学位論文要旨



No 125504
著者(漢字) 顔,杏如
著者(英字)
著者(カナ) ガン,キョウジョ
標題(和) 植民地都市台北における日本人の生活文化 : 「空間」と「時間」における移植、変容
標題(洋) Life and Culture of the Japanese in Colonial Taipei : Transplantation and Transformation in Space and Time
報告番号 125504
報告番号 甲25504
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第953号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 准教授 外村,大
 東京大学 准教授 矢口,祐人
 京都大学 准教授 駒込,武
内容要旨 要旨を表示する

本論文は日本人の居住の割合が最も高い台北を対象として、いままで「抑圧―抵抗」、「支配―被支配」という単純な二項対立的構図の下で「植民者」として簡約化された在台日本人の様相を再検証し、また、体験された「時間」と「空間」の視角から、彼らの「外地」台湾での生活文化の様態を考察した。

第一部「人――帝国の空間から見た在台日本人」は、在台日本人がどのような人々/集団なのか、どのようなコンテキストで如何なる時代意識を持っていたのかという問いに答えることを試みた。第一章「在台日本人のプロファイル」では、台湾領有時点に立ち戻り、日本人の台湾認識、日本本土の社会環境、植民地政府が日本人に求める使命を検証し、在台日本人の台湾渡航のプッシュとプルの要因を考察した。また、統計書などを利用して在台日本人の職業、本籍、居住地など、いくつの特色を抽出し、彼らのアウトラインをつかんだ。第二章「流転の故郷の影」では、帝国の拡張と共に外へ移動していった在台日本人のアイデンティティと深く関わる故郷意識が、時間と世代の差異によってどのように変化し、どのような故郷の空間が如何なるコンテキストのなかで構築されてきたのかを考察した。

明治維新以後大きな社会変動に置かれながら、危険を顧みずに、自分の運命を拓く可能性のある新付の地・台湾へ赴くことを選んだのは、日本内地で生活に行き詰まったり、一攫千金を夢見たりする社会周縁の人々であった。公務業に携わった人々も、その大半は嘱託雇員以下の下級職員であり、直接には統治の掌に当たらない人々が多く存在していた。在台日本人は異郷の台湾において他者と対面して、外的な体裁においても、精神的な面においても「母国人らしさ」を求められたり、在台日本人の間での連帯感と「内地人」としてのアイデンティティが形成されたりした一方、母国から離れていき、「土着化」、「台湾化」する傾向も免れなかった。

第一部は、いままで統治者、植民者と目されてきた在台日本人を「日本内地から外へ移動した」という「移動者」の視点で捉え、彼らの帝国の空間における「外在的」、「内在的」相貌を再検証した。その結果、在台日本人は「日本社会での周縁」と「帝国の空間での辺境」という二重の周縁性と、「母国日本」と「現地台湾」の間を揺れ動く故郷意識に潜むアイデンティティの変動的で複雑な様相を見出すことができた。

第二部「空間」は、在台日本人と植民地都市台北とのインターアクションに光を当てた。風景が作り出される過程で、風景/空間に対する感受性と解釈がどのように風景/空間の創出に働いたのかに着目し、在台日本人が風景へ投じたまなざし、語りに現れた集団化した表現、都市での足跡、営為などを含む都市空間との相互関係を考察した。

第三章「語られた台北」は、在台日本人の都市空間に関する叙述から植民地都市台北における彼らの体験や、彼らの視線に潜んでいる意味合いと実際の生活の軌跡を明らかにした。第四章「南国風景の創造」は、在台日本人によく描写される都市風景の一つである並木に焦点をあて、風景が作られた過程とその過程に社会的、文化的見方とまなざしがどのように風景の創出に働きかけたのかを考察した。さらに、配置された風景が生活風景としてどのように人々に描写されたのかを検討した。第五章「『内地風景』の移植」は、南国を象徴する並木と対比的な存在である桜の植栽、移植の動機と意味合いの変遷を考察した。

