学位論文要旨



No 125568
著者(漢字) 乘松,良行
著者(英字)
著者(カナ) ノリマツ,ヨシユキ
標題(和) コントラスト変調による膜蛋白質結晶中の脂質二重膜の可視化
標題(洋) Visualization of lipid bilayers in membrane protein crystals by contrast modulation
報告番号 125568
報告番号 甲25568
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5476号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 准教授 北尾,彰朗
 東京大学 准教授 野口,博司
内容要旨 要旨を表示する

燐脂質は多くの場合に膜蛋白質のフォールディングや機能の発現に必須である。しかし、構造の柔軟性の為に、蛋白質と直接相互作用している脂質分子が可視化された例は少ない。また、15 Aよりも高分解能の領域のデータしか用いない通常の結晶解析では運動性の高い脂質は見えてこない。これ迄、結晶中の溶媒部分や膜蛋白質結晶中における界面活性剤のミセルの可視化のためには、中性子散乱によるコントラスト変調が用いられてきた。コントラスト変調法とは、結晶中の溶媒に高濃度の試薬を加え、回折強度に対する溶媒部分の寄与を変化させることにより、溶媒等の乱れた構造を決定する方法である。しかし、中性子線の強度はX線に比べてはるかに弱いため、得られている分解能は12 Aより悪く、蛋白質と脂質との相互作用を可視化するのは困難である。一方、X線でも重原子試薬を用いたコントラスト変調が試みられては来たが、蛋白質の概形を求めることに成功しているに過ぎない。

本研究では、筋小胞体Ca2+-ATPase結晶中の脂質二重膜を高分解能(3.2 A ~)で可視化するために、X線コントラスト変調法の新しい解析手法を開発した。Ca2+-ATPaseの結晶化に当たっては燐脂質の添加が必要であった。そのため結晶中では脂質二重膜が形成され、二次元結晶が多数重なった形の結晶が出来ていると考えられる。従って、Ca2+-ATPaseの三次元結晶は、X線結晶解析によって蛋白質と脂質二重膜の関係を詳細に検討できる非常にユニークな機会を与えている。さらに、Ca2+-ATPaseは反応の途中で非常に大きな構造変化を起こし、幾つかの膜貫通へリックスの運動は脂質二重膜に垂直な成分をも持つ。それに従って、脂質はどのように動くのかを可視化したい。

(1) 結晶化と回折データの収集

この目的のために、Ca2+-ATPaseの反応サイクル中の4つの基本中間状態、すなわちE1・2Ca2+(Ca2+結合状態)、E1~P・ADP・2Ca2+(閉塞状態)、E2~P(Ca2+放出後燐酸結合状態)、E2(Ca2+非結合状態)に相当する結晶に関しコントラスト変調法を試みた。溶媒の電子密度を上げる試薬としては、金グルコース、Nycodenz、蔗糖を試した。そのうちNycodenzが、結晶に対するダメージが最も小さく、濃度を最高80%(w/v)まで上げることが可能であった。これは0.351 e-/A3から0.455 e-/A3までの溶媒の電子密度の変化に対応する(蛋白質の平均電子密度は0.420 e-/A3である)。分解能200 A ~ 3.2 Aまでのすべての回折点の強度を測定し、スケーリングを行った。

(2) 1次元単純モデルの導入

コントラスト変調による回折振幅の変化から、図1の青字の部分、蛋白質+脂質二重膜の振幅|Fprotein+lipid|、溶媒の振幅|Fsolvent |とFprotein+lipidとFsolventの位相差Δθisoは求まるが(図1の青色の部分)、観測値と直接比較できるFtotalの位相は求まらない。そのため、初期位相をモデルから作る必要がある。

通常のX線結晶解析では、蛋白質以外の領域はすべて一様な電子密度で満たされているとするフラットモデルが用いられる。しかし膜蛋白質結晶の場合、このモデルは明らかに不適当であり、実験データの振幅とモデルの構造因子の振幅との不一致度を示すRは低分解能領域で著しく大きくなる。そこで、脂質二重膜に垂直な方向のみ電子密度が変化するモデル(一次元単純モデル、図2)を作成した。このモデルを用いてFtotalを計算したところ低角のRは著しく改善された。

(3) 溶媒置換率の導入

結晶中の電子密度ρtotal(x,y,z ;ξ)(ξはNycodenz濃度)は、図3に示すように各点の溶媒置換率Pex(x,y,z)に応じて溶媒の平均電子密度<ρsolvent>(ξ)に対して直線的に変化すると考えられる。そのためρtotal(x,y,z ;ξ)は、Pex(x,y,z)を用いて式(1)の様に表すことが出来る。

各Nycodenz濃度における電子密度分布ρtotal(x,y,z ;ξ)を溶媒の平均電子密度<ρsolvent>(ξ)をパラメータとする連立方程式(式1)を最小二乗法で解きPex(x,y,z)を求めた。次に蛋白質領域ではPex(x,y,z)=0、溶媒領域ではPex(x,y,z)=1とする修正(平滑化)を行った。

(4) 脂質二重膜の電子密度ρlipid(x,y,z)を得る手順

(3)で得たPex(x,y,z)を用い、脂質二重膜+蛋白質のモデルρprotein+lipid(x,y,z)を、Nycodenz 0%のマップρtotal(x,y,z ;0)から、溶媒の電子密度分布<ρsolvent>(0)Pex(x,y,z)を引き算することにより得た(図4上)。また、脂質二重膜の電子密度ρlipid(x,y,z)は、ρprotein+lipid(x,y,z)から蛋白質の電子密度分布ρprotein(x,y,z)を引き算することにより得た(図4下)。ρprotein+lipid(x,y,z)の蛋白質のファンデルワールス半径内の電子密度分布を蛋白質の原子モデルから得られる電子密度分布に置換を行った。(3)で得られた溶媒のモデル<ρsolvent>(ξ)Pex(x,y,z)と脂質二重膜+蛋白質のモデルρprotein+lipid(x,y,z)を用いて再度ρtotal (x,y,z ;ξ)を計算し(3)にもどる反復を行い、Pex(x,y,z)の精密化を行った。

