学位論文要旨



No 125557
著者(漢字) 小堀,知輝
著者(英字)
著者(カナ) コボリ,トモキ
標題(和) フラグメント分子軌道を用いた生体巨大分子のための電子状態計算手法の開発
標題(洋) Development of a new electronic structure calculation method for huge biomolecules with fragment molecular orbitals
報告番号 125557
報告番号 甲25557
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5465号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 杉野,修
 東京大学 准教授 野口,博司
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 樋口,秀男
 東京大学 教授 渡邉,聡
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、第一原理に基づいて、タンパク質やDNA のような巨大分子系の電子状態を効率よく求める方法論の確立である。特にタンパク質は生体内で重要な役割を担い、単に学術的興味のみならず、医学や創薬、エネルギー問題の解決等、産業応用上も大きな期待が持たれており、物理学に則った正確なシミュレーションの必要性が指摘されている。ところが、その系の巨大さと複雑さのため、生体巨大分子の電子状態計算は、従来非常に大きなコストを要するものであった。本研究では、近年京都大の北浦和夫氏によって開発されたフラグメント分子軌道(FMO) 法に基づいて、巨大系の電子状態を低コストで求める新たな枠組みを確立した。フラグメント分子軌道法は、系をその構成要素であるフラグメント(部分系) に分割し、その各々のフラグメント及びあらゆるフラグメント・ペアについて一電子方程式を解いて得た結果を援用することで、全系の全エネルギーおよび電子密度を算出する方法論である。非常に高精度に計算できることで知られているため、計算過程で使われる各部分系のハミルトニアンは、新たな計算手法のための素材として十分通用することを示唆している。本研究では、フラグメント分子軌道法における各部分系の一電子ハミルトニアンを集め、これを加工し組み合わせることで、系全体の一電子ハミルトニアンを構成する。またこの際ハミルトニアンを表現する基底を原子軌道からフラグメント分子軌道に切り換え、さらに物性に関与しないHOMO,LUMO 近傍以外の情報を大胆に捨象することで、巨大系でありながらコンパクトなサイズのハミルトニアンの実現に成功した。以下に本論文の各章毎の内容を説明する。第一章は導入部であり、第二章ではFMO 法の概要を述べる。第三章は、FMO 法に基づいてわれわれが新たに開発したFMO-LCMO 法の内容であり、これが次章とともに本論文の主要部分となる。第四章では、FMO-LCMO 法を具体的な個々の系に適用した結果を紹介する。第五章は全体の結語を述べる。

論文の第一章では、本研究の背景と動機を述べる。生体系物質では水素結合やvan del Waals 相互作用のような弱い相互作用が系全体の安定性に密接に関わっており、それらを精密に評価するには、第一原理に基づいた取り扱いが必要となる。ところが、Hartree-Fock 方程式やKohn-Sham 方程式のようないわゆる一電子方程式には、基底関数の個数の四乗に比例する二電子積分が含まれており、系が巨大になるにつれて必要な計算コストは爆発的に増大する。このため何らかの近似的な取り扱いが不可欠となり、さまざまな種類のオーダーN 法が開発されている。またタンパク質のような複雑な構造を持つ系に対しては、単に一電子方程式を解くだけでなく、解いて得た結果を解析することも容易ではない。そのため、直感的にわかりやすい形で系の電子状態を表示できる計算手法が望ましい。

第二章では、フラグメント分子軌道(FMO) 法の概要を説明する。FMO法は、系をフラグメントに分割し、次いであらゆるフラグメント及びフラグメント・ダイマーについて一電子方程式を解く。最後に、以上の手続きで得た各部分系のエネルギーを用いて、全系の全エネルギーは、以下のエネルギー展開式にしたがって評価される。

ここで、ΔEIJ ,ΔEIJK はそれぞれ二体、三体のフラグメント間相互作用である。通常は二体展開が用いられるが、より高精度な結果が望まれる場合は三体展開が用いられる。分割の際には、sp3 炭素原子を仮想的に二つの原子(硼素と水素) に分割する。それによって分割前後で系全体の形式電荷を保存することができる。実際に部分系の電子状態計算を行う際には、フラグメントの境界に人工的なポテンシャル障壁を設置することにより、境界部分の電子状態が大幅に変化することにないように計算される。さらに、着目する部分系を取り囲む環境からの寄与をHartree 項として一電子ハミルトニアンに取り込むことで、フラグメント間の高次の多体効果を各モノマー及びダイマーの全エネルギーに繰り込むことができる。多体効果の剰余分は上の展開式の中で精密にキャンセルされ、結果的に非常に高精度な全エネルギーを与えることが知られている。

