学位論文要旨



No 125511
著者(漢字) 印東,厚
著者(英字)
著者(カナ) イントウ,アツシ
標題(和) 未分化細胞特異的に発現する細胞表面タンパク質に関する研究
標題(洋) Study of Cell-Surface Markers Specifically Expressed in Pluripotent Embryonic Stem Cells
報告番号 125511
報告番号 甲25511
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第960号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 准教授 坪井,貴司
 東京大学 准教授 道上,達男
 東京大学 特任教授 浅島,誠
内容要旨 要旨を表示する

背景

胚性幹(ES)細胞は自己増殖能と多分化能を合わせ持つ細胞であり、生殖細胞を含む全ての細胞種へと分化することが報告されている。それゆえES細胞は、再生医療などへの応用、さらに臓器形成や分化をin vitroで研究するためのユニークなツールとして用いられている。しかしES細胞は生理的な機能性細胞への分化制御が未だ不完全であることや分化誘導後も腫瘍を形成するなど安全性・安定性への問題が山積しており、依然として細胞移植を用いた医療への応用にはほど遠い。ES細胞や人工多能性幹(iPS)細胞などの幹細胞を利用した医療技術の実現のためには、幹細胞性を制御する分子群を同定し、その作用機構を分子レベルで明らかにすることが重要であり、その解明が待望されている。特に幹細胞は細胞増殖因子やホルモン、細胞外マトリックス、細胞間相互作用などによってその未分化状態や分化方向が大きく左右されることから、細胞外からのシグナル伝達を受容する膜タンパク質の重要性が指摘されている。幹細胞の細胞表面タンパク質が幹細胞を制御する分子機構は、再生医療における分化誘導技術の実用化に必須な知見である。そこで私はマウスES細胞を利用して未分化状態において特異的に発現する膜タンパク質をプロテオーム解析によって網羅的に解析してきた。

研究1

プロテオーム解析において、細胞や組織から溶出したタンパク質混合物はその翻訳後修飾を含めると極めて複雑な組成であるため、そのまま一度に解析することは不可能である。このため電気泳動法によってタンパク質を分離するか、タンパク質をペプチドに消化した後に二次元液体クロマトグラフィ(2D-LC)によって分離することにより単純化したサンプルを質量分析器で同定することが一般的である。特に数百種から数千種のタンパク質を同時に解析するためにはハイスループットな解析が可能である2D-LC法が利用されている。このとき発現量が比較的に少ないタンパク質をもらさず検出するためには、発現量が大きいタンパク質と明確に分離する必要がある。即ち、膜タンパク質などの比較的希少なタンパク質を同定するためにはペプチドを効果的に分離することが重要である。博士課程において、まず私は2D-LCによるペプチドの新規分離法の開発を行った。一次元目のLCにはカチオン交換カラム(SCX)が多用されていたが、本研究ではこれまで主に低分子化合物などの分離に用いられていたカラムである両性イオン交換カラム(ZIC-HILIC)に着目し、これらのカラムのペプチド分離能の比較検討を行った。まず、単一ペプチドがどのように溶出するかを調べたところ、ZIC-HILICによる分離ではSCXよりペプチドがシャープな溶出ピークに分画される傾向がみられた。さらにモデルタンパク質としてヒト血清アルブミンのトリプシン消化物を両カラムでそれぞれ分画した後に1D-LC-MS解析を行ったところ、同定できたペプチド数やシークエンスカバー率がSCXモードに比べZIC-HILICモードでは顕著に改善された。二次元目に逆相カラムを用いた2D-LC-MS/MS解析ではさらに著しい改善がみられた。この改善手法を用いてマウスES細胞から精製した膜タンパク質のプロテオーム解析を行い、膜タンパク質を250種同定することに成功した。