在台日本人と都市空間とのインターアクションを考察した結果、作り出された都市景観は、植民政府権力の誇示を伴いつつ、在台日本人の母国へのノスタルジア、台湾社会に同化される危機感、行楽の欲望と南国に対する認識・想像など、様々な心情や考えと深く結び付いていたことが浮き彫りにされた。「植民者」、「母国人」、「離郷者」など、在台日本人の多重な性格によって規定されたまなざしと風景への感受性は、都市空間を変容させた。さらに、そのような視線、心情に基づいて作り出した空間は再び彼らの生活空間となって、彼らの視線を引き寄せ、彼らの文化的、社会的な表現となった。このように、植民地都市台北の空間は在台日本人の社会的文化的な見方と風景との絶え間ない対話であり、彼等の性格、見方と台湾の風景が絶えずに連動して創り上げた空間といえる。

最後の第三部「時間」では、生活と文化の中身の一部を構成した祝日がどのように植民地台湾で過ごされパフォーマンスされたのか検討した。さらに、それらの祝日が植民地統治と、在台日本人自分自身に対してどのような意味合いをもっていたのか考察した。

第六章「国家の祝日」は、もともと民衆の生活と無縁であった紀元節と天長節を取り上げ、新しい「帝国の時間」がどのように新付の地に伝えられていったのかを検討し、人々の意識、祝日の模様とその変化を明らかにした。第七章「伝統的な祝日と行事」では、日本本土で抑圧されながらも実生活に息づいていた伝統的な節句が、日本人の植民地への海を越えた移動により、どのように移植され存続し続けたのか、あるいは変容したり衰微したりしたのかを考察した。第八章「二つの正月」は、正月を例として、同じ植民地空間におかれる日本人と台湾人の生活リズム、異なる生活リズムが織り成した植民地の風景、そこで生まれた文化の変容を探究した。

生活文化を搭載する時間=祝日の考察を通して、都市での祝祭空間、生活リズムに潜む国家的な時間の展示、そして、植民地というコンテキストで祝日に付与された意味合いが明らかになった。すなわち、国家的な祝日は、新しい統治者としての威信の確立、新付の民に対する忠君愛国の精神の涵養、建国精神の注入を狙いうものであった。一方、伝統的な祝日は、外地での生活に趣を与え、日本人に新領地に永住させ、「母国古来の良風美俗」の植民地への移植を介して「精神の内地化」をも期待するものであった。ただし、これらの祝日の展開は日本の「伝統」や「新しい伝統」の移植である一方、台湾の気候と地理環境、さらに台湾人社会の生活リズムと妥協せざるを得ず、新しい時間感覚を形成し、生活を秩序づけていたのであった。さらに、時節柄の行事、活動内容にふさわしい場所を見つけるため、多くの場所は内地の名所として投影され「固定化」され、在台日本人の行楽空間として形成されていった。

一方、新しい時間の推進過程において、在台日本人が「母国人」としての使命感により自ら進んで模範となろうとする姿勢が看取されると同時に、彼ら自身も教化される対象であったことも見逃せない。国家の時間の移植は、初期の頃から、植民地政府からの規制、働きかけが大きな影響力を持っていた。戦争期に入ってから、国家的な時間から伝統的な時間まで、国家の力の介入によって大きく変えられ、国民精神の鼓舞、培養の時間へと変質させられ、時間の内実は均質化されていくようになったのであった。

本論文は台北の在台日本人を考察の対象の中心に据え、人、時間、空間の三つの視角を反映した三部構成となっている。だが、この三者は独立しているのではなく、在台日本人の性格と、時間と空間で検証されたところの生活文化はお互いに関連していた。また、彼らと新領土台湾との関係、母国日本との関係はまた作用力として在台日本人の性格と生活文化に影響を与えていたのである。在台日本人の性格は、帝国/母国日本と植民地/現地台湾という二つの軸の鬩ぎあいにより規定されていた。帝国の空間はその周縁的な位置を決定し、植民地の空間は母国人としての模範を求めていた。彼らのこのような相貌は、彼らの台湾での営為、形成した生活文化、新領土への態度、そして台湾という土地とのインターアクションを規定した。そして、そのような台湾での営為と彼らが形成した生活文化はまた再び在台日本人の相貌、時代心理とアイデンティティを改変したのであった。

