学位論文要旨



No 125527
著者(漢字) 久木元,美琴
著者(英字)
著者(カナ) クキモト,ミコト
標題(和) 保育ニーズの多様化とサービス供給に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 125527
報告番号 甲25527
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第976号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 准教授 梶田,真
 広島大学 教授 由井,義通
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,保育ニーズの多様化によって登場してきた新しい子育て支援サービスの地域的展開とその背景を明らかにことを目的とする.女性の働き方の多様化と少子化の進行にともなう子育て支援策整備の要請,子育てに対する価値観の変化は,より幅広い利用者を対象とした多様な保育サービス供給の必要性を増大させている.同時に,国家が福祉サービスの主たる供給主体となる従来の福祉国家路線は限界を迎えており,国家の財政的逼迫によって福祉サービスの公的供給は縮小傾向にある.このような「子育て支援」をめぐる近年のパラドキシカルな状況は,従来の子育て支援のシステムそのものに変容を迫っている.すなわち,戦後の早い段階から整備されてきた認可保育所を軸とした公的な子育て支援のシステムは,多様な供給主体によるフレキシブルなサービスを供給できるシステムへと変わりつつある.こうしたなかで,多様化したニーズを担う有力な存在として期待されているのが,「地域」である.地域の様々な資源や主体を取り込んだ形での子育て支援策の展開に社会的関心が寄せられている.地域における子育て支援サービスへのニーズと供給体制はその地域的条件によって異なっているため,子育て支援の妥当性を議論するためには,それぞれの地域におけるニーズと供給の地域的背景とそこでの主体の役割を明らかにする必要がある.

2章では,日本の保育所政策の歴史的経緯と現状を確認し,特に新しく必要とされてきたサービスを確認した.日本の保育所政策においては,戦後の早い段階で認可保育所整備が進められてきたが,1970年代以降の脱工業化による女性の働き方やライフスタイルの多様化は,従来の認可保育所を中心とした保育サービスでは受け止められない類のニーズを生み出してきた.1990年代以降,児童虐待の問題化や少子化対策と関連した子育て支援の拡充の必要性から,共働きではない育児世帯に対するサービス供給の必要性も強まっている.こうした状況下において,現在の子育て支援の政策をめぐる大きな2つの変化は,従来の「保育に欠ける」世帯に対する柔軟なサービス供給と,「保育に欠ける」世帯以外へのサービス対象の拡大であるということができる.前者の点では,主に保育時間や年齢層を広げ,より一般的に利用しやすい状態にしていく動きが,後者の点では,これまでの保育サービスが対象としてきた共働き世帯の子どものみならず,専業主婦を含めたすべての子どもを対象にしていくような動きがみられる.さらに,地域の世帯構成や女性就業・職業の特性から,先鋭的にニーズが顕れると考えられる地域を導出した.大都市圏とその郊外では,親族によるサポートが得られにくいために母親の就労にかかわらず子育て支援サービスへのニーズが高いだけでなく,通勤時間の長さから,延長保育へのニーズも高くなることが予想された.一方,地方圏のなかでも,販売・サービス職が卓越する温泉観光地では,量的ニーズ・質的ニーズがともに高い.以上を踏まえ,3章から6章では,これらの地域において新しく登場してきたサービスに着目し,その導入の背景と利用実態,課題について明らかにした.

3章では,通勤時間の長さから保育時間の拡大が必要とされると同時に,郊外地域での慢性的なサービス不足に陥っている東京大都市圏において,その都心部に立地してきた企業内保育所を扱った.大都市圏郊外では,施設の量的不足とともに,仮に空きのある施設があったとしても,受け入れ年齢や保育時間の点で実際には利用ができないという問題が生じている.これに対し,都心に立地する大企業は,「女性活用」を推進しているという企業イメージの向上,他社との差別化による優秀な人材の確保,また次世代育成法対策といった理由から保育所を導入・設置していた.これらの保育所の利用者たちは,フレックスタイム制度の利用や親せき宅への転居など,子連れ通勤の負担を軽くする工夫を行っていた.企業内保育所は居住地近くで保育所を確保できない親にとって,就業を継続するためのひとつの選択肢として機能している一方で,国による助成要件によって他社への開放ができず子どもの社会化を望む親にとっては保育所としての機能を損なわせるという問題が生じていた.

