学位論文要旨



No 125514
著者(漢字) 入江,尚子
著者(英字)
著者(カナ) イリエ,ナオコ
標題(和) ゾウの数量認知 : 相対的数量判断と総和弁別
標題(洋) Numerical Cognition of Elephants : Relative Quantity Judgments and Summation
報告番号 125514
報告番号 甲25514
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第963号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 石垣,琢麿
 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 准教授 開,一夫
 理化学研究所 チームリーダ 岡ノ谷,一夫
内容要旨 要旨を表示する

はじめに―言語進化研究と数量認知の検討

言語を持つ動物はヒトだけであると考えられているが、言語がどのように進化してきたのかについてまだ十分な検討はされていない。ここで、数量認知を研究することは言語進化を検討するアプローチの一つとして有力である(Hauser, Chomsky, & Fitch, 2002)。ヒトの数量認知は言語に依存する認知と言語から独立した認知の二種類があるとされている。言語に依存する数量認知(i.e.カウンティング)は数量の絶対的な値を把握することができるため、異なる数量の大小判断などが正確である上、数量を情報として他者へ伝達することができる。この数量認知はヒトに特有であるとされるが、言語に依存しない数量認知はヒト以外の動物種も共有するとされている。言語に依存しない数量認知では数量は量的に表象される。この場合、だいたいの大小弁別は可能であるが、数量の差が小さくなるにつれ、あるいは弁別する数量の総量が大きくなるにつれて弁別が困難になると報告されている。このように言語能力は数量認知を発展させるのに重要な能力とされ、ヒトの数量認知と他種の数量認知を比較検討することは、ヒトの言語進化を明らかにする上で重要な課題である。

これまでヒトと同様の言語および数量認知を持つ動物種は報告されていない。しかし近年、言語獲得に必要不可欠とされる音声模倣vocal imitation能力をゾウが有すると報告され、そのコミュニケーション能力についても注目を集めている(Poole, Tyack, Stoeger-Horwath, & Watwood, 2005)。また、ゾウは先行研究において鏡像認知能力(Plotnik, de Waal, & Reiss, 2005)や高い記憶能力を有すること(McComb, Moss, Syialel, & Baker, 2000; Rensch, 1957)が報告されているほか、解剖学的にも陸上動物最大の脳を持ち(Jerison, 1974)、さらに霊長類の手と同等の物体操作が可能な鼻を持つなど、認知能力が高度に発達している可能性が指摘されている(Irie & Hasegawa, 2009; Sukumar, 2004)。以上のことからゾウが他種と比較して、より発展した数量認知を持つと予測され、それを実証的に検討することの意義は大きい。そこで本論文では、アジアゾウを中心に、長鼻目3種を対象に、相対的数量判断と総和弁別について一連の認知実験を行ない、ゾウの数量認知能力を議論した。

研究1 アジアゾウによる相対的数量判断

研究1ではアジアゾウの相対的数量判断能力を検討するために2つの実験を行った。相対的数量判断(RQJ)とは異なる複数の数量の大小を弁別することを指す。実験1では5頭のアジアゾウ(平均7.2歳、オス1頭、メス4頭)に異なる数量の報酬が入ったトレイを2つ同時提示し、どちらか一方を選択させることで弁別能力を測定した。このとき報酬の多い数量を選択することを「正答」とした。提示した数量は1から6とした(5 vs. 1, 6 vs. 2, 3 vs. 1, 4 vs. 2, 5 vs. 3, 5 vs. 4, and 6 vs. 5)。実験2では4頭のアジアゾウ(平均15.7歳、オス2頭、メス2頭)に異なる数量の報酬を一つずつ容器に入れる様子を見せた(4 vs. 1, 3 vs. 1, 4 vs. 2, 5 vs. 3, 2 vs. 1, 3 vs. 2, 4 vs. 3, 5 vs. 4, and 6 vs. 5)。一つの容器に提示量をすべて入れ終わってから、もう一方の容器に入れた。以上の手順により数量は継時的に提示された。さらに十分な深さがあるバケツを容器として用いることで総量が視覚的に確認できないようにした。その結果、いずれの実験においてもゾウは数量の多い報酬を有意に大きい確率で選択した(実験1: NP: 73.8%, ME: 75%, NG: 66.7%, TD: 66.7%, RJ: 88.9%; binomial tests: p < 0.01[NP, ME, RJ] and p < 0.05[NG, TD]。実験2:TR: 79.6%, AS: 72.2%, DY: 68.5%, AT: 81.5%; binominal tests: in all cases p< 0.01)。ここで着目すべき点は、ゾウの成績が提示数量の差や総量に影響されなかった点である( 実験1:NP: r[6]= 0.23; ME: r[3]= 0.01; NG: r[4]= 0.02; 実験2:AS: r[9]=-0.11; DY: r[9]=-0.19; AT: r[9]=0.28; TR: r[9] =-0.64. All n.s. Pearson's correlations. 図1参照)。ヒト以外の動物を対象とした先行研究においては、いずれの種を対象とした研究でも差が小さくなるにつれて、また総量が大きくなるにつれて弁別成績が悪くなる傾向が報告されている。したがってゾウの数量認知が他種とは異なる可能性が示唆された。