時間と空間に見た生活文化の形成のプロセスにも、母国日本と現地台湾という二つの軸の相互作用が表れている。「母国日本」という軸には、伝統の生活様式の移植、政府の強制力による作られた伝統と文明の移植、及び、他者と対面して引き起こした内部自身の求心力と文化の融合が含まれる。一方、「現地台湾」という軸には、植民地台湾に規制されるコンテキスト、気候、地理などの客観環境のほか、台湾人社会の影響、南国への憧憬、認識などの異文化体験で生まれてきた変容の力も含まれる。在台日本人と彼らが形成した生活文化はこのように、母国日本と現地台湾という二つの軸に縋りながら、その間で揺れられ、馴れ合い、擦れ合っていた。

移動と、移動に伴う異文化の体験は、植民地社会に多様なエネルギーとダイナミックスをもたらした。相互作用するダイナミックスは複雑な時空の様相を織り成して植民地で上演され、展開された。植民者自身にも、被植民者にも、文化の融合と変容を迫り、元来の生活文化を変容させ、考え方や価値観に変化を起こさせたのであった。この複雑な、多様な作用力が構成した生活相貌と時代心理を理解することによって、植民地社会の人々の感知、経験と生活の様態に一層接近し、今日の台湾を構成した要素をより深く理解することができよう。戦前、在台日本人が作り出した都市景観、形成した生活文化、及び、戦後の台湾社会に息づいている日本時代の名残は、単に在台日本人による単一な方向の「移入」によって創出されたのではない。むしろそれらは、在台日本人と植民地台湾との、双方向的な対話とインターアクションの結果として考えられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本植民地統治下台北に居住した日本人(本論文では「在台日本人」)の生活文化史を「空間」と「時間」とにかかわる二つの側面から論述した力作である。

論文は、三部構成とされ序章と結論を含め全10章である。論文本論は、A4版336頁(400字詰原稿用紙換算約670枚、脚注を除く)で、注は文献注も含む形で脚注として付されている。また、本文中の関連部分には、図42点(グラフ、地図、写真など)、表31点(人口統計、関連事項一覧表など)が挿入されている。巻末には、参考文献目録(全13頁)が付されている。

序章では、本論文の問題意識と研究視角が示される。1895年から1945年まで日本の植民地支配下にあった台湾には、その統治末期の数字で約40万人(軍隊を除く)の日本人が居住し、この半世紀間台湾社会の一部分を構成していた。しかし、これまでの台湾史研究では、彼等の植民地支配者としての側面のみが強調され、彼等と台湾人との関係は、その社会的相貌が十分に検討されないままに「抑圧-抵抗」、「支配-被支配」の二項対立図式に流し込まれがちであり、結果として植民地期台湾史の歴史図像からその存在が外されてしまっている。筆者はこうした研究史上の反省に基づき、在台日本人の「内地から外地へ」と「帝国の空間」を移動して生活した移住者としての生活文化のあり方から在台日本人の相貌を捉える必要性を主張する。彼等が「内地」から「外地」である台湾に移動するに際してどのような背景から、いかなる生活文化を台湾に移植し、かつ現地の社会と自然環境との相互作用の中でその生活文化はいかなる変容が生じたのか、またこの変容に国家はどのように関わったのか。さらに、かく形成された彼等の生活文化はそのアイデンティティにどのような影響を与えたのか。本論文は、これらの問題にかれらの生活が営まれた空間(植民地都市空間との相互作用)と時間(国家的、伝統的年中行事のリズムとの相互作用)の視角から接近していくことを課題とする。言い換えれば、本論文は、かつて植民地期台湾に暮らした日本人の生活文化史という研究領域をアイデンティファイしかつ構築する試みである。具体的対象としては、日本人が最も集中して居住していた植民地中央政府(台湾総督府)所在地である台北在住日本人の生活文化に焦点を当てる。

