学位論文要旨



No 125670
著者(漢字) ,千秋
著者(英字)
著者(カナ) スガサキ,チアキ
標題(和) 日本近代における建築装飾としての絵画に関する歴史的研究
標題(洋)
報告番号 125670
報告番号 甲25670
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7203号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村松,伸
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 木下,直之
内容要旨 要旨を表示する

明治中期から大正期にかけて、大規模な洋風建築あるいは洋風の室内に大画面の絵画や画家に下絵を描かせた壁掛織物を制作する例が存在した。その建築の多くが、駅や銀行、宮殿など近代に入り新たに導入された公共的用途を持つ。従ってこのような絵画は、単なる装飾ではなく、建物の新しい用途や所有者の新たな役割を、その空間の受容者に対して、視覚的に表明する、空間に社会的な意味を与える装置であると言うことができる。その仮説のもと、本論文は、日本近代における建築内を装飾した絵画に注目し、それを建築装飾として捉え、建物全体の装飾計画のなかで、その意味や機能を歴史的に考察することを目的とする。

本論文は、序論(第1章)と結論(第6章)を含め、計6章からなる。

建築と絵画は、前近代より協働しているといえ、第2章(前近代における建築と絵画)では、主に江戸期の建築と絵画の様相を概観した。具体的には、朝廷と幕府という二重の権力構造を示す建物である京都御所と江戸城を取り上げて論じた。それらの絵画は基本的に、内部空間の「公」と「私」の性格の差異が、その空間に設置される障子絵の「唐絵」と「和絵」の差異によって、視覚的に表明されており、建物やその用途とそこに描かれる絵画は密接に連動していたことがわかった。

この章は、後の第4・5章で述べる明治期の支配者層の住宅である天皇と皇太子の住まいへの継承と革新を示すための前提ともなっている。

第3章(日本近代における建築と装飾、絵画)では、日本近代における建築と装飾、絵画をめぐる思想的な背景を探った。現在使われている室内に関する用語の多くが、明治期に訳出され流通した。同じ頃、建築家や美術家は建築を装飾することに関心を寄せていた。

1880-90年代、雑誌等に見られる建築装飾を「日本美術再興」の手段として捉える態度は、建築家と美術家に共通していた。それらを語る際に、装飾の対象として捉えられていたのは、往々にして当時工事中の明治宮殿であり、実際にその思想は同建築において実現された。

1900-10年代、「国家を飾る」洋風建築の造営事業とともに、装飾への関心も高まり、装飾の基礎ともいうべき雑誌記事が多く見られた。タブローにおいても、装飾画風の作品が多く描かれ、その隠れた制作の動機が建築装飾、とりわけ東宮御所を装飾することにあったという指摘もあるほど、美術家たちは建築装飾を望んでいた。その表現に関して、単なる西洋の模倣ではなく、たとえ西洋由来の技法でも、日本独自の表現をと向上に努めたのもこの時期の特徴である。しかし、1910年代後半以降、時代が機能主義的建築を求める傾向になると、装飾と距離をおく建築家が多くなった一方で、美術家は建築装飾に関わることをのぞみつづけ、袂を分かつことになった。

建築装飾に対する強い関心がうかがえた明治期、そのための教育にも同様に力が注がれた。特に、コンドルの学生への講義録には、建物や部屋の用途にあった装飾や絵画、彫刻、そして内部構成を求め、それらを監督指揮するのも建築家の役割であるというコンドルの装飾観が提示されており、それが辰野金吾らに継承された様子をうかがうことができた。

以上の分析から、建築家と美術家の双方が建築装飾に多くの関心を向けていた、1910年代半ばごろまで、建築家指揮の下、おそらく互いの立場を尊重しあいながら話し合いを重ね、建築装飾の計画から実現へとつながっていったのではないかと考えられる。さらに、その建物を装飾する際、建築家と美術家ともに装飾する建物の用途に従った「相応しさ」という社会性を理解した見解を当時の雑誌記事等で提示していた。

