学位論文要旨



No 125541
著者(漢字) 西山,陽大
著者(英字)
著者(カナ) ニシヤマ,アキヒロ
標題(和) 量子場の熱化過程のカダノフ・ベイム理論
標題(洋) Kadanoff-Baym Theory for Thermalization of Quantum Fields
報告番号 125541
報告番号 甲25541
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第990号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松井,哲男
 東京大学 准教授 加藤,雄介
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 准教授 菊川,芳夫
 KEK 教授 熊野,俊三
内容要旨 要旨を表示する

近年、Relativistic Heavy Ion Collider(RHIC)では、超相対論的重イオン衝突実験によって、Quark-Gluon Plasma(QGP)の研究が行われている。原子核衝突事象を理解するためには、反応の初期条件から過渡的に生成するQGP、そしてハドロン化(QCD相転移)およびハドロン物質の時間発展を追跡する必要がある。これまでの研究に対して、QGPの完全流体模型を用いた解析が驚くべき成功を収めている。しかしながら、流体シミュレーションを開始する前のパートン(主にグルオン)の熱化に至る過程はまだ良く理解されていない。完全流体模型を用いたデータ解析によれば、グルオンは反応の早期の段階〓で既に熱化していうことが示唆され、現在問題になっている[1]。この早期熱化の問題はOn-shellの解析において最もエントロピーを増大させると考えられるパートンに対する非弾性衝突(Teq(gg⇔ggg)=2~3fm/c)の散乱断面積を考えても解決することができない[2]。そういった状況を鑑み、衝突実験で生成したグルオンの時間発展を追跡し、QGPの生成過程を調べる事は、近年特に重要性を帯びてきている。

QGPのような濃密な系の記述には、古典的で希薄な粒子系を扱うBoltzmann方程式を用いることに原理的な問題がある。そこで、我々はグルオン場に対する量子論的な時間発展の記述に取り組んでいる。これは一般にはKadanoff-Baym(KB)方程式に代表されるアプローチである。本研究の目的は、この方程式を使った数値計算を可能にし、グルオンの熱化の性質を理解することである。On-Shellの粒子の動力学を追跡するのではなく、場としての運動を記述することで、粒子の言葉で言えば、2体散乱(gg⇔gg)のみならず、粒子の生成消滅過程(g⇔gg, g⇔ggg)を自然に含むことができる。場の理論に基づき、Off-shellの効果を考慮し、QGP生成過程における輸送理論を扱うといった研究は、まだ開拓段階にあり、早期熱化の問題に関しても、一貫した理解を与える可能性がある。

本研究では、まず、Toy modelとしてスカラー理論(φ4,O(N)模型)による解析を行う。そこでは、上記のOff- shellの過程を含む衝突項に対し、KB方程式に基づくエントロピーがH定理を満たすことを示す。次に、実際に数値計算を行い、エントロピーが単調に増加し、系が最終的に熱平衡化することを確かある。最後に、上記の方法をゲージ理論に拡張し、Off-shellの過程が熱化に寄与するかどうか調べる。

まず簡単な場合として、スカラー理論〓を扱うことにする。このラグランジアンに対し、揺らぎの情報を含む2点相関関数の運動方程式を導出するとKadanoff-Baym(KB)方程式が得られる。KB方程式は擬粒子描像における分布npの情報を持つ統計関数〓と分散関係の情報を持つスペクトラル関数〓という2種類の2点相関関数を用いて次のように表現される。ここで、Σ(local,p,F)は2点相関関数で表現される自己エネルギーを表し、質量補正と衝突、粒子生成消滅過程の効果を含んでいる。KB方程式では時間発展の過程は非マルコフ的なものであり、過去の記憶に依存した振る舞いを示す。分布関数とともにρ(x,y)を同時に時間発展させることにより、スペクトラル関数の(崩壊)幅の情報を考慮することで、2対2の衝突だけでなく粒子生成消滅過程(1対3,3対1)もダイナミクスに貢献することになる。