4章では,販売・サービス職の卓越する温泉観光地を取り上げ,そこでの延長保育サービス・夜間保育サービスについて分析した.石川県七尾市では,当初,温泉観光地における労働力確保を目的としたニーズに対応するため,企業や地域の私立保育所が主導的に長時間保育サービスを導入した.これに対し,市は,積極的な支援や財政補助を行ってきた.さらに,1990年代以降には,それまでのニーズとは異なる利用者層を対象とした長時間保育サービスが,複数の施設で開始された.これには,地域内における長時間保育の潜在的ニーズを見越した長時間保育サービスへの参入や,行政内部におけるノウハウの定着があったと考えられる.結果として,七尾市では,企業や私立保育所主導によるサービスの開始とそれに対する行政の支援という構造から,長時間保育サービスの公的供給が充実していた.その背景には,市が七尾市における中核産業として観光サービス業とその労働力確保の重要性を認識してきたこと,七尾市に認可外保育所がほとんどみられなかったこと,市の観光産業の振興直後に長時間保育に対する国からの補助が開始されたことが挙げられる.他方,そうした条件が合わなければ,販売・サービス職の卓越する地域であっても,行政の関与が乏しくなる可能性がある.

5章では,対象年齢の拡大という側面に注目し,学童保育を取り上げ,全児童対策事業へと転換されていく経緯も含めてその導入と発展の背景を分析した.1960年代における川崎市は臨海部に比較的所得の低いブルーカラーの共働き核家族世帯が集中していたため,学童保育の必要性が先鋭的に顕在化した.こうした中,行政主導による学童保育事業が開始されたが,利用者にとって学童保育は生活に不可欠な施設と認識され,保育内容へのニーズは弱かった.しかし,1970年代から80年代には,工業の後退とともに内陸部で住宅開発が進められ,施設不足が深刻化した.この際,行政サービスの不足は保護者による当事者団体によって補完された.そこでは,保護者間のコミュニケーションを図るための保育内容が確立されたが,こうした保育内容はブルーカラー層の保護者にとって負担が大きく,臨海部では広く受け入れられなかった.1990年代,学童保育需要はさらなる高まりをみせ,川崎市は待機児童への対応を迫られた.しかし,学童保育内容の充実は,川崎市当局がその質を維持しながら規模を拡大することを困難にした.また,市は,市内に存在する多様なニーズを担保するという点でも,従来の学童保育事業の拡大は非合理的であるという認識を持っていた.そこで川崎市では,定員を設けず頻繁な行事等を除いた全児童対策事業の導入によって多様なニーズを担保しようとした.

最後に,6章では,「保育に欠ける」世帯以外へのサービスとして,母親と子どもへの居場所提供と相談事業である「地域子育て支援拠点事業」を取り上げる.そこでは,地縁や親族によるサポート資源の獲得が困難であると考えられる大都市圏郊外と支店経済地域におけるサービス供給と定着の背景と施設の立地分析から利用可能性を比較・分析した.東京都三鷹市と香川県高松市は,いずれも核家族率や専業主婦率の高さにおいて類似した潜在的ニーズを持つことが予想されるが,両者の供給体制には差異が生じていた.すなわち,三鷹市においては,公立認可保育所を中心とした行政主導の独自事業による豊富な供給がみられたが,高松市においては,行政のスタンスは消極的で,NPOや私立認可保育所による供給が中心となっていた.こうした供給体制の違いは,施設分布にも影響を与えている.三鷹市では市全域において徒歩で通える範囲でサービス供給がなされている一方で,高松市では自家用車利用を前提としてもカバーできない範囲が生じるばかりか,徒歩では通えない範囲が広いという問題が生じていた.しかも,地域内において格差が生じている高松市では,十分な具体策が講じられているとはいえない.

