学位論文要旨



No 125537
著者(漢字) 井上,雅世
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,マサヨ
標題(和) 生物システムにおける適応応答のダイナミクス
標題(洋) Dynamics of Adaptive Response in Biological Systems
報告番号 125537
報告番号 甲25537
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第986号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 准教授 福島,孝治
 東京大学 教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 澤井,哲
 東京大学 教授 佐野,雅己
内容要旨 要旨を表示する

本論文では多くの生物現象に共通してみられる「適応」応答について議論する。

適応応答は、シグナル伝達系、代謝反応系、遺伝子発現制御系等、多くの反応系で観察される応答である。ここでは「適応」を以下の条件を満たす応答として定義する。

● 1個体、またはその内部反応系が環境変化に対して示す応答であり、個体の寿命より十分短い時間スケールでの現象である.

● 環境変化に対し、ある変数が短時間スケールで変化(興奮)を示す.さらに、環境は変化したまま、その変数は長時間スケールで応答前の値(状態)に戻る(緩和)

この適応応答により、環境変化に合わせて自身の内部状態を変化させることで、生物は様々な環境下での生存が可能となっている。

ここでは、大腸菌などの微生物を念頭におき、細胞内反応としての、環境変化に対する適応応答を考える。生物現象を考えると、特定の化学物質濃度や遺伝子発現率などに代表されるただ1つの変数だけが環境変化に応答するということはまず考えられない。反応系内では、多くの変数が相互作用をしながら反応している。一方、相互作用が加わることで反応間に干渉が生じ、本来の適応性が失われることもある。そこで、本論文では主に、適応応答を示す自由度間の相互作用や、大自由度力学系の中で実現される適応性に注目し、大自由度系の中で適応応答が機能することの意味や利点などについて考察をおこなった。

各章の内容を簡単に紹介する。

第3 章では適応モデルを結合させた大自由度系の振舞について調べた。第4章では、大自由度系の中で適応応答が実現されるための条件や系の性質を調べた。第5,6章では、生物現象における適応応答の応用例の1つとして、走化性行動およびその集団運動について調べた。

1. 適応素子結合系の振舞とネットワーク構造(第3 章)

適応応答を示すモデル素子を複数個用意し、外界からの入力が素子間を伝搬するようなモデルを設計した。相互作用には、生体内の反応で頻繁に表れるシグモイド型の関数を用い、活性化と抑制化の2種類の作用を考えた。

まず、少数個の反応素子を組み合わせた場合について、ネットワーク構造と振舞の関係を調べた。振舞としては、全ての素子が完全に適応した状態、元の適応反応と同じ時間スケールでの振動の他に、元の適応反応とは異なる時間スケールをもつ振舞として、興奮だけを繰り返す速い振動、緩和の時間スケールよりも1桁以上長い時間スケールでの遅い周期運動がある(Fig.1)。これらの振舞は、相互作用ネットワーク構造内に存在するフラストレーションにより分類された。また、異常な時間スケールをもつ2つの運動は同一ネットワーク上に共存しており、興奮と緩和の時間スケール比が無限大となる極限において断熱近似をみたす場合(遅い周期運動)、破れる場合(速い振動)の違いをもつことを示した。

さらに、多数個の反応素子結合系についても調べ、そこでは新たに非周期振動が表れること、また、少数個の場合と同様にフラストレーション構造が振舞を規定していることを示した。

第3章では、大自由度の適応モデル結合系においてモデル固有の時間スケールとは異なる時間スケールでの運動が生じ、その振舞は相互作用内のフラストレーションに規定されていることが示された。

2. 大自由度遺伝子発現制御モデルを用いた適応応答の進化と協同性の進化(第4章)

大自由度をもつ遺伝子発現制御モデルの中で、ターゲット遺伝子の適応応答が進化を通して獲得される過程について考察した。遺伝子間には、活性化、抑制化の2種類の相互作用を考え、各遺伝子の発現率(・xi )は、他遺伝子からの相互作用入力に対し閾値関数で制御した(eq.1)。このモデルでは、一部の遺伝子に加えられた環境変化(入力)が、相互作用を介してターゲット遺伝子の応答を制御する。ターゲット遺伝子が適応応答を示すように評価関数を与え、遺伝的アルゴリズムを用いて進化させた。ここでは、適応応答が獲得される際の相互作用関係に注目するため、ネットワーク構造のみを進化させた。

Dx/dt=1/1+ exp[-β(yi - yT )]-γxi +ni(t) +ξ (eq.1)

(ただし、yi は他からの入力.β,γ,ξ(t)はパラメータ.ηi(t) はGaussian white noise.)