Kadanoff-Byam方程式では衝突過程だけでなく粒子の生成消滅過程も考えることができるわけだが、これらのプロセスが熱平衡化に寄与するのか確かめる必要がある。そこでKB方程式に基づくエントロピーを導入し、それが単調に増加することを証明する。時空間における変化が緩やかである場合にはKB方程式において勾配展開が良い近似法になる。勾配展開を用いた場合には、展開の1次のオーダーにおいて次式に表される運動論的エン卜ロピーを導出することができる。(非相対論的な場合については[3]を参照。本研究では彼らの仕事を相対論的な場合に拡張している。

スカラー理論(φ4)において結合定数のNLOまでの寄与まで考えた場合(図1)、sμはH定理を満たすことが確かめられた。また、O(N)理論の場合にも、1/N展開のNLOまでの寄与を考えた場合にH定理を満たすことが証明できた。

ここで、a,bは2点相関関数の積を表す。この関係式は、KB方程式の衝突項が零で無い場合(a≠b、あらゆる相関関数の変化に対して、エントロピーが増大することを示している。(但し、勾配展開の1次の範囲に限る。)このように、Off-shellの効果を含む動力学において、エントロピー(2)の増大を2点相関関数の段階で示すことができた。さらに、ゲージ理論の場合にも結合定数のLOの寄与(図2)を考えた場合(空間次元d>2)にH定理を満たすことを示した(Temporal Axial Gauge(TAG)での結果。この自己エネルギーは1対2、2対1の生成消滅過程に寄与するが、この過程はOff-shellの伝播を考えた場合に発生するものである。しかし、TAGのゲージ理論の場合には、自己エネルギーがWard恒等式を満たすときに相関関数の縦波成分の赤外領域に特異性が発生するため、扱いには注意が必要である。ちなみにLOの自己エネルギーは一般的に恒等式を満たさない。また、熱平衡状態では、或る温度に依存しない定数項を加えたエントロピーのゲージ依存性は制御されるが([4]参照)、非平衡の場合にはまだ、その依存性が制御されることを説明できていない。

次に、最も簡単な場合として空間1次元のスカラーφ4理論[5]での数値計算の結果を紹介する。(論文内では空間2次元のφ4理論及び空間1次元のO(N)理論の場合についても数値計算を行っている。)空間的に一様、膨張のない系を考え、KB方程式を時間発展させエントロピーの変化を調べた。図3に統計関数から導出される擬粒子の分布関数の時間発展(結合定数λ/m2=4)の様子を示す。津波構造の頂上の部分が小さくなり、低エネルギー密度で決定される平衡状態に至る。

図4にこの数値計算におけるエントロピー密度(2)とその擬粒子近似(3)の時間発展を示す。(初期時間付近mX0~1では勾配展開による近似が適切ではなく、エントロピーを評価できない。従って、mX0>10での振舞に注目することにする。)(2)スペクトラル関数の幅の情報を含んでいるおり、擬粒子近似(3)ではこの効果が無視されている。エントロピー(2)は(mX0>10では)単調に増加しており、この結果はH定理で示されたとおりである。エントロピー(3)も単調増加し、(2)との比もほぼ一定である。従って、H定理に基づくわけではないが(3)も、熱化を示す適切な指標になり得るかもしれない。

空間1次元の系ではBoltzmann方程式によるシミュレーションではエネルギーと運動量の保存則により、このような熱平衡化は起こらない。エントロピーの増大はスペクトラル関数の有限の幅の効果による。このことから、Offshellの効果がエントロピー生成に重要な役割を果たすことが分かる。

以上の内容をまとめると、次のようになる。

Kadanoff-Baym方程式とは分布関数の情報を含む統計関数と分散関係の情報を含むスペクトラル関数の時間発展を記述する連立方程式である。スペクトラル関数を考慮することで2対2の衝突に加え、1対2、2対1、1対3及び3対1の粒子生成消滅の過程を含む過程を追跡することができる。

研究では、スカラー理論(φ4,O(N))に対するKB方程式から、勾配展開により、運動論的エントロピーを導出し、結合定数のNLO及び1/N展開のNLOまでの自己エネルギーを考えた場合に、H定理を満たすことを確かめた。同様にして、ゲージ理論の場合に結合定数のLOの自己エネルギーについて、H定理の証明を試みた。ゲージ理論の場合にはWard恒等式が成立する場合の赤外発散と非平衡の場合でのゲージ依存性の問題が残っている。

