No | 125505 | |
著者(漢字) | 伊藤,浩志 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | イトウ,ヒロシ | |
標題(和) | マウスの行動および前部帯状回シナプス機能に与える慢性ストレスの影響 | |
標題(洋) | The effects of chronic stress on behavior and synaptic function in the anterior cingulate cortex in mice | |
報告番号 | 125505 | |
報告番号 | 甲25505 | |
学位授与日 | 2010.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第954号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 【緒言】 本研究は、慢性ストレスによる情動行動の変化、および情動に関わる脳部位の機能変化をシナプスレベルで解析することを目的とした。 研究対象とした前部帯状回(以下ACC)は辺縁系に属し、ストレスに対して脆弱な部位である。うつ病、統合失調症などストレスが関連する精神疾患で体積減少などが報告されている。げっ歯類では、ストレスによりACC第II/III層錐体細胞の樹状突起に形態学的な変化が起きることが知られている。ACCを含む前頭前野内側部(mPFC)は、海馬とともにストレス応答系である視床下部-脳下垂体-副腎皮質系(HPA軸)の制御に関与するが、ストレスによりmPFCの制御機能が低下する可能性が示唆されている。このように、ACCの形態や機能がストレスによって変化し、情動行動に影響を及ぼす可能性が示唆されている。しかしながら、慢性ストレスによる情動行動変化に関連したACCの機能変化をシナプスレベルで解析した研究は、これまでほとんど行われてこなかった。そこでACCに焦点を絞り、これら変化の詳細を検討することにした。 【研究の目的】 4週齢目のオスマウス(C57BL/6J)に対し1日2時間、1週間の慢性拘束ストレス(以下CRS)を加え、5週齢目に行動実験と電気生理学的実験を行い、CRSが行動およびACC第II/III層シナプス機能に及ぼす影響を解析した。併せて、CRS によるACCシナプス機能変化における左右非対称性について検討した。 【行動学的実験の方法・結果と考察】 CRSによるマウスの行動変化として、情動に関連する行動と考えられる活動量、不安様行動、および恐怖条件刺激に対する情動学習能力の変化を、それぞれオープンフィールドテスト、明暗選択テスト、恐怖条件付けテストによって解析した。その結果、CRSによりマウスの行動が多動となった。恐怖条件付けテストでは、すくみ行動が減少することが明らかになった。 1. 行動の多動化 オープンフィールドテストでは、CRS群でコントロール群に対し、移動距離、中央エリア内での滞在時間、立ち上がり回数が増加した。不安様行動の評価に特化した行動実験である明暗選択テストでは、明箱での滞在時間、および暗箱から明箱に最初に入る潜時には、両群間で有意差はなく、CRSによって不安様行動は増加していないことが示された。これらの結果から、1週間の拘束ストレスによって、マウスは多動となったと考えられる。 2. すくみ行動の減少 恐怖条件付けテストでは、文脈依存性テスト、聴覚刺激依存性テストいずれにおいても、CRS群はコントロール群に比べすくみ行動が減少した。これらは情動学習能力が低下した可能性と同時に、多動の二次的結果であるとも解釈される。 【電気生理学的実験の方法・結果と考察】 ACCシナプス機能に対するCRSの影響を、電気生理学的、および薬理学的手法を用いて解析した。CRS負荷後、マウス脳よりACCを含むスライス標本を作製し、細胞外電位記録法によりフィールド興奮性シナプス後電位(fEPSP)を測定、シナプスの短期可塑性、長期可塑性、ドーパミンによる修飾作用に対するCRSの影響を解析した。またホールセルパッチクランプ法により自発的な微小抑制性シナプス後電流(mIPSC)および微小興奮性シナプス後電流(mEPSC)、誘発刺激による興奮性シナプス後電流(EPSC)を測定した。併せて、mIPSCに対するCRSの影響における左右非対称性について検討した。 その結果、CRSによるGABA神経系の機能低下と、それに起因する興奮性シナプスの短期および長期可塑性の増大が明らかになった。さらに、CRSはドーパミンの修飾作用を減じること、抑制性シナプスに与える影響には左右非対称性があり、右脳でのみGABA神経系の機能が低下していることが示された。 1. GABA神経系による抑制の減弱 細胞外電位記録法を用いてACC深部層刺激に対するACC第II/III層でのfEPSP slope測定の結果、刺激強度-fEPSP slopeの量的関係はCRSによる変化がなかった。しかしfEPSP slopeの時間幅(half width)はコントロール群に比べCRS群で延長しており、コントロール群についてはGABAA受容体拮抗薬(bicuculline)適用によりhalf widthが延長することで両者の差がなくなることが分かった。 ホールセル記録法を用いた mIPSC 解析の結果、コントロール群に比べCRS群では振幅は維持されたまま頻度が低下していた。