1つのターゲット遺伝子の応答にのみ適応性を要求して進化させたにもかかわらず、他の遺伝子も同様に適応性を獲得していくことが観察された(Fig.2)。この様な非ターゲット遺伝子の適応応答は、ターゲット遺伝子の適応応答を実現する上で必ずしも必要ではない。

特に、非ターゲット遺伝子の適応性は、各遺伝子の発現制御がゆらぎやすいほど、また、与えられる入力が小さいほど大きくなった。逆に、非ターゲット遺伝子の適応性が高いネットワークほど、ターゲット遺伝子は微小入力に対しても応答できた。このことから、協同的な適応性は、ターゲット遺伝子応答の精度を高めるために進化してくることが考えられる。

3. 走化性行動を制御する時間スケールの条件と、集団運動(第5,6 章)

走化性行動においては、バクテリアは、ランダムな方向変換を繰り返しながら、栄養物質濃度が高い(忌避物質濃度が低い)方向へ移動していく。その際、少し前の時間にいた環境と現在の環境を比較し、方向変換頻度を制御して移動する。実験事実として、方向変換確率は栄養が多い(少ない)方向へ進んでいる時に低下(上昇)することが分かっている。しかし、拡散の大きさを考えると、方向変換確率が高いほどその環境での滞在時間が長くなり、これでは栄養が少ない環境に留まることにつながってしまう。そこで、以上の制御方法で走化性行動が可能となる条件について考察をおこなった。

走化性を示すモデルとして、内部に環境変化に対して適応応答を示し環境変化を検出する化学反応と、その情報に基づいて方向変換確率を制御する系をもつ粒子を考えた。最適な走化性行動を与える条件として実験的に知られていた以下の条件が、走化性行動を規定する一般条件であることを明らかにした。「検出系における興奮を示す時間(τs)、緩和の時間(τa)、および、行動制御における方向変換間隔の平均時間(τ*)の3つの時間スケールがlog スケールで等間隔に並ぶ(τs<τ*<τa)」

さらにこの走化性粒子モデルを発展させ、粒子間相互作用による自己集合化現象について考察した。各バクテリアが放出した誘因性化学物質に対し他のバクテリアが走化性を示すことで、自発的に集合化する現象が知られている。我々は安定な集合状態(Fig.3 左)だけでなく、集合と離散を繰り返す振舞(Fig.3 右)を得た。これは従来の連続方程式モデルによる研究ではみられなかった振舞である。また、安定集合の条件として「環境変化を検知して方向を変換するまでに進む距離(個体レベルの性質)が、シグナル拡散の特徴長(集団レベルの性質)より小さいこと」を示した。これは従来の連続方程式モデルでは記述できなかった新しい条件である。

Fig.1 適応素子結合系の振舞.(A)全素子適応状態,(B)振動,(C)速い振動,(D)遅い周期運動.

Fig.2 進化にともなう、適応ネットワークの振舞の変化.黒太線はターゲットの応答を表す.

Fig.3 自己集合化現象.(左)安定,(右)不安定な集合.

審査要旨 要旨を表示する

一般に細胞などの生命システムは、外部の環境変化に応答し、他方ではその内部状態を維持する。その上で重要なのが、シグナル伝達系、代謝反応系、遺伝子発現制御系等で広く観察される適応応答である。適応自体は、広い意味では進化を含む、様々な時間スケールで見られる現象であるが、本論文では1個体や1細胞の環境応答の時間スケールの現象が扱われる。特に、内部状態が環境変化に対しすばやく変化し、しかし、より長い時間スケールではもとの状態に戻る現象に注目している。ここで、前者は環境変化の応答に対し必要であり、後者は生物状態の維持に重要であると考えられている。細胞生物学の定量的実験の進展と相侯って、適応応答を示す少数(2-3)自由度の力学系モデルはこの数年さかんに研究されている。しかし、細胞内のネットワークは多くの自由度が互いに関係したものであり、一部だけ切り出した2自由度モデルでの振る舞いが適応の本質をすべて説明できるとは考えにくい。これに対して、本論文では、適応応答を示す要素の相互作用力学系、そして大自由度力学系の中で実現される適応過程に注目し、大自由度系での適応応答の力学系の特徴を明らかにし、その意義を議論している。論文は7章からなり、1章では論文全体の目的と簡潔な紹介にあてられ、第2章では(井上氏自身のを含む)これまでの少数自由度による適応モデルが概観され、3-6章で井上氏の研究が詳細に述べられ、7章は全体のまとめと展望にあてられている。