第三章では、前章で述べたFMO 法に基づいて構築したFMO-LCMO 法の方法論について述べる。従来のFMO 法では、系全体の分子軌道および分子軌道エネルギーを計算することができない。これは系全体のハミルトニアンを構成していないためである。FMO-LCMO 法では、FMO 法の途中計算で用いられる各部分系(モノマー及びダイマー) のMO係数と軌道エネルギーを抜き出し、それらを入力データとして、全系のハミルトニアンを構成する。FMO-LCMO 法は、主に5 つの工程から成り立っている。第一は全系ハミルトニアンを埋めるべきハミルトニアンの部品の精製作業である。従来のFMO法で計算された原子軌道表示のハミルトニアンは、人工的なポテンシャル障壁によって物理的に無意味な効果が含まれる。これを取り除き、さらに基底系を原子軌道からフラグメントの分子軌道に変換する。第二にそれら部品を組み合わせることで全系ハミルトニアンを構成する。第一の工程で得たさまざまな部分系のハミルトニアンは、従来のFMO 法で採用されたエネルギー展開式にしたがって組み合わされ、全系ハミルトニアンが構成される。第三に各部分系のHOMO/LUMO 近傍だけの軌道を残すよう全系ハミルトニアンのサイズを圧縮させる。これは、系全体のHOMO/LUMO 近傍の電子状態には、各フラグメントのHOMO/LUMO 近傍の電子状態からの寄与が特に大きいだろうという推測に基づいている。この工程によって、巨大系ハミルトニアンの対角化のコストを激減することができる。第四にハミルトニアンを表現する基底関数系で過完備(overcomplete) な基底系を除外する。FMO 法では、一つの原子を二つの原子に分割するため、合計で割り当てられる基底関数の個数は分割前よりも分割後の方が大きくなる。これによって全系ハミルトニアンには線形従属な軌道が含まれ、これを基底変換によって取り除く。最後に、全系の重なり行列と合わせて一般化固有値問題を解くことで、軌道エネルギーと波動関数が求まる。

第四章では、上に述べたFMO-LCMO 法を具体的な系に適用した計算事例を紹介する。実際に適用した事例として、Poly-ethylene、Poly-glycine、Alanine12 量体(α-ヘリックス及びβ-シート)、Chignolin(PDB ID:1uao) タンパク質がある。ここではヘリックス構造を持つGlycine5 量体の解析事例についてのみ紹介する。図1 は、FMO-LCMO 法と従来のHartree-Fock 法のそれぞれの手法で得たGlycine5 量体の軌道エネルギー及びHOMO 軌道の波動関数である。軌道エネルギーのスペクトルの良さは、Hartree-Fock 法で得たスペクトルとの平均自乗誤差で評価できる。この例では平均自乗誤差が0.0288 [eV] となる。波動関数の再現率は、対応するHartree-Fock 法で得た波動関数との重なり積分の値で計算され、その値は0.98789 となる。フラグメント・トライマーまで計算した三体展開に基づいたFMO-LCMO 法ではさらに精度が上がり、上の平均自乗誤差と重なり積分の値はそれぞれ0.00386 [eV],0.99999 にまで改善される。図2 は、FMO-LCMO 法で構成したGlycine5 量体の全系ハミルトニアンを可視化したものである。FMO-LCMO 法では、全系ハミルトニアンは各フラグメントの分子軌道を基底として表現されるので、全系ハミルトニアンそのものを見ることで系の電子状態を直感的に知ることができる。図2(a) は上に述べたヘリックス構造、図2(b) はそれを引き伸ばしたスティック構造に対応している。2 つを比較すると、(a) では全系ハミルトニアンの非対角領域のうち、特に1-3, 2-4, 3-5 の非対角領域の辺りにヘリックス構造特有の水素結合の様子が現れているのがわかる。一方で(b) のスティック構造では、遠いフラグメント間の相互作用は現れず、せいぜい隣り合うフラグメント間だけの相互作用が現れている。

第五章では、結語として、本研究の概要と意義を述べる。FMO 法に基づいて、FMO-LCMO 法は従来計算できなかった波動関数およびエネルギー固有値を計算できるのみならず、LCMO に基づいた直感的な理解を与えることができる。FMO 法に基づいた他の解析手法と合わせることで、生体巨大分子の電子状態に対する理解が一層進むことが期待される。

図1: Glycine5 量体の軌道エネルギー及びHOMO 軌道の波動関数。このGlycine5 量体は通常のものと違い、両端を水素原子でキャップし、内部に5つのペプチド結合を持つようにしてある。構造式はH(CH2CONH)5H。

