学位論文要旨



No 125637
著者(漢字) 林,陽平
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ヨウヘイ
標題(和) ヒストン化学修飾システム及びその構造的基盤の理論的解析
標題(洋) Theoretical analysis of histone modification system and its structural basis
報告番号 125637
報告番号 甲25637
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5545号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒田,真也
 東京大学 教授 伊藤,隆司
 東京大学 教授 宮島,篤
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 准教授 堀越,正美
内容要旨 要旨を表示する

1.序文

真核細胞の増殖や死、あるいは分化や癌化といった細胞運命決定の中核を担うのは、細胞構成成分の合成過程、即ち遺伝子発現制御である。発生段階や細胞内外からの刺激により、「いつ」「どの遺伝子を」「どのように」制御するか、といった反応特異性は綿密にプログラムされているように見える。そのような「特異性決定のプログラム」は、遺伝子発現の主役であるDNA及びDNAとともに染色体の基本単位であるヌクレオソームを構成するピストン八量体(H2A,H2B,H3,H4各2分子ずつより成る)に対する化学修飾として書き込まれる。特にピストンに対する化学修飾は多種多様で、様々な核内反応を制御することから、真核生物の遺伝子発現制御の中核を担うとされてきた。1995年に初めて化学修飾の実行要素としてヒストンアセチル化酵素が単離されて以来、メチル化、リン酸化、ユビキチン化など多種多様な化学修飾の解析が隆盛を極め、クロマチンの構造・機能制御におけるピストン化学修飾の重要性が次々に明らかにされた。そして2000年、それらを総括する形で、特定のピストン化学修飾パターンに応じて下流反応(次の化学修飾やクロマチン因子認識の制御)の方向性が決定されるという「ヒストンコード仮説」が提唱された(図1)。

この仮説は遺伝子発現研究分野を広く覆い、化学修飾パターン形成のためにある化学修飾が他の化学修飾の制御に働くという、化学修飾同士の制御関係の解析が主流となった。化学修飾間の制御関係が次々と明らかになるに連れて、ある化学修飾が複数の化学修飾を制御する、また複数の化学修飾に制御される場合や、互いに互いを制御し合う場合などが見出され、次第にヒストン化学修飾システムの「複雑性」が認識されるようになった。しかし、ヒストン化学修飾研究はある問題点を抱えたまま進んでいた。多くの研究者はヒトやマウスを解析対象としたが、これらの生物種では数十に亘るヒストン遺伝子が存在し、ピストン側への変異導入が極めて難しい。そのため、化学修飾酵素側の変異体を用いて解析が行われたが、化学修飾酵素の変異は当然ながらヒストン以外の基質にも影響を及ぼすため、個々のヒストン化学修飾の機能的意義は結局分からずのままであった(図2上段)。

一方、各ピストン遺伝子が2つずつしかない出芽酵母を用いた研究からは、驚くべき結果が得られていた。ピストン化学修飾のほとんどは、N末端側の、定まった立体構造をとらないテイル領域に集中している。しかし、どのヒストンサブユニットのテイル領域を一つ欠損しても出芽酵母は生存可能であった。更に個々の化学修飾の機能的意義を解明するため、我々の研究室では、ヒストンのアミノ酸一つ一つをアラニンに置換した出芽酵母ピストン点変異体ライブラリーを用いて表現型解析を行った(図2下段)。その結果、特筆すべきことに、N末端テイル領域上にある被化学修飾残基で表現型を示したのは、22残基中わずか1残基のみであった。これらの結果は、ヒストン化学修飾システムが化学修飾残基の欠損に対して全体的な機能や構造を保持できる「頑強性」を持つことを示唆している。

「ヒストンコード仮説」を基盤とした一連の研究により明らかになってきたヒストン化学修飾システムの「複雑性」及び「頑強性」は、いずれも化学修飾パターンと下流反応の関係を1:1で捉えた「ヒストンコード仮説」では説明不可能である。これらの性質はシステム全体の内包する構造的特性により生じるため、ヒストン化学修飾システムの全体構造を基にこれらの性質を説明しうる、新たな、より大きな理論的枠組みの提案が必要とされた(図3)。

2.結果と考察

a)ヒストン"modification web"理論

そのような理論的枠組みを構築するため、ヒストン化学修飾システムの全体構造の、グラフ理論を基盤とした数理的・構造的解析に着手した。グラフ理論では、システムを点(ノード)とそれを繋ぐ線(エッジ)から成るネットワークとして捉える。そのため私は、既存の化学修飾間制御関係の知見を文献検索により統合し、ヒストン化学修飾をノード、その間の制御関係をエッジとしたヒストン化学修飾ネットワークを構築した(ヒストン"modification web"、図4)