本研究では,保育ニーズが多様化するなかで登場してきた新しいサービスやサービスの多様化を対象に,その導入の背景と実態を明らかにした.その作業から,国による子育て支援の方向性の曖昧さが,地域における利用と供給レベルでの問題点を生じさせていることを確認するとともに,特に行政領域を超えたニーズや情報蓄積と伝達という面での国や都道府県の役割を指摘した.多様な保育サービス供給の地域における担い手として,行政,企業,認可保育所(公立・私立),非当事者NPO,当事者によるNPOや地域団体が挙げられる.施設配置の相互補完性という点からみれば,以下のような可能性が考えられる.サービスの柔軟性については,居住地近くの公的施設での解決が困難な場合に,従業地となる都心での企業内保育所や地域の当事者団体によって補完されうる,対象の拡大については,認可保育所との連携がスムーズに進んだ場合,そこでのサービス供給がなされるが,利便性に限界がある場合にはこれを補完する手段として,企業や認可私立保育所,非当事者NPO,当事者NPOによる供給がありうる.大都市圏のサービスの柔軟性という点では,特に企業や当事者団体,対象の拡大という点では認可公立保育所が,地方都市のサービスの柔軟性という点では企業と行政のサポート,対象の拡大という点では当事者団体・NPOや私立保育所が,重要な主体となる可能性が示された.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,保育ニーズの多様化によって登場してきた新しい子育て支援サービスの地域的展開を明らかにしたものである.

1990 年代以降,「子育て支援」は国家政策の中心的課題の一つとなっている.しかし,女性の働き方の多様化によって,多様な保育サービス供給の必要性が増大する事態に対する国家の対応には限界が生じている.1970 年代以降の脱工業化による女性の就業形態やライフスタイルの多様化は,従来の認可保育所を中心とした保育サービスでは対応できないニーズを生み出しており,共働き世帯に対する柔軟なサービス供給と,サービス対象の共働き世帯以外への拡大が急務とされている.しかしこれまで,こうしたサービス供給の多様化に着目して,地域レベルでの対応の実態や課題を明らかにしようとする先行研究は乏しかった.本研究は,保育サービスや子育て支援における地域の役割を明らかにし,子育て支援をめぐる政策枠組とそれを扱う地理学的研究に,新たな段階を開こうとするものである.

本論文は,7 章から構成されている.第1 章では,福祉国家と子育て支援をめぐる議論を整理し,地域の歴史的背景や生活空間を含めた地理学的研究手法の導入の必要性を指摘した.続く第2 章では,日本の保育政策の歴史的経緯と現状を整理したうえで,本研究で取り上げる地域類型として,大都市圏都心部とその郊外および地方温泉観光地を選定した.

第3 章と第4 章では,共働き世帯への多様なサービス供給の地域的展開が分析されている.第3 章では,大都市圏都心部に立地する企業内保育所を取り上げ,通勤時間の長さに起因する保育ニーズとサービス供給との齟齬に対して,都心と郊外という行政領域を超えたサービス供給が,企業によって補完的になされている事実を指摘した.これは,企業内保育所の利用実態を詳細な利用者調査から明らかにした点で新しい成果である.

第4 章では,販売・サービス職の卓越する地方温泉観光地を取り上げ,温泉観光地における労働力確保を目的として,ホテル・旅館などの企業が先導的に長時間保育サービスを導入し,行政や地域保育所もそれに追随してきた事実を明らかにした.これは,複数種類の主体による地域ニーズへの対応連関を初めて明らかにした点で重要な知見である.

続く第5 章では,神奈川県川崎市を事例として,小中学生への保育サービスである学童保育を取り上げ,工業都市であった川崎市において,郊外住宅地開発にともなう住民層の変容に対応して学童保育の供給体制が変化していく過程を明らかにした.これは,中長期的な地域変容が保育サービスの供給体制に与える影響という新たな分析視角を提供するものである.

第6 章では,共働き世帯以外へのサービスとして「地域子育て支援拠点事業」を取り上げ,類似したニーズを持つ大都市圏郊外と地方中核都市との比較から,行政のスタンスの違いによってサービス供給に格差が生じている事実を指摘した.同種のサービスについては,詳細がほとんど把握されていない中で,本章の結果は重要な論点を提示している.

最後の第7 章では,以上の知見を整理し,国による子育て支援の方向性が確立していないことが,地域における利用と供給レベルでの問題点を生じさせていることを指摘するとともに,それぞれの地域における行政や企業,地域団体といった主体の役割を展望した.

以上のように,本研究は,女性就業やライフスタイルの多様化を背景として,その供給体制が活発に議論されている保育サービス・子育て支援について,これまで個別に議論されてきたマクロな政策論や労働研究と保育現場におけるミクロな保育実態の研究を接合した点で画期的であり,地理学をはじめとする多くの関連分野に対して学術的貢献が認められると共に,今後の子育て支援の政策展開にも寄与するであろう

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