第4章(明治期における天皇の住まい)以降具体的な建物の分析を行った。第4章では、明治期における天皇の住まいであった明治宮殿を取り上げ、この建物と補完関係にあるともいえる東宮御所について続く第5章(明治期における皇太子の住まい)で論じた。以下、両章で明らかにしたことを比較しながらまとめることとする。

明治宮殿と東宮御所は、外観の様式において和風と洋風という対照的な建築として捉えられてきた。その理由として、明治宮殿が紆余曲折をへて和風意匠で建設され、外国人をもてなす迎賓施設として不都合であったため、東宮御所を洋風で建設し、外国人との接伴に充てることとした、という背景が一般的である。その用途の差異は両建物の装飾計画にも反映されていた。

明治宮殿においては、天平文化や書院造といった過去の権力者たちの装飾法が用いられ、王権表象や古代文化に範を求めた吉祥文様が特徴的であった。この明治宮殿の装飾は、前近代では共存することのなかった「宮」と「城」の融合した装飾であり、中国文化の影響も残っている。一方、東宮御所では武具と皇室に特権化された紋章が特徴的であり、西洋の装飾法に従い、日本人はもちろん外国人にもわかるように、脱中国化した新たな「日本」像を創出する態度が見てとれた。しかし、鳳凰などの王権表象は用いられておらず、明治宮殿の装飾とは格差が見てとれる。

さらに、両建物に共通する壁掛織物という装飾に注目した。明治宮殿東溜之間に飾られた菊池芳文下絵《百花百鳥図》綴織と西溜之間に飾られた今尾景年下絵《富士巻狩之図》綴織、東宮御所狩の間に飾られた浅井忠下絵《武士の山狩》綴織と孔雀の間に飾られた今尾景年下絵《孔雀花卉の図》刺繍は、それぞれ武士像と花鳥画に分類することができる。しかし、その表現を詳しく見ていくと、異なる様相を呈していた。

まず武士像に関して分析すると、明治宮殿の《富士巻狩之図》は、源頼朝による史実とされる富士裾野における狩を、富士を背景にした群像表現によって歴史画として大画面に表わし、それは皇族の候所に飾られた。一方、東宮御所の《武士の山狩》は、日本において権力誇示に用いられた鷹狩を描きながら、史実は設定されておらず、騎乗する名もない3人の武士を表現していた。大画面性や騎馬像形式に、歴史画的な要素を感じさせるものの、日本人には鷹狩図として、外国人には騎馬像として、その両方の主題と捉えうる単なる風俗画となっている。いずれも武士像とはいえ、描かれた主題は、あくまでも明治宮殿の方が格上であるといえる。さらに、飾られた空間のコンテクストに目を向けてみたい。明治宮殿の《富士巻狩之図》が飾られた場は、皇族が使用する部屋であり、明治維新後の軍事国家日本の頂点にたつ天皇は、公家から武人へとイメージの転換が図られ、皇族もそれに追随しなければならないからこそ、この部屋に本作が必要とされたと考えた。そのことは、東宮御所の《武士の山狩》にも言うことができ、明治期の天皇周辺をめぐる社会的な立場が建築装飾に反映されているといえる。