一方 mEPSC に関しては振幅、頻度ともに変化がなかった。 次に、50ないし100 ms 間隔での2発連続刺激時のfEPSP slope比(PPR: paired-pulse ratio、2発目fEPSP slope / 1発目fEPSP slope)はCRSにより増大し、これもbicuculline適用により有意差がなくなった。このことはホールセル記録による刺激誘発性のEPSCの振幅の比較からも再現された。すなわち膜電位を -45mVに固定した場合のPPRはCRS群の方が高いが、GABA受容体を介する抑制性伝達の効果が現れにくい -70mVでの記録においては差がなく、-45mV測定でもbicucullineを適用するとコントロール群と有意差がなくなった。 一方、興奮性神経伝達そのものに関しては、EPSCの振幅の比較、およびEPSCのうちのNMDA受容体に媒介される成分の比較から両群の間で有意差がなかった。 これらの結果は、1)CRSによりGABAニューロンによる抑制性伝達が減弱し、2)その結果、興奮性伝達のうち、時間経過の遅い成分や2発目の反応に対してのGABA抑制が少なくなることで、 fEPSP slope時間幅の延長とPPRの増大が起こった、という共通のメカニズムにより説明される。 これらのことから、CRSによりグルタミン酸ニューロンによる興奮性シナプス自体は無変化であるものの、ACC内GABA神経系の機能が低下することで、第II/III層錐体細胞の興奮性が高まっている可能性が示唆された。 2. 長期可塑性の増大 細胞外記録にてテスト刺激(0.05 Hz)による fEPSP slopeを記録し、反応が十分に安定化したところでシータバースト刺激([<100 Hz・4回> を5 Hz ・5回] これをさらに0.2Hz・5回)による条件刺激を与え、それ以降のテスト刺激に対するfEPSP slopeの変化を観察した。CRS群で条件刺激25-30分後における長期増強(LTP: long-term potentiation、条件刺激前のfEPSP slopeに対する条件刺激後のfEPSP slopeの比率)は、コントロール群で124.5%に対しCRS群では141.2%と有意に増大していた。Bicucullineの灌流適用で同様の実験を行うと、コントロール群のLTPが増大し、CRS群との有意差はなくなった。 次に、条件刺激として1Hz・900回を与え、どのように長期抑圧(LTD: long-term potentiation)が起こるかを観察した。この結果コントロール群ではLTDが起こらなかったのに対し、CRS群では条件刺激前に比し25-30分後ではfEPSP slopeが85.5%に減少するというLTDが発現した これらのことは、CRSによりACC第II/III層興奮性シナプスの長期可塑性が増大したことを示し、CRSによるGABA神経系抑制機能の減少により錐体細胞の興奮性が高まった結果である可能性が考えられた。 3. ドーパミンに対する反応の低下 コントロール群では、ドーパミン(10、30、100 μM)の灌流適用により濃度依存的にfEPSP slopeが減少した。CRS群ではこのドーパミンによる興奮性伝達の修飾作用が見られず、ドーパミンに対する反応が低下していることが示された。このことからCRS群マウスでは脳内でドーパミンが過剰状態になっており、受容体のダウンレギュレーションが惹起されている可能性が考えられる。 4. CRSによるGABA抑制変化における左右非対称性 CRSにより ACC 内GABA神経系の機能低下が明らかになったので、さらにmIPSCについて、コントロール群、CRS群それぞれにつき右脳と左脳による違いがないかを検討した。その結果、CRS群右脳ではコントロール群右脳に対して頻度が減少しているのに対し、左脳では、両群間の頻度に有意差はなく、振幅は右脳、左脳ともに両群間で有意差がなかった。またストレスによる影響を受けにくいと考えられる視覚野からの脳スライスを用いて同様に左右差の検討を行ったところ、コントロール群、CRS群の左右ACC4グループ間のいずれでも頻度、振幅に有意差は認められなかった。このことから、右脳のみに起こるGABA神経系の機能低下は、スライス作成手技や実験操作による人為的な理由に由来するのではなく、ストレス反応の一部であることが示唆された。 【全体的考察】 慢性ストレスによりACC におけるGABA神経系の機能が低下、ACC興奮性シナプス伝達の短期および長期可塑性が増大することが本研究で明らかになった。行動実験により示された個体レベルでの多動化とすくみ行動の減少といった行動変化は、ACCでのGABA神経系の機能低下により出力細胞である錐体細胞の興奮性が高まり、加えてACCでのシナプス可塑性が増大したことと関連している可能性が示唆される。多動化のメカニズムとしてはさらに中脳からのドーパミン投射の調節作用の亢進が関与し、その点にもGABAニューロン抑制系の変化が関係する可能性が考えられる。 さらに脳機能に対するCRSの影響に、左右非対称性があることが明らかになった。うつ病や統合失調症などストレスが関連する精神疾患で、右脳と左脳で非対称的な障害が報告されている。今回、in vitroの実験系によりシナプスレベルで検出可能な脳の非対称性を発見したことにより、今後マクロレベルでの脳の非対称性がいつ、どのように生じるのか、ストレスが関連する精神疾患の発症に脳の非対称性がどのように関わっているのかについて、物質的な基盤に基づいた研究を行う足がかりが得られたものと考えられる。 | |