次に、具体的な問題としてスカラー理論の場合に、KB方程式をもちいた熱平衡化過程を数値計算で追跡し、エントロピーが増大することを確かめた。空間1次元の場合にはBoltzmann方程式ではこのような熱平衡化が起こらない。Off-shellの効果を考えることで初めて起こるものである。

ゲージ理論の場合には、LOの自己エネルギーは1対2、2対1の生成消滅過程を含むが、Off-shellの効果を考えた場合にのみ許される過程である。数値計算を行って、グルオンの熱平衡化にもこれらの効果が効くことを確かめる必要があるが、それは今後の研究に持ち越されることになるだろう。

[1] U. W. Heinz and P. F. Kolb, Nucl. Phys. A702 (2002) 269.[2] R. Baier, A. H. Nueller, D. Schiff and D. T. Son, Phys. Lett. B502 (2001) 51.[3] Y.B. Ivanov, J. Knoll, and D.N. Voskresensky, Nucl. Phys. A672, 313 (2000); T. Kita, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 114005 (2006).[4] A. Arrizabalaga and J. Smit, Phys. Rev. D 66 (2002) 065014.[5] G. Aarts and J. Berges, Phys. Rev. D 64, 105010 (2001); J. Berges and J. Cox, Phys .Lett. B 517, 369 (2001).

図1: 1/N展開のNLOの自己エネルギーの寄与。結合定数のNLOの自己エネルギーは上図で〓を〓に取り替えたものである。このダイアグラムは2対2の衝突に加え、1対3、3対1の生成消滅過程を含んでいる。

図2: 結合定数のLOの自己エネルギーの寄与。(TAG)このダイアグラムは1対2、2対1の生成消滅過程を含んでいる。

図3: 分布関数np(wp/m)の時間発展。初期条件は津波型の運動量分布を用意し、自己エネルギーとしてφ4理論で結合定数λ/m2=4のNLOまで考えた。

図4: 運動論的エントロピー(2)(+)とその擬粒子近似(3)(実線)の時間発展。(φ4理論=λ/m2=4)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は英文で書かれ、本文7章(section)と5つの補章(appendix)から構成される、150ページに及ぶ力作である。第1章は序論で、この研究の動機となる実験的背景と理論的問題の設定、それに対するこの論文で展開する新しいアプローチの概観、そして論文の構成と残りの各章の簡単な要約が述べられている。第2章はこの論文で用いられるKadanoff-Baym方程式の経路積分法を用いた場の理論的導出方法が述べられ、その漸近解の一般的振る舞いとして、摂動論的取り扱いにおける「永年項問題」と、熱平衡の終状態が初期条件によらないで示すべき「普遍性」の問題が議論されている。この部分は先行研究のレビューである。第3章では、自己相互作用する実スカラー場の模型を使ってKadanoff-Baym方程式による量子場の熱化過程が調べられる。最初に、長波長展開を用いて系の平衡系へのアプローチの指標となるエントロピー流を定義し、結合定数の幕展開の最低次でその相対論的時間発展が「H定理」をみたす事が証明される。この「H定理」の証明により、Kadanoff-Baym方程式が非可逆な時間発展を記述できることを確かめた上で、この章の後半では、空間的に一様で運動量分布が非平衡の初期条件を与えてスカラー場のKadanoff-Baym方程式の時間発展の数値解が詳しく調べられている。第4章はO(N)対称性を持つN成分スカラー場に前章で行なった計算を拡張している。大きいNの場合に、1/N展開の方法によって結合定数の幕展開の無限級数和をとり、1/Nの最低次で「H定理」を証明し、やはり空間1次元的な系の時間発展の数値計算を行なっている。第5章は有限温度のゲージ理論を概説し、次章で非平衡の問題に拡張する準備にあてている。第6章は、非平衡のゲージ理論へのKadanoff-Baym理論の適用を行ない、ゲージ普遍性の問題の分析と、軸ゲージの下でのエントロピーの導出等の計算をおこなっている。第7章は全体のまとめと残された課題の整理にあてられ、5つの補章(Appendices)ではKadanoff-Baym方程式の導出に用いられた2粒子規約有効作用の計算、グルーオン偏極テンソルの計算、初期条件の設定で導入されたグリーン関数のソース積分核の役割、準粒子近似での衝突項のKadanoff-Baym方程式からの導出、そして熱平衡極限でのエントロピーの表式を求めている。

