学位論文要旨



No 125540
著者(漢字) 中島,昭彦
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,アキヒコ
標題(和) 発生現象のロバストネスに関する理論的研究 : 遺伝子ネットワークから細胞集団まで
標題(洋) Theoretical study of developmental robustness : From gene network to cell community
報告番号 125540
報告番号 甲25540
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第989号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 澤井,哲
 東京大学 教授 武田,洋幸
 理化学研究所 主任研究員 望月,敦史
内容要旨 要旨を表示する

序論

近年、生物学実験の観察技術の精密化や分子的知見の蓄積に伴って、様々な生物現象を数理的に解析し、そこからシステムとしての性質を理解しようとする研究がさかんになってきている。そのような中で、生物システムの頑強性(ロバストネス)に関して先行研究の多くでは、分子ネットワーク空間中で適応度が中立なネットワークの割合や、低次元力学系の構造安定性といった静的な概念によってロバストネスをとらえてきた。このような概念をもとに、走化性の適応現象や概日リズムなどの安定性が議論されている。しかしながら、発生現象の場合、分化調節や形態形成といった多細胞レベルの時空間的にダイナミックな過程を考える必要がある。そのため、ロバストな発生過程を実現するためには、これまでのネットワークの最適化によって実現されるような静的なロバスト性の獲得に加えて、細胞間の相互作用や細胞集団の協同性などを介した動的なメカニズムも重要になってくると考えられる。そこで我々は、いくつかの発生現象を題材にしてロバストな発生過程を実現する機構を数理的に研究した。

結果および考察

1.ショウジョウバエ神経幹細胞の経時的遺伝子発現を作り出す遺伝子ネットワークのロバストネス

ショウジョウバエの神経発生では、ニューロブラスト(NB)と呼ばれる神経幹細胞が一定の時間順序に従って転写因子を発現する(図1)。この経時的な遺伝子発現変化は多様な神経細胞の運命づけに働いており、時間的パターン形成の典型例である。まず、この発現に関与する遺伝子で作りうるネットワーク構造の中から実験的に観察される遺伝子発現パターンを再現するものを、数理モデルの系統的な解析によって調べあげた。その結果、およそ107 個のうちの400 個ほどのネットワーク構造が実験事実を再現することができ、未知因子による遺伝子制御が必須なことを見つけ出した(図2)。次に、ネットワークの作り出す発現のパラメータ変化と発現ノイズに対する安定性を解析した。その結果、実際のショウジョウバエ転写ネットワークが非常にロバストな発現パターンを実現することを見いだし(図3)、そこから、安定な経時的発現を作り出すためのネットワークモジュールを明らかにした。ショウジョウバエニューロブラストのダイナミックな遺伝子発現の変化が、ネットワークデザインとして最適化されていることを明らかにした。

2.細胞間の相互的なシグナル伝達を介した調節的な分化制御メカニズム

発生の多くの状況で、細胞間シグナルを介した協調的な分化決定が重要である。そこで、細胞間シグナルによる協調的な分化を示す数理モデルを構成した。生物学的に適用可能な例として、最もシンプルなネットワークモチーフであるポジティブフィードバックに細胞間の抑制的シグナルを加えたときの細胞集団の挙動を考察した。ポジティブフィードバックにより作り出された双安定性が2種類の細胞状態を作り出すが、それらの集団中の割合について、細胞間シグナ図1. NB の経時的遺伝子発現図2. (A) ショウジョウバエのネットワーク。(B)探索により得られたネットワーク。共通の調節(Black)、共通しないがショウジョウバエには存在(Gray)、未知の調節(Brown)。図3. 発現順序のロバストネスルを介して、以下のような振る舞いが実現されることを見いだした。

