学位論文要旨



No 125569
著者(漢字) 服部,恒一
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,コウイチ
標題(和) 中間子雲越しに見る相対論的重イオン衝突実験におけるHBT干渉像
標題(洋) Distortion of the HBT images probed through meson clouds in ultra-relativistic heavy ion collisions
報告番号 125569
報告番号 甲25569
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5477号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 森松,治
 東京大学 教授 大塚,孝治
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 教授 櫻井,博儀
 東京大学 講師 小沢,恭一郎
内容要旨 要旨を表示する

強い相互作用にまつわるダイナミクスは、グルーオンを媒介粒子とする量子色力学(Quantum chromodynamics: QCD) によって記述される。色電荷を持つクォークやグルーオンは非摂動的な相互作用によってハドロン中に閉じ込められているが、非可換ゲージ理論であるQCD の特徴の一つとして知られる漸近的自由性によって、この相互作用は高エネルギー極限で徐々に弱くなる。この性質により、温度とバリオン化学ポテンシャル(或いはバリオン数密度) で指定されるQCD の相図上には、グルーオンが媒介する力によってクォークが単体では存在できないハドロン相の他に、これらが解離して存在する高温高密度のクォーク・グルーオンプラズマ(QGP) 相の存在が考えられている。このプラズマ相を加速器実験で実現する事がRelativistic Heavy Ion Collider(RHIC) における高エネルギー重イオン衝突実験の目的で、2000 年からデータの蓄積が行われている。衝突実験によって生成される物質が放出するハドロンの分布から、各相におけるQCD の基本的な性質や相転移現象を探るためには、生成物質のダイナミクスを理解することが必要である。しかし、下に述べる同種中間子の運動量分布に現れる2粒子相関については、理論計算と実験値の差異が問題になっており、十分な理解に至っていない。本博士論文では通常の理論計算では取り入れられていないダイナミクスの効果の一つとして、終状態の粒子源近傍に生じる平均場を通した相互作用が2粒子相関にもたらす影響を解析した[1]。

実験で生成される高温高密度の物質は、衝突直後に熱化されたプラズマを形成し、周囲の真空との圧力差により集団的な膨張を始める。その後膨張による冷却でエネルギー密度の小さなハドロン相に至り、その時間発展の終状態では多数のハドロンを放出する粒子源になる。この集団的な膨張課程を記述する(完全) 流体モデルよる数値シミュレーションは、中心衝突時の1粒子運動量分布に加え、非中心衝突時の楕円型の粒子源から放出されるハドロンの運動量分布における異方性(楕円流) を良く説明することが知られている。しかし、以下に説明する2粒子相関の計算に関しては実験との差異があり、「RHIC HBTパズル」と呼ばれる問題になっている。

衝突実験によって生成される粒子源のサイズを推定する手法として、Hanbury Brown -Twiss(HBT) 干渉法がある。この手法は粒子源が終状態に放出するハドロン、特に荷電パイオン、の運動量分布の2粒子相関に現れる干渉効果を利用するもので、衝突実験において従来から用いられてきた手法である。粒子源から放出された2粒子を同時に運動量k1, k2で観測する確率P2(k1, k2) は、2つの地点x1, x2 から検出器に至る確率振幅Φ(x1, x2; k1, k2)で表すことができるが、同種のパイオンを観測する場合には、この確率振幅の対称化によって2粒子に相関が生じる。粒子源上のすべての地点からの寄与を取り入れるために、粒子源分布ρ(x) を重みとしたx1, x2 に関する積分が生じるため、確率P2(k1, k2) と分布ρ(x) の関係が得られる。実験ではこの相関を測定することで、粒子源の分布ρ(x) を推定する解析が行われているが、理論計算ではこの実験結果を良く再現できていない。

この問題の解決に向けて、通常の理論計算には取り入れられていない終状態相互作用の一つである、平均場との相互作用によるHBT 干渉像の見かけの変化を調べた。freeze-out直後の粒子源近傍には非常に多くの粒子が存在するため、それら全体が作り出す一体場との相互作用の効果が運動量分布に現れると考えられる。この効果を粒子源近傍につくられる一体の平均場ポテンシャルによる確率振幅の歪みの効果として記述し、これが1 粒子/2 粒子運動量分布に及ぼす効果を調べた。ポテンシャルの実部による位相シフトの効果と共に、ポテンシャルの虚部によって振幅の減衰の効果を記述し、粒子源による放出粒子の再吸収の効果も取り入れた。

