学位論文要旨



No 125676
著者(漢字) 白,佐立
著者(英字)
著者(カナ) ハク,サリツ
標題(和) 戦後台湾における都市更新に関する歴史的研究 : 不法占拠・眷村・国民住宅を中心に
標題(洋)
報告番号 125676
報告番号 甲25676
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7209号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村松,伸
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 西村,幸夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は不法占拠、眷村、国民住宅という3種類の住宅の状況を通じて、戦後台湾における都市更新を論じるものである。まずは都市更新を検証するために不法占拠、眷村、国民住宅を対象とする理由とその有効性を説明する必要があろう。そのためには、戦後台湾の政治状況から始めなければならない。

1945年8月15日、昭和天皇は「戦争終結」の詔書を詠み上げた。第2次世界大戦の終了と共に、大日本帝国の幕は閉じ、アジアに拡がった国境線は一気に日本列島にまで縮小した。日本がポツダム宣言を受諾することにより、50年間日本の植民地統治を経た台湾は、当時正統な「中国」として国際社会の承認を得ていた中華民国政府に返還された。台湾は中華民国の1つの省となったのであった。このことは台湾が、『民権初歩』、『孫文学説』、『実業計画』、『建国大綱』など中華民国国父・孫文の著作に現れる建国思想、および彼により提唱された中華民国最高指導原則「三民主義」の下に置かれることを意味した。三民主義は、孫文が中国封建制度に対する革命のために提唱した基礎理論であり、その中には欧米諸国を目指し、「民主化」と「近代化」を推進するという理念が含まれている。具体的な建設方針に関しては、『建国大綱』の中に「建設の最も重要な目標は民生である。それゆえ民衆の食、衣、住、行においては、政府は民衆と協力して、食料を充実させるため農業の発展を図り、豊富な衣服を提供するために紡績業の発展を図り、十分な住居を供給するため計画的に各種の住宅を建設し、便利な交通を達成するため道路、運河を建設する」と、中華民国の理想を述べている。

一方、日本から接収した台湾都市では、戦争により破壊された建造物で溢れ、復旧工事を余儀なくされた。また終戦時には既に、中華民国の構成機関である国民党は、共産党との内戦を開始していた。1949年には国民党政府は劣勢となり、同年10月1日には毛沢東により中華人民共和国が建国された。そして12月初旬、国民党政府は台北へと首都を遷したのであった。こうした政治的状況から、中華民国政府は台湾を共産党と戦うための「基地」として位置づけ、さらに三民主義の理念を強調した上で、台湾に現代的な都市を建設することを目指したのであった。しかし、当時の政治的、社会的状況下では復旧工事を進めることで精一杯で、「現代的な都市建設」は理念でしかなかった。また、国民党と共に台湾に移ってきた人々、戦時中に住宅を失った人々、田舎から都市に流入した人々によって、都市の未使用地や街路に形成された不法占拠は都市建設の障害となった。

つまり、中華民国の三民主義の理想に基づく都市建設はまったくの白紙から始まったのではなく、日本植民地時代の未完成の都市計画の制約を受け、そして不法占拠や都市への大量移民のための応急的な住宅に溢れた都市が、中華民国政府にとっての戦後都市建設の始点だったのである。

このように、現代的な都市を建設するためには、都市に散在する不法占拠は障害であった。そのため、政府にとって不法占拠の解体は、都市建設の重要な課題であった。すなわち、戦後初期の多くの都市建設行為は不法占拠に関係していたため、不法占拠の実態を解明することは、1970年代までの都市建設を検証するためには必要な作業である。

次に、眷村とは国民党政府と共に台湾に移ってきた軍人およびその家族のために政府が建設した兵舎団地のことを指す。眷村の住宅戸数は、最も多いときで台湾全体の住宅の約14%程度でしかないものの、そこは国民党政権の基盤であったため、眷村建設は当時の政府の重要な政策であった。かつ眷村の管理機関が軍であったことから、都市計画から逸脱し、都心部において土地を低密度で使用する、「異質」な存在=眷村が数多く建設された。つまり、眷村は住宅量としては都市内で大きな割合を占めてはいないが、政治的文脈から見れば都市建設における影響は大きい。

これら不法占拠と眷村という「異質」な住宅は、都市建設のプロセスの中で国民住宅へ「更新」されていく。つまり、不法占拠、眷村、国民住宅の消長を検証することは、都市更新のプロセスを描き出すことそのものである。また、日本植民地期にはほとんど存在していなかった多層住宅が、国民住宅政策によって台湾都市に導入され、定着してきた。つまり、国民住宅の形成と定着を考察することで、戦後台湾住宅の建築形態の一つの側面をつかめるはずである。

ところで、本論文では主に台北市の事例を扱う。その理由としては、戦後台北市は最も人口が急成長した都市であることが一つである。これは、台北市が最も深刻な住宅不足に直面したことを意味している。そしてもう一つは、台北市は中華民国の政治的、経済的中心であるため、都市建設と伴う住宅建設の政策は常に台湾の他の都市のモデルになっているためである。そのため、主に台北市を論じることで、戦後台湾の都市更新を明らかにする。

