学位論文要旨



No 125556
著者(漢字) 菊地,龍弥
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,タツヤ
標題(和) 中性子散乱法によるガスハイドレートの生成機構と関連物質の動的構造の研究
標題(洋) Neutron Scattering Study on Formation Mechanism of Gas Hydrates and Dynamic Structures of Related Materials
報告番号 125556
報告番号 甲25556
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5464号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 常行,真司
 東京大学 准教授 上床,美也
 東京大学 准教授 野口,博司
 東京大学 准教授 錦織,紳一
 東京大学 准教授 杉野,修
内容要旨 要旨を表示する

クラスレートハイドレートは,水分子が作る水素結合ネットワークの内にできるケージ状の空間にゲスト分子が入り込んだ構造をもつ結晶の総称である。クラスレートハイドレートのうち、ゲスト分子がガス分子のものをガスハイドレートという。近年,海底に大量に存在するメタンハイドレートがエネルギー資源として利用できることが明らかになり注目を集めている。他にも多くの応用研究が行われているが、化学物理的には、疎水性水和のモデル物質として、また氷と同様の配向無秩序結晶として重要な物質である。

ガスハイドレートの水分子が作る水素結合ネットワークはホスト格子と呼ばれ、これまでに4種類が報告されている。ゲスト分子の多くはI 型,II 型の2種類のホスト格子に包接される。図1にI 型とII 型の単位格子を示す。I 型の単位格子は,2 個の正12 面体と6 個の14 面体から,II 型の単位格子は,16 個の正12 面体と8 個の16 面体から構成される。いずれの型をとるか,また,どのケージがゲスト分子で満たされるかは,主にゲスト分子の大きさに依存することが分かっている。

現在、ガスハイドレートの研究において、その結晶化機構が大きな問題になっている。これまでは、水溶液中での構造研究が主に行われてきたが、未だ確かな報告はされていない。結晶化機構の研究において、ガスハイドレートを形成するガス分子は常圧では水にほとんど溶解しないことが研究の大きな障害になっている。本研究では,この問題を解決するため、二通りの方法を用いて試料を作成し、研究を行った。一つは低温蒸着法を用いることでアモルファスのガスハイドレートを生成する方法、もう一つは水に気体高圧をかけることで溶解度の高い水溶液を作成する方法である。これら2つの方法で作成した試料に対して、中性子散乱法により以下に示す構造とダイナミクスの研究を行った。

【中性子回折法でみたアモルファスガスハイドレートの構造形成過程】

本研究では初めに、低温蒸着法により蒸着アモルファスガスハイドレート作成し(7-10 K で蒸着)、中性子全散乱法によりin-situ でその構造研究を行った。実験には高エネルギー加速器研究機構(KEK)のパルス中性子源に設置されたHIT 分光器を使用した。メタンの系(CD4-5.75D2O),アルゴンの系(Ar-5.66D2O)、キセノンの系(Xe-5.75D2O)の実験の結果、全ての試料において水素結合ネットワークが作る12 面体ケージの半径(3.9Å)付近で動径分布関数の値がゲスト分子なしのD2O(アモルファス氷)に比べて大きくなっており,ケージ構造の形成が確認された。また、隣り合った2つのD2O 分子に対するD-O 間水素結合距離(1.8Å)で動径分布関数の値がAr-5.66D2O,D2O,Xe-5.75D2O の順に大きくなっており、このことから、ゲスト分子として比較的大きいXe を導入した場合は水素結合の形成は進むが,小さいAr を導入した場合は進まない,または逆に破壊されることがわかった。アモルファスガスハイドレートが生成されたのは本研究が初めてである。

次に、日本原子力研究開発機構(JAEA)の3号研究炉(JRR-3)に設置されたHERMES 分光器を使用し、キセノンの蒸着アモルファスガスハイドレートXe-5.75D2O を作成し、50、120、135、150、165 K と温度を上げて構造緩和させ、結晶に至るまでの構造変化を詳しく測定した。また、時分割により構造の時間変化も測定した。実験の結果、散乱強度I(Q)の温度変化について図2 のような結果が得られた。ブラッグピークの出現から、165 K でガスハイドレートに結晶化したことが確認された。また、120 K 以上で1.2 A-1 付近に特徴的なプレピークが確認された。プレピークは135K から大きく成長し始め,ピーク位置は低Q 方向にシフトした。このことから,プレピークに対応する中距離構造は,120 K 付近から出現し始め,温度上昇でより大きな構造が形成されることがわかった。また、165 K では徐々に結晶化が進行し、プレピークとほぼ同位置に3本のブラッグピークが現れた。プレピークとブラッグピークの積分強度の合計値は終始ほぼ一定であったことから、アモルファスのプレピークと結晶のブラッグピークが似た構造によるものであり、アモルファスから結晶に直接転移していることがわかった。

