学位論文要旨



No 125647
著者(漢字) 金子,九美
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,クミ
標題(和) 脳領野選択的な遺伝子発現パターンに基づくミツバチ脳の新規構造の解析
標題(洋) Analysis of a novel honeybee brain structure based on brain region-preferential gene expression
報告番号 125647
報告番号 甲25647
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5555号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 塚谷,裕一
 東京大学 准教授 平良,眞規
 東京大学 准教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

ヒトの脳に見られる「視覚野」や「言語野」のように、動物の脳では多くの領野が機能を分担することで、感覚情報の統合や行動の制御が行われると考えられている。しかし、こうした脳領野が果たす機能の分子的基盤はほとんど不明である。近年、こうした脳の領域に対応して発現する遺伝子や、領域の一部に限局して発現する遺伝子が同定されてきた。これらの遺伝子の解析は、脳における情報処理の分子的基盤の理解や、新しい脳領野の発見に繋がると期待されるが、その研究は未だほとんど進んでいない。

セイヨウミツバチは高度な社会性をもつ昆虫であり、わずか数μl の小さな脳しかもたないにも関わらず、加齢に応じた分業や、記憶した花の位置を「8 の字ダンス」に変換して仲間に伝える等の高度な行動を示す。したがって、ミツバチは高次行動を制御する脳機能を調べる上で格好のモデルになると考えられる。ミツバチの脳は、キノコ体(高次中枢)・視葉(視覚中枢)・触角葉(嗅覚中枢)などの領野に区分けできる(図1)。私は、これらの領野で行われる情報処理の仕組みを理解するためには、各領野で限局した発現パターンを示す遺伝子を見出すことが重要ではないかと考え、研究に着手した。

ミツバチの網膜で受容された視覚情報は、視葉を経て一部がキノコ体に投射される(図1)。視葉は視葉板・視髄・視小葉からなる3 層構造をとり、各層では動きや色、形など異なる情報が処理される。一方キノコ体は、細胞体の大きさが異なる大型と小型のケニヨン細胞からなる2 層構造をとり(図5A)、様々な感覚情報が処理・統合される。私は、8 の字ダンスでは餌場の距離と方向という視覚情報がダンス軸の傾きとテンポに記号化され、伝達されることから、修士課程では視覚中枢である視葉に注目して解析を行った。ミツバチの脳で視葉選択的に発現する遺伝子を網羅的に検索し、その中から視葉の一部に限局して発現する遺伝子の同定を試みた結果、4 つの候補遺伝子を得た(図2)。博士課程では、これら遺伝子をより詳細に解析することで、視葉に加え、キノコ体においても、これまで解剖学的には見出されてこなかった新規な構造を同定した。

まず始めに、視葉の単極細胞選択的に発現することを見出していたクローン#1/futsch とtau の解析を行った。クローン#1 は、MAP (microtubule associated protein) ファミリーの1つであるFutsch ホモログをコードし、同じファミリーに属するTau ホモログとともに、視葉の単極細胞で強く発現する(図2A)。ショウジョウバエでは、これらの因子は発生過程において軸索伸長などの神経回路形成に関わるが、ミツバチでも同様の機能をもつか推測するために、神経発達が起きている蛹脳を用いて発現解析を行った。その結果、蛹の発生ステージに関わらずtau はキノコ体で分化直後(軸索を伸長する時期)のケニヨン細胞で強く発現していた(図3)。一方、futsch はキノコ体を除く蛹のほぼ全脳で発現していた。このことから、Tau とFutsch はミツバチでも発生過程で軸索の伸長や構造維持に関与する可能性が支持されたが、当初の予想とは異なり、蛹脳ではTau とFutsch が神経発達において領野毎に役割分担する可能性が考えられた。働き蜂の脳ではTau とFutsch が単極細胞に共発現することから、MAP ファミリーは単極細胞の細胞機能に重要であると推察される。

