学位論文要旨



No 125515
著者(漢字) 畑中,悠佑
著者(英字)
著者(カナ) ハタナカ,ユウスケ
標題(和) 男性ホルモンによる海馬神経スパインの増加機構の解析
標題(洋)
報告番号 125515
報告番号 甲25515
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第964号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 村田,昌之
 東京大学 准教授 佐藤,健
 東京大学 准教授 村上,裕
 東京大学 准教授 村越,隆之
内容要旨 要旨を表示する

【研究背景・目的】

海馬は記憶の中枢であり、記憶は神経シナプスに蓄えられる。シナプスの後部であるスパインは0.2-0.8μmの頭部直径を持つきのこ状の突起であり、神経細胞の樹状突起上に多数存在する。神経細胞には一万個以上のスパインが存在しており、頭部直径の大きいスパインほど安定で、シナプス伝達効率が高いことが知られている。一方、男性ホルモンは海馬で情動や認知機能を調節している。そのため、老化に伴う男性ホルモンの減少による記憶・学習能の低下やアルツハイマー病などの発症は、高齢化が進む現代で深刻な社会問題となっている。雄ラットを去勢すると不安行動が増大し、この不安行動は男性ホルモンを数日間投与することで減弱するため、男性ホルモンには抗不安作用があることがわかっている。さらに、男性ホルモン受容体アンタゴニストを海馬に投与することで、この抗不安作用が消失することから、男性ホルモンの抗不安作用を担うのは海馬であることがわかっている。男性ホルモンは血中よりも海馬のほうが高濃度で存在しており、その濃度は海馬でジヒドロテストステロン(DHT)が7nM、テストステロン(T)が17nMであることが川戸研究室の先行研究で明らかにされている。そのため、海馬機能に対する男性ホルモンの役割は大きいと考えられるが、男性ホルモンが実際にスパインにどのように作用し、形態を制御して、最終的に海馬機能を調節しているかということに関してはほとんど解明されていない。

従来までの男性ホルモンとシナプスの研究では、投与して2日後に現れる遅い効果を調べていた。これは、精巣摘出したラットに500μg/kgという非常に高濃度の男性ホルモンを皮下注射し、シナプス数の増加を電子顕微鏡で調べたものである。ここでは男性ホルモンは、核内受容体に結合し、遺伝子発現を介してその効果が発現されており、実際に観察されていたのはそこで合成されたタンパク質の作用であった。また、これらの研究では生体に男性ホルモンを投与しているため、大脳皮質下から海馬に投射するコリン・セロトニン神経を介した海馬グルタミン酸神経への男性ホルモンの間接的効果も含まれていた。したがって、男性ホルモンがスパインをどのように直接的に制御するかは依然としてわかっていない。さらに、スパインの形態そのものが非常に複雑で、その分布が密な領域では詳しい研究が行われてこなかった。

本研究では、男性ホルモンが海馬機能を調節する際のメカニズムを明らかにするために、スパイン形態に及ぼす男性ホルモンの急性作用を解析した。摘出した直後の海馬に男性ホルモンを加えることで、海馬のグルタミン酸神経それ自体に作用する男性ホルモン効果を調べた。12週齢雄ラットから摘出した海馬スライスにDHTやTを2時間作用させた。このとき男性ホルモンと同時にリン酸化酵素の選択的阻害剤を作用させることで、男性ホルモン効果の発揮に必要なリン酸化酵素を調べた。これらのスライスの錐体神経細胞に蛍光色素Lucifer Yellowを注入することでスパインを可視化し、共焦点レーザー走査顕微鏡を用いて断層撮影した。このデータを川戸研究室で独自に開発したプログラム"Spiso-3Dにより解析することで、光の波長と同程度のスパインを正しく検出し頭部の構造を調べた。このプログラムにより作業を自動化することで、何万という膨大な数のスパインを解析し、信頼に足る量のデータを得ることができた。さらに、単純にスパイン全体の密度を調べるだけでなく、スパイン頭部直径に応じてsmall-head spine(〈<0.4 μn)、middle-head spine(0.4-0.5μm)、large-head spine(>0.5μm)にスパインを分類して各々の密度を調べることで、同じ男性ホルモンであるDHTとTでも、その効果の差異について詳細に解析した。また、男性ホルモン受容体(AR)と下流のリン酸化酵素を中心としたシグナル伝達経路を、海馬CA1およびCA3領域にて解析することで、海馬での男性ホルモンのより詳細な作用機序を解析した。CA1は空間記憶、CA3は連合記憶を司っているとされる領域であり、これらの領域のスパインに直接男性ホルモンが作用することで、海馬機能を制御するのではないかと考え、両者に焦点を当てた。さらに、CA1・CA3間での男性ホルモンの作用および作用機序の差にどのような違いがあるかについても調べた。

