No | 125536 | |
著者(漢字) | 森,哲也 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | モリ,テツヤ | |
標題(和) | 孤立した炭酸分子のマイクロ波分光 | |
標題(洋) | Microwave spectroscopy of isolated carbonic acid | |
報告番号 | 125536 | |
報告番号 | 甲25536 | |
学位授与日 | 2010.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第985号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 【序】炭酸分子(H2CO3)は二酸化炭素が溶けた水に一定の割合で存在しており、科学の非常に広い範囲において基本的かつ重要な分子である。例えば生体の血液中では、炭酸分子が急激なpHの変化を抑える緩衝溶液としての役割をCO32-、HCO3-と共に果たしている。海水は人為的に排出された二酸化炭素を取り込み、大気中の二酸化炭素濃度の上昇を緩やかにしているが、溶けた二酸化炭素は炭酸を形成し海水の酸性度を上昇させている。さらに炭酸分子は、星間空間や他の惑星大気での存在が期待されている分子でもある。 このような重要性にもかかわらず、現在まで炭酸分子が直接観測されたことはなかった。気相では、1987年にNH4HCO3の熱分解によって生じた分子の質量スペクトルでm/z = 62のラインが観測されており、炭酸分子由来のものであろうと考えられている[ ]。凝縮層では、水と二酸化炭素からなる氷に紫外線などの高エネルギー輻射を照射させた生成物の赤外分光で、照射前には存在しなかった吸収線が生じることが確認されており、これが炭酸分子のものであろうと考えられている[ , ]。しかしながら現在まで、確かに直接検出したという報告はなく、したがってその構造などについてはわかっていなかった。 一方で、ab initio計算による研究は、水と二酸化炭素からの炭酸分子の生成反応は、わずかに吸熱であるが、孤立状態であれば分解の半減期は非常に長く、この分子が安定に存在し得ることを示している。しかし水分子が存在している状況下では、水分子が炭酸分子の分解の触媒として働き、半減期が急速に短くなると予測されている[ ]。 【ab initio計算・実験】炭酸分子に関するab initio計算は多数報告されているが、我々はより精度の高い計算(CCSD(T)/cc-pVQZ)を行った。その結果は、最近報告されている結果と良く一致している。炭酸分子には図1の(A)に示したように、3種類の構造異性体が存在する。最安定構造はcis-cis体であり、cis-trans体は最安定構造よりも1.74 kcal/molだけ高いエネルギーを持つ。図1の(B)に、二面角H-O-C=Oの変化による異性化のポテンシャル曲線を示した。cis-cis体からcis-trans体への異性化の障壁の高さは10.5 kcal/molであり、cis-trans体も安定に存在すると考えられる。一方trans-trans体は、大きな双極子モーメントを持つ(μb = 5.0 D)ものの、他の異性体に比べてエネルギーが高く、また異性化の障壁も低く安定に存在することが難しいと考えられる。cis-trans H2CO3がCS群に属し平面内のa軸、b軸双方に大きな双極子モーメントを持つ(μa = 1.0 D, μb = 2.9 D)のに対して、cis-cis H2CO3はC2v群に属し対称軸であるb軸方向のみに小さな双極子モーメントを持つ(μb = 0.2 D)。またcis-cis H2CO3とcis-cis D2CO3は二つの同等な水素核または重水素核を有しているのでorthoとpara状態に分かれ、それぞれ核スピン統計重率が異なる。 図2に炭酸分子の分解過程のエネルギー図を示した。最安定構造のcis-cis体は二番目に安定な異性体であるcis-trans体への異性化の後、水と二酸化炭素に分解する。したがってcis-trans体は分解の中間体として働いており、最安定構造であるcis-cis体と共に炭酸分子の安定性を考える上で重要な構造である。また、その分解の障壁が高いことから、孤立状態の炭酸分子が安定であることが予想される。 炭酸分子は、アルゴンで5 %に希釈した二酸化炭素を液体の水の入った液溜めを通して水分子を混ぜて得た混合ガスを、1.8kVが印加されたパルス放電ノズル内で放電しつつ背圧3気圧で真空チャンバー内に噴き出すことによって、超音速分子線中に生成した。また液溜めの水を重水(D2O)に替えることにより、炭酸分子の重水素置換体も生成した。純回転スペクトルはフーリエ変換型マイクロ波(FTMW)分光器を用いて観測した。また、観測可能領域を広げると共に帰属を確定するために、ミリ波との二重共鳴分光法も用いた。 