学位論文要旨



No 125523
著者(漢字) 山川,英訓
著者(英字)
著者(カナ) ヤマカワ,ヒデクニ
標題(和) アルツハイマー病における認知機能障害メカニズムの解析とその治療薬開発のための基礎研究
標題(洋)
報告番号 125523
報告番号 甲25523
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第972号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 渡邊,雄一郎
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 准教授 増田,建
内容要旨 要旨を表示する

本研究では、以下の二つのテーマについて取り組んだ。

1.アルツハイマー病(AD)の認知機能障害のメカニズムの解析

2.有望なAD根本治療薬開発における問題解決

この二つに分けた形で要旨をまとめることにする。

1.ADの認知機能障害のメカニズム解析

古くからADの原因論として、アミロイド仮説広く知られている。その仮説では、凝集性の高いAβ42が凝集体を形成し沈着することで神経変性を誘発し認知機能が障害されるとされていた。しかし研究が進むにつれ、不溶性Aβと認知機能障害度が全く相関しないことが明らかとなった。そんな中、合成ペプチドAβ42などで人工的に調製した可溶性Aβ-oligomerが、病態下の生理的濃度で鋭い認知機能障害を誘導することが報告され、脚光を浴びた。現在でも、人工的なAβ-oligomerを用いた認知機能障害メカニズム研究は広く行なわれている。しかし、ADの認知機能障害のメカニズム解析をする上で、これらの研究には決定的な難点があった。それは用いたAβ-oligomerが人工的であるということである。脳内には複数種類のAβが存在するため、in vitroの均一な条件下で形成されたAβ-oligomerと脳内に実在するAβ-oligomerはその構成分子も構造も異なることが推測される。そこで私は、脳にAβ-oligomerが実在するのか?そうだとしたら、それは認知機能を障害するのか?そうだとしたら、そのメカニズムはどのようなものであるか?を明らかにするために研究を行った。

まずADモデルマウス(以下ADマウス)の脳可溶性画分を野生型マウスの側脳室内に投与し、その1時間後の認知機能をY迷路短期記憶学習評価系で評価した。その結果、野生型マウスの脳可溶性画分を投与した群と比較して、ADマウスの脳可溶性画分投与群では有意に認知機能が障害されていた。このことから、ADマウスの脳可溶性画分中には認知機能障害誘導分子が存在することが明らかとなった。また、その認知機能障害は、投与したADマウス脳可溶性画分の用量依存的であり、一過性であった。次に、その分子を同定するために、抗Aβ抗体と神経毒性を示す高次構造を認識する抗oligomer抗体を用いて、ADマウス脳可溶性画分をimmunodepletionすることで、その認知機能障害誘導能が失われるかを検討した。その結果、抗Aβ抗体と抗oligomer抗体でimmunodepletionを行なった場合において、ADマウス脳可溶性画分の認知機能障害誘導能が完全に失われた。このことは、両抗体の共通の抗原であるAβ-oligomerが認知機能障害誘導分子であることを強く示唆している。また、ゲルろ過クロマトグラフィーによってAβのmonomerとoligomerを分離し、そのAβ-oligomer含有画分を野生型マウスに投与することによって認知機能障害が誘導され、その認知機能障害度は各画分中のAβ-oligomer量に相関していることも確認した。以上のことから、ADマウス脳内のAβ-oligomerが認知機能障害分子であることが示された。

次に、この脳由来のAβ-oligomerの認知機能障害のメカニズムを知るための検討を行った。まず、AD治療薬であるアセチルコリンエステラーゼ(AchE)阻害剤、アリセプトでADマウス脳可溶性画分による認知機能障害誘導が拮抗されるか検討した。その結果、アリセプトの用量依存的に、認知機能障害の誘導は完全に拮抗された。このことから、アセチルコリン伝達系が可溶性画分中のAβ-oligomerにより障害されることが示唆された。さらにAβ-oligomerの作用点を詳細に明らかにするために、ADの認知機能障害との関連性が示唆されているムスカリンM1受容体の選択的アゴニストMCN-A-343で、ADマウス脳可溶性画分による認知機能障害誘導が拮抗されるか検討した。その結果、MCN-A-343によって、認知機能障害の誘導は完全に拮抗された。以上のことから、脳に実在するAβ-oligomerは、M1受容体を介したアセチルコリン伝達系を障害することで認知機能障害を誘導していると考えられる。