図2: FMO-LCMO 法で構成した全系ハミルトニアン。5 つの各フラグメントについてHOMO-3 からLUMO+3 までの8 軌道を抜き出するよう圧縮して得られた全系ハミルトニアンについて、各行列要素の絶対値を可視化している。行列サイズは8×5=40。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。第一章は、イントロダクションであり生体物質の電子状態を研究する上で如何に大規模計算手法を確立するかが重要であること(研究背景)と、しかしながら単に計算規模を拡大するだけが重要なわけではなく、詳細情報から重要情報だけを階層的に取り出せる構造をその手法が持っていることが重要でありそのような構造を有する手法開発を行いたいこと(動機)について記述されている。その後、分子軌道法(Hartree-Fock(HF)法と電子相関を取り込むためのpost-HF法)について基本的な事柄が述べられている。

第二章は、本論文が基盤とするところの大規模分子軌道法Fragment Molecular Orbital(FMO)について詳しく述べられている。FMOは北浦らにより確立された巧妙な計算手法であり、いくつかの技術的改良の後に大規模計算が精度良く計算することができるようになり、現在では様々な応用に用いられている。この手法に関する基本的な考え方、基本的技術、適用例について分かりやすく記述されている。

第三章からが本論文のオリジナルな部分となる。FMOは分子系を構成要素に分解し、分子系の全エネルギーを構成要素の持つエネルギーの和と、それへの二体から三体補正項の和で記述する方法である。これまで如何に全エネルギーを効率良くしかも精度を落とさずに計算するかについてもっぱら研究がおこなわれてきた。これに対して分子系の一電子軌道、軌道エネルギーや状態密度を効率的に計算するための手法についてはあまり研究がおこなわれていない。実際、先行研究では系のサイズとともに著しく計算量が増加するようなアルゴリズムが用いられてきた。この点に着目し、新たなアルゴリズムを開発することが本研究の趣旨である。

研究は、FMOの全エネルギーを再現するようなHamiltonianを再構成するところから始まっている。各構成要素内でのHamiltonian行列要素が対角的であること、二体・三体補正項はそのまま非対角行列要素にマッピングできることに気づくと、その再構成はかなり素直に行うことができる。一見そのままうまくいきそうに見えるが、実はいくつかの問題が生じることが分かる。FMOでは特有の分解、たとえば炭素原子を構成要素間の境界線上にとりそれを水素原子とホウ素原子に分解するというようなこと、が行われている。その際、境界において電子が不対電子軌道を占有しないようにその軌道エネルギーを人工的に高くとっている。その軌道をHamiltonianの基底に取り込んでしまうとovercompleteとなり対角化ができなくなる。そこでまずこの不対電子軌道を取り除くためのアルゴリズムを開発したのが一つの重要なステップである。ただそれだけでは問題を完全に解決することができない。再構成されたHamiltonianの次元は元々用いた原子軌道の数を若干上回ってしまうためである。この問題は事実上数値計算上の技法で回避できることを見出したことが二つ目のステップである。この二つのステップによりHamiltonianを再構成することが可能になる。

もちろんこのままでは必ずしも著しい計算量の低減が図れるわけではない。そこで次に、再構成Hamiltonianの性質について調べた。すると、基本的に対角ブロックの寄与が支配的であり、非対角ブロックからの寄与は特殊なパターンに限られることが分かった。たとえばHOMO-LUMOギャップ付近の状態に対する軌道を計算する場合、それに対応する状態からの寄与だけを取り入れるだけで十分な精度が得られるという構造になっている。そのためHamiltonianの次元を事実上著しく減少して計算することが可能になり、大規模系でも簡単に対角化することができる。かくしてFMO-LCMOという方法が成立することが分かった。

第四章では小さな分子系からやや大きめの分子系にこのFMO-LCMOを適用して、実際に十分な精度で効率的な計算ができていることを数値的に検証している。Hartree-Fockレベルでの軌道エネルギーや状態密度に関して、本手法を用いて計算量を減らして計算した場合とそれを用いないで数値的に厳密にHF計算を行った場合で結果がほとんど変わらないことが示された。

第五章では第三章から第四章で述べたオリジナルな部分に関してまとめが記載されている。FMO-LCMOの確立により大規模生体系の電子状態計算に対して道が付けられ、将来的にはより深い理解の獲得に貢献することが予想される。

本論文第三章から第四章は常行真司・福山秀敏・寺倉清之・赤木和人・袖山慶太郎との共同研究であるが、論文提出者が主体となって開発・実証を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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