学位論文要旨



No 125503
著者(漢字) 野網,摩利子
著者(英字)
著者(カナ) ノアミ,マリコ
標題(和) 夏目漱石の中・後期小説における時間の創出
標題(洋)
報告番号 125503
報告番号 甲25503
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第952号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 エリス,俊子
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 准教授 星埜,守之
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、登場人物の進行中の生を小説に現出させる漱石の方法を解明することである。本論文は、登場人物の精神的身体的動きによって、複数の不均質な時間が小説に生まれるしくみに着目した。文学に対する漱石自身の理論的把握を明らかにしつつ、漱石小説の読み替えを図り、新しい小説の一般理論も目指している。

漱石の『文学論』が打ちだす「文学的内容の形式」、(F+f)は、登場人物の意識や識閾下における、多くの認識的要素間の、また情緒的要素間の、浸透しあううごめき、変化、推移、競争、転換を表すことができる。

「F」とは「印象又は観念」であり、「f」とはそれらに附着する「情緒」である。本論文「序論」では、漱石の理論的発想の源を明らかにしている。「印象又は観念」はヒューム『人性論』に由来する。「印象」とは人間の五感への直接的刺激によって生じた心像のことで、「観念」とはそれらが言語的思考において再起した心像のことである。漱石の言う「印象又は観念」に附く「情緒」とは、リボー『情緒の心理学』に基づく。個人の深奥から湧きあがる情緒が隣接する表象へ移動するという、情緒の過程に関する見解が踏襲されている。漱石の小説では、情緒の揺さぶりで印象や観念が変容し、個人的な時間が出現しているように描かれる。漱石はさらにウィリアム・ジェイムズから示唆を得て、記憶想起における情緒の果たす重要性を認め、識閾下に情緒が潜伏するという、当時最新の心理学の知見を活用した。

「序論」でさらに、ベルクソンの時間論が漱石に『文学論』の可能性について気づかせたのではないかと論じた。たえず組織しなおされる意識が相互に浸透しつつ進行するという考え方である。(F+f)という式が示すのは、諸印象と諸観念とが情緒によって連合しあい、移りゆく運動に他ならない。漱石はジェイムズの示唆で、意識と識閾下の構造が情緒の動きで表現できると知り、ベルクソンの示唆で、情緒の活動史という、個人に固有な時間をとらえる文学が待望されると知る。漱石の達していたのがこのような認識である以上、漱石の小説において登場人物がどのように刺激を受け、微視的な時間を発動しているのかを見すえねばならない。

よって本論文は、登場人物が小説内で何に出会わせられ、情緒を動かしているかに着目し、とくにその記憶の構成について論じた。意識の届かないところから復活する情緒が登場人物の記憶にどのような差異と反復とをもたらすのか。小説内部で生みだされる、登場人物に即した時間について検討している。

第1部は「宗教と記憶」と題し、これまで漱石の小説にこれほど多く取りこまれているとは考えられてこなかった仏教的な思考や感覚の広がりが登場人物の印象や観念を推し進める要素として使われていることを解明した。第2部は「記憶と書く行為」と題し、登場人物が自身も生きてきた小説内世界を見渡しながら書くことの小説的意義を説明する。登場人物自身に書かせる戦略は、漱石の中・後期小説に多く見られる。登場人物の印象や観念、それらに附く情緒を介在させることで、一般化しえない小説の時間が生まれるのである。第3部は「『夢』と記憶」と題する。登場人物の意識が振り捨てたにもかかわらず回帰してくる事象のことを漱石の小説は「夢」と呼ぶ。情緒が識閾下に逼塞する不合理へと意識を牽引する。小説内部に複数の時間を併走させる意図があってはじめて叙述できる過程である。

第1部から順に、各章の考察結果をまとめる。第1章「『門』論(一)―記憶による拘束―」、第2章「『門』論(二)―禅からの示唆―」では、「宗助」「御米」夫婦の現在を突き動かす存在として、彼らがかつて深く関係した「安井」の抱いていた、能・浄瑠璃、禅についての関心があると見た。「宗助」が耳にする禅書、『碧巌集』と『宗門無尽燈論』に記される、「神秀」という人物による詩偈の内容と「宗助」の固定観念とは同質であるよう組まれていると論証し、禅の六祖、「慧能」の言葉が「宗助」に固定観念からの解放を示唆すると明らかにした。