研究2 アジアゾウによる総和弁別

研究 2では2頭のアジアゾウ(Mito:38歳メス、Ashya:30歳メス)を対象に、アジアゾウの数量認知が数量を操作する作業を経ることで影響を受けるかを検討した。ここでは数量の提示方法は基本的に実験2と同様であったが、異なる数量の報酬を2度にわけてバケツに加えることで、総和を提示した。総和を提示することで、ゾウは数量情報を短期間記憶し、さらに記憶した数量で足し算を暗算することが求められた。提示した総和は5から7とした(提示式:1+2 vs. 1+4, 2+1 vs. 1+4, 2+2 vs. 2+4, 1+3 vs. 5+1, 3+1 vs. 1+4, 4+1 vs. 3+3, 3+2 vs. 2+5, 3+2 vs. 5+2, 5+1 vs. 3+4。Ashyaに対してはさらにprobe comparisonsとして2+3 vs. 5+2, 1+4 vs. 3+3, 1+5 vs. 3+4も追加で提示した)。その結果、ゾウはやはり総量の大きい報酬を有意に高い確率で選択した(Mito: 68.5%; Ashya: 87%; p<.01 binominal test)。Ashyaの成績は、後から追加したprobe comparisonsとその他の提示式との間で差は見られず、数量の提示順が成績に影響を与えないことが示された。Mitoは健康状態の理由から追加式の実験を行うことができなかったが、提示式のうち数量の提示順に成績が左右された傾向はAshya同様見られなかった。いずれのゾウの成績も差や総量によって低下する傾向はなかった(Pearson's correlations; Mito: r=0.03, n=9, p=.93; Ashya: r=-0.17, n=9, p=.66)。特にMitoは提示した総量が大きいほど成績が上がる傾向が見られた(Pearson's correlation: r=.68, n=9, p<.05)。これらよりゾウは提示された数量が大きくなっても差を正確に把握していたことが示唆された。したがって研究1と同様にアジアゾウの数量認知能力は先行研究で報告のある他種の数量認知能力とは質的に異なる可能性が示された。

研究3 マルミミゾウとサバンナゾウによる相対的数量判断能力

研究 3では実験2と同じ実験方法で、2種のアフリカゾウ(サバンナゾウTaka、18歳オスとマルミミゾウMei、10歳メス)の相対的数量判断能力を測定した。アフリカゾウとアジアゾウは約760万年前に分岐し、サバンナゾウとマルミミゾウは約400万年前に分岐したとされる。アフリカゾウはアジアゾウよりも攻撃性が高く、直接飼育が困難であるため、認知能力に関する実験研究例がほとんどない。提示した数量は1から6とした(2 vs. 1, 3 vs. 2, 4 vs. 3, 5 vs. 4, 6 vs. 5, 3 vs. 1, 4 vs. 2, 5 vs. 3, 6 vs. 4, and 8 vs. 6)。実験の結果、いずれのゾウも有意に大きい確率で、数量の多い報酬を選択した(Taka: 57.8%, p = .045; Mei: 73.3%, p= .000; Binominal test)。興味深いことに、マルミミゾウMeiの成績は提示した数量の相対比と負の相関が見られ(r = -.66, p = .036; Pearson's correlations。図2参照)、サバンナゾウTakaの成績は総量との負の相関が見られた(r = -.56, p = .045; Pearson's correlations)。これらの成績傾向はアジアゾウとは異なり、先行研究における他種の成績傾向と一致する。この研究では被験体数が各種1頭ずつと少ないため、長鼻目内の種間差異について結論を導くことはできないが、長鼻目内の種間比較研究を進めていく重要性が示された。