こうした課題設定と研究視角に基づいて、第一部「人--帝国の空間から見た在台日本人」では、第二部以降の論述の準備として、在台日本人の集団的相貌を論述する。

第一章「在台日本人のプロファイル」では、各種統計を利用して、台湾への日本人の移動や移動を左右したダイナミックス、台湾全体の日本人社会と本論文の対象である台北の日本人社会の社会的相貌が示される。在台日本人には、日本社会の周縁の位置から帝国日本の周縁の植民地である台湾に生活の活路を見いだそうとして渡航した民衆もまた多く含まれており、また統治者としての官吏層も大半は下級職員であった。彼等は、日本社会の周縁から渡航し移住先は帝国の周縁であるという二重の周縁性を身にまとう存在であったと言える。

第二章「流転する故郷の影--在台日本人の故郷意識、その構築と変容」では、在台日本人の故郷意識の変遷を跡づける形で、出身地である日本本国と生活の場である台湾との狭間に置かれた彼等の心情の歴史が辿られる。台湾を故郷とせよとの国家言説に枠づけられつつも離郷者として台湾を異郷とし日本内地を故郷とする心情は県人会組織の広がりなどに反映した。ついで台湾育ちないし台湾生まれの「湾生」日本人においては「教えられた故郷」として内地のイメージが曖昧化する中、生まれ育った台湾を「第二の故郷」とする意識も生まれ、彼等が戦後母国に引き上げてみれば、今や異邦となった台湾がより明白に「故郷」と意識されてしまうのであった。「母国日本」と「現地台湾」の二つの力の狭間に置かれたこうした在台日本人の故郷意識のあり方とその変遷は、国家、現地台湾社会と自然との相互作用の中で展開する彼等の生活文化の移植と変容の心理的前提を為すものである。

第二部「空間」は、植民地首都としての台北の空間構成を、既存研究が主として力を注いだ権力の展示の側面からではなく、生活者としての在台日本人の視点から読み解くことで、そこに顕現される彼等の生活文化の相貌とその変遷を浮き彫りにする。

第三章「語られた台北--植民地都市空間の心象風景」では、台北の風景を語るおおやけの言説(総督府鉄道部発行の案内書など)と個人的言説(滞在記など)の検討から、在台日本人の台北心象地理を素描する。そこにおいては、台北は、日本人が集中居住し「文明」の進歩を誇る「城内」と「本島人」地域である「萬華」と「大稲?」の3地区が分節化されている。さらに後二者もそれぞれ萬華は「没落した街、青楼」の地として、大稲?は本島人の商業地区であり、時にエキゾティズムを味わうために「越境を試みる」地区として差別化されるが、ただ、そのようなものとして言及されるのは、内地人が良く足を伸ばすところの、城内に隣接するそれぞれの一部分にすぎなかった。しかし、三〇年代以降「湾生」の言説が公共空間に登場し、それまでの言説ではほとんど言及されなかった地区における本島人的市街の美しさ(萬華)を評価したり庶民の生活文化を享受したり(大稲?)する言説も登場することとなった。

第四章「南国風景の創造--並木の植栽と風景へのまなざし」では、台北市街の並木に着目し、都市空間設計担当者の景観理念や個人としての生活者の風景観の検討を通じて、それらと都市空間との相互作用の様態を検討している。台北の街路樹の景観は、西欧列強の熱帯殖民地を念頭におき、帝国の体面(西欧植民地的美観と衛生的効能)を展示すべしとの景観理念とガジュマルや相思樹に思い入れする台湾ローカルな南国風景観とのせめぎ合いのなかで形成され変化していったのであった。

第五章「『内地風景』の移植--桜を植えて」では、台北という都市の外延空間である郊外に発見されついで移植された桜に焦点を当て、桜に負荷・搭載された在台日本人の生活文化の様態を描いている。そこには、台北郊外に自生する緋寒桜の発見、その地の遊行地化、日本桜の移植事業、さらにはその地の国立公園化へと展開する巡るダイナミックスが存在した。それは、生活者としての在台日本人の欲求が植民地国家の政治的意図(「内地延長」、「新附の民」の教化、日本人二世、三世の「湾化」の防止など)を凌駕して展開したプロセスではあったが、戦時期に入ると桜=大和魂の等式から桜の植栽を台湾人の教化い結びつける言説が力を増した。台湾人はこのダイナミックスの中で桜の美的価値は認知するに到ったものの、その価値を利用した教化のイデオロギーに同調したとは見ることができない。