・細胞密度に応じた細胞状態のスイッチング

・集団中における特定の細胞タイプの細胞数が集団サイズに対しほぼ一定に保たれる

・集団サイズに対して細胞タイプの比率制御が実現される

モデルの解析から、細胞の協調的な分化が実現されるメカニズムは分岐パラメータをセルフコンシステントに決定することで実現されることを明らかにした。

3.協調的な運動性による細胞選別のロバストな実現

上の2つでは主に遺伝子発現を問題にした。ここでは細胞間での物理的な協調がロバストな発生過程に寄与する可能性を考える。多細胞組織の区画化などに重要である細胞選別(セルソーティング)は、異なる組織由来の細胞同士を混合して培養すると,細胞種ごとに分離した層をもつ細胞塊を形成する現象である。このとき最終的に実現される細胞配置は、細胞接着と細胞のランダム運動を考慮したセルラーポッツモデル(Cellular Potts Model; CPM)によってよく再現される。しかし、細胞選別の緩和過程に関して、これまでに報告されたCPM の振る舞いは実験事実と大きく異なる。ニワトリ初期胚由来細胞を用いて行われた実験では、各細胞種の特徴的なドメインサイズR(t)は時間に比例して(R(t)〓t )大きくなる。この緩和則は流体力学作用のある相分離過程に対応する.一方,CPM では特徴的ドメインサイズの変化はR(t) 〓log(t) と報告されている。

これらの違いが何に起因するのかを明らかにするために、まず我々は十分に大きなシステムサイズの元でCPM の振る舞いを解析した。その結果、ドメインサイズの成長則が対数的ではなく、ベキ的に変化することがわかった。細胞比率が50:50 の場合には、べき指数はn = 0.33でべき的な変化(R(t)∝tn)をすることを見いだした(図4, φ=0.0)。このべき指数はmodel B として知られるクラスの相分離過程に対応する。また、細胞比率が非対称の場合には、ベキ指数はn = 0.26となった(図4, φ=0.8)。等比率よりも遅い成長は、細胞塊が大きくなるにつれて拡散係数が急速に大きくなることによって説明される。またこの結果は細胞塊が他の細胞の間を通り抜けるには非常に時間がかかることを示唆している。

上記の振る舞いは、これまでに考えられていたCPM の振る舞いよりも速いが、実験で報告されている値からはまだ大きく外れている。そこで、我々は細胞の極性と自発運動を含むようモデルを拡張した。拡張CPM モデルでは,近接細胞間での協調的な運動が誘起され,成長則はやはりベキ的だが、その指数はn> 0.68となった.これは流体力学効果のある2次元での相分離過程の値に一致しており,3次元の数値計算の場合には実験結果と一致するものと予想される。上記の結果から細胞集団の協調的運動が細胞選別過程のすばやい進展に重要であると考えられる。

まとめと今後の展望

本論文の結果から、ネットワーク構造の最適化によるロバスト性の獲得が発生の動的な遺伝子発現においても適用できることを示した。そのようなロバスト性に加えて、我々の結果からは発生において細胞間シグナルや運動の協調性を介した動的なロバスト性が重要な役割を果たすことが示唆される。

図1. NB の経時的遺伝子発現

図2. (A) ショウジョウバエのネットワーク。(B)探索により得られたネットワーク。共通の調節(Black)、共通しないがショウジョウバエには存在(Gray)、未知の調節(Brown)

図3. 発現順序のロバストネス

図4. CPM のドメイン成長過程

図5. 拡張CPM に見られる協調的運動

図6. 拡張CPM のドメイン成長過程

審査要旨 要旨を表示する

近年の定量的な生物学実験の進展と分子的知見の蓄積により、細胞や細胞集団のシステムとしての研究が進展しつつあり、それに伴い、数理的な研究も盛んになっている。本論文では、多細胞生物の個体形成の上で最重要事象である発生過程を数理・物理的に解析し、特にそのロバストネス(頑強さ)に関する新しい、重要な知見を得ている。

発生過程にはまず細胞レベルで遺伝子発現のダイナミクスがあり、これは遺伝子発現を制御するネットワークで支配されている。ついで、細胞間のシグナルのやりとりによる相互作用のもとで細胞はその遺伝子発現状態を分化させ、異なるタイプの細胞が形成される。そして多種類の細胞がその間の接着などの力学的相互作用により安定した配置をとって形態形成が進行する。そこで、本論文ではネットワーク解析、力学系、統計力学の3つの方法論を駆使し、また細胞生物学の最新の実験結果も活用して、発生の理論を展開する。