ヒストン"modification web"の持つ特性を数理的に解析したところ、このネットワークは非常に高い「不均一性」を持つことが分かった。即ち、エッジを多数もつノードと少数しか持たないノードが共存していることが示唆された。また、次数分布(各ノードの持つエッジ数の確率分布〉の解析から、ピストン"modification web"が「スケールフリーネットワーク」という特徴的なネットワーク構造であることが分かった(図5上段)。このネットワーク構造は、エッジを多く持つ少数のノード(ハブ)とエッジの少ない多数のノードから成り、ハブ以外のノードの欠損に対して全体構造を保持できるという「頑強性」を持つ(図5下段)。これらの結果から、ピストン"modification web"の持つ「スケールフリー性」が、ピストン化学修飾システムの「頑強性」の基盤であることが示唆された。

b)"Signal router"理論

次に、「なぜヒストン化学修飾システムがスケールフリーネットワークという特徴的なネットワーク構造をとるのか」という問題提起が発せられる。ピストン"modification web"を構成するノードである化学修飾の多くは、ピストンのN末端テイル領域に集中して存在する。そのため、テイル領域は化学修飾を集積する重要な物質的基盤であると捉えられる。更に、N末端テイル領域に位置する化学修飾残基は、一残基を除いて全て点変異導入で表現型が変化しない「頑強性」が見られることから、テイル領域は頑強性の獲得にも重要な役割を果たすと予想された。

ヒストン"modiification web"の構成要素である化学修飾間制御関係(エッジ)の形成におけるN末端テイル領域の寄与を検証するため、テイル領域上のノードの位置とエッジの数との関連性を解析した。その結果、N末端からの距離と各ノードの持つエッジの数は逆の相関性があることが分かった。即ち、N末端近くに位置するノード程多くのエッジを持つ傾向が見られた(図6左上段)。テイル領域は定まった立体構造をとらないため、末端に近づく程可動性が高い。そのため、末端に近いノードは、より多くのヒストン化学修飾残基とエッジを形成するのに適切な距離に位置できるチャンスが増えると考えられる。このような「テイル領域の末端から根元にかけて生じるエッジ数の偏り」は、ネットワークの不均一性を増大させ、ハブを発生させる要因となっていると考えられる。

また、テイル領域の持つ柔軟性は、ノードやエッジを形成するために必要な多種多様な化学修飾酵素や認識因子との相互作用において重要な役割を果たすことも見出した(図6右上段)。これらを統合すると、テイル領域のような定まった立体構造をとらない領域(不規則領域)の持つ高い可動性及び柔軟性が、化学修飾の密集領域の形成及び、ノード間の不均一性の獲得を可能にしていると予想された。そして、不規則領域が、化学修飾ネットワークの形成を通して情報の受容・集積及び処理を担うという"Signal router"理論を提唱した(図6下段)。

3.結論と展望

ヒストン"modification web"理論の提唱により、「ヒストンコード仮説」で説明できなかったヒストン化学修飾システムの「複雑性」及び「頑強性」を説明しうる新たな理論的枠組みの提案に成功した。今後は、ピストン"modification web"理論を基にした、化学修飾の欠損を補填する代替経路の特定により実際に「頑強性」が発揮される仕組みに迫る。また、"Signal router"理論により、構成要素の物性に着目した生体システム形成の構造的基盤を初めて解明し得た。ヒストンテイル領域に代表されるような不規則領域は、真核細胞では実に全タンパク質の約3分の1を占めると予測されながら、長年その生理的意義は不明であった。"Signal router"理論はその生理的意義に関して提唱された初めての概念であり、他の不規則領域への拡張が期待される。

図1,ピストンの化学修飾パターンが下流反応を決定するというヒストンコード仮説

図2.ヒストンコード仮誰に苔つく実験の問題点。多くの実験が化学修飾酵素の機能欠損により検証された

図3.ヒストンコード仮説から、ピストン化学修飾ネットワークの構築へ

図4.ヒストン"modification web"

図5.スケールフリー性と頑強性

図6.不規則領域の生理的意義に関する"Signal router"理論

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、互いに関連は深いものの異なった視点に基づく2つの研究から構成されており、4章からなる。第1章はイントロダクション、第2章は1つ目の研究であるヒストン"modification web"理論の導出に至る解析の結果と考察、第3章はもう一つの研究"Signal router"理論の導出に至る解析の結果と考察、そして第4章は結論と展望である。