構造形成機構をより詳細に議論するため、MD シミュレーションを行った。シミュレーションでは、ハイドレート結晶の単位格子の3x3x3 の大きさにあたる1242 個の水分子と216 個のゲスト分子の系で、水分子にはTIP4P,ゲスト分子にはLennard-Jones ポテンシャルを用いた。ゲスト分子の直径は、メタン分子の直径にあたる4.4 A とした。圧力は58.4 MPa、温度は230 K で、最長1μs のシミュレーションを行った。シミュレーションの結果から構造因子を計算したところ、実験と同様のプレピークが再現できた。また、水分子とゲスト分子の部分構造因子を比較した結果、水分子のケージ構造を伴ったゲスト分子が四面体配置構造をとることでプレピークは成長することがわかった。

以上の結果からアモルファスガスハイドレートの結晶化機構は、温度上昇による構造緩和で、低温時から存在するケージ構造同士が結合し中距離構造を形成し,さらに温度上昇することで,中距離構造が長距離秩序に発展し結晶化するということがわかった。このような結晶化過程は,液体状態からの結晶化でも存在していると考えられる。

【中性子準弾性散乱法でみたゲスト水溶液中の水分子の拡散運動】

二つ目の研究は、気体高圧装置を用いた高濃度ガス水溶液のダイナミクスの研究である。作成した高濃度ガス水溶液(最大2%程度)の中性子準弾性散乱をin situ で測定した。測定には、JRR-3に設置されたAGNES 分光器を使用した。アルゴン(Ar)100 MPa (293 K)、アルゴン50 MPa (287.5K)、窒素(N2)100 MPa (283 K)、二酸化炭素(CO2)3 MPa (280 K)、キセノン(Xe)14 MPa(311.5K)、キセノン3 MPa(303 K)を水に印加しながら測定した。括弧内の数字は、その気体と圧力におけるハイドレート生成温度TF である。90℃から-10℃までの温度範囲で測定を行った。

測定により得られた準弾性散乱スペクトルS(Q, ω)のフィッティングには、跳躍拡散運動(並進運動)と回転拡散運動をコンボリューションしたモデルを使用した。一部結晶成長していたので弾性散乱成分もモデルに加えた。解析によって求められた拡散係数を図3 に示す。この結果から、すべて試料においてガスが溶解することで拡散係数が減少することがわかった。また、ガスハイドレート生成温度以下になるとダイナミクスが変化し、拡散係数の減少が大きくなり、温度低下とともにさらに大きくなることがわかった。減少量は、ゲスト分子サイズの順に大きくなっている。

MD シミュレーションを、(1) 純水、(2)水分子502 個、ガス分子10 個の2 mol%ガス水溶液、(3) 水分子511 個、ガス分子1 個の0.2 mol%ガス水溶液について行った。圧力を30 MPa に固定し、温度を210 K から340 K まで10 K ごとに変化させた。ガス分子にはキセノンとアルゴンを用いた。10 ns程度のシミュレーションを行った結果、実験と同様なダイナミクスの変化が確認できた。また、その原因を詳しく解析した結果、変化した温度以下になると、ガス分子同士が近づくことにより。単体で存在する場合に比べ、ガス分子周りの水分子の拡散係数がより減少することがわかった。ここで示したガス分子の接近は、もちろん先に示したアモルファス構造における中距離構造と関連している。このように、ガスハイドレートの結晶化機構において、ケージ構造が連なった前駆体が重要であることが2つの独立の実験で確認された。

【中性子非弾性散乱法でみたアモルファスガスハイドレートの低エネルギー励起】

三つ目の研究は前々節で作成したアモルファスガスハイドレートの低エネルギー励起の研究である。様々な種類のゲスト分子のアモルファスガスハイドレートを作成し、中性子非干渉性非弾性散乱実験を行うことで低エネルギー励起を測定し、主にゲスト分子サイズによる低エネルギー励起への効果を調べた。測定には、KEK のLAM-D 分光器を使用し、メタンの系(CD4-5.75H2O)とアルゴンの系(Ar-5.66H2O)で測定を行った

得られた結果を過去に測定した結果と共にまとめると図4 のようになる。低エネルギー励起は、ゲスト濃度の増加およびゲストサイズの増大によって減少することがわかった。ゲスト濃度の増加は,ケージ状局所構造の数を増やす効果があると考えられる。一方,ゲストサイズの増大は,局所的なケージ構造を安定化させ,水素結合構造の完全性を高めることになる。以上のような効果が低エネルギー励起強度を減少させると考えられる。なお、この結果は、現在注目されているアモルファス物質の低エネルギー励起(しばしばボゾンピークと呼ばれる)の機構を解明するためにも重要な情報になると考えられる。

以上に示してきたように、本研究では、中性子回折実験からアモルファスガスハイドレートの結晶化機構を初めて実験的に示すことに成功した。また、高圧ガス水溶液の中性子準弾性散乱からの液体状態からの結晶化機構についても実験から示すことができた。アモルファスガスハイドレートの中性子非干渉性非弾性散乱実験からは、ゲスト分子と低エネルギー励起の関係を系統的に示すことに成功した。