総合考察

ゾウは音声模倣vocal imitation能力を有するほか、低周波音コミュニケーションが多様であるなど、コミュニケーション能力が注目されている。ヒトの言語進化に関する比較認知科学的基礎資料を収集する上で、ゾウは重要な研究対象と言える。言語能力と数量認知の発展には密接な関係があると考えられているが、本研究結果より、アジアゾウの数量認知が他種と異なり、相対的数量判断の成績が、弁別する数量の差や総量に影響されないことが示された。アジアゾウの数量認知について今後さらに別の実験パラダイムを用いて多面的に研究し、どのような数量認知モデルが妥当であるか検討する必要がある。同時に、ゾウの音声コミュニケーションについてさらに詳細を検討することによって、ヒトの言語進化に関する新しい見解がもたらされることが期待される。

本研究ではマルミミゾウとサバンナゾウについても相対的数量判断を予備的に検討した。その結果、アジアゾウとは異なる成績傾向が示され、他種と同様に、数量の差や総量に影響されるものである可能性が示唆された。ただし本研究では、飼育条件の制約からマルミミゾウとサバンナゾウに関して十分な被験体数を確保することができなかったため、長鼻目内の種間比較について言及することはできない。しかしこれまでマルミミゾウやサバンナゾウを対象とした認知実験の先行研究がない中、長鼻目内の種間比較の重要性が示された。

ゾウは動物心理学の分野においても、霊長類の比較対象として多数の研究者の注目を集めてきた。その一方で、実験対象として扱いにくいことや危険であることに加え、寿命が長く定量的な生態学的研究が困難であることなどから、これまでに十分な研究は行われてきていなかった。今回の一連の実験結果は、ゾウを対象とした実験が可能であること、またその認知能力が予測通り霊長類と匹敵することを示した。今後、絶滅危惧種であるゾウの基礎研究を積み上げることは重要である。ゾウ認知研究が当該分野の発展に寄与し、さらにゾウの保全への基礎知識を蓄積することに貢献することが期待される。

図1.研究 1相対比と正答率。実験1(上)および実験2(下)結果。横軸:相対比(提示数量のうち小さい方を大きい方で割った値)。縦軸:正答率。いずれの実験においても相対比と正答率の間に相関は見られなかった。

図2.Study 3 相対比と正答率。横軸:相対比。縦軸:正答率。特にマルミミゾウ(Mei)の成績について相対比が大きくなるにつれて正答率が低下する傾向が見られた。

審査要旨 要旨を表示する

ヒトの数量認知は言語に依存する認知と言語から独立した認知の二種類があるとされている。前者はカウンティングと呼ばれ、数量の絶対的な値を把握することができるため、異なる数量の大小判断などが正確である上、数量を情報として他者へ伝達することができる。言語に依存するカウンティングはヒトに固有の能力であるとされるが、言語に依存しない数量認知はヒト以外の動物種も共有するとされている。ここでは数量は量的に表象されると考えられ、おおまかな大小弁別は可能であるが、数量の差が小さくなるほど、あるいは弁別する数量の総量が大きくなるほど弁別が困難になることが大型類人猿やイルカなどで報告されている。

ゾウは、解剖学的にも陸上動物最大の脳を持ち、脳の相対重量を表す脳指数でも、大型類人猿とほぼ同等のレベルにある。また霊長類の手と同等の物体操作が可能な鼻を持ち、認知実験からは高い鏡像認知能力や長期記憶能力を持つことが報告され、認知能力が高度に発達している可能性が指摘されている。これらより、ゾウが他種と比較しても、かなり高次の数量認知能力を持つと予測され、実証的に検討する意義は大きい。

本論文は、アジアゾウを中心に、長鼻目3 種を対象に、相対的数量判断(異なる複数の数量の大小を弁別する課題)と総和弁別(相対的数量判断を二度に分けて行う課題)について一連の認知実験を行ない、ゾウの数量認知能力を議論した。