第三部「時間」では、異なった性格の年中行事、即ち国家的祝祭日と行事、日本人の伝統的年中行事、そして土着台湾人の伝統的年中行事の三者のせめぎ合いの中で形成される生活の時間的リズムから見た在台日本人の生活文化の様態を検討する。

第六章「国家的な祝日--天長節と紀元節を例として」では、もともと来台した一般日本人の生活とも縁の薄かった天長節と紀元節を取り上げ、新たな「帝国の時間」が如何に植民地に浸透していったかを、植民地国家、在台日本人、台湾人民衆の相互作用の中で検討する。統治初期には、清国皇帝に代わって台湾島に天皇の統治の時間が刻まれることになったことを知らしめるために天長節が盛大に祝われた。一方、紀元節は日露戦争を契機に次第にクローズアップされ、統治中期になると台湾人の抗日民族運動の登場に対抗するために「建国祭」のイベント挙行を以て盛大に祝われるようになった。これらに動員されるのは、まずは総督府・地方官庁の官員や統治末端に位置づけられた台湾人有力者、下っては青年団などの教化団体、学校生徒であったが、一般民衆は日本人も台湾人も、イベントに際して行われる様々なパフォーマンスを娯楽として享受して、国家の祝日というよりは休日としてこれらの時間のリズムを受け入れていった。しかし、戦時色が強まる1938年以降は、天長節も紀元節も警察によって各世帯一名の参加が強制されるなど、戦時動員色が強まり娯楽色が消えて、国民を統合する時間としての色彩を強めたのであった。

第七章「伝統的な祝日と行事」では、日本人の伝統的年中行事と意識された五節句のうちひな祭りと端午の節句の台湾における祝われ方の検討から在台日本人の生活文化の変容を考察する。これらの伝統行事は明治維新後日本本国では上からの自粛圧力がかかるものであったが、台湾ではそうした圧力がかけられることはなくかえって奨励され、在台日本人の人口構成が変化し女性と所帯持ちの数が増加するにつれて定着していった。その一方、「日本の美風」を伝えるといった意図から台湾人女学校でひな祭りが行われたり、端午の節句に関して「この島に日本人有り幟建つ」といった言説が行われたりする植民地的特色も見られた。戦時期にはこれらの家庭行事にも国家的意義が強行的に付与されて、社会的国家的行事に転化されていった。その他、春の花見、夏の納涼、蛍狩りなどの季節的行事は、南国の自然的リズムに適応しつつ移植されていったことも観察されたのであった。

第八章「二つの正月--時間の重層、交錯から統合へ」では、新暦の正月を祝う日本国家と日本人、旧暦の正月を祝う台湾人の時間のリズムが植民地都市台北に同時に存在したことから生じる文化現象を描出する。1909年の太陰暦併記の暦の廃止以後在台日本人には新暦の正月が定着し、植民地政府は台湾人の旧正月には強く干渉しなかったので、戦時期までは両者が併存するとともに、台湾人の一部には統治末端の役割や商業上の関係から日本人の習慣にならい二つの正月を祝うなどの文化の混交が生じ、また台北の日本人も、自身が台湾人の旧正月風景を見物に行く、商売の決算を取引相手の台湾人に合わせる、城内にやってくる台湾人行商人が途絶えるなどの形で台湾人の旧正月を体感し、もう一つの時間のリズムを意識せざるを得なかった。日中戦争勃発後は旧正月行事が禁止され台北の街から旧正月風景が消えていったが、たまたま日曜日となった旧暦元旦には盛んに行楽の場に繰り出すなど、暗黙の抵抗も見られたのであった。

終章では、本論の要約と諸論点の総合および今後の研究課題の提示が試みられている。在台日本人は概して日本社会の周縁から来て帝国の周縁に位置づけられ、台湾において「母国人の模範」の役割期待(文明的生活、日本文化の体現、政治的忠誠の率先)がかけられ自身もそう意識する存在であり、同時に彼等を囲繞する台湾人社会と自然環境からの引力に直面しなければならない存在でもあった。そこで彼等の台北における生活文化の形成は、つねに西欧、日本、台湾の三者の文化的引力との交錯の中でこれらの要因との相互作用の中で形成されたものであった。今後の課題としては、時間軸上の縦の比較として、こうして在台日本人を一つの主体として残された日本人の生活文化が、戦後の中国国民党統治下に如何に変容したのかという断絶と連続の問題、横の比較としては、台北と台湾内のその他の地域との関連、在台日本人出身地が持つ地域性と台湾での「日本文化」形成の関連の検討など地域性系列の問題が残されている。