次に、視葉板-視髄の一部に限局して発現するクローン#2/mesk2 の解析を行った。クローン#2 は、RAS/MAPK 情報伝達系に関わるショウジョウバエのMESK2 (Misexpression Suppressor of dominant-negative KSR 2)ホモログをコードし、働き蜂の視葉板と視髄の間の細胞層で、腹側の一部の神経細胞に限局して発現することを、これまでに示している(図2B)。ミツバチの雄蜂は空中で交尾相手(女王蜂)を探すため、視葉が顕著に発達している。そこで、雄蜂脳でのmesk2 の発現パターンを調べたところ、視葉の大きさの違いにも関わらず、働き蜂と同様に視葉板と視随の間の、腹側の一部の神経細胞に限局して発現していた(図4)。したがってmesk2 発現細胞は、蜂の性別や役割によらない基本的な情報処理に関わる可能性がある。また、視葉の前後軸に添ってmesk2 発現細胞が分布することから、これらの細胞群は地上の視覚情報処理に関わる可能性が考えられた。

最後に視葉とキノコ体の一部で選択的に発現するクローン#3 の解析を行った。クローン#3 はアレスチンドメインを含む新規タンパク質をコードし、視葉全体とキノコ体の一部で発現することを、これまでに示している。蛍光in situ ハイブリダイゼーション法による解析の結果、視葉の外側(視葉板-視随)の層では発現細胞と非発現細胞が混在したが、内側(視随-視小葉)の層ではほぼ全ての神経細胞で発現していた(図2C)。従って、視葉の神経細胞はこの遺伝子の発現の有無により2 種類に区別されると考えられる。

一方、キノコ体では傘の内側で2 本の縦縞状に発現するという特異な発現パターンを示した(図2C)。従来、キノコ体は大型と小型の2 種類のケニヨン細胞から構成されると考えられており(図5A)、当研究室でも各々のケニヨン細胞に選択的に発現する遺伝子が同定されている。私は、クローン#3 の発現細胞を特定するため、二重蛍光in situ ハイブリダイゼーション法により、2 種の既知のキノコ体選択的な遺伝子とクローン#3 との発現比較を行なった。1 つはCaMKII(Ca2+/calmodulin-dependent protein kinase II, リン酸化酵素)で、大型ケニヨン細胞選択的に発現する(図5G)。もう1つはjhdk(juvenile hormone diolkinase, 幼若ホルモン代謝酵素)で、大型と小型の両方のケニヨン細胞で発現するが、その境界領域(従来は、大型ケニヨン細胞の一部と推定されていた)での発現が弱いことが報告されている(図6G)。

その結果、クローン#3 はCaMKII の発現領域の内側で発現したが、小型ケニヨン細胞では発現しておらず、クローン#3 の発現細胞は大型ケニヨン細胞ではないことが判明した(図5)。またクローン#3 はjhdk が発現しない大型と小型のケニヨン細胞の境界領域にjhdk と相補的に発現した(図6)。従って、クローン#3 は大型と小型のケニヨン細胞の境界領域に存在する、これまで未知の新規なケニヨン細胞(細胞体の大きさが大型と小型の中間であることから「中間型ケニヨン細胞」と命名した)選択的に発現することが判明した。さらに、視葉でもCaMKII とクローン#3 の発現細胞は重ならなかった(図7)。以上の結果は、ミツバチのキノコ体は、各々固有な遺伝子発現パターンをもつ3 種類のケニヨン細胞から構成されること、キノコ体と視葉の双方に遺伝子発現パターンに基づく「モジュール構造」が存在することが示唆された。クローン#3 は細胞内情報伝達に働くと考えられるタンパク質をコードすることから、この遺伝子産物が大型や小型のケニヨン細胞で発現する遺伝子の発現を抑制することで、キノコ体に中間型ケニヨン細胞が生じている可能性がある。また、キノコ体の中間型ケニヨン細胞と視葉の一部の神経細胞に共通してクローン#3 が発現することから、両者が構造・機能的に連絡している可能性も考えられる。なお、同様なCaMKIIの遺伝子発現パターンは近縁種であるマルハナバチでも観察されたことから、キノコ体の3層構造はハナバチ科の昆虫に共通した脳の構造である可能性が考えられた。

