No | 125533 | |
著者(漢字) | 奥山,倫弘 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | オクヤマ,ミチヒロ | |
標題(和) | 動的電子論による二重プロトン移動の反応機構に関する研究 | |
標題(洋) | Study on the mechanism of double proton transfer in terms of dynamical electron theory | |
報告番号 | 125533 | |
報告番号 | 甲25533 | |
学位授与日 | 2010.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第982号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 1. 序論 分子の化学反応過程を解析するためには,分子を構成している原子核の幾何構造の変化だけではなく,核間における電子の結合状態の変化も解析することが重要である.このような電子の結合状態を解析するために,分子内部の電子密度が原子核の幾何構造の変形とともにどのように変形していくのかを調べることが有効であると考えられる.よって,先に述べた原子核の幾何構造, 及び, 電子密度の変形過程を決定するためには,複数の電子と原子核から構成されるハミルトニアンからなる時間依存Schr¨odinger 方程式を解くことが要求される.しかしながら,この方程式から分子の量子状態を決定できるのは自由度の少ないごく少数の分子に限られる. そこで,電子と原子核の動力学をそれぞれ,量子力学と古典力学により取り扱うと仮定する量子古典混合表現を近似として導入する.この表現に基づた動力学を計算するための方法は,これまでにいくつか提案されている. その中でも, 半古典Ehrenfest 理論は, 分子内の電子動力学を調べるための有効な理論の1つになっている.この理論では,電子,及び,原子核をそれぞれ,時間に依存するSchr¨odinger方程式,及び,この方程式により決定された電子状態の平均場により生成される力を受けて運動するNewton 方程式に従うものとみなす.以上より,これまでの分子の化学反応過程の解析では観測不可能であった分子内部の新しい電子状態の動力学が見えるようになると期待される.これは化学反応過程の解析において,これまであまり研究されることのなかった新しい分野の一つである. 2. 分子内電子流の定量化の方法 以上のことを踏まえ,本論文では,半古典Ehrenfest理論の枠内で,化学反応過程において分子内部の電子密度の変形過程を詳細に調べるための方法を提案し,その方法を蟻酸2量体の2重プロトン移動の反応機構の解析に適用する.そのために第1章に続き,第2章では,分子内部の電子状態がどのように変形していくかを調べるための処方としてSchiff's flux(確率密度の流れ)について述べる.そして,外場のない分子系の電子波束が単一断熱状態から出発する場合, Schiff's flux は,非断熱遷移に基づく電子状態間の干渉によって生じるものとなる.したがってab intio 分子動力学法ではSchiff's flux を実質的に計算できない困難があることを述べる. 次に,この困難を回避するための方法として,adiabatic flux を提案する.これは異なる時刻における電子波束の重なりの変形方向を記述する.よって,この量は半古典Ehrenfest理論,及び,ab initio 分子動力学法によらず電子密度の移動方向を間接的に追跡することのできる量であり,ab inito分子動力学法でも電子密度を間接的に追跡することができることを述べる.次に,Schiff's flux,及び,Adiabatic flux をH2,及び,NaClの衝突反応へ適用し, それらの結合形成過程を計算した.以下にその結果をまとめる.H2では,水素原子の接近時において共有結合の形成過程をSchiff's flux, adiabatic fluxとも再現できることを示した(図1(左)).また,解離時においても,共有結合から水素原子への電子密度の変形過程を再現できることを示した.以上より,断熱的振る舞う水素分子の衝突反応による共有結合形成過程をadiabatic fluxにより示すことが可能であり,この分子の衝突反応ではSchiff's fluxも同じ振舞を起こすことを示した. NaCl の計算に対する結果を示す(図1(右)). この結果において,adiabatic flux はNa→Cl へのイオン結合形成過程を再現し, Schiff's flux もこれと同様の振舞いを示した. 3. 蟻酸2量体の2重プロトン移動の解析 第3章では,Schiff's flux, 及び,第2章で提案したadiabatic flux,及び,その他のいくつかの有用な物理量を用いることによって,蟻酸2量体の2重プロトン移動反応の解析を2つの過程に分けて行った.