学位論文要旨



No 125576
著者(漢字) 福井,愛
著者(英字)
著者(カナ) フクイ,アイ
標題(和) 遺伝子発現制御を介したシナプス形成過程におけるLolaの機能解析
標題(洋) Functional analysis of Lola which controls synapse formation by transcriptional regulation
報告番号 125576
報告番号 甲25576
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5484号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 樋口,秀男
 東京大学 教授 宮下,保司
内容要旨 要旨を表示する

我々の行動は、脳・神経系によって制御されている。脳・神経系は、構成要素である神経細胞が、適切な細胞との間にシナプス構造を形成して結合し合った神経ネットワークである。神経ネットワークが正しく機能するためには、シナプス構造が適切に形成される必要があり、その形成メカニズムを明らかにすることは、脳・神経系の機能を理解する上で非常に重要な課題である。本論文では、ショウジョウバエの神経筋結合系を用いて、シナプス形成過程の解析を行なった。

シナプス形成は、神経細胞がシナプスを作るべき細胞(標的細胞)に向かって軸索を伸長し、数ある細胞の中から標的細胞を認識した後に開始される過程である。シナプスは神経細胞が情報伝達を行なう場所であり、シナプス伝達に必要な様々なタンパク質(シナプス機能分子)が多数局在した特殊な構造をしている。このシナプス構造が正確に構築されるためには、シナプス前細胞である神経細胞と、シナプス後細胞である標的細胞とが相互作用を行ない、互いに分化を誘導することが必要であることが分かっている。このシナプス分化の過程には、大きく分けて2つのプロセスが関与すると考えられている。ひとつは、シナプス機能分子のシナプス部への集積が誘導されるプロセスであり、もうひとつは、核における遺伝子発現制御を介したプロセスである。シナプス構造は、発生初期に形成された後、徐々にその形態・機能を成熟させながら、成体に至るまで長期的に維持される。このようにシナプス形成が長期間にわたって持続し、その構造が維持されるためには、後者のプロセスである遺伝子の発現制御と、それに伴う、新たなタンパク質の合成が非常に重要であると考えられている。

遺伝子発現制御を介したプロセスがシナプス構造の形成・維持に重要であることは、長期的なシナプス構造の変化をもたらすシナプス可塑性についての研究からも明らかになっている。シナプス可塑性とは、成熟したシナプスが神経活動の強さに応じてシナプスの構造を変化させたり、伝達効率を変化させる現象である。これは、神経ネットワークの機能を変化させることから、我々の記憶や学習の基礎となる現象として着目されている現象である。このシナプスの可塑的変化には、短期的な変化と長期的に持続する変化がある。特に長期的な変化には、新たなシナプス構造が形成されることが知られており、そのためには、神経活動に応じて遺伝子発現が制御される必要がある事が分かっている。

このように、遺伝子の発現制御を介したシナプス分化のプロセスは、シナプス形成・維持において非常に重要なプロセスであると考えられる。しかしながら、シナプス構造が初期形成される過程において、どのような遺伝子が発現制御されているのかはほとんど明らかにされていない。哺乳類の神経筋結合シナプスを用いた研究によって、受容体などのごく少数のシナプス機能分子については、シナプス形成期に遺伝子発現が誘導される事が分かっている。しかし、大多数の遺伝子の挙動や、それらの遺伝子がシナプス形成を誘導するプログラムの全貌は明らかでない。