研究2

未分化幹細胞特異的に発現している膜タンパク質群は幹細胞を制御する分子機構の解明の切り口となることが期待されるだけでなく、ES細胞やiPS細胞を用いた再生医療を行う上で有用な細胞表面マーカーとなり得ると考えられる。本研究では研究1において述べた2D-LC法によって分離する手法、及び二次元電気泳動法によって分離する手法を相補的に行い、マウスES細胞の膜タンパク質のプロテオミクス解析を行った。これらの手法によって300以上の膜タンパク質を同定した。プロテオミクス解析の結果において未分化状態での発現量が高い膜タンパク質についてウェスタンブロット解析や免疫蛍光染色法などによって候補を絞り込み、重点的に解析を行った。同定した膜タンパク質のうち、特にSlc16a1はプロテオミクス解析においてマウスES細胞の分化過程で大きく減少する膜タンパク質であることがわかったため、LIF除去によるマウスES細胞の分化過程での発現変動を詳細に調べた。Slc16a1はLIF除去後3日後でその発現が未分化状態時の10%程度まで減少した。Slc16a1はES細胞の核内に発現する未分化マーカーであるOct-3/4やNanogと同様に未分化細胞マーカーになりうることが期待される。さらに、フローサイトメトリー(FACS)解析によってLIF依存の分化過程における発現変動を検証したところ、Slc16a1の発現減少は既存のマウスES細胞表面マーカーであるSSEA1よりも未分化状態に特異的であった。またプロテオミクス解析で未分化細胞特異的に同定されたBsgとSlc16a1が未分化ES細胞の細胞膜において共発現していることが確認された。このようなタンパク質コンプレックスが共同的に多能性の維持に寄与している可能性が示唆された。

研究3

モデル動物などを用いた実験などから指摘されている再生医療の問題点として、ES細胞やiPS細胞などの未分化性を有する細胞を利用した場合、移植後に腫瘍化が起こる危険性があることが報告されている。この原因の一つとして、移植細胞中に未分化細胞が残留している可能性が考えられている。本研究では研究2において同定された膜タンパク質群のうち、未分化ES細胞において特異的に発現し、細胞表面抗原候補として有効な膜タンパク質のひとつ、EphA2について詳細な検証を行い、未分化細胞のソーティング技術の開発を目指した。FACS解析によってLIF依存の分化過程におけるEphA2の発現変動を検証したところ、既知の細胞表面マーカーであるSSEA1やCriptoより明確な発現減少が確認できた。EphA2はマウスES細胞において、未分化状態に特異的な細胞表面マーカーであることが示された。EphA2の医療分野における利用の可否を検証するためin vitro系で肝臓に分化させたES細胞においても検証したところ、分化後3週間経てもEphA2ポジティブ細胞の残留が確認された。この残留した未分化細胞が動物実験での腫瘍化の一因となっていることが示唆された。現在、EphA2を指標として未分化細胞の除去を行った分化細胞を免疫不全マウスに移植し、腫瘍化のリスクを回避もしくは抑制できるかを経過観察中である。

また、解析した未分化状態特異的に発現している膜タンパク質群はマウスiPS細胞でも同等かそれ以上の発現が見られ、ES細胞とiPS細胞で細胞膜を介する同様の未分化維持機構を持つことが示唆された。さらにこれらの膜タンパク質はヒトES細胞やiPS細胞でも発現していることが確認され、将来の幹細胞移植を用いた医療応用も可能であることが期待される。ES細胞やiPS細胞を利用した細胞移植による医療への応用の際には、分化マーカーによるソーティング技術の開発が期待されている。しかし未分化細胞の残留による腫瘍化を回避するためのセーフティネットとして、細胞表面マーカーによる未分化細胞の除去方法は重要な技術となる。EphA2をマーカーとすることにより既知のSSEA1やCriptoより有効な分離を行うことができると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はマウスES細胞に発現する膜タンパク質に関して質量分析によるプロテオミクス解析を行ったものである。ES細胞は成長因子や細胞外基質などの外的要因を認識することにより、未分化性の維持、及び分化する方向を決定することが知られており、ES細胞には外的要因を認識する未分化状態に特異的な膜タンパク質が存在すると予想されていた。本研究においてES細胞に発現する膜タンパク質の網羅的な研究を行った理由は、(1)ES細胞の未分化性維持機構の解析は細胞核内に発現する転写因子を中心に行われていたが、細胞表面膜タンパク質についてはその重要性にも関わらず詳しい解析は行われていなかったこと、(2)未分化状態に特異的な膜タンパク質群を同定することにより、細胞膜を介したES細胞の分子機構の知的基盤を得られると考えたこと、(3)細胞表面マーカータンパク質を用いたES細胞の精製・分離技術の確立が、幹細胞の安全な医療応用の実現に向けて特に重要になると予想されたこと、が挙げられる。膜タンパク質のプロテオミクス解析を大量培養が可能なマウスES細胞を用いて行い、未分化状態で特に発現が強い膜タンパク質群を多数同定するとともに、これまで汎用されてきた既知未分化幹細胞マーカーのSSEA1よりも同定されたタンパク質のひとつである、EphA2が未分化細胞の精製技術における細胞表面マーカーとしてより正確な指標となることを実証した。