先行研究から、人工的Aβ-oligomerによってホスファチジルイノシトール二リン酸(PIP2)が減少し、その下流のイノシトール三リン酸(IP3)やジアシルグリセロール(DAG)を介したシグナルが減弱することが報告されている。一方、M1受容体はGqタンパク質共役型受容体であり、M1受容体が活性化するとホスホリパーゼCが活性化し、PIP2のIP3やDAGへの加水分解が促進され、プロテインキナーゼCが活性化することが知られている。これらの事実と本研究結果を合わせて考えると、M1アゴニストはAβ-oligomerによって減弱したDAGやIP3シグナルを増強するため、Aβ-oligomerによる認知機能障害を拮抗すると考えられる。

このように、本研究において脳由来のAβ-oligomerの認知機能障害能を明らかにした実験系を用いて、さらに詳細なAβ-oligomerによる認知機能障害メカニズム解析を行い、その結果と、現在までに蓄積された人工的Aβ-oligomer研究結果を照らし合わせることで、真のADにおける認知機能障害メカニズムの解明を迅速に成し遂げることができるだろう。そうすることで、より臨床での有効性の高いAD治療薬の創製が可能になる。

2.有望なAD根本治療薬開発における問題解決

1の研究結果の中で、Aβ-oligomerによる認知機能障害はその用量依存的に誘導され、一過性のものであることが明らかとなった。このことは、脳内のAβ-oligomerは何らかのメカニズムによって脳から代謝もしくは排出されることを示している。したがって、Aβの産生を抑制すれば脳内のAβ-oligomerは減少し、ADにおける認知機能障害の改善を実現できると考えられる。そのようなAβ産生抑制薬として最も有望なのがBACE1阻害剤である。しかし、BACE1阻害剤には一つ薬効面の懸念があった。それは、ADマウスのゴールドスタンダードであるTg2576におけるBACE1阻害剤のAβ産生抑制活性は、野生型における活性より約10倍弱いということであった。Tg2576マウスは家族性AD変異の入ったSwedish変異型APP(APPswe)過剰発現マウスである。そのため、Swedish変異によってBACE1阻害剤の薬効が減弱していると考えられてきた。事実、細胞系においてもAPPswe発現細胞に対するBACE1阻害剤の薬効は、野生型APP(APPwt)発現細胞に対する薬効よりも10倍弱い。しかしながら、Swedish変異によってBACE1阻害剤の薬効が減弱するメカニズムについては全く明らかにされていなかった。したがって、その時点では、Swedish変異によってBACE1阻害剤の薬効が減弱するのか、ADの病態条件下であるからBACE1阻害剤の薬効が減弱するのか、判断することができなかった。もし、後者が原因であるとすると、BACE1阻害剤がAD患者で明確な治療効果を発揮するためには、10倍多い投与量が必要となる。このことは単純には、コストと安全性リスクが10倍上がることを意味する。そこで、BACE1阻害剤がSwedish変異によって薬効減弱するメカニズムを明らかにし、臨床における有効薬効用量を的確に見積もることを目的として研究を行った。

まず、in vitroのBACE1酵素阻害活性試験におけるSwedish変異の影響を検討した。その結果、予想に反してin vitroにおいてはSwedish変異によってBACE1阻害剤の薬効は全く変化しなかった。一方、細胞系では先行研究と同様、Swedish変異によって約10倍薬効が減弱した。そこで、in vitro系と細胞系の違いの中に、Swedish変異によるBACE1阻害剤の薬効減弱の原因があると考え、様々な検討を行った。まず、in vitro系を細胞系の条件へと近づけることでSwedish変異による薬効減弱現象を再現しようと試みた。反応時間、基質と酵素の濃度比、pHを変化させたが、in vitro系でその現象を再現することはできなかった。そこで、逆に細胞系をin vitro系に近づけるため検討を行った。APPswe発現細胞で見られるβCTF蓄積がBACE1阻害剤のAβ産生抑制活性に与える影響や、BACE1阻害剤のβCTF産生抑制活性を検討したが、依然としてSwedish変異によってBACE1阻害剤の薬効は減弱した。そして最終的に、APPがBACE1によって切断される部位がSwedish変異によって変化することがBACE1阻害剤の薬効減弱に繋がるのではないかと考え、細胞内の区画分けを破壊した場合(Cell-free系)とBACE1によるAPP切断の細胞内部位を限局させた場合に、Swedish変異による薬効減弱が起こらなくなるかを検討した。その結果、それらの両方の条件において、Swedish変異によるBACE1阻害剤の薬効減弱は起こらなくなった。以上のことから、Swedish変異によるBACE1阻害剤の薬効減弱は、APPがBACE1による切断を受ける細胞内部位がSwedish変異によって変化することで起こる現象であることが明らかとなった。

本研究結果から、孤発性AD患者のAPPは野生型であるため、BACE1阻害剤の薬効が孤発性AD患者で減弱することはないと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文提出者は、以下の関連する二つのテーマについて取り組んだ。