【結果・考察】実験の結果、cis-cis H2CO3に対応するb-type遷移7本と、その重水素置換体cis-cis D2CO3の8本の回転遷移を観測した。またcis-trans H2CO3に関しては、a-type遷移とb-type遷移の両方の合計25本の遷移を観測し、またその重水素置換体3種すべての遷移をそれぞれ10本以上ずつ観測することができた。観測された遷移はすべてWatsonのA-reducedハミルトニアンで解析し、分子定数を決定した。すべての分子の慣性欠損は0.1 uA2程度と小さい正の値となり、これらの分子がab initio計算で予測された通り平面分子であることが確認された。また、観測した回転定数から、これらの分子のr0構造を決定した。その際、一部の構造の定数はab initio計算値、またはその補正値に固定した。決定されたcis-cis体とcis-trans体の構造パラメータを表1にまとめた。決定された構造はab initio計算の結果と良く一致した。重水素置換体のスペクトル中に生じる超微細構造については、その分裂幅が小さいために最小自乗解析を行うことはできなかったが、ab initio計算で得られた値を用いて作ったスペクトルと実測のスペクトルとの比較を行った。 このように、この研究では、孤立状態の二つの炭酸分子異性体、cis-cis H2CO3とcis-trans H2CO3が気相状態で安定に存在していることを確認し、その構造を決定した。また、詳細な遷移周波数が測られたことで、さらに今後、電波望遠鏡による星間空間での検出をはじめとした炭酸分子が関連している多岐にわたる分野で、この研究の結果が活用されると期待される。 【O2-HCl分子錯体のマイクロ波分光】酸素分子は大気主成分の一つで、様々な場面で重要な役割を果たしている。しかしその重要さにもかかわらず、窒素分子を含む錯体の研究などと比べると、酸素分子を含む錯体の研究は非常に少ない。一方、塩化水素分子もまた、オゾン破壊サイクルにおける塩素のリザーバーとしての役割を果たしており、大気科学的に重要な分子である。開核分子を含む錯体のスペクトルは、不対電子のゼロでないスピンが作る微細構造と、電子スピンが核スピンを持つ原子と相互作用することによってできる超微細構造のために非常に複雑になり、閉核分子だけで成る錯体よりも一般に解析が困難である。しかしながら、これらの相互作用を解析することで、錯体に対する詳細な情報を得ることができる。 ab initio計算(RCCSD(T)/aug-cc-pVTZ)で得られた最安定な分子構造は平面であり、図3に示した。錯体内での各分子の回転を考えた場合、最も低い最安定構造間の異性化の障壁は両方の分子が直線に並んだ構造(θO2 = θHCl = 0°)で、その高さは42.3 cm-1しかない。 O2-HCl錯体は、0.5%のHClと2.0%のO2をArまたはNeで希釈した気体試料を押し圧約5atmで真空チャンバー中に超音速分子線として噴き出すことによって生成した。スペクトルはFTMW分光器を用いて3.5 - 24 GHzにわたって観測した。スペクトルは3Σの微細構造に対応すると思われる、少なくとも5つの系列から成っており、そのことを、二重共鳴法を用いて確認した。また観測されたスペクトルはすべて、常磁性を示した。なかでも最も強度の強い系列は最も遷移周波数の低いJ' - J" = 1 - 0遷移を含み、塩素原子の核四重極子相互作用に起因する典型的な超微細構造と、水素原子に起因する更に小さな分裂を有していた。 最初に、簡単なハミルトニアンを用いて最も強度の強い系列を解析し、錯体中の塩素原子による核四重極子相互作用定数(eQqaa)を求めた。塩化水素分子の錯体軸に対する角度θH(Cl)は、eQqaaと、錯体を形成していない塩化水素分子の核四重極子相互作用定数の文献値から推定することができ、45.1°と求められた。この値はab initio計算の最安定構造での値16.6°と大きく異なっている。これは、この錯体内での塩化水素分子の大振幅振動によるものだと考えられる。 酸素を含む分子錯体の回転のハミルトニアンがFawzyによって導かれている[5]。これは完全に剛体のハミルトニアンである。このハミルトニアンでは、スピン-スピン相互作用項の大きさが酸素分子軸の錯体軸に対する角度θO2に依存する。このハミルトニアンを用いて最も強度の強い系列を解析し、錯体の構造と遠心力補正項と最小自乗フィットの標準偏差がそれぞれ妥当となるような構造を決定した。決定した構造を図3に示す。また同様の解析をO2-H37Clについても行い、同様の構造を得た。 この研究により、最も強い系列については、剛体のハミルトニアンを用いて解析することで、その系列を再現するような構造と超微細構造定数を決定することができた。しかしながら、他の4つの系列についてはまだ未同定のままである。これは、この分子錯体内で各分子がほとんど自由に回転運動をしており、剛体のハミルトニアンでは表しきれなかったためと考えられ、完全な解析には内部運動も考慮したより複雑なハミルトニアンを用いる必要があると考えられる。 図1.(A)3つの異性体の構造。(B)異性化のポテンシャルエネルギー曲線。 図2.炭酸分子の水と二酸化炭素への分解のエネルギー図 表1. r0構造とab initio 構造a 図3. (a) ab initio計算で求めた最安定構造。(b) 実験によって決定された錯体の構造。θO2は酸素分子軸と錯体軸のなす角度、θHClは塩化水素分子軸と錯体軸のなす角度、Rcm は各分子の重心間の距離を示す。 | |