これらの効果がいかに見かけの像に現れるかを調べるために、HBT 干渉法の基本的な定式化を見直し、密度行列を用いた一般的な枠組みを整備した。この過程で通常の定式化で用いられている近似を明らかにし、そのうちの一つであるfreeze-out 後の自由伝播の仮定に対して、一体の平均場ポテンシャルが与える効果を取り入れた。1 粒子/2 粒子運動量分布は、大きく分けて粒子源分布の情報を与える密度行列と、観測地点までの伝播の情報を与える確率振幅で書かれる。したがって、HBT 干渉法における平均場の効果は、この確率振幅の位相シフトと減衰として現れ、粒子源分布と運動量分布を繋ぐ関係に変化を与える。そこで、平均場による確率振幅の歪みを準古典近似のもとで計算し、これが1 粒子運動量分布と粒子源分布の見かけの変形に与える影響を評価した。本研究を通して、入射ビーム方向へのLorentz ブーストに対して不変なシリンダー型の粒子源を仮定し、その軸に垂直な横平面上において等方的なGauss 分布に従う粒子源像が如何に見かけの歪みを生じるかを調べた。横平面における2 次元の座標系は、2 粒子の平均運動量の方向とそれに直交する方向に取り、これらの向きはそれぞれoutward とsideward と呼ばれている。

まず平均場による効果の定性的な性質を明らかにするために、静的なポテンシャルのモデルを用いて、斥力と引力の場合にどのような違いが現れるかを調べた。期待されるように、1 粒子運動量分布には平均場との相互作用によって分布のシフトが起こることが導かれた。斥力と引力の場合では、対照的にそれぞれ高運動量側と低運動量側へのシフトが確認できた。

粒子源像に対しては見かけの歪みの効果が得られ、この場合も平均場の効果は斥力と引力のそれぞれに対して対照的に現れた。斥力の平均場はoutward への見かけの広がりを引き伸ばし、sideward への見かけの広がりを縮める効果として現れる事がわかった。一方、引力の平均場はoutward への広がりを縮め、sideward への広がりを引き伸ばす効果がある。これらの効果によって、斥力では見かけの上でoutward の方向に長い像が現れ、対照的に引力ではsideward の方向に長くなる。一方で、ポテンシャルの虚部による再吸収の効果は、粒子源の検出器から遠い側で放出された粒子の寄与を抑制し、近い側の表面からの寄与だけを取り出すため、outward への広がりを縮めてsideward の方向に長い像を生じる。この効果は斥力によって生じる見かけの異方性を抑制し、逆に引力の場合の歪みの傾向を強めることがわかった。また、平均場が運動量依存性を持たない場合には、これらの効果は2粒子の平均運動量が小さい程強く現れ、300MeV 程度以下で顕著に確認できた。

上述の解析では、実部と虚部共に現実的な強さのポテンシャルで、粒子源像に顕著な見かけの変化が現れることがわかった。しかし、平均場は粒子源の膨張による希薄化によって時間変化しており、次第に消失していくため、このダイナミカルな効果を取り入れたモデルで解析を行う必要がある。また、平均場が斥力であるか、或いは引力であるかを明らかにする必要がある。

そこで、時間変化する粒子源分布とパイオンの2 体前方散乱振幅から自己エネルギーを計算し、媒質中での質量の変化として平均場相互作用の効果を取り入れた。粒子源分布の時間変化については、freeze-out 後の粒子の自由伝播を仮定し、Gauss 型の空間分布を持つ粒子源から温度分布で放出された粒子が拡がっていく過程の分布を用いた。前方散乱振幅はs 波とp 波での弾性散乱に対する解析結果を適用した[2]。s 波ではアイソスピンI = 0 チャンネルでの斥力がI = 2 チャンネルでの引力に勝って弱い斥力であるが、p波のより強い引力の寄与によって、全体では引力の平均場が得られた。また、光学定理によって示されるように、p 波散乱におけるρ 中間子の共鳴に対応して散乱振幅の虚部にもピークが存在し、これを主たる寄与として平均場に吸収の効果が備わる。

この平均場のモデルを用いて像の見かけの変化を調べた。平均場が時間の経過と共に消失していくことで、その効果は静的な場合より弱くなるが、上述のように引力の平均場によってsideward への広がりが引き伸ばされる結果を得た。また、吸収の効果はこの変化をより大きくし、引力の効果と合わせて元のsideward への広がりを20%程度増加されることがわかった。流体モデル等による理論計算がsideward への広がりを実験値より小さく評価するという問題に対して、この効果は考慮するに値する大きさの改善を与えると言える。しかし、実験値と実際に比較するためには、より詳細にfreeze-out のダイナミクスを解明する必要がある。