1.アルツハイマー病(AD)の認知機能障害のメカニズムの解析

2.有望なAD根本治療薬開発における問題解決

1. AD の認知機能障害のメカニズム解析

古くからAD の原因論として、アミロイド仮説広く知られている。その仮説では、凝集性の高いAβ42 が凝集体を形成し沈着することで神経変性を誘発し認知機能が障害されるとされていた。しかし研究が進むにつれ、不溶性Aβと認知機能障害度が全く相関しないことが明らかとなった。そんな中、合成ペプチドAβ42 などで人工的に調製した可溶性Aβ-oligomer が、病態下の生理的濃度で鋭い認知機能障害を誘導することが報告され、脚光を浴びた。現在でも、人工的なAβ-oligomer を用いた認知機能障害メカニズム研究は広く行なわれている。しかし、AD の認知機能障害のメカニズム解析をする上で、これらの研究には決定的な難点があった。それは用いたAβ-oligomer が人工的であるということである。脳内には複数種類のAβが存在するため、in vitro の均一な条件下で形成されたAβ-oligomer と脳内に実在するAβ-oligomer はその構成分子も構造も異なることが推測される。そこで本論文提出者は、脳にAβ-oligomer が実在するのか?そうだとしたら、それは認知機能を障害するのか?そうだとしたら、そのメカニズムはどのようなものであるか?を明らかにするために研究を行った。

まずAD モデルマウス(以下AD マウス)の脳可溶性画分を野生型マウスの側脳室内に投与し、その1時間後の認知機能をY 迷路短期記憶学習評価系で評価した。その結果、野生型マウスの脳可溶性画分を投与した群と比較して、AD マウスの脳可溶性画分投与群では有意に認知機能が障害されていた。このことから、AD マウスの脳可溶性画分中には認知機能障害誘導分子が存在することが明らかとなった。また、その認知機能障害は、投与したADマウス脳可溶性画分の用量依存的であり、一過性であった。次に、その分子を同定するために、抗Aβ抗体と神経毒性を示す高次構造を認識する抗oligomer 抗体を用いて、AD マウス脳可溶性画分をimmunodepletion することで、その認知機能障害誘導能が失われるかを検討した。その結果、抗Aβ抗体と抗oligomer 抗体でimmunodepletion を行なった場合において、AD マウス脳可溶性画分の認知機能障害誘導能が完全に失われた。このことは、両抗体の共通の抗原であるAβ-oligomer が認知機能障害誘導分子であることを強く示唆している。また、ゲルろ過クロマトグラフィーによってAβのmonomer とoligomer を分離し、そのAβ-oligomer 含有画分を野生型マウスに投与することによって認知機能障害が誘導され、その認知機能障害度は各画分中のAβ-oligomer 量に相関していることも確認した。以上のことから、AD マウス脳内のAβ-oligomer が認知機能障害分子であることが示された。

次に、この脳由来のAβ-oligomer の認知機能障害のメカニズムを知るための検討を行った。まず、AD 治療薬であるアセチルコリンエステラーゼ(AchE)阻害剤、アリセプトでAD マウス脳可溶性画分による認知機能障害誘導が拮抗されるか検討した。その結果、アリセプトの用量依存的に、認知機能障害の誘導は完全に拮抗された。このことから、アセチルコリン伝達系が可溶性画分中のAβ-oligomer により障害されることが示唆された。さらにAβ-oligomer の作用点を詳細に明らかにするために、AD の認知機能障害との関連性が示唆されているムスカリンM1 受容体の選択的アゴニストMCN-A-343 で、AD マウス脳可溶性画分による認知機能障害誘導が拮抗されるか検討した。その結果、MCN-A-343 によって、認知機能障害の誘導は完全に拮抗された。以上のことから、脳に実在するAβ-oligomer は、M1 受容体を介したアセチルコリン伝達系を障害することで認知機能障害を誘導していると考えられる。

先行研究から、人工的Aβ-oligomer によってホスファチジルイノシトール二リン酸(PIP2)が減少し、その下流のイノシトール三リン酸(IP3)やジアシルグリセロール(DAG)を介したシグナルが減弱することが報告されている。一方、M1 受容体はGq タンパク質共役型受容体であり、M1 受容体が活性化するとホスホリパーゼC が活性化し、PIP2 のIP3 やDAGへの加水分解が促進され、プロテインキナーゼC が活性化することが知られている。これらの事実と本研究結果を合わせて考えると、M1 アゴニストはAβ-oligomer によって減弱したDAG やIP3 シグナルを増強するため、Aβ-oligomer による認知機能障害を拮抗すると考えられる。