本研究では特に以下の3つの大きな成果が得られた。一番目は膜タンパク質のプロテオミクス解析の同定効率を改善するため膨大なタンパク質抽出物に由来するペプチドの効率的な分離手法を開発したことである。二番目は未分化状態と分化したマウスES細胞に発現する膜タンパク質の比較定量的なプロテオミクス解析を行い、未分化状態に特異的に発現する膜タンパク質のデータセットを作成したことである。三番目として同定膜タンパク質の機能解析と表面マーカーとしての有効性を検証し、既知表面マーカーよりも効果的に未分化ES細胞を精製できる新規幹細胞操作技術へと発展させたことである。

まず一番目の膜タンパク質プロテオミクス解析の同定効率改善のための二次元クロマトグラフィーによるペプチドの新規分離法の開発については、プロテオミクス解析において、細胞や組織から溶出したタンパク質混合物はその翻訳後修飾を含めると極めて複雑な組成であるため、膜タンパク質などの比較的希少なタンパク質群を同定するにはペプチドを効果的に分離することが必要であった。本研究において、一次元目のカラムとして汎用されてきたカチオン交換カラム(SCX)よりも両性イオン交換カラム(ZIC-HILIC)の分離能が優れており、プロテオミクス解析における同定効率を顕著に改善できることを見出した。本研究で開発した手法は今後同様の解析を行う研究者たちに大いに参考とされる手法となるだろう。

次に、未分化状態のマウスES細胞と白血病阻害因子(LIF)除去により分化させたマウスES細胞から抽出した膜タンパク質を開発した二次元クロマトグラフィーによって分離・同定する手法と二次元電気泳動によって分離・同定する手法を相補的に行うことにより、マウスES細胞の膜タンパク質のプロテオミクス解析を行った。これらの手法によって300以上の膜タンパク質を同定することに成功した。プロテオミクス解析の比較定量結果を追試するためウェスタンブロット解析や免疫蛍光染色を行い、未分化状態での発現量が高い膜タンパク質のデータセットを作成した。印東君が同定した膜タンパク質群はES細胞やiPS細胞などの幹細胞を制御し操作するための細胞表面マーカーとして、今後の幹細胞の研究に大きく貢献すると考えられる。

さらに本研究で同定した膜タンパク質群を細胞表面マーカーとして利用する技術の開発を行った。モデル動物などを用いた実験などから指摘されている再生医療の問題点として、ES細胞やiPS細胞などの未分化性を有する細胞を利用した場合、移植後に腫瘍化が起こる危険性があることが報告されていた。この原因の一つとして、移植細胞中に未分化細胞が残留している可能性が指摘されていた。この問題を解決するためには、遺伝子操作を用いない抗原抗体反応による安全で確実な方法で未分化細胞を選別できる技術が求められていた。プロテオミクス解析によって未分化状態のES細胞において強く発現していることが明らかになったEphA2について詳細な検証を行い、EphA2の ES細胞における機能はリガンドのひとつであるephrinA1と強調して増殖能に寄与していることを明らかにした。さらにFACS解析により既知の細胞表面マーカーであるSSEA1やCriptoよりも未分化状態のES細胞で特異的に発現していることを見出した。さらにin vitro系で肝臓に分化させたES細胞においても検証したところ、やはり既知マーカーとして利用されてきたSSEA1やCriptoを用いた分離技術では不十分であった幹細胞の精製を、EphA2を指標とした分離によって改善できることを示した。また印東君は、彼が同定した膜タンパク質のいくつかが未分化状態のヒトES細胞やiPS細胞でも共通して発現していることを確認しており、本研究で扱った幹細胞特異的な細胞表面マーカーの研究が、近い将来行われるiPS細胞やES細胞などの幹細胞を用いた医療応用の安全性を高める技術に大きく貢献すると期待できる重要な成果と言える。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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