第3章「『彼岸過迄』論(一)―浄土教と言葉の再帰―」、第4章「『彼岸過迄』論(二)―記憶へ届ける言葉―」では、かつて聴き手だった人物が語り出すという構成にみる特徴とは、小説内の世界が登場人物の再考対象になることであると論じた。思考がめぐることで生まれゆく小説の時間という見方を提出している。そのうえで、「須永」が「千代子」から聴いた、幼女の葬式における「松本」の会話は、「須永」に、浄土三部経、親鸞、蓮如の思想について調べさせただろうと読み解く。『観無量寿経』と『無量寿経』とのあいだには五逆の悪人も救われるか否かの相違があり、前者を支持する親鸞、蓮如の思想が、実母と父とを感じとる「須永」の情緒を養ったと分析する。登場人物自身の欲求は小説内からくりかえし情報を得ようとするのである。生成しつづける小説の原動力に他ならない。

第2部第5章「『行人』論(一)―禅とイスラム教―」、第6章「『行人』論(二)―他者の文字から自分の文字へ─」では、小説の文字を登場人物に書かせることで、漱石が、登場人物の印象または観念そして情緒の往還運動をそれら文字に含み込ませていると論じた。「Hさん」の「二郎」宛書簡では、「一郎」が、『碧巌集』第16則、第40則、第60則、第72則を念頭におき、言動をなしていると読解した。対する「Hさん」はイスラム教の視野を持ちこむと読んでいる。書簡の文字に組み込まれるのは、他者への理解が深まる時間である。そのような文字を受けとったうえで手記を執筆する「二郎」にとって、「Hさん」の意が注ぎ込まれた語をどう用いるかは大きな課題に違いない。登場人物の執筆した文字からなる小説とは、その一文字一文字に、情緒とともに振れ動く彼らの言語的観念のプロセスを内包する。

第7章「『心』論(一)─浄土真宗と日蓮宗―」、第8章「『心』論(二)―文字の奥の記憶との対話─」においては、「先生」の遺書の記述を精査し、日蓮を信奉していた「K」が親鸞の思想へと転換を遂げていたことに後から気づいたのだと論証した。歴史的事件が登場人物の個人的な回心において再燃する。文学は、大きな歴史的事実に対し、識閾下から躍り上がるような個人的時間を拮抗させられると、漱石は考えたのであろう。遺書の宛先であった青年は、その手記を、「先生」がそうであったように自分が「悪人」であったことに自覚的な言葉で綴る。個人宛の個人的な言葉から引き出される情緒が新たな言葉を産出する。その運動を指摘した。

第9章「『道草』論(一)―活動を起こす文字―」、第10章「『道草』論(二)―新しい文字を書くまで─」においては、「健三」が、古い書物(『勧善訓蒙』や『輿地誌略』)、書画(『江戸名所図絵』「董其昌の折手本」「南湖の画」「鵬斎の書」)、文字(「書付の束」、「東湖」の漢詩、「北魏二十品」)を連合させながら想起していると論じ、「健三」の執筆行為の導き出される過程を明らかにした。さらに、言葉にならない情緒を照らし出す記憶の作用が主題化されていると指摘している。現在へと呼び戻される断片の書画や、書物、形成途上の文字は、小説の内側から、書く行為を生誕させるのだ。

第3部第11章「『それから』論(一)―記憶の呼び戻し─」、第12章「『それから』論(二)─『夢』の回帰─」においては、頻出する「それから」という語に、「代助」と「三千代」間での情緒の共有を、遡ってつくりあげる働きがあると明らかにした。小説の読者の眼前で、過去から情緒が噴出するかのように見える。小説の時間の生成方法である。さらに、「代助」の意匠になるヴァルキューレを彩る模様画が果たす役割を考察した。「代助」にとってその画は、より本質的なはずの「三千代」への懸念を識閾下へ追いやった代理としての、意識してよいイメージであった。北欧の古代口承文学であるヴォルスンガ・サガが、登場人物の現在時に甦る情緒の生長の形象化のために利用されていると示した。

