲間の指定を受け、彼らが運営する堂島米会所も幕府の公許を得た(第1章)。

諸藩の蔵屋敷が振り出した米切手が取引される堂島米会所においては、標準取引銘柄である建物米を定めることによって流動性リスクを縮小し、さらに米切手売買の精算を消合(けしあい)場と呼ばれる精算機関に集中することによって取引の履行を担保しようとした。こうして、米切手の現物と先物が活発に取引される、世界最古の商品先物市場が形成されたのである(第2章)。

重要なことは、こうした日常業務を担う株仲間の取引統治が、町奉行所による取引統治と独立に成り立っていたのではなく、それを前提としていたということである。諸藩蔵屋敷の発行量はそれぞれの裁量に委ねられていたが、町奉行所は一貫して米切手所持人の蔵米請求権を厳格に保護し、米切手市場の拡大を支え続けたのである(第3章)。

大坂米切手市場の効率性については、従来、極めて限定的な評価が与えられてきたが、そうした評価は、いずれも、十分な期間の日次系列を用いることなく導かれたものであった。著者は1798-1864年にわたる日次系列を一次史料から整備し、先行研究において否定された合理的期待仮説の成立が、米切手現物と先物の双方について、すくなくとも前期については確認されることを示すとともに、より緩められた基準である、ユージン・ファーマが定義した情報集合に関する弱効率性は、分析対象期間を通じてその成立を認められることを実証した。日次系列による弱効率性の成立は、現代の証券市場においても決して自明ではなく、その意味で、堂島先物市場は、存在において世界最古であるだけでなく、現代の証券市場の基準に照らしても高度な効率性を実現していたことが示された(第4章)。

効率的に機能する中央市場たる大坂市場において形成された米価格は、地方市場にいかに伝播したのか。著者は大津御用米会所に注目する。大津は日本海沿岸諸藩が京都もしくは大坂への供給のために年貢米を廻送する、米流通拠点の一つであった。大津の米商人は、大津御用米会所を管轄する京都町奉行所に対して、大坂町奉行所による取引統治の例に倣って大津においても米切手債権を保護することを求め、京都町奉行所もこれに応えた。このことによって大津米会所も日々活発な取引が行われる市場に成長した。当然のことながら、大津に廻米する諸藩の関心は大坂と京都の米価格にあったが、実際、著者が一次史料から独自に整備した大津市場の日次米価系列は、大坂系列に対して統計的に有意な遅行関係(グレンジャー因果性)を示した。追随に要する時間は価格情報を運ぶ技術が飛脚から手旗信号に進歩するとともに縮まり、近世後期には、大津米市場価格は1営業日以内に大坂米市場価格の変動を織り込むに至ったのである(第5章)。

こうした実証分析によって、少なくとも、近世経済の中心地である近畿地方においては、町奉行所が取引統治業務を積極的に提供し、そのことによって市場経済が拡大していたことが明らかにされた。しかし、そうした都市部の市場が、町奉行所の管轄外にある農村の経済にいかに影響しえたのかは、また別途に解明されるべき課題である。実は第4章、第5章において著者が価格系列を作成するために使用した一次史料は、近江八幡近郊の農家、玉尾家が米取引のために大坂大津両市場の価格を記録した相場帳であった。両市場の価格情報を用いて在方市場に参加していた玉尾家の経営は、幕府司法制度の下に成長しつつあった都市市場と、封建権力による司法業務提供の水準がはるかに低い農村市場との関わりを考察するに格好の素材である。玉尾家の主要業務のひとつは、周辺農民との間の肥料取引であった。敦賀から仕入れた魚肥を農民に販売し、農民からは米現物を代価として受け取り、その米を大津御用米会所で販売する。農民が支払う媒体は米であるが、その量は大津市場の時価によって決まっていたから、米市場の価格変動リスクは農民によって負担されており、その意味で、農民は市場に曝されていた。このように農村と市場との結節点に位置していた玉尾家は、市場の価格変動リスクの下においても再生産を維持できる農家に対しては通常の取引を継続する一方、引き受けえなかった農家は、一時的に小作関係の下に置くなど、市場リスクの調整弁としての機能も果たすことからも利益を得ていた。封建権力の司法制度が支える都市の市場経済は農村経済に波及しつつあったのである(第6章)。

国家によって財産権と契約の自由が普遍的に保障され、その下に自由な取引が拡大することが近代的な市場経済の要件であるとするならば、少なくとも、近世経済の中心地である大坂市場はその実質を備えており、それは畿内農村経済にも及ぼうとしていた(終章)。

こうした内容を持つ本論文の意義について、審査委員会は基本的に著者の自己評価を共有している。第3章に代表される実証史学上の達成、そして第4-5章に代表される経済学的な歴史分析の達成は、一次史料の解読とその解釈に関する実証史学上の技能と、基本的な経済理論ならびに時系列分析に関する理解を合わせ持って初めてなしうるものである。さらにそれらを貫く統一的な歴史像の導出においても、著者の議論は説得的である。

しかし、こうした意義を持つ本論文とはいえ、審査委員会としては、将来の発展への期待も込めて、いくつか残された課題を指摘せざるをえない。

まず、実証面において、本稿が、大坂と江戸の相違に十分な考察を与えていないことが挙げられる。たとえば、米会所設立は実は江戸商人が幕府に提案したものであったが、実現したのは大坂においてであった。「相対済し令」発令の有無に見られる司法制度の強弱の相違と合わせて、なぜそのような違いが生じたのか、大坂と江戸を、その背後にある幕府の司法政策および経済政策の全体のなかに位置づけ直すことが期待される。また、第4章において、合理的期待仮説がなぜ後期において成立しないのか、その理由が明示的には示されていない。さらに6章における玉尾家の分析は、特に、都市市場と農村市場とをつなぐ玉尾家の経営そのものについて、さらなる深化が求められる。魚肥取引が玉尾家の主要業務のひとつであったことに間違いないとしても、同じく主要業務であった年貢米販売の請負、および庄屋として村請制を維持する役割について踏み込んだ言及が求められる。

また、論理面において、ファーマの弱効率性、すなわち、公的な情報の価格への速やかな反映は、確かにパレート効率的な資源配分が現実社会において達成されるための必要条件の一つであろうが、歴史的な経路として、その条件の成立が満たされ、そして資源配分が改善されるまでの間にいかなる論理的階梯が想定されているのか、具体的には、幕府司法制度の整備と情報効率性の関係、そして情報効率性と資源配分の効率性との関係をどのように理解するのか、本稿では十分に展開されていない。さらに終章において、中世に対する近世の達成に言及する以上は、中世荘園における本所の統治と幕府司法制度による統治との間において何が異なったのかについても、見解を示すべきところであった。

そうした課題を残しつつも、本論文に示された研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を備えていることを十分に示していると判断される。したがって本審査委員会は全員一致をもって本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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