第3章では適応を示す要素の結合力学系の振舞が調べられる。具体的には2章で示した適応応答を示す要素が、素子の入出力を通して活性化ないし抑制化の相互作用をするモデルが用いられる。結合の異なる多数のネットワークの数値計算の結果、全ての素子が完全に適応する系、元の適応反応の時間スケールで振動する系以外に、興奮だけを繰り返す速い振動状態とほぼ適応した後でスイッチを繰り返す遅い振動状態という、2種類のアトラクターが共存する系を見出した。これらの振舞は、相互作用行列から求められるフラストレーションにより分類される。特に最後のネットワークは、2桁以上異なる周期を持つアトラクターの共存という点で興味深い。これは各要素が、遅く適応する変数と速く応答する変数を持ち、フラストレーションをどちらの変数に押しつけるかに起因するものであり、相互作用がフラストレーションを持つ結合適応系一般に特徴的な振る舞いであると予想される。このような要素時間スケールと桁を異にするアトラクターの共存は、生命システムが大きなレンジの時間スケールの振動を持ち、また入力によりそれを変化させていることを考える上で示唆的であり、一方でその振る舞いがフラストレーションで規定されることは、そのようなネットワークのデザインの上でも意味がある結果であろう。

第4章では、多数の遺伝子が互いに制御するネットワークモデルを用いて、大自由度力学系での適応応答が調べられる。1つのターゲット遺伝子の発現の適応応答をフィットネスとして設定して、活性化抑制化からなる遺伝子制御ネットワークを遺伝アルゴリズムにより進化させる。今、ターゲット遺伝子の適応応答は正の入力が速く入りそれを上回る負の入力が遅れて入るだけで実現でき、実際少数自由度系の適応ではこの仕組みが用いられ、これは簡単に実現する。しかし、進化をさせていくと、ターゲット遺伝子だけでなく、他の多くの遺伝子も協同して適応的応答を示すようなネットワークの割合が増す。更にこのようなネットワークの割合は各遺伝子の発現制御が弱くまた外界からの入力が小さいほど大きくなり、また、協同的に適応する遺伝子数が多いネットワークほど、微小入力に対しても応答できる。このことから、協同的な適応性は、ターゲット遺伝子応答の精度を高める役割があると推論している。その際の特徴的ネットワーク構造の解明など残された課題もあるが、多遺伝子発現系で従来の少数自由度系とは異なるクラスの振る舞いを見出したことは、今後の適応研究のために意義があると考えられる。一方で、近年の遺伝子発現解析の実験結果では、多数の遺伝子発現が適応的応答を示しており、その上でも興味が持たれる。

第5,6章では、生物現象における適応応答の応用例の1つとして、バクテリアなどの走化性行動と集団運動が調べられる。バクテリアは、ランダムな方向変換を繰り返しながら、誘引物質の濃度が高い方向へ移動していく。その際に、環境に応じて内部状態が適応的応答を示し、それが方向変換頻度を制御していることが知られている。第5章では走化性を示すモデルとして、2章で導入した適応素子を用い、その内部状態に基づいて方向変換確率を制御する粒子を考え、それが最適な走化性行動を与える際に、応答の時間、方向変換の平均時間、緩和時間がこの順に対数スケールでほぼ等間隔に並ぶことを示した。これは大沢文夫らにより議論されていた条件と合致し、また最近の実験結果とも整合的である。第6章ではこの走化性粒子モデルが誘因性化学物質放出するとした時に、自己集合化を起こすことを示し、その条件を求めた。特に、集合と離散を繰り返す振舞を発見しているが、これは従来の偏微分方程式モデルではみられない現象であり、実験での検証が待たれる。

以上のように、井上雅世氏の学位論文は、適応を多自由度の力学系で扱い、現在、主流の少数(2-3)自由度の適応モデルとは異なる現象のクラスを議論したものである。細胞生物学の実験との対応づけに関してはまだ埋めるべき課題もあるが、今後の適応研究への新しい道筋を与えた、独創的な研究である。本論文の3-6章は,金子邦彦との共同研究に基づいているが,論文の提出者が主体となってモデル化、シミュレーション、理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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