図 1 ガスハイドレートのホスト格子左がI 型,右がII 型

図 2 Xe-5.75D2Oの散乱強度I(Q)の温度変化。ティックマークは各結晶のブラッグピーク位置

図 3 高圧ガス水溶液の拡散係数。縦軸は純水の拡散係数、横軸は結晶生成温度TF で規格化。

図 4 アモルファスガスハイドレートの低エネルギー励起

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる。第1章は序論であり,研究の背景と目的が述べられている。第2章では中性子散乱法について簡単に紹介されている。第3章ではアモルファスガスハイドレートの生成、第4章では高圧気体水溶液のダイナミクスに関して、それぞれ実験結果、解析結果、さらに分子動力学法(MD)を用いたシミュレーション結果が述べられている。第5章ではアモルファスガスハイドレートの低エネルギー励起に関する実験結果と考察が述べられている。第6章では、本研究の結論が述べられている。

ガスハイドレートは、水分子の水素結合ネットワークが作るかご状の空間に、ゲスト分子と呼ばれる気体分子が入り込んだ構造を持つ結晶である。近年、海底に存在するメタンハイドレートがエネルギー資源として注目を集めているほか、疎水性水和のモデル物質として、あるいは氷と同様の無秩序結晶として重要な物質である。ところがその結晶化機構は、ゲスト分子の水への溶解度が低いことが障害となって、実験的な研究が困難であった。

本研究では2つの方法でこの問題を解決している。一つは水分子とゲスト分子を低温蒸着することにより、アモルファスガスハイドレートを生成する方法、もう一つは水に気体高圧をかけることで溶解度の高い水溶液を作成する方法である。これら2つの方法で作成した資料に対して中性子散乱実験を行い、さらに補助的にMDシミュレーションを行うことにより、ガスハイドレートの結晶化機構に関する新たな知見を得ることに成功している。

第3章の低温蒸着法を用いた研究では、まず7-10Kという低温で蒸着アモルファスガスハイドレートを作成し、高エネルギー加速器研究機構のパルス中性子源に設置されたHIT分光器を使用して、その構造解析を行った。その結果、ゲスト分子がある場合に水分子が作る12面体ケージの形成、すなわちアモルファスガスハイドレートの生成が初めて確認された。

続いて日本原子力研究開発機構の3号研究炉(JRR-3)に設置されたHERMES分光器を使用し、蒸着アモルファスガスハイドレートの、温度上昇に伴う構造変化の様子を、時間変化も含めて測定した。その結果、120K以上で波数1.2A-1付近に特徴的なプレピークが確認され、それが135Kから大きく成長し低波数側にシフトすること、また165Kではブラッグピークが出現し、結晶化が進行していることが示された。これらのピーク変化の解析により、温度上昇に伴ってガスハイドレートがアモルファスから結晶へ直接転移していることが明らかになった。MDシミュレーションでも同様のプレピークが再現され、水分子のケージ構造を伴ったゲスト分子が四面体配置構造をとることでプレピークが成長することが確認された。

以上の結果から、アモルファスガスハイドレートの場合、温度上昇による構造緩和によって、低温時にすでに存在するケージ構造同士が結合して中距離構造を形成し、さらに温度を上げると長距離構造が形成されるという、結晶化の全体像が明らかになった。

第4章の気体高圧装置を用いた研究では、JRR-3に設置されたAGNES分光器を使用して、数種類の高濃度ガス水溶液(最大2%程度)の中性子準弾性散乱をinsitUで測定している。準弾性散乱スペクトルS(Q,ω)を跳躍拡散運動と回転拡散運動を考慮したモデルで解析した結果、すべての試料でガスの溶解により拡散係数が減少すること、とくにハイドレート生成温度以下で減少が顕著になることが示された。さらに、この実験に対応するMDシミュレーション結果の解析から、ガス分子の接近によってガス分子周りの水分子の拡散係数が顕著に減少することが明らかになった。これはガスハイドレートの結晶化機構において、ケージ構造が連なった前駆体が重要であることを意味しており、第3章で明らかになったガスハイドレートの結晶化機構と調和的である。

第5章では、KEKのLAM-D分光器を使用してアモルファスガスハイドレートの中性子非干渉非弾性散乱実験を行い、アモルファス物質で観測される低エネルギー励起を観測した。またこのピーク強度は、ケージ状局所構造の成長にともない減少することを示した。この結果は、アモルファス物質の低エネルギー励起、いわゆるボゾンピークの機構解明にとって有益な情報になると考えられる。

以上のように本論文では,中性子散乱実験と補助的なMDシミュレーションにより、ガスハイドレート結晶化の本質に迫る新しい知見が得られた。なお本論文は指導教員である山室修氏に加え、松本正和氏、山室憲子氏、稲村泰弘氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって,審査員全員の一致により,博士(理学)の学位を授与できると認める。

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