序論で述べられているように、2000年から米国Brookhaven研究所においてRHIC(相対論的重イオンコライダー)をもちいて行なわれている核子あたり100GeVの超高エネルギーでの原子核衝突実験で、強い異方的な集団流が観測され、相対論的な流体模型による数値シミュレーションでその再現に成功している。このことから反応によって生成された高エネルギー密度の物質が非常に短い時間で局所平衡となっていることを意味していると考えられている。これはパートン模型に摂動的QCDを適用した模型の予測に反し、グルーオン場の熱化過程に古典的な希薄気体のボルツマン方程式を用いることの限界を示唆している。この困難を克服するため、本研究で著者は、量子場の熱化過程に量子論的な非平衡過程を記述するKadanoff-Baym理論を用いることを提唱し、スカラー場のφ4模型、O(N)模型、そしてSU(N)非可換ゲージ模型にたいして、数値シミュレーションを含めKadanoff-Baym方程式を導出して、その解の時間発展を詳細に調べている。

Kadanoff-Baym理論を用いるメリットは、ボルツマン方程式の衝突項の導出に取り入れられていないメモリー効果や、パートンの時空伝播におけるオフシェル効果などが自動的に取り入れられる点である。特に後者の効果を無視すると、空間1次元の場合には衝突前後でのエネルギー・運動量の保存則から運動量分布が時間変化しない、すなわち運動量分布の緩和が起こらないため、1次元系でKadanoff-Baym方程式が量子場の熱化を記述できるかどうかというのはたいへん興味ある原理的な問題である。

著者は、まずスカラー場のφ4模型を用いて量子場の2点相関関数に対するKadanoff-Baym方程式を導出し、その物理的意味を長波長近似で考察している。Kadanoff-Baym方程式は、素励起のスペクトル関数を決める式と、その統計的分布の時間発展を決める式の連立方程式からなっている。著者はこの式が熱平衡への非可逆過程を記述することを確かめるために、長波長近似を用いて、「H定理」を満たすエントロピー流の導出を行なっている。同様なエントロピーの表式は、非相対論的な場合に知られていたが、相対論的な場の量子論に拡張したのはこの著者が初めてである。更に、著者はKadanoff-Baym方程式の数値解を求め、空間が一様な系に対し、運動量分布の2つの異なる初期条件から出発して、それがどちらの場合も急速に熱平衡分布に近づくことを示し、それから著者の導入したエントロピーの時間発展を分析している。この結果は、O(N)対称性をもつN成分スカラー場模型に拡張され、1/N展開法により、結合定数の高次の項を幾何級数和として取り込んだ計算も行なって、「H定理」の証明とエントロピーの表式の導出、そして数値解の計算をしている。更に著者は、本来の目的であった非可換ゲージ場の熱化過程の記述への拡張を試み、時間的軸性ゲージ(Ao=0)でH定理の計算を試み、この方法の問題点をいくつか指摘している。

これまで、スカラー場模型に対してKadanoff-Baym方程式を導出しその数値解の求めた研究はあったが、非平衡状態でのエントロピーの導出やその「H定理」の証明を行なったのはこの著者のオリジナルな成果であり、この部分は既にこの分野では権威あるNuclear Physics A誌に著者の単名論文として発表されている。

このようにこの博士論文で著者は、量子場の非平衡時間発展をKadanoff-Baym理論を用いて記述し、非平衡状態を記述するエントロピーの表式を求め、数値計算によって量子場の運動量分布が平衡分布へ緩和する過程を、新しい視点から詳細に分析している。この研究成果は、超高エネルギー原子核衝突における初期過程の理論的理解にむけた重要な一歩であり、これからの研究の発展が期待される。本論文は、博士号を授与するのに十分な内容であると審査員一致で判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50176