本研究は昆虫の脳において、遺伝子発現パターンに基づいた視葉の新しい区画や、キノコ体の中間型ケニヨン細胞、脳のモジュール構造を見出した初めての知見である。特にクローン#3 の発現パターンは、当研究室で初期応答遺伝子(kakusei)を用いて同定されていた、「採餌蜂で活動する脳領域」と重なる可能性があることから、採餌行動に関わる脳機能の解析につながる可能性もある。本研究で同定した遺伝子群は、今後の機能解析等を通して、採餌行動の分子・神経的基盤の解析や、脳のモザイク構造の成因の理解にもつながると期待している。

図1 ミツバチ脳(左半球)の模式図

網膜で受容された視覚情報は矢印のように視葉(赤)を経てキノコ体(青)に投射される。視葉は3層構造(視葉板・視髄・視小葉)、キノコ体は上向きの2つの傘の構造をもつ。

図2 クローン# 1 - 3の発現の模式図

クローン#1(A)、2(B)、3(C)の発現の模式図。発現部位を赤で示す。(A)視葉板の単極細胞選択的に発現する。(B)視葉の一部で強く発現する。(C)視葉の外側ではまばらに、内側ではほぼ全ての細胞に発現した。キノコ体では傘の内側で2本の縦縞状に発現した。

図3 t a u の蛹での解析

成虫で視葉板選択的に発現したtauは、蛹ではステージ(P1,2,4,5)に関わらず、キノコ体の増殖細胞の周囲の、分化直後と思われるケニヨン細胞で発現した。

図4 m e s k 2 の雄蜂での解析

(左)雄蜂の頭部の切片の模式図。(右)左の枠内の染色像。働き蜂と同様の発現パターンを示した。

図5 クローン# 3と、大型ケニヨン細胞選択的な遺伝子(C a M K I I)との比較

キノコ体の1つの傘当たりの発現の模式図(上段)と切片の写真(下段)。(A,E)DAPIによる核染色。傘の中央部の濃く染まった部分(青)が小型ケニヨン細胞、両側の薄く染まった部分が大型ケニヨン細胞。(B,F)クローン#3の「中間型ケニヨン細胞」(赤)での発現。(C,G)CaMKIIの大型ケニヨン細胞(緑)選択的な発現。(D,H)重ね合わせ。赤(中間型)は、青(小型)と緑(大型)の境界部に存在する。

図6 クローン# 3と、「両端と中央部」で発現する遺伝子との比較

図の見方は図5と同様で、(B, F)クローン#3、(C, G)JHDKの発現パターン。(D, H)重ね合わせ。赤(中間型)は、jhdkの発現領域(緑)と相補的である。

図7 視葉におけるクローン# 3 とC a M K I I 発現細胞の比較

(左)クローン#3の脳半球における発現の模式図。(右)左の枠内の染色像。クローン#3の発現細胞(赤矢尻で示す赤いシグナル)とCaMKIIの発現細胞(緑矢尻で示す緑のシグナル)、どちらも発現しない細胞(白矢尻で示す青いシグナル)が別々に存在する。青はDAPI染色。

審査要旨 要旨を表示する

動物の脳では複数の領野が機能を分担する(「脳機能局在論」)。こうした脳領域の機能の分子的基盤を調べる上では、各領野に限局して発現する遺伝子の同定が有用と考えられる。セイヨウミツバチは社会性昆虫であり、小さな脳しかもたないにも関わらず、分業や、餌場の位置を8の字ダンスを用いて仲間に伝える等の高次行動を示すことから、行動と脳機能の関連を調べる上で優れたモデルである。ミツバチの脳は、キノコ体(高次中枢)や視葉(視覚中枢)等の領野に区画できる。視葉は3 層構造をもち、キノコ体は大型と小型のケニヨン細胞からなる2 つのモジュール構造をもつ。論文提出者は、8 の字ダンスでは、餌場の距離と方向という視覚情報が、ダンスにより伝達されることから、修士課程では視葉の一部に選択的に発現する3 つの遺伝子を同定した。博士課程では、これら遺伝子のより詳細な解析を通じて、視葉とキノコ体の双方で、解剖学的には見出されてこなかった新規な構造を発見した。