以上が本論文の概要であるが、本論文の貢献は、何よりもまず、在台日本人を統治民族としての存在に一面化せず「内地から外地に移動した生活者」の側面をも持つ者と捉えることで、植民地国家-在台日本人-台湾人の三項関係の中で、植民地台湾における日本人の生活文化の移植と変容の様態を浮き彫りにすることに成功したことである。また、その際、従来は官僚、実業家、文学・芸術家といった個別の側面からのみ捉えられてきた在台日本人をその総体としての生活文化において捉えるという手法を成功させている。筆者はこのことにより、植民地期台湾史における日本人の生活文化史研究という研究領域を開拓し、台湾近代史研究に新たな一石を投じた。日本植民地期台湾の文化史的研究が従来文学・芸術研究に偏り、昨今漸く言語・文体論にひろがりつつあるのみという研究の現状を考えれば、このことの意義は小さくない。博捜された多面的な史料の巧みな解読・使用がこうした成果を支えていると言える。

第二に、本論文が次にあげるような問題点を持ちながらも、植民者の生活文化史の台湾研究の事例の提示に成功したことにより、横と縦の対比の可能性が開かれたことも本論文の功績として指摘してよいであろう。横の対比に関して言えば、この方面では研究が先んじている植民地朝鮮との、また西欧植民地との対比の上で台湾史研究の視角をいっそう豊かなものにていく可能性が開け、縦の比較では、戦後中華民国統治下での同様の問題の研究に堅実な基礎を与えたと言える。

さらに、審査委員会の審議においては、その点に関する筆者自身の自覚的な論点展開はないものの、日本本国におけるモダニティがデフォルメされた形で植民地に移植されるその様態が、在台日本人の生活文化のあり方を具体的に浮き彫りにしたことで明瞭に示されていることなどもメリットとして指摘された。

ただ、本論文も欠点無しとしない。審査委員会の審議においては、次の諸点が指摘された。

第一に、台北に限定しながら台北在住日本人で在台日本人を代表させる議論となっている。そのこと自体妥当性があるが、その妥当性の議論、すなわち台北が台湾社会においてもっていた中心性の議論が乏しい。これが終章における地域性への言及について力強さを欠くものにしている。

第二に、在台日本人の生活文化の形成と変容がどのように展開したのか、その時期的な区分と整理の観点が弱く、豊かな事例が示されている一方で、全体のダイナミックを把握しにくくしている。日本本国における臣民教化政策、台湾総督府の社会教化政策、台湾の民族運動の時系列の展開、そしていわゆる「湾生」が登場してくる在台日本人の人口サイクルなどの時間的展開を整理して提示する部分が必要であった。

第三に、筆者は在台日本人を統治民族の側面に一元化したり、特定の職業・役割のみに着目する視点を採らないことによって、日本人の生活文化史をアイデンティファイすることに成功しており、筆者が描く台北の日本人の生活は魅力的でさえある。しかし、その一見魅力的な生活文化が植民地的な力の不均衡の存在する空間と時間において実現している事実は不変である。筆者がこの点を無視しているとは言えないが、しかし、在台日本人生活文化の様態の豊かな論述の中で、この論点が拡散して収斂に欠く印象が否めない。

この他、表作成方法や先行研究の掲出などに技術的な瑕疵といえる点も散見することも指摘された。

しかしながら、審査委員会は、指摘されたこれらの欠点は、今後の課題と言うべきものでもあり、あるいはわずかな手間で修正可能なものであって、本論文の成果を大きく損なうものではない、一定の修正を経て刊行されれば、この分野の研究を大きく前進させるものであるとの認識で一致した。よって、本審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定するものである。

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