このように、本研究において脳由来のAβ-oligomer の認知機能障害能を明らかにした実験系を用いて、さらに詳細なAβ-oligomer による認知機能障害メカニズム解析を行い、その結果と、現在までに蓄積された人工的Aβ-oligomer 研究結果を照らし合わせることで、真のAD における認知機能障害メカニズムの解明を迅速に成し遂げることができるだろう。そうすることで、より臨床での有効性の高いAD 治療薬の創製が可能になる。

2. 有望なAD 根本治療薬開発における問題解決

1の研究結果の中で、Aβ-oligomer による認知機能障害はその用量依存的に誘導され、一過性のものであることが明らかとなった。このことは、脳内のAβ-oligomer は何らかのメカニズムによって脳から代謝もしくは排出されることを示している。したがって、Aβの産生を抑制すれば脳内のAβ-oligomer は減少し、AD における認知機能障害の改善を実現できると考えられる。そのようなAβ産生抑制薬として最も有望なのがBACE1 阻害剤である。しかし、BACE1 阻害剤には一つ薬効面の懸念があった。それは、AD マウスのゴールドスタンダードであるTg2576 におけるBACE1 阻害剤のAβ産生抑制活性は、野生型における活性より約10 倍弱いということであった。Tg2576 マウスは家族性AD 変異の入ったSwedish変異型APP(APPswe)過剰発現マウスである。そのため、Swedish 変異によってBACE1阻害剤の薬効が減弱していると考えられてきた。事実、細胞系においてもAPPswe 発現細胞に対するBACE1 阻害剤の薬効は、野生型APP(APPwt)発現細胞に対する薬効よりも10 倍弱い。しかしながら、Swedish 変異によってBACE1 阻害剤の薬効が減弱するメカニズムについては全く明らかにされていなかった。したがって、その時点では、Swedish 変異によってBACE1 阻害剤の薬効が減弱するのか、AD の病態条件下であるからBACE1 阻害剤の薬効が減弱するのか、判断することができなかった。もし、後者が原因であるとすると、BACE1 阻害剤がAD 患者で明確な治療効果を発揮するためには、10 倍多い投与量が必要となる。このことは単純には、コストと安全性リスクが10 倍上がることを意味する。そこで、BACE1 阻害剤がSwedish 変異によって薬効減弱するメカニズムを明らかにし、臨床における有効薬効用量を的確に見積もることを目的として研究を行った。

まず、in vitro のBACE1 酵素阻害活性試験におけるSwedish 変異の影響を検討した。その結果、予想に反してin vitro においてはSwedish 変異によってBACE1 阻害剤の薬効は全く変化しなかった。一方、細胞系では先行研究と同様、Swedish 変異によって約10 倍薬効が減弱した。そこで、in vitro 系と細胞系の違いの中に、Swedish 変異によるBACE1 阻害剤の薬効減弱の原因があると考え、様々な検討を行った。まず、in vitro 系を細胞系の条件へと近づけることでSwedish 変異による薬効減弱現象を再現しようと試みた。反応時間、基質と酵素の濃度比、pH を変化させたが、in vitro 系でその現象を再現することはできなかった。そこで、逆に細胞系をin vitro 系に近づけるため検討を行った。APPswe 発現細胞で見られるβCTF 蓄積がBACE1 阻害剤のAβ産生抑制活性に与える影響や、BACE1 阻害剤のβCTF 産生抑制活性を検討したが、依然としてSwedish 変異によってBACE1 阻害剤の薬効は減弱した。そして最終的に、APP がBACE1 によって切断される部位がSwedish 変異によって変化することがBACE1 阻害剤の薬効減弱に繋がるのではないかと考え、細胞内の区画分けを破壊した場合(Cell-free 系)とBACE1 によるAPP 切断の細胞内部位を限局させた場合に、Swedish 変異による薬効減弱が起こらなくなるかを検討した。その結果、それらの両方の条件において、Swedish 変異によるBACE1 阻害剤の薬効減弱は起こらなくなった。以上のことから、Swedish 変異によるBACE1 阻害剤の薬効減弱は、APP がBACE1 による切断を受ける細胞内部位がSwedish 変異によって変化することで起こる現象であることが明らかとなった。

本研究結果から、孤発性AD 患者のAPP は野生型であるため、BACE1 阻害剤の薬効が孤発性AD 患者で減弱することはないと考えられる。

以上のように本論文提出者は、本研究においてAD の認知症発症メカニズムの一端を明らかにし、さらにその治療薬開発に直結する課題解決を成し遂げた。したがって、本審査委員会は本論文提出者を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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