ヒストンに対する化学修飾は多種多様で、様々な核内反応を制御することから、真核生物の遺伝子発現制御の中核を担うとされてきた。その機能的役割に関しては、特定のピストン化学修飾パターンに応じて下流反応(次の化学修飾やクロマチン因子認識の制御)の方向性が決定されるという「ヒストンコード仮説」が2000年に提唱された。この仮説に基づき、化学修飾同士の制御関係の解析がここ10年隆盛を極めた。そして、化学修飾間の制御関係が次々に明らかになるに連れて、次第にその特徴が露になってきた。

一つは、数十にも上るヒストンの化学修飾が、互いに互いを制御し合う複雑な制御関係を築いているという「複雑性」である。もう一つは、ヒストン化学修飾の集中するN末端テイル領域の欠損や、N末端テイル領域上の個々の化学修飾残基の変異に対して、細胞増殖が影響を受けないという「頑強性」である。これらの性質、即ち「複雑性」及び「頑強性」は、いずれも化学修飾パターンと下流反応の関係を1:1で捉えた「ヒストンコード仮説」では説明不可能であった。これらの性質はシステム全体の内包する構造的特性により生じると考えられたため、ヒストン化学修飾システムの全体構造を基にこれらの性質を説明しうる、新たな理論的枠組みの提唱に着手した。

本論文では、そのような理論的枠組みを構築するため、グラフ理論を基盤としたヒストン化学修飾システムの数理的・構造的解析に着手した。既存の化学修飾間制御関係の知見を文献検索により統合し、ピストン化学修飾をノード(点〉、その間の制御関係をエッジ(線)としたピストン化学修飾ネットワークを構築した(ピストン"modiification web")。そして、ピストン"modiification we"が「スケールフリーネットワーク」という特徴的なネットワーク構造を有することを見出した。このネットワーク構造は、エッジを多く持つ少数のノード(ハブ)を持ち、ハブ以外のノードの欠損に対して全体構造を保持できるという「頑強性」を持つ。これらの結果から、ヒストン"modiification we"の持つ「スケールフリー性」が、ヒストン化学修飾システムの「頑強性」の基盤であることが示唆された。

次に、「なぜヒストン化学修飾システムがスケールフリーネットワーク構造をとるのか」という問題提起が発せられた。ヒストン"modification web"を構成するノードである化学修飾の多くは、ヒストンのN末端テイル領域に集中して存在する。そのため、テイル領域は化学修飾を集積する重要な物質的基盤であると捉えられる。そこで、N末端テイル領域の物質的特性とネットワークの構造的特性の関係性を検証した。その結果、N末端近くに位置する化学修飾(ノード)程多くの制御関係(エッジ)を持つ傾向を見出した。この結果から、末端に近づく程高いテイル領域の可動性が、「テイル領域の末端から根元にかけてのエッジ数の偏り」というネットワークの不均一性を生じ、ハブを発生させる要因となっていることが示唆された。また、テイル領域の持つ柔軟性は、ノードやエッジを形成するために必要な多種多様な化学修飾酵素や認識因子との相互作用において重要な役割を果たすことも見出した。これらを統合し、高い可動性及び柔軟性を持つ定まった立体構造をとらない領域(不規則領域)が、化学修飾ネットワークの形成を通して情報の受容・集積及び処理を担うという"Signal router'理論を提唱した。

ヒストン"modification web"理論の提唱により、「ヒストンコード仮説」で説明できなかったヒストン化学修飾システムの「複雑性」及び「頑強性」を説明しうる新たな理論的枠組みの提唱に成功した。この理論は、今後「ヒストンコード仮説」に代わる化学修飾研究の新たな指針となることが期待される。また、"Signal router"理論により、特徴的なネットワーク構造が形成、発展するための物質的基盤を世界で初めて明らかにした。ヒストンテイル領域に代表されるような不規則領域は、真核細胞では実に全タンパク質の約3分の1を占めると予測されながら、長年その生理的意義は不明であった。"Signal router"理論はその生理的意義に関して提唱された初めての概念でもあり、他の不規則領域への拡張が期待される。

なお、本論文第2章及び第3章は、産業総合技術研究所の千田俊哉主任研究員、東京大学大学院生であった佐野徳彦君、分子細胞生物学研究所の堀越正美准教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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