花鳥画に関して分析すると、明治宮殿の《百花百鳥図》は、隅々にいたるまで吉祥性に富んだ画面構成となっていた。敢えてその特徴を述べるとすると、太陽と関わりのある花鳥が選ばれている点が指摘できるが、おそらくそこには明確な寓意はこめられていなかった。この作品が飾られた場は、大半が旧士族の一般臣下の候所であり、彼ら「武士」に対しては、「武士」を表現することなく、吉祥的な花鳥画という宮廷趣味的な作品によって、天皇は「万世一系」天皇家の文化を継承するものを演じていた。一方、東宮御所の東宮妃の謁見室の中の一室に飾られた《孔雀花卉の図》には、「武士」たる東宮を支え、敬い、その後継者を産むという東宮妃の役割が花鳥の姿を借りて表現されており、明確なメッセージを持つ作品であるといえる。さらにそこには、オリエンタリズムに与した表現が認められ、日本人にも外国人にも理解可能な構図を指摘した。東宮御所内の東宮のための同じ用途の部屋および明治宮殿内の皇族のための同じ用途の部屋とは、武士像(人物像)と花鳥画という格差がつけられているものの、東宮御所と明治宮殿の関係性においては、おそらく同じ花鳥画というだけで格差はつけられていない。しかし、明治宮殿の《百花百鳥図》は綴織、《孔雀花卉の図》は刺繍という仕上げの方法において差がつけられている。

以上の分析の結果、明治宮殿と東宮御所の装飾は、相互の関係性、距離感を慎重に保ちながらそれぞれに相応しく取捨選択されていた。その装飾から判断すると、基本的には明治宮殿の方が格の高い装飾が配されており、東宮御所の装飾には日本人向と外国人向の二重の意味が課せられていた。そのなかで壁掛織物もそれぞれの建物の装飾計画と一致した表現が認められ、建物全体との調和を図りながら制作されたであろうことが推測できた。

以上本論文では、日本近代、特に明治期を中心に建築装飾としての絵画に関して、さまざまな側面から分析を試みた。建築内で絵画の果たす役割は大きく、そこでは建築家と美術家が建物/空間の所有者/受容者や用途という建物の内と、その社会状況やそれが建つ土地など建物の外との関係をどのように捉えるかを課題とし制作に携わったことが、同時代の雑誌記事や実作品においては視覚的に認められた。さらに、それらは特定の個人によって独創的に決定するという類のものではなく、その建設に関わる人たちが、西洋文化と比しつつ、建物に相応しく、自国の過去の前例を踏襲したり「発見」したりしながら、それらを慎重に組み合わせることによって、そこに新たに特別な意味を持たせるというようなものであった。タブローとしてみると、一見伝統的な主題に基づく絵画が、それが設置された建築空間を通すと、その作品の独創的な部分と過去から継承した部分の両方のなかに存在する政治性が浮かび上がってくることになる。それはこれらの絵画が、建築装飾として社会的空間をつくるための視覚的装置として機能しているからに他ならない。

審査要旨 要旨を表示する

日本の大規模な建築は少なくとも平城京以降、内裏や城郭、寺院などを見ればわかるように、その内部空間は絵画とともにあったと言うことができる。つまり、時代や建築類型の変遷とともに、室内に飾られる絵画も様々に形を変えながら、建物と緊密な関係を築いてきた。明治維新以降の日本近代において、建築装飾を目的とする絵画が主に洋画家たちによって多く制作され、前近代のそうした関係を基本的には継承していると捉えることが可能である。しかし、様々な意味において大きく性格を異にすることとなった。その最大の相違は、装飾の対象となる建築が、駅や銀行、宮殿など、多くが明治維新以降に新たに導入された大規模な洋風の公共建築であったという点である。そのために、建築内を飾る絵画の形式や技法、設置場所などにも相違が生じ、従来の障壁画研究の枠組みでは捉えがたく、さらに現存作例が少ないこともあり、これまでその存在は知られていたものの、建築史はもちろん美術史を語る俎上にのぼることがほとんどなかった。

本審査対象論文(以下本論文と略)は、このような背景をふまえ、明治期を中心に建築内を飾る絵画に注目し、それを建築装飾として捉えている。そして配置された絵画の意味や機能を、建築の下で一体的かつ建物全体の装飾計画のなかで歴史的に考察している。こうした視点は、作品が飾られた建築や空間との関連性を重視した本論文に特徴的な部分である。さらに明治期は、第3章において明らかにされたように、建築・美術界ともに建築装飾に強い関心を抱いており、そのための教育にも力点が置かれた。そうした歴史的経緯を鑑みれば、本論文が設定した建築装飾としての絵画というテーマの意義は大きいと言えよう。従って、本論文において中心的に取り上げる意義は大きい。