第1の過程は,2つの蟻酸単量体が蟻酸2量体(安定構造)になる過程である.我々は配置間相互作用法(STO-6G)を用いて蟻酸2量体と蟻酸単量体を計算し,その計算結果を比較することにより,蟻酸2量体の電子状態を調べた.以下,この結果に対する結果の概略を述べる. 安定構造における蟻酸2量体のもつ電子状態の特性を調べるために,蟻酸2量体と2個の蟻酸単量体から差密度を計算した(図2).その計算から,2つの蟻酸単量体が蟻酸2量体を形成することによって,単量体の2重結合に寄与しているπ電子が,骨格O-C-O全体に広く非局在化するようになった結果,安定な蟻酸2量体では,2重結合と1重結合の区別が小さくなることを示した.また,我々は,同様の計算から蟻酸2量体における4個の酸素原子の周囲の差密度分布に着目し,蟻酸単量体において水素原子と結合している酸素原子は,蟻酸2量体を形成するとともに,酸素原子の結合状態がsp2混成からsp3 混成へ電子状態の変化を起こし,また,水素原子と結合していないそれは,先に述べたのとは逆の電子状態変化を起こしていることを示した.以上より,この変化により,蟻酸2量体内部の2つのO-H-O間における電子密度の流れの方向は,時計周りに流れると考えられる. 次に,半古典Ehrenfest 法を用いることにより,蟻酸2量体の安定構造を初期構造とする動力学計算を行った.この計算から得られた結果の概略を述べる. プロトンが移動しているとき,水素原子移動性を調べるために,不対電子密度の計算を行った(図3).その結果,蟻酸2量体の安定構造からの2重プロトン移動に対し,不対電子が発生している可能性は極めて低い,すなわち,水素原子移動を行っている可能性は極めて低いことを明らかにした. 次に,蟻酸2量体の安定構造からの2重プロトン移動に際し,adiabatic fluxによる解析から確率密度の流れは,反時計周りであることを明らかにした(図4). 4. 結論 分子内部の断熱的な電子密度の振舞いを解析するための方法の1つとして,adiabatic fluxという量を定義し,第1に,この量をH2,及び,NaClの衝突反応に適用した.その結果,この量はH2が衝突する際の断熱的な共有結合形成過程,及び,NaCl におけるイオン結合形成過程で生じる確率密度の振舞いを再現できることを示した.第2にadiabatic flux,差密度,及び,不対電子密度を蟻酸2量体の2重プロトン移動に適用し,この系の反応機構の解析を行った.蟻酸2量体は安定構造では,π電子がO-C-O全体に広く広がっていること差密度の解析により示した.また同様の解析から,2個の孤立蟻酸単量体から蟻酸2量体への形成過程で,蟻酸内部の酸素原子の混成軌道が組換わることにより,O-H-O間に時計周りの電子流が流れることを示した.半古典Ehrenfest理論から得られた蟻酸2量体の結果からadiabatic fluxは,2重プロトン移動に際し,電子密度は反時計周りに流れる環状電流が発生していることを示した.以上より,断熱的な電子密度を追跡するための方法は,化学反応過程における電子密度の変化を解析するのに有効な方法である. 図1: 図1(左):H2 におけるSchiff's flux(a1-a2) とadiabatic flux(b1-b2). パネル(a1),及び,(a2) は,2つのH 原子が接近しているスナップショットであり,(a2),及び,(b2) は2つの原子が衝突した後,解離しているスナップショットである. 図2(右):NaCl におけるSchiff's flux(上) とadiabatic flux(下). 図2: 蟻酸2量体と蟻酸単量体の差密度(分子面) :青線は負, 赤線は正の等高線を表す. 白, 黒, 赤の球はそれぞれ, 水素, 炭素, 酸素原子を意味する. また, 図にかかれている数値は, その数値に接している等高線の値である. 図3: 蟻酸2量体を構成する原子の不対電子密度: 各パネルの右上に書かれている文字は, 図に示されている原子に対応する. 縦軸は不対電子密度, 横軸は時間(フェムト秒) 図4: 2個のプロトンが移動しているときのAdiabatic flux のスナップショット. 青矢印はadiabatic flux,等高線は結合次数密度(本論文参照). (b1), 及び,(b3) は分子に面垂直な方向に1.0(Bohr) ずらした面におけるスナップショット,(b2) は分子面上のスナップショット.(b1) に描かれている文字は原子の指標である. | |