研究1では、相対的数量判断に関する二つの実験を行った。実験1では、タイで飼育されている5 頭のアジアゾウ(平均7.2 歳、オス1 頭、メス4 頭)に異なる数量の報酬(バナナ片)が入ったトレイを2 つ同時に提示し、どちらか一方を視覚的に選択させることで弁別能力を測定した。このとき報酬の多い数量を選択することを「正答」とした。同時提示した数量は1から6とした。実験2 では国内の動物園で飼育される4頭のアジアゾウ(平均15.7 歳、オス2 頭、メス2 頭)に異なる数量の報酬を一つずつ容器に入れる様子を見せた。一つの容器に提示量をすべて入れ終わってから、もう一方の容器に入れた。以上の手順により数量は継時的に提示された。さらに十分な深さがあるバケツを容器として用いることで総量が視覚的に確認できないようにした。その結果、いずれの実験においてもゾウは数量の多い報酬を有意に大きい確率で選択した。また、ゾウの成績は、他種での先行研究とは異なり、提示した数量の範囲内では、提示数量の差や総量に影響されなかった。

研究2 では国内で飼育される2 頭のアジアゾウを対象に、数量認知が数量を操作する作業を経ることで影響を受けるかを検討した。数量の提示方法は基本的に実験2と同様であったが、異なる数量の報酬を2 度にわけてバケツに加えることで、総和を提示した。総和を提示することで、ゾウは数量情報を短期間記憶し、さらに記憶した数量で足し算を暗算することが求められた。提示した総和は5から7とした。結果、ゾウは総量の大きい報酬を有意に高い確率で選択した。1 頭のゾウでは、2+3vs.5+2、1+4vs.3+3、1+5vs.3+4のように総和としては後者が大きいが、2 度目の提示では前者が大きいというprobe comparisons 条件の追加実験を行ったが、他の提示式との間で差は見られず、数量の提示順が成績に影響を与えないことが示された。2 頭のゾウの成績はいずれも、提示した数量の範囲内では、差や総量によって低下する傾向はなかった。研究1と同様にアジアゾウの数量認知能力は先行研究で報告のある他種の数量認知能力とは質的に異なる可能性が示された。

研究3 では実験2 と同じ実験方法で、国内で飼育されている2 種のアフリカゾウ(サバンナゾウ18 歳オスとマルミミゾウ10 歳メス)を対象に相対的数量判断能力を測定した。アフリカゾウはアジアゾウよりも攻撃性が高く、直接飼育が困難であるため、認知能力に関する実験研究例がほとんどない。提示した数量は1 から6 とした。結果、いずれのゾウも有意に大きい確率で、数量の多い報酬を選択した。マルミミゾウの成績は提示した数量の相対比と負の相関が見られ、サバンナゾウの成績は総量との負の相関が見られた。これらの成績傾向はアジアゾウとは異なり、先行研究における他種の成績傾向と一致する。この研究では被験体数が各種1頭ずつと少ないため、長鼻目内の種間差異について結論を導くことはできないが、長鼻目内の種間比較研究を進めていく重要性が示された。

本研究結果より、アジアゾウの数量認知が類人猿やイルカなどと異なり、相対的数量判断の成績が、実験した範囲内で弁別する数量の差や総量に影響されないことが示された。アジアゾウの数量認知能力は、他種とは質的に異なるかどうかは、さらなる実験的検討が必要だが、1)他種とは同じく量的表象を持つが、その精度が高く、数量の範囲が広い、あるいは、2)言語に基づくヒトのカウンティングとは異なるが、なんらかの方法で数量情報を整理し、貯蔵している、可能性が示された。また、飼育条件の制約から十分な被験体数を確保できなかったが、アフリカゾウとアジアゾウでは、数量認知に種差がある可能性を指摘できた。これらが、系統発生上の相違を反映したものであるかどうかについては、今後の課題とした。

本研究の意義としては、まず、従来、高次認知能力を持つことが想定されながら、実験が困難なため、研究例がほとんどなかったゾウを対象に、さまざまな工夫を重ねて比較認知科学的研究として成功させた点が挙げられる。ゾウを直接飼育しない欧米では、本研究は驚きを持って迎えられ、論文や学会発表は科学メディアで大きく取り上げられた。第2に、実験結果は、独立変数の操作や被験体数において更なる追加実験が必要であるものの、アジアゾウが他種と比べて、高度な数量認知能力を有していることを示した点が評価できる。アジアゾウがもつ他の高い認知能力と考え合わせると、アジアゾウの比較認知科学研究の奥行きの深さが示された。また、長鼻目の比較研究も、今後の重要な課題として浮かび上がった。

これらの成果により、本論文は、東京大学総合文化研究科課程博士(学術)の学位請求論文として合格であると、審査委員が全員一致で判定した。

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