本論文の構成は、序論(第1章)と結論(第6章)を含め計6章からなる。以下、それぞれの概要と意義を述べておく。

まず第1章の序論では、日本近代における建築装飾としての絵画の特徴とそれに関する研究の動向が紹介され、それらの作品を空間の用途や所有者/受容者、その当時の社会状況との関係のなかで論じることの意味とその新奇性が提示された。

第2章では、本論文が主として取り上げた明治期の前の時代である江戸期の建築と絵画の様相が、朝廷と幕府という二重の権力構造を象徴する建物である京都御所と江戸城を例に明らかにされた。そこでは、建築の使用者や用途、公的度合いにしたがって、その内部を飾る絵画も描き分けがなされており、建築と絵画の連動が指摘された。一方この章は後の第4・5章の事例研究で取り上げる明治期の支配者層の象徴である天皇や皇太子の住まいとの対応を検討するための基礎作業でもある。

第3章では、近代における建築と装飾、絵画をめぐる思想的な背景が明らかにされた。ここでは、建築の内部空間をさす用語の整理がなされたうえで、建築関係、美術関係の雑誌記事からそれぞれの時期にどのような装飾が求められたか、同時期の教育において、建築装飾がどのように教えられていたのか、ということに関して分析がなされた。それによって、少なくとも明治期において建築界と美術界の双方が洋風建築の導入とともに建物を用途に相応しく飾ることを望んだこと、そこにおいて内部を飾る絵画が重要な役割を果たすということが認識されていたことが明らかにされた。このことは、建築装飾に関する教育においても反映されていたことが指摘された。

第4章と第5章では、「明治宮殿」と呼ばれる明治期の天皇の住まいと現在迎賓館として使用されている明治期の皇太子の住まいである東宮御所を対象としている。これらの建物は、明治前期と後期を代表する国家的建造物であるが、それらの関係性は相互補完的であり、二つを事例研究として比較することで、建築装飾としての絵画が持った意味の差異を有効に描き出すことに成功している。ここでは、各建物全体の装飾計画が明らかにされたうえで、画家に下絵を描かせた壁掛織物(タピスリー)の分析がなされた。その結果、明治宮殿と東宮御所の装飾は、相互の関係性、距離感を慎重に保ちながらそれぞれの空間的目的に合わせて、取捨選択されていたことが明らかにされた。そして、その装飾の建物/空間の用途および使用者/受容者のみならず、その当時の社会との緊密な関係性が指摘された。さらに壁掛織物にもそれぞれの建物の装飾計画と一致した表現が認められ、建物全体との調和を図りながら制作されたであろうことが明らかにされた。しかし、壁掛織物を建築装飾としての絵画と同等に扱うことには注意が必要で、その点に関してはより多角的な分析が今後望まれよう。本論文は、絵画のみならず織物などの図像全般を建築・空間の関係性へと踏み込んでいく抽象的な議論への可能性を秘めており、今後の研究に期待できるものである。

以上の各章概要からも明らかなように、本論文では建築装飾としての絵画に関して、一次資料や関連文献はもちろん、美術作品などの視覚的な資料を多く用いて詳細に分析がなされている。ただし、本論文は多々の推論を含まれており、今後より多くの事例や絵画以外の建築装飾などに目を向けることにより、さらに建築装飾の計画と制作過程の実態を明らかにしなければならない。その点は今後の課題とする必要がある。

江戸期の建築・絵画を皮切りに、建築装飾に関する雑誌記事や教育内容、明治宮殿と東宮御所という明治期の事例研究の考察を通して、日本近代における建築装飾としての絵画について論じた本論文は、課題は多く残るものの、建築史や美術史という既存の学問領域に捉われることなく分析を試み、多くの論点を提示した点において、優れた研究であると評価できる。したがって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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