審査要旨 | 本論文「マウスの行動および前部帯状回シナプス機能に与える慢性ストレスの影響(The effects of chronic stress on behavior and synaptic function in the anterior cingulate cortex in mice)」は、1週間におよぶ拘束ストレスがマウスの情動行動および大脳皮質前部帯状回シナプス活動に及ぼす影響を行動学的および電気生理学的に解析したものである。ヒトの精神疾患や心身症は、遺伝的素因の他に様々な身体的心理的ストレス負荷の影響を受けて発症または症状の増悪が起こる。前部帯状回は、痛みや葛藤などを含む認知や情動性の行動選択に深くかかわる辺縁系脳組織であり、様々な精神疾患で形態的、神経化学的所見が報告されている。しかしこれまで慢性ストレスによる影響に関し、動物行動変化と脳内シナプス機能を対応させて調べた研究は海馬や扁桃体に注目したものがほとんどであり、前部帯状回においてどのようなシナプス機能の変化が起こるかは不明であった。そこで本研究では、4週齢という比較的若いマウスに対し一日2時間の拘束ストレスを7日間与え、その影響をストレス負荷終了翌日から行動学的および脳スライスを用いた電気生理学的解析に供した。 行動上では、オープンフィールド試験においてコントロール群に比較し総移動距離が増加した。これは中央部での行動量増加を伴い、また試験箱に投入後始めの10分間においてのみ顕著であった。不安様行動の指標を与える明暗選択テストでは、暗箱での滞在時間等に変化はなく、不安状態は高まってはいないと判断された。床から電気ショックを与えることで状況(ケージ)または音刺激依存的恐怖学習を検査したが、無動(フリージング)で示される恐怖記憶現象はコントロール群に比べ低下していた。これらの結果をまとめて説明するには、新奇事象に対する活動の亢進を背景とした多動ということで要約されると解釈される。 一方、これらと並行して慢性拘束ストレス負荷後の別個体群について前部帯状回脳スライスを作成し、シナプス機能を検討した。帯状回皮質深部層電気刺激により浅層に誘発されるシナプス電位を、細胞外記録およびホールセルパッチによる細胞内記録にて観察した。細胞外記録によるフィールドEPSP(フィールド興奮性シナプス後電位、fEPSP)の刺激‐反応強度関係にコントロール群とストレス群間の差はなく、基本的な興奮性は変化がないと考えられた。しかしfEPSPの時間幅はストレス群で延長しており、神経伝達後半に貢献する抑制性伝達が減弱している可能性が示唆された。そこでホールセルパッチ記録によりガンマアミノ酪酸(GABA)を抑制性神経伝達物質とする自発性の微小抑制性シナプス後電流(mIPSC)を解析したところ、平均的な振幅の変化はないまま発生頻度の減少が認められた。一方微小興奮性シナプス後電流(mEPSC)に関しては両群で差がなかった。また誘発刺激によるEPSC(興奮性シナプス後電流)の大きさ、さらにその中のNMDA型グルタミン酸受容体成分について差がなかった。よって、慢性拘束ストレスは興奮性伝達そのものには影響しないが、GABA作動性抑制性伝達を減弱させることが示唆された。 以上の知見のもとに短期並びに長期シナプス可塑性を検討したところ、50-100 msの間隔での2発連続刺激時に2発目のfEPSPまたはEPSCが増大することが観察され、これは1発目刺激で誘発されるGABA抑制減弱の結果であることがわかった。またシータバースト刺激、低頻度刺激を条件刺激として発生させたfEPSPの長期増強(LTP)ならびに長期抑圧(LTD)は、条件刺激30分後の変化率についていずれもストレス群でコントロール群に比し変化率が増大しており、これも脱抑制の結果として皮質浅層の興奮性増大が起こったためと考えられた。 さらに、行動量亢進に対しての関与が考えられるドーパミン機能を検討するため、深部層刺激‐浅層記録fEPSPに対するドーパミン潅流の効果を観察した結果、コントロール群において見られたドーパミンのfEPSP抑制効果がストレス群では見られなかった。このことは、ストレス負荷により生体内でドーパミンが過剰放出され、その結果ドーパミン受容体がダウンレギュレーションされたと解釈することが可能である。 最後にストレス時のGABA作動性抑制性伝達機能の減弱を意味するmIPSC頻度低下に関し、前部帯状回の左右両半球での比較を行ったところ、コントロール群に比して頻度低下を示したのは右前部帯状回であり、左前部帯状回では両群間で差がなかった。 以上のように、伊藤浩志氏の論文は、慢性拘束ストレスがもたらす影響を行動面と前部帯状回シナプス機能の両面から解析し、行動量亢進と前部帯状回抑制性神経機能低下に関連があることを示唆したものであり、加えて左右脳半球間のストレス脆弱性の差をミクロなシナプス機能レベルで定量的に明らかにした点で極めてユニークな研究である。この知見はヒトが身体活動ならびに精神機能の健康健全な保全を目指す上で非常に有益なものであると考えられ、本審査委員会は全員一致して、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと認定した。 | |
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