論文は5章からなり、第1章では論文全体の簡潔な紹介にあてられ、第2-4章で中島氏の研究が詳細に述べられ、第5章は全体のまとめにあてられる。

第2章ではショウジョウバエの神経発生を例にとり、遺伝子制御ネットワークからいかにしてロバストな時間的発現変化が生じるかが扱われる。ショウジョウバエの神経発生では、ニューロブラストと呼ばれる神経幹細胞が一定の時間順序に従って転写因子を発現し、それが多様な神経細胞の運命づけの基盤となっている。では、遺伝子制御ネットワークは、いかにして、この遺伝子発現パタンの時間順序を与えるのであろうか。中島氏はまず、これまで知られている遺伝子制御で可能なネットワークすべてでの発現シミュレーションを遂行し、それだけでは、実験の発現パタンを再現できないことを示した。ついで未知の一因子を導入した、約1000万個の可能なネットワークの発現の時間変化をすべて調べ挙げ、その中の約400のネットワークが実験事実を再現することを見出した。この制御ネットワークを用いて、発現パタンのパラメータ変化と発現ノイズに対する安定性を解析し、実際のショウジョウバエ転写ネットワークが非常にロバストな発現パタンを実現することを見いだし、安定した経時的発現を作り出すためのネットワークモジュールを明らかにした。近年、生命システムのノイズと変異に対するロバストネス、そして遺伝子ネットワークの構造は大きな関心を集めているが、本論文では、現実の例を用いて、これらの特性とその間の関係を明らかにし、それを数理的に解析したものであり、注目に値する。ショウジョウバエの発生は典型的モデルと考えられており、ここで調べられたような発現の経時変化は発生の基本としてみられるものであるので、発生生物学全般に大きな意義を持つものであろう。一方、ここで導入が要請された未知の因子の実験的検証は今後の課題である。

第3章では細胞間相互作用による協調的な細胞分化が扱われる。最も簡単な正のフィードバックの遺伝子制御ネットワークを用い、それに細胞間の抑制的シグナルが働く場合の力学系を解析し、細胞が発現の異なる2タイプへ分化すること、それが細胞密度に応じて起こり、また2種の細胞の比率が集団サイズに対してロバストに制御されることが示されている。このモデルの数理的解析から、比率制御を持つ安定した細胞分化が起こり、それが分岐パラメータの相互作用によるセルフコンシステントな決定で実現されることが明らかにされている。更にこの機構が働いていると考えられる発生過程の具体的例を議論している。比率の安定した細胞分化に関して現実的な理論となっており生物学者からも評価されている。

第4章では力学的相互作用による細胞選別(セルソーティング)が扱われる。多細胞組織の区画化などに重要な細胞選別は、異種細胞を混合して培養すると,細胞種ごとに分離した細胞塊が形成される現象である。この現象の理解のために同種細胞が並ぶとエネルギーが低くなるとした、統計力学的モデル、細胞ポッツモデル(Cellular Potts Model;CPM)がしばしば用いられている。しかしニワド)初期胚由来細胞での実験ではドメインサイズπωが時間'に比例して増加するのに対し、CPMではR(t)oclog(t)と報告されている。まず、中島氏は、長時間のモンテカルロ計算により、成長は時間のべきで進むことを確認、細胞比率が1:1の場合には、べき指数は1/3程度、一方で比率がずれると1/4程度で進むことを見出し、CPM研究での従来の結果を改めた。更に細胞の極性と自発運動を含むようモデルを拡張し、指数が2次元で2/3程度になり、さらに3次元では実験結果に近づくと予想している。本章では統計力学的手法に依拠して、細胞集団の協調的運動が細胞選別過程のすばやい進展に重要であることを推定している。

以上のように、中島昭彦氏の学位論文は、発生という複雑な過程に対して、細胞生物学の最新の実験結果を参照しつつ、ネットワーク解析、力学系、統計物理を駆使して、新しい知見をえたものである。近年、細胞生物学への理論物理、数理的研究が進む中、発生という、より巨視的現象にまで理論研究の道を広げたもので、その物理的理解を進める上での基盤となるものである。物理学としても発生生物学としても水準の高い、独創的なものである。本論文の2章は,石原秀至氏、一色孝子氏、金子邦彦との共同研究、3章は金子邦彦と、そして4章は石原秀至氏との共同研究に基づいているが,いずれも論文の提出者が主体となってモデル化、シミュレーション、理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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