審査要旨 | 序 本論文において,奥山倫弘氏は,原子核運動のキネマティックな相互作用によって誘起される分子内電子流をベクトル場で表現する理論の開拓した.さらに,それをギ酸2量体における二重プロトン移動現象に応用し,動的な電子論に基づく化学反応論の普遍的な成果を得た.開発された方法論は普遍的であり,今後の新しい非断熱電子動力学の分野で広く応用される可能性を持つものであり,学術的な価値が高い.また,ギ酸2量体における二重プロトン移動現象は,二重プロトン移動現象としての典型例であり,化学反応論のみならず生物分子科学においても重要な典型分子として知られ広く研究されている.ギ酸2量体の二重プロトン移動には,古典電子論では記述できない基本的な疑問が存在するが,奥山氏はそれらを動的電子論の立場から,ほぼ完全に解明した.その結果は,メカニズムとしての普遍性を持つだけでなく,プロトン移動によって誘起される分子内電子流のチャネルをほぼ完全に解明したものになっており,重要な分子科学的な成果といえる. 研究の背景と目的 分子の電子状態理論,いわゆる量子化学は,Born-Oppenheimer近似のもとに原子核の運動と分離された電子定常状態を求めることを主眼とする学問分野であり,非常に大きな成功を収めてきたことは良く知られている.一方,化学動力学理論は,量子化学によって与えられた電子エネルギー面上を運動する原子核の動力学を追究するものである.しかしながら,近年,高強度,或いは100アト秒程度の超高速パルスレーザー技術が発展してきたため,電子が動力学の研究対象となる動力学理論研究が必要とされるようになった.また,電子の動力学を正面から考慮することで,新しい研究分野の展開が期待されている.このような電子の動力学理論を,動的電子論と呼ぶ.動的電子論によって,比較的古典的な問題ですらも,新しい視点で見直すことができるようになった.例えば,ポーリングの共鳴理論などは,分子内電子流として見直すと,極めて興味深く,かつ,分子の実相に迫った理解に到達することができる.しかし,動的電子論はごく最近始まったばかりの理論であり,それを広範にかつ普遍的に適用するためには,多くの方法論やアイデアが必要である.奥山氏の学位論文は,まさに,このような背景にあって,化学反応に伴って,原子核運動によって誘起される分子内電子流の研究を行ったものである. 論文の内容と意義 本論文は序章と最終結論の章を除き、本質的に2章(第2と第3章)から構成されている。第2章では,Born-Oppenheimer近似の枠をはみ出して,原子核と電子の運動学的なカップリングを直接取り込みながら電子波束を時間発展させる半古典的エーレンフェスト法に基づいて,分子内電子流のための新たな方法論の提案と実例の提示を行っている.半古典的エーレンフェスト法のプログラム的実装は簡単ではなく,世界的にみても実用化されている例は多くはない.奥山氏は早期にそれをやり遂げた上で,次の段階に進んでいる.この章では,半古典的エーレンフェスト法によって与えられる電子波束に基づき,原子核の運動によって誘起される電子確率密度流を,いわゆるSchiffの定義に従って,世界で初めて報告した計算例が示されている.今後,動的電子論は量子化学者の間に徐々に浸透していくと思われるが,本論文はその先駆けであり,すでに国際的な評価を得ている.奥山氏は,電子流を見ることで,単純な化学結合の様式についても若干の検討を行っている. 今日広範に使われるようになっているab initio molecular dynamics(AIMD)法は,比較的簡便に反応経路を追跡できる方法であるが,この手法で得られる電子波動関数は,いくら精度を上げても,分子内電子流をゼロと評価してしまう.奥山氏は,本論文で,AIMD法においても分子内電子流がベクトル場として与えられる手法を提案し,数値的にその有用性を検証した. 第3章において, 電子内電子流の方法を含めて,動的電子論のための手法を駆使し,ギ酸2量体における二重プロトン移動における電子ダイナミクスを解析し,動的電子の反応機構を明らかにした.それは,ギ酸単量体の二量化において,電子内配置再編成がおき,(1)移動するプロトンには,0.7個相当の電子が付随して移行するが(つまり,電荷だけをみれば,裸のプロトンが移動するというよりは,水素原子が一個分移動するということに近い),この反応は協奏的であり,水素原子移行反応ではないこと,(2)末端炭素の混成が変化し,プロトンが移行する方向と逆向きに電子が流れることにより,プロトンによって運ばれた電子の逆流を行って,全体の電荷の中和性を保証していること,(3)二量化によって炭素・酸素間の二重結合が大きな非局在化と揺らぎを経験すること,などを解明した.このようにして,分子内の電子流とそれが引き起こされる原因を二つながら解明した.これは,二重プロトン移動における動的電子のメカニズムを徹底的に解明した最初の例である. 以上のように、奥山倫弘氏の学位論文は、内容が博士としての水準に達しており、独創性も十分に有する。理論的考察は普遍性を持ち、得られた成果の一般性が非常に高い。本論文は,高塚和夫教授との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって理論の提案と解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する.よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。 | |
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