本論文は2 章立てで構成されている。第一章では、MAP (microtubule associated protein) ファミリーのFutsch をコードし、同じファミリーに属するTau とともに、視葉の単極細胞で強く発現するクローン#1/futsch とtau の発生段階(蛹脳)での解析を行った。その結果、tau は蛹脳のキノコ体で軸索伸長期のケニヨン細胞で強く発現した。一方、futsch はキノコ体を除く蛹の脳で発現した。このことから、Tau とFutsch はミツバチでも発生過程で軸索の伸長に関与すると考えられたが、蛹では両者は領野毎に役割分担すると考えられた。働き蜂脳ではTau とFutsch が単極細胞で共発現することから、単極細胞では軸索の構造維持や改変が特に重要であると推察される。

クローン#2/MESK2 は、ショウジョウバエでRAS/MAPK 情報伝達系に関わるMESK2(Misexpression Suppressor of dominant-negative KSR 2)ホモログで、ミツバチでは視葉の中間層の腹側の一部の神経細胞に限局して発現する。MESK2 発現細胞が視葉の前後軸に添って分布することから、視葉の腹側に水平な神経細胞のゾーンが存在することを見出した。これらの細胞群は、地上からの視覚情報処理に関わる可能性が考えられた。

第二章では、アレスチンドメインを含む新規タンパク質をコードし、視葉全体とキノコ体の一部で発現するクローン#3 の解析を行った。その結果、視葉にはこの遺伝子の発現の有無で区別される2 種類の神経細胞が見出された。一方、キノコ体は従来、大型と小型の2 種類のケニヨン細胞から構成されると考えられており、当研究室では各々のケニヨン細胞選択的に発現する遺伝子が多数同定されている。二重蛍光in situハイブリダイゼーション法により、クローン#3と既知のキノコ体選択的遺伝子(2 種の大型ケニヨン細胞選択的遺伝子と、大型と小型のケニヨン細胞で発現し、その境界領域で発現しない2 種の遺伝子)の発現を比較した結果、クローン#3 は大型と小型のケニヨン細胞の境界領域に存在する、これまで未知の新規ケニヨン細胞(細胞体の大きさが中間であることから「中間型ケニヨン細胞」と命名)選択的に発現することが判明した。従って、ミツバチのキノコ体は、固有な遺伝子発現パターンをもつ3 種のケニヨン細胞からなるモジュール構造をもち、さらに視葉にも、同様な遺伝子発現プロフィルをもつモジュール構造が2存在することが示唆された。この構造は近縁種であるマルハナバチでも観察されたことから、社会性ハナバチに共通な脳構造である可能性がある。クローン#3 の発現は、当研究室で最初期遺伝子kakusei を用いて同定されていた、「採餌蜂で活動する脳領域」と重なると考えられることから、中間型ケニヨン細胞は採餌行動の際の情報処理に関わる可能性が考えられる。

本研究は昆虫脳において、遺伝子発現パターンに基づいた、キノコ体や視葉に共通な新規モジュール構造や、視葉内で水平方向のモジュール構造を見出した初めての例であり、神経科学や行動生物学の分野における独創的な研究である。今後、同定した遺伝子の機能解析を通じてミツバチ、ひいては動物一般の高次行動に関わる脳機能の分子的基盤や、モジュール構造の成因の理解に繋がると期待される。

なお、本論文の研究は堀沙耶香、森本舞、中岡貴義、Rajib K. Paul、藤幸知子、白井健一(以上、東京大学)、若本朋子(DNA チップリサーチ研究所)、竹内秀明、久保健雄(以上、東京大学)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験を計画し、遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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