審査要旨 | 炭酸分子(H2CO3)は、二酸化炭素が水に溶解した際に一定の割合で生成するとされている。さらに、それがイオン解離することにより二酸化炭素の溶解した水は弱酸性を呈する。従って、炭酸分子は自然界の広い範囲に存在し、基本的な重要性を持つ分子である。例えば生体中では、炭酸分子が体液の急激なpH変化を押さえる緩衝溶液としての役割を果たしている。また、大気中の二酸化炭素は海水中に溶解し、炭酸分子を生成することで大気中での濃度が制御されている。更に炭酸分子は、水と二酸化炭素が存在する条件下であれば一定の割合で存在する可能性があり、星間空間や地球を含む惑星大気中にも存在が期待されている。 このような重要性を持つ分子であるにもかかわらず、孤立した炭酸分子の直接的な検出はこれまで報告されておらず、その構造も確定していなかった。森哲也氏は、二酸化炭素と水とをアルゴン中に希釈した混合気体を放電し、高真空中に超音速ジェットとして噴出することで孤立した炭酸分子を生成することに成功し、これをフーリエ変換マイクロ波分光法を用いて検出することで炭酸分子の詳細について研究した。この炭酸分子の研究は、大気中の二酸化炭素の振る舞いに対する興味から始められたものであるが、大気化学に関連した系としてO2?HClという分子錯体の存在が考えられている。森哲也氏はこの分子錯体のスペクトルの観測にも成功し、その解析も行った。 論文は全体で4章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここでは大気化学や星間化学ふくむ化学の様々な局面での、炭酸分子とO2?HCl錯体の重要性が指摘され、それらの分光学的研究の意義が述べられている。また、炭酸分子については、他の酸、硫酸や硝酸との関連でもその重要性が議論されている。第2章は実験装置の説明に当てられており、純回転スペクトルの観測に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法と、その分光法と組み合わせて使用する二重共鳴分光法の詳細が説明されている。また、炭酸分子の生成・検出の鍵となった、パルス放電ノズルと、それを用いた不安定分子種の生成法の説明がなされている。第3章は炭酸分子の、第4章はO2?HCl錯体の実験、解析と、そこから得られた結果に基づく議論に当てられている。以下、個別の結果について説明する。 第3章は、炭酸分子の研究結果がまとめられている。最初に炭酸分子のこれまでの研究を概観した後、本研究で実験に先立って行った分子軌道計算の詳細と、その結果が記述されている。理論計算によると炭酸分子には3種の異性体が存在するが、実験結果の記述では、そのうちの cis-cis異性体とcis-trans異性体の検出が述べられている。それぞれの異性体について、重水素置換体のスペクトルも観測し、この分子の分子構造を精密に決定している。また、二つの異性体の相互の移り変わりと、炭酸分子の二酸化炭素と水とへの解離のメカニズムに関しても理論計算の結果を参照しながら議論している。また、三つ目の異性体であるtrans-trans異性体は検出できなかったが、その理由についても考察している。また、関連研究として炭酸分子と水との錯体の検出の可能性、HCO3ラジカルの検出の可能性も論じている。 第4章は、本研究のもう一つの研究対象である O2?HClのスペクトルの検出にあてられている。この錯体の研究の意義を論じた後、高精度の分子軌道計算により錯体の安定構造の予測を行っている。この系は、弱い分子間力で結びついた錯体であり、分子間の大振幅運動が考えられるが、その取り扱いについて論じた後、スペクトルの観測、および大振幅運動を考慮した実験データの解釈について論じ、構造を推定している。 このように、本研究は、大気化学や星間化学で重要と考えられている一連の分子種を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果のうち、炭酸分子の研究成果は、1報の論文としてすでに印刷公表されているが、引き続き続報を1報の論文として投稿準備中である。これらの結果は、遠藤泰樹、住吉吉英、須磨航介との共同研究であるが、ほとんどすべての内容は論文提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。 よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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