そこで本論文では、ショウジョウバエの神経筋結合シナプスを用いて、シナプス形成過程に関わる遺伝子プログラムを解明することを目的とした。特に、運動神経の支配によってシナプス後細胞(筋肉細胞)でシナプス形成が誘導される際に、どのような遺伝子が発現制御されるかを探索し、それらの遺伝子のシナプス形成における機能を解明することを目指した。先のゲノムプロジェクトの成果により、ショウジョウバエをはじめとするモデル生物のゲノム情報はすべて解読されている。そしてそれに伴って、細胞あるいは組織内での全遺伝子の発現量を一度に調べることが可能な、DNAマイクロアレイの技術が大きく進歩してきた。本論文ではこの技術を利用して、筋肉細胞における遺伝子発現パターンを、神経支配の前後、神経支配の有無で比較することにより、シナプス形成誘導に関わる遺伝子発現プログラムを探索することを計画した。ショウジョウバエの神経筋システムは、シナプス形成が時間軸に沿って定型的に進行し、その様子がすでに詳細に解析されている。また、筋肉細胞のみをマイクロピペットを用いて単離することが可能であるため、このように特定のシナプス形成期にあるシナプス後細胞を単離し、シナプス形成に伴う遺伝子発現変化を観察する事ができる。このマイクロアレイ解析の結果、シナプス形成期に神経支配によって発現制御される遺伝子を、約80個同定することに成功した。これらの遺伝子はシナプス形成に関与している可能性が高いと考えられる。しかしほとんどの遺伝子については、シナプス形成に関わる機能は調べられていなかったため、ショウジョウバエの豊富な遺伝子発現操作技術やトランスジェニック動物の系統を用いて、シナプス形成における分子機能の解析を行なった。その結果、少なくとも2遺伝子が、神経終末の形態を制御する働きを持つ事を新たに示した。さらに大きな発見として、転写因子Lola(Longitudinalslacking)が、神経伝達物質受容体であるグルタミン酸受容体のシナプス部の発現量を制御する働きを持つ事が判明した。これまでにLolaは、神経細胞の軸索伸長の誘導に関与することが示されているが、シナプス機能分子を制御する機能は解析されていない。本論文では、Lolaのシナプス後細胞での機能に焦点をあてるために、筋肉細胞のみでlolaをノックダウンしてシナプス形態に与える影響を観察した。ショウジョウバエの神経筋シナプスには、5種類のグルタミン酸受容体サブユニット(GluRIIA,IIB,III(IIC),IID,IIE)が発現しており、その中の4種類が複合体を形成して2タイプの受容体((GluRllA,III,llD,IIE)、(GluRIIB,III,IID,IIE))を構成している事が分かっている。解析の結果、Lolaのノックダウン変異体では、2タイプのグルタミン酸受容体の各々に特異的なサブユニットであるGluRIIA,GluRIIB、および共通サブユニットであるGluRIIIのシナプス部の発現量が著しく減少することが分かった。またLolaは、受容体以外にも、シナプス後部に局在するシナプス機能分子PAKの発現にも必要であることが判明した。さらに解析を行なった結果、Lolaはこれらのグルタミン酸受容体およびシナプス機能分子について、その転写産物量を正に制御していることが明らかになった(図)。本論文の結果は、ショウジョウバエの神経筋結合系において、シナプス部に局在する機能分子の転写量を制御する分子を示した最初の例である。さらにLolaは同時に複数の分子の転写量を制御することから、シナプス構造の形成・維持において非常に重要な役割を果たしていると考えられる。本論文は、今後のシナプス形成あるいは可塑性における遺伝子プログラムの研究を進める上で、重要な知見を与えるものである。

審査要旨 要旨を表示する

この論文では、ショウジョウバエ神経筋シナプスに関して、(1)シナプス形成過程を誘導する遺伝子プログラムの網羅的探索、および(2)転写因子Lolaを中心とした遺伝子のシナプス形成における機能解析、について4章に分けて述べられている。

シナプス形成は、シナプス前細胞(神経細胞)とシナプス後細胞との細胞間相互作用によって進行する。特に、相互作用によって誘導される、遺伝子発現制御を介したシナプス分化のプロセスは、シナプス構造を長期的に維持するために重要なプロセスであると考えられている。本論文では、遺伝子発現制御を介したシナプス形成過程について、DNAマイクロアレイ技術と遺伝子発現操作技術を用いて解析している。