[1]K. Hattor, T. Matsui, Prog. Theor. Phys. 122 (2009) 1301-1310"Distortion of the HBT images by the meson clouds"[2]G. Colangelo, J. Gasser, H. Leutwyler, Nucl. Phys. B 603 (2001) 125"Pi pi scattering"
審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章と補遺A、B、Cからなる。

第1章は、イントロダクションであり、研究の背景と目的について述べられている。高温・高密度で実現されると予想されるクォーク・グルオンプラズマを生成し、その性質を探ろうとする実験がアメリカブルックヘブン国立研究所のRHICと呼ばれる重イオン衝突型加速器を用いて行われている。衝突実験によって生成される粒子源の大きさを推定する方法として、同種粒子の2粒子相関に現れる干渉効果を利用するHanbury Brown-Twiss(HBT) 干渉法がある。流体模型によるシミュレーションは、中心衝突時の1粒子分布に加え、非中心衝突における楕円型粒子源から放出されるハドロンの運動量分布における異方性(楕円流)をよく説明することが知られている。しかし、2粒子相関を説明することができない。これをRHIC HBTパズルと言う。本論文の目的は、このRHIC HBTパズルの理論的な解明である。

第2章では、平均場相互作用による2粒子相関のゆがみが議論されている。まず、密度行列を用いて、HBT干渉法が再定式化され、通常の定式化においてどのような仮定がなされているかが吟味されている。特に、粒子源から放出された粒子が自由に伝搬することが仮定されていることが指摘されている。次に、通常の定式化においては取り入れられていない効果の一つとして、終状態相互作用の作る平均場の効果について考察がなされている。1粒子及び2粒子分布は、粒子源分布の情報を与える密度行列と観測地点までの情報を与える確率振幅で書かれる。HBT干渉法における平均場の効果は、この確率振幅の位相差と減衰として現れることが指摘されている。

第3章では、ρ中間子に対する動的な平均場の現象論的模型が構築されている。粒子源分布の時間変化については、freeze-out後に粒子が自由伝搬するとして、Gauss型の空間分布を持つ粒子源から温度によって定まる分布に従って放出された粒子が拡がっていくと仮定されている。また、2体のππ弾性散乱が終状態における平均場を作るとして、s波とp波のππ前方散乱振幅が取り入れられている。s波の寄与は弱い斥力であるが、p波ではρ中間子共鳴の寄与による強い引力により、全体では平均場は引力となること、また、ρ中間子共鳴の効果は、平均場に吸収としても現れることが示されている。

第4章では、平均場によって見かけ上の粒子源の像が実際にどのようにゆがめられるかが考察されている。まず、静的なポテンシャルの模型を用いて平均場による効果の定性的な性質が調べられている。平均場が引力の場合、outward方向へ縮め、sideward方向へ伸ばす効果があるのに対して、斥力の場合は逆の効果となることが指摘されている。また、吸収の効果は引力と同様な効果となることも指摘されている。次に、第3章で構築した動的な模型を用いて平均場の効果が調べられている。平均場が時間の経過とともに消失することで、効果は静的な場合より弱くなるが、引力の平均場によってsideward方向へ伸ばされる結果が得られた。また、吸収の効果が、この変化をより大きくし、合わせてsideward方向へ20%程度伸ばすと結論されている。この結果は、流体模型によるシミュレーションがsideward方向への広がりを実験値より過小評価する問題に対して、有意な改善を与える。

第5章では、本論文のまとめと将来への展望が述べられている。本論文で指摘した終状態相互作用の効果を取り入れた包括的な理論的枠組みを構築し、実際にfreeze-outの過程に適用することが重要な課題である。

補遺Aでは、光学におけるHBT干渉法の歴史と原理が概観されている。次に、補遺Bでは、HBT干渉法の衝突実験への応用が説明されている。補遺Cでは、ブースト不変な1次元の膨張に関する表式がまとめられている。

本論文において考察されている終状態相互作用による見かけ上の像の変化は、先行研究において既に指摘されているが、そこでは、古典的な粒子の軌道の変化による見かけ上の像の変化が議論されているのに対して、本論文においては、量子論的な位相のずれと減衰が本質的であることを指摘したことが新しい点である。また、本論文は定性的だけでなく定量的にもRHIC HBTパズルの解決に向けて一つの方向性を示した点に意義を認める。

なお、本論文の内容は、松井哲男との共同研究に基づいているが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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