【研究結果・考察】

男性ホルモンであるジヒドロテストステロン(DHT)とテストステロン(T)は10 nM、2時間で、海馬CA1全スパイン密度をそれぞれ0.97 spines/μmから1.28、1.32 spines/μmに増加させた(ともに約1.3倍)。CA3においてもDHTとTはソーン(CA3でのシナプス後部の呼び名)の密度をともに2.2 thorns/μmから3.2thorns/ymに増加させた(ともに約1.5倍)。特にCA1において、 DHTはmiddle-head spineと1arge-head spineを、 Tは逆にsmall-head spineを増やしていた。スパインを直径に応じて分類することで、全スパイン密度では検出できない効果の差についても解析することが可能になり、同じ男性ホルモンでもその作用に違いがあることを発見した。

従来、ARは核内受容体であり転写因子として遺伝子転写を制御すると考えられていたが、近年の電子顕微鏡法による研究から、その海馬神経細胞内での局在は核や細胞体のみに留まらず、スパイン、軸索及び軸索終末にも確認されている。本研究では、ウェスタン・プロッティングにより、海馬のシナプス後膜にあるpostsynaptic densityにARが局在していることを発見した。さらに、ARアンタゴニストの投与により、男性ホルモンのスパイン増加効果が完全に消失した。したがって、男性ホルモンのスパイン増加作用は、スパインに局在するARを介した急速なシグナル伝達経路を活性化していることがわかった。

このときのシグナル伝達分子を調べるため、リン酸化酵素の網羅的な阻害実験を行った。MAPKのスーパーファミリーであるErk MAPKとp38MAPKについて阻害実験を行った結果、DHTとTによるスパイン密度の増加にはErk MAPKとp38MAPKの両方が必須であることがわかった。さらに、PKCや脱リン酸化酵素のcalcineurinなどもまたこのときのスパイン増加に関わっていることを発見した。一方、PI3Kを阻害しても男性ホルモンによるスパインの増加には影響はなかった。興味深いことに、男性ホルモンの短期作用の情報伝達に関わらないこのPI3Kは、女性ホルモンでは活性化されてその急性効果を担っていることが知られている。したがって、短期作用における男性ホルモンの細胞内情報伝達経路は女性ホルモンのそれとはまったく異なるメカニズムであることがわかった。また、海馬の領域間でのシグナル伝達経路の違いも明らかになった。PKAはCA1における男性ホルモンのシグナル伝達に関与していたがCA3では関与していなかった。逆に、CaMKIIはCA3では働くが、CA1では働いていなかった。神経細胞において、男性ホルモンによる多数のリン酸化酵素の活性化を伴うシグナルカスケードを明らかにした研究は本研究が初めてである(図)。リン酸化酵素を一つでも阻害しただけで男性ホルモンによるスパイン密度の増加が完全に抑制されたことから、最終的な形態変化のターゲットと考えられるコータクチンなどのアクチン結合タンパク質に複数のリン酸化部位があるため、それらが適切にリン酸化されないとスパインの形態変化が起こらないことが示唆される。また、CA3でのソーン構造の変化のメカニズムについて詳しく調べた研究は皆無であり、本研究でCA3ソーンの変動とそのメカニズムを明らかにすることで、多くが未解明であったCA3領域での情報伝達過程について貴重な知見を得ることができた。

男性ホルモンのほかに女性ホルモンも、記憶学習を担う脳の可塑性に影響を及ぼすことが知られている。ところが、女性ホルモンはCA1ではスパインを男性ホルモンと同程度に増加させるが、CA3では男性ホルモンとは逆にソーンを減少させることが川戸研究室の先行研究で明らかにされている。CA3においては、男性ホルモンと女性ホルモンがまったく逆の効果を及ぼすのである。このように、男性ホルモンと女性ホルモンの効果の差を明らかにすることができたのも、本研究の成果の一つである。

図 男性ホルモンによるスパイン増加のシグナル伝達経路

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、成獣で男性ホルモンが記憶学習能に与える影響の神経機構を研究することである。海馬神経細胞樹状突起には棘状の微小な(直径1 ?m弱)突起が存在している。これらの突起をスパインと呼ぶ。CA3透明層では、スパインとは異なる、密集した複数の頭部構造(ソーン)を持っている。神経前細胞からの軸索終末と後細胞のスパインやソーンがシナプス結合を形成しており、神経細胞はこのシナプス結合を介して情報を伝達している。論文提出者は、スパインが海馬内で合成される男性ホルモン(ジヒドロテストステロン(DHT)とテストステロン(T))によってどのような影響を受けるかを、単一神経細胞を染色したスパインの蛍光イメージングによって解析した。