(5) 結果

得られた溶媒と脂質二重膜のモデルを検証するためにRとRcullisを計算した。Rcullisは、実験データとモデルから計算される異常分散効果の不一致度を示し、位相の確からしさの指標となり、Rとは独立した量である。両値とも精密化の循環数が増えるにつれて顕著に改善しており、得られた構造は確からしいことが分かった。その結果、図6に示すように脂質二重膜は、蛋白質の動きと共に構造が変化することが明らかになった。さらに、溶媒置換率のマップ(図7)から、Nycodenz分子はE1・2Ca2+結晶では膜貫通領域に結合したCa2+のごく近傍まで接近できるが、E2結晶では、細胞質側と内腔側どちらからも膜貫通領域に入り込めないことが明らかになった。

(6) まとめ

コントラスト変調法に溶媒置換率という概念を導入し、制限を課すことによって膜蛋白質結晶中の脂質二重膜の可視化に成功した。脂質二重膜は、蛋白質と連動して動く動的なものであることも明らかになった。また、この方法は、solvent accesibilityの直接的な測定手法を提供するので、膜蛋白質の構造研究に大いに役立つと考えられる。

図1 コントラスト変調の概略

図2 フラットモデル(左)と1次元単純モデル(右)。

図3 蛋白質結晶中における溶媒置換率の分布

図4 溶媒置換率Pex(x,y,z)を用いて、脂質二重膜の電子密度ρlipid(x,y,z)を得る手順。E2・AlF4-(E2~P相当)結晶構造の一断面の電子密度分布。横軸、縦軸の単位A。

図5 溶媒と脂質二重膜の精密化過程におけるR(左)とNycodenz 70%の回折振幅を用いて求められたRcullis(右)の変遷(E2・AlF4-)。

図6 E1・2Ca2+(左)とE2(右)の 脂質二重膜の電子密度マップ青 1.7 σ 赤 2.2 σ

図7 E1・2Ca2+(左)とE2 (右)の溶媒置換率のマップ

審査要旨 要旨を表示する

本学位論文はコントラスト変調法を用いた筋小胞体Ca2+-ATPase結晶中の脂質二重膜の可視化に関する研究について述べたものである。

燐脂質は多くの場合に膜蛋白質のフォールディングや機能の発現に必須である。しかし、構造の柔軟性の為に、蛋白質と直接相互作用している脂質分子が可視化された例は少ない。

本論文は、申請者が開発したX線コントラスト変調の新しい解析方法と、その応用例としてのCa2+・ATPase結晶中の脂質二重膜の可視化・構造変化について記述したものである。

本論文は5章から構成される。

第1章は序論であり、第2章は結晶化とデータ測定に関する記述である。第3章は方法であり、本研究で用いたコントラスト変調法の原理と解析手法を記述している。第1節では、コントラスト変調法の原理について述べている。第2節では、コントラスト変調剤濃度が異なる回折データのスケーリングとスケーリング時のパラメーターである溶媒の電子密度の精密化の手法を述べている。第3節では、膜に垂直な方向のみ電子密度が変化する1次元単純モデルから初期位相を得る手順と溶媒と脂質二重膜の初期モデルの構築について述べている。第4節では、溶媒と脂質二重膜のモデルの精密化方法について述べている。

第4章は本研究で得られた結果と考察の記述である。得られた溶媒と脂質二重膜のモデルを検証するためにRとRcullisを計算した。両値とも精密化の循環数が増えるにつれて顕著に改善しており、得られた構造は確からしいことを示した。Ca2+・ATPaseの4つの中間状態の結晶中における脂質二重膜の構造を明らかにし、その構造から脂質二重膜は蛋白質の膜貫通ヘリックスの動きと共に変化することを示した。脂質二重膜とLys、Arg、Trpとの位置関係は、今までの知見からの予想とよく一致していることが分かり、これらのアミノ酸残基と脂質二重膜の相互作用が脂質二重膜の構造の変化に重要な役割を持つことを直接的に示した。E2状態の結晶では両親媒性へリックスM1´の下には、燐脂質頭部に相当する強い電子密度のピークは存在しなかった。すなわちE1からE2に移行する過程でM1へリックスが折れ曲がっても、燐脂質のヘッドグループは脂質二重膜の中心に押しこまれるのではなく横に移動することを示した。溶媒置換率のマップから、コントラスト変調に用いた化合物(Nycodenz)は、E1・2Ca2+結晶では膜貫通領域に結合したCa2+のごく近傍まで接近できるが、E2結晶では細胞質側と内腔側どちらからも膜貫通領域に入り込めないことを示した。

第5章では結論を述べている。

以上、申請者はコントラスト変調法に溶媒置換率という概念を導入し、制限を課すことによって膜蛋白質結晶中の脂質二重膜の可視化に成功した。この結果、脂質二重膜は蛋白質と連動して動く動的なものであることも明らかにした。この方法は、solvent accesibilityの直接的な測定手法を提供するため、膜蛋白質の構造研究に大いに役立つと考えられる。以上の結果は、膜蛋白質と脂質二重膜との相互作用の理解に大きな進歩をもたらす知見であると判断される。

なお、本論文は、杖田淳子、豊島近との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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