シナプス構造の形成は、分子のシナプス部への集積と、核における遺伝子の発現制御を介したプロセスで誘導されると考えられている。シナプス部への分子集積のメカニズムに関しては研究が進んでおり、細胞間接着分子などの複数の分子が関与するメカニズムが明らかになっている。一方、遺伝子発現制御を介したプロセスについては、シナプスの可塑的変化についての研究からも、その重要性が示唆されている。例えば、シナプス構造の変化が長期的に安定化するためには、遺伝子の発現誘導とそれに伴う新たなタンパク質の合成が必要であることが分かっている。しかしながら、シナプス構造が発生期に初期形成される過程で、どのような遺伝子発現制御を介したプロセスが働いているかに関しては、ほとんど明らかになっていない。

そこで本論文の前半では、DNAマイクロアレイ技術を用いて、シナプス形成過程に関わる遺伝子プログラムの網羅的探索を行なっている。特に、ショウジョウバエ胚体壁の筋肉細胞がマイクロピペットによって単離可能であるという利点を活かして、筋肉細胞内の全遺伝子の発現量について網羅的解析を行なった。筋肉細胞の遺伝子発現パターンを、神経支配の前後、神経支配の有無で比較することで、シナプス形成期に神経支配依存的に発現量が変化する候補遺伝子を約80個同定することに成功した。これらの遺伝子は、シナプス形成に伴って発現量が変化していることから、シナプス形成に関与している可能性が高いと考えられる。実際にこの遺伝子群の中には、神経筋シナプスで受容体のシナプス集積に関与している事が報告されている分子も含まれていた。しかし、大多数の遺伝子については、シナプス形成における機能は明らかになっていなかった。

そこで、本論文の後半では、ショウジョウバエの遺伝子発現操作技術や豊富なトランスジェニック系統を用いて、同定したこれらの遺伝子についてシナプス形成における機能を解析している。シナプス後細胞である筋肉細胞での遺伝子の発現量変化がシナプス形成に与える影響を検討するために、主に筋肉細胞内の遺伝子発現量を操作して分子機能の解析を行なった。37遺伝子を解析した結果、少なくとも2遺伝子が、神経終末の形態を制御する働きを持つことを示した。さらに大きな発見として、転写因子Lola(Longitudinals lacking)が、神経伝達物質受容体であるグルタミン酸受容体のシナプス部の発現量を制御する事が明らかになった。これまでにLolaは、神経細胞の軸索伸長過程に関与する事が報告されているが、シナプス機能分子を制御する機能は解析されていない。本論文では、筋肉細胞のみでLolaの機能をノックダウンしてシナプス形態に与える影響を詳しく観察している。その結果Lolaは、ショウジョウバエの筋肉細胞に発現する2タイプのグルタミン酸受容体((GluRIIA, III, IID, IIE)、(GluRIIB, III, IID, IIE))を構成するサブユニットGluRIIA、GluRIIB、GluRIIIのシナプス部発現量を、正に制御していることが明らかになった。またLolaは、受容体以外にもシナプス部に局在する機能分子PAKの発現量も制御している事が分かった。さらにリアルタイム定量PCRによって筋肉細胞内における遺伝子の転写産物量を測定したところ、Lolaはこれらの分子の発現量を転写レベルで正に制御していることが判明した。これはLolaが、同時に複数のシナプス機能分子の転写量を制御する事で、シナプス構造の形成・維持を調節する非常に重要な役割を果たしていることを示唆している。以上の結果は、ショウジョウバエ神経筋結合系において、シナプス機能分子の発現量を転写レベルで制御する因子を示した最初の例である。

上記の結果は、神経シナプス形成過程における遺伝子プログラムを理解するうえで重要な影響を与える研究結果であり、神経科学において重要な寄与をなすものである。

従って審査員一同、博士(理学)の学位を授与するのにふさわしい研究であると判断した。

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