第13章「『明暗』論(一)―想起システム─」、第14章「『明暗』論(二)―連合する情緒─」、第15章「『明暗』論(三)─意識の外側からの交信―」においては、「津田」の謎を、周囲の人物が掘り下げることで、彼の情緒に関する個人史が出現されるよう構成されていると指摘した。さらに、彼の妻「お延」が感じとる「影像(いめじ)」(七十八章)や、鏡に津田が見出す「影像(いめじ)」(百七十五章)とは、ジェイムズが『心理学大綱』で述べる、イメージとはそれを囲む気配の融合であるゆえに、つねに新たに受けとられるという考察をふまえていると見出した。謎の本体は、登場人物の印象と結びつく情緒の活動でますます膨れあがる。そこにあるのは、いまにもやってきそうな印象から生みだされる時間である。『明暗』に限らず、分析した七本の長編小説すべてにおいて、登場人物の意識構造を決める発想や使われている語が漱石の蔵書あるいは当時読みえた書のどこから汲みとられ、小説内論理に基づいて配置されたかを明らかにした。

「結論」では、漱石の理論と実作とが緊密な関係を持つことを再度強調する。漱石の理論ならびに小説では、登場人物の印象や観念、またそれらに附着する情緒の活性化が主題となっており、登場人物それぞれに個別的な「持続」が取り扱われている。それに着目した本論文は、各小説に固有な時間を問題化しうる新しい文学理論の可能性を視野に入れている。

本論文の成果は、本来言葉で捕らえようもない登場人物の微細な印象、他者からの示唆が浸透する言語的観念、さらには、それらに呼びかけ、揺さぶる情緒を小説に表すことで、漱石が生動する小説の時間をつくりえたと明らかにした点である。その時間とは小説の内側から繰り出される「持続」である。自律的な生の営みを出現させようとする小説家の方法について解き明かす文学理論はいまだない。本論文の意義は、漱石の理論と小説とを通して、その第一歩を切り拓いたところにある。

審査要旨 要旨を表示する

野網摩利子氏の博士学位請求論文「夏目漱石中・後期小説における時間の創出」は、夏目漱石の小説の内部に張り巡らされた、独自の時間が生動するしくみを理論的に解明し、これまでの漱石研究を質的に大きく前進させた論文である。

漱石は自身の『文学論』で、「文学的内容の形式」を「焦点的印象又は観念」に「情緒」が附着したものであることを要すると宣言している。本論文は漱石の小説における「文学的内容の形式」が小説内的時間のなかでどのように現象するかを検証し、小説にしか語りえない「時間」が、漱石の小説表現の要になっていることを説得的に明らかにした。

この論文の主眼は、登場人物の記憶からの情緒の復起に注目し、それらが小説の時間論として組みなおした点にある。漱石の理論的認識のありかの考察から始められ、18世紀ヒュームの哲学、19世紀末から20世紀初頭にかけてのリボーやウィリアム・ジェイムズの心理学、また、ベルクソンの哲学など、漱石が実際に参照した文献に基づいて、それらを漱石がどのように融合して小説の表現方法として用いたかが示されている。漱石が、現在時の意識と同様、識閾下に落とされた言語的観念や身体的印象にも、それぞれ情緒が附着すると認識し、その認識を小説の表現方法にも生かしたことが、本論文では精緻な表現分析によって明らかにされている。

そのうえで、漱石小説の登場人物は、ある契機の中で識閾下の情緒を強く喚起されると解明した。その契機は当の登場人物にとって他者のものであるところの、諸言語、諸物によってかたちづくられることを本論文は証明している。漱石の理論と実作の緊密な関係を実証した画期的な成果である。