成獣の海馬における男性ホルモンの神経細胞スパインへの影響を研究する為、論文提出者は、12週齢の雄ウィスターラットから作製した急性スライスを用いた。カレントインジェクション法を用いて単一神経の樹状突起とスパインを蛍光染色した。その後、共焦点レーザー顕微鏡により断層画像を撮影し、画像を三次元再構成したのち、CA1放射状層とCA3透明層でスパイン/ソーンの密度を測定した。特にCA1においては、単純にスパイン全体の密度を調べるだけでなく、スパイン頭部直径に応じてsmall-head spine(< 0.4 ?m)、middle-head spine(0.4-0.5 ?m)、large-head spine(> 0.5 ?m)にスパインを分類して各々の密度を調べることで、同じ男性ホルモンであるDHTとTでも、その効果の差異について詳細に解析した。

その結果、DHTやTによる海馬CA1、CA3領域における神経細胞スパイン/ソーンへの急性的な作用があることを発見した。CA1放射状層では、10 nM DHT、10 nM Tともに2時間で全スパイン密度が約1.3倍に増加し、このときDHTはmiddle-head spineとlarge-head spineを、Tは逆にsmall-head spineを増やしていた。また、CA3透明層においても10 nMのDHTとTはともに2時間で全ソーン密度を1.5倍に増加させた。DHTとTによる2時間以内のスパイン増加効果を発見したのは本論文が世界で初となる。

従来、男性ホルモン受容体(AR)は核内受容体であり転写因子として遺伝子転写を制御すると考えられていたが、本研究では、ウェスタン・ブロッティングにより、海馬のスパイン内にあるpostsynaptic densityにARが局在していることを発見した。また、ARアンタゴニストをDHTやTと同時に作用させたところ、男性ホルモンのスパイン増加効果が完全に消失した。したがって、男性ホルモンのスパイン増加作用は、スパインに局在するARを介した急速なシグナル伝達経路を介していることが示唆される。

次に、DHTやTの効果にグルタミン酸受容体が必要であるかどうかを調べた。海馬興奮神経細胞では、情報伝達物質がグルタミン酸であることが知られており、グルタミン酸受容体はシナプス結合の可塑性に重要な働きをもつ事が知られている。本研究では、CA1、CA3ともに、AMPA型受容体を介した自発的な膜電位変動とNMDA型受容体を介した自発的な細胞内へのカルシウムイオンの流入が必要であることを阻害実験により示した。この結果からも、男性ホルモンが核や細胞質に存在するARよりも、スパイン内にあるARに作用していることが支持される。

さらに、DHTやTの急性効果の細胞内シグナル伝達経路を解明する為、リン酸化酵素の網羅的な阻害実験を行った。その結果、Erk MAPK、p38 MAPK、PKCや脱リン酸化酵素のcalcineurinなどがCA1やCA3におけるスパイン/ソーン増加に関わっていることを発見した。また、PKAはCA1における男性ホルモンのシグナル伝達に関与していたがCA3では関与していなかった。逆に、CaMKIIはCA3では働くが、CA1では働いていなかった。一方、PI3Kを阻害しても男性ホルモンによるスパインの増加には影響はなかった。複数関与するリン酸化酵素を一つでも阻害しただけで男性ホルモンによるスパイン密度の増加が完全に抑制されたことから、最終的なターゲットであると考えられるコータクチンなどのアクチン結合タンパク質に存在する複数のリン酸化部位が適切にリン酸化されないと、男性ホルモンによるスパインの形態変化が起こらないことが示唆される。神経細胞において、男性ホルモンによる多数のリン酸化酵素の活性化を伴うシグナルカスケードを明らかにした研究は本研究が初めてである。

以上をまとめると、論文提出者は本研究において、海馬スライスでのカレントインジェクション法を用いた単一神経細胞スパインのイメージングにより、男性ホルモンが雄ラット海馬スパインに急性的な変化を与えることを初めて明らかにした。さらに、このとき男性ホルモンが多数のリン酸化酵素経路を駆動するという新しい作用機序も発見した。これらの結果は脳神経科学において、非常に有意義な貢献をしたものと認められる。

よって、審査員一同、論文提出者畑中悠佑は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の内容は、2009年にBiochemical and Biophysical Research Communications誌に公表済みである。

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