また、登場人物の出会った、文字、書物、書画、口承文学、絵画、宗教的言語の歴史的奥行きについて、徹底的な調査がなされている。禅、浄土教、日蓮宗など中世から続く仏教運動、それぞれの経典ならびに関連書物、能、浄瑠璃といった芸能、近世の書画など文人の教養、古代北欧神話など漱石が留学先で得た文学など、すべて漱石自身が読んだことの確実な漢籍、英語文献にあたって調べたうえで、当該小説内における機能が明かされた。これらはすべて野網氏が初めて論証したものである。

漱石の登場人物は、契機をかたちづくるものに遭遇すると、情緒を震わせ、かつて感じたことのある情緒を呼び出し、連合しはじめる。そのとき、識閾下へ追いやっていた印象、観念が甦り、意識の焦点へと昇り出す。こうした独自の運動が、漱石の小説の筋をめぐる導線を動かしていることが証明されている点も、野網氏の論文の独自性である。

本論文は、登場人物の印象や観念、また、情緒によって再認される時間こそ、小説内部で湧き出し、流れ始める独自な時間であり、それに注目する必要性を強調した。なぜなら、そのような生体ならではの活動を言語化したことが漱石の小説の達成点だからである。すなわち、個別的な「持続」こそが小説の時間だという提示である。

このように漱石の小説の時間創出のしくみを解明することによって、漱石が中・後期小説でなぜ頻繁に、登場人物を語り手、あるいは、手記、手紙、遺書の書き手に据えたかが明らかにされていく。

登場人物でもある語り手や書き手は、語るあるいは書く材料をあらためて印象に刻み、言語的観念で切りとる。小説内部の対象にたいする、語り手あるいは書き手の言語的解釈が、読者との緊張関係をもって小説の読書過程全体を貫いていることを証明したことは、本論文の理論的成果の一つでもある。

こうした叙述形式の取られる理由について、論者は三点指摘する。第一に、かつて聴いた他者の声、目にした文字の想起とともに、現在、語ろう/書きつけようとしている言語が振れ動く運動を記すことができる点。第二に、かつて感じた微細な印象が揺さぶられ、増幅するような感覚に押されて語る/書くという運動を記すことができる点。さらに第三として、現在交渉中の出来事の印象、観念に附着する情緒がかつての情緒を呼び醒まし、語り、書く行為にそれら情緒の附着する運動を記すことができる点である。

つまり、登場人物に感受されている、語るまで、書くまでのプロセスは、各段階での印象や観念、それらに附着する情緒同士の相互浸透を経た時間であって、小説の構造のために分配された時間ではないという形で、新しい小説理論の可能性が示されている。

本論文は、漱石の『文学論』における、新旧の印象又は観念、それに附着する情緒同士がたがいに活性化しあう往還運動こそ、実作における重要な小説内容であることを初めて明確にした。縮約されてつかみなおされる個別的な時間に着目することで、漱石の小説が、他ならぬこの小説でしか実現できない唯一のかたちとしての、登場人物の生を現出させると論じきったのである。

野網氏の論文の、研究史の中における意義はつぎのとおりである。第一に、夏目漱石における中・後期小説において、登場人物の記憶の在り方の叙述が、細部にわたるまで人間の意識の動き方を、リアリティをもって現していると明らかにした。第二に、小説の細部と思われていた諸ディテールが、テーマそのものと結合しうることを明らかにしている。第三に、『文学論』などの理論が、実作の細部にまできわめて意識的に貫かれていると証明し、理論と実践が漱石において統一されていたことを明らかにし点である。

審査の中では、引用原文の翻訳への疑問や、対象とした小説の範囲や論点に対するいくつかの批判も出されたが、野網氏の理論的分析の整合性が評価され、漱石の同時代に即してもまた歴史的にも、野網氏の分析方法が有効であることが検証された。

本論文が、現状における夏目漱石研究の最先端に位置し、今後においても、日本近代文学研究の最前線で活躍する力量を持っていることが、論文審査の過程で確認された。

審査員全員の賛同のもとに、「博士(学術)」の学位を受けるに十分に値する論文であると判定するものである。

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