本論文は5章構成となっている。以下はそれぞれの内容を述べておく。

第1章では、都市更新の初期条件として、違章建築が発生した理由とその状況を明らかにする。戦後初期の政治・社会変動がもたらした、都市への大量の流入民は、未使用地に簡易小屋を建て、都市に住み着いた。これが違章建築の嚆矢である。当時の台北市政府にとって、反共基地としての首都を、そして同時に民主的な都市を建設することが重要な使命であった。だが現実には、市街地には大量の違章建築が発生しており、都市建設の障害となっていた。違章建築の解体、そして違章建築の住民を移転させることが急務であった。このような状況下、違章建築がどのようにして問題視され、都市更新の始動に至ったのかを第1章で分析する。

第2章では、国民住宅政策や政府により提出された国民住宅のモデルから都市更新の理想像を明らかにし、同時に実際に建設された国民住宅から都市更新の到達点を明らかにする。

前述のように、住宅不足の解決策として政府は国民住宅建設という政策を打ち出した。中央政府(行政院・台湾省政府)では、国民住宅建設推進機構として国民住宅興建委員会を設立し、興建市民住宅貸款辨法、営造廠商興建市民住宅貸款辨法などの命令を公告し、国民住宅建設の遂行に力を入れようとしていた。

また、地方政府も同様であった。例えば、台北市では、市民住宅興建委員会を設立し、市民に国民住宅の認識を高めるため、国民住宅のモデル展覧会を開催した。しかし、中央法令の不在、建設資金と土地獲得の困難、そして価額設定の誤算などが重なり、国民住宅建設遂行には苦戦していた。一部、アメリカからの資金援助により建設したもののみが好評を得ることができた。台北市の整建住宅(違章建築移転のための住宅)である南機場アパートメントはその一例である。

当時、南機場アパートメントは台湾で最大規模の国民住宅であり、最新型の住宅と評価された。南機場アパートメントを皮切りに、1960年代半ば以降、台北市は数多くの整建住宅を建設した。つまり、大量の違章住宅を解体していった。違章建築の解体は、環境改善の一環として行われる一方、公共施設やインフラを建設するための撤去もあった。

第3章では、軍事機関による住宅政策として建設した眷村の実態を明らかにする。繰り返しになるが、眷村とは軍事機関による住宅問題対策による生み出されたものであった。眷村建築は主に旧日本軍の兵舎を転用したもの、竹などの簡易な材料により急ごしらえしたもの、レンガ木混構造のものなどがあった。また、その立地は市街地の周辺、もしくは市街地から離れた場所にある軍用地、あるいは道路予定地や公園予定地などのまだ建設されていない公共施設予定地であった。1970年代まで、眷村は大量に建設され、都市に広く分布していた。台北市の場合、眷村が最も広く分布していた時期には、その面積は60万坪もあった。1940年代末から1950年代前半に建設された急造眷舎は、時とともに老朽化しつつあり、それは軍事機関にとって新たな課題となった。老朽化した眷舎を修繕する経費は莫大であったため、軍事機関は地方政府に対し、眷舎の住民を支援するよう指示したのである。ここで、政府と軍事機関の住宅政策が交錯してゆく。

一方、第4章では1968年の台北市改正(市の管轄範囲の拡大)以後の、都市更新の展開を記述する。1960年代の国有土地整理、および台北市市改正により、都市更新が加速することとなった。台北市の都心部にある、最も広範な軍用地であった営辺段は新たな複合社区として計画された。しかし、その計画を実現せず、中正紀念堂の建設へと収束していった。一方、松山空港の南に立地する眷村とその周辺の軍用地は、台北市における最初の総合的計画として住宅区に更新された。

また、違章建築が広がる万華、大龍〓地区の都市更新である「万大計画」が1970年代前半、最も重大建設であった。これは第2章で取り扱った南機場地区の整備の延長線上にあった。また、華江新社区の建設は、台北市のその後の住宅区開発のモデルとして考えられた。1970年代には、違章建築を大規模に解体し、当時の台北市の代表的なプロジェクトを推進していったのであった。こうしたプロセスは、違章建築の解体により支えられていた。第4章ではこれまでゆるやかに進行していた都市更新が急速に加速し、また大規模化する様子を検討する。

第5章では、最終的に台北都市が都市更新を通して造り出したものを考察する。ここでは、一度更新したものが再度更新される事例や、住宅政策から生まれた眷村が博物館化される文脈を明らかにする。当初、違章建築対策から生まれた国民住宅は、1975年「国民住宅条例」という中央法規の制定によって、さらに建設が推進された。また、軍事機関は眷村の更新問題に対して、地方政府と共に解決するという対応方針の変換を行い、1980年、国軍老旧眷村重建試辨期間作業要点を公告した。ここで眷村を更新し、国民住宅を建設する方向性が示されたのである。こうした政策により、公共施設予定地にある眷村は、日本植民地時代に起源をもつ「あるべき」都市計画を遂行するため、1990年代初頭に解体され、眷村住民は高層の国民住宅に移住することとなった。さらに1996年公布の国軍老旧眷村改建条例により、すべての眷村を解体し、その敷地の性質によって、国民住宅、公園、学校などの公共施設を建設するための場所とすることが規定された。これにより、眷村は都市から最終的に完全に消滅することとなった。

2000年以降、都市から次々に姿を消していく眷村を「文化」として取り扱い、眷村博物館や眷村文化村という形で保存を要求するという動きが始まる。だが眷村は「文化」として認識される一方、更新を待つばかりの現状は何も変化しなかった。一方、1960、1970年代の都市更新により完成した南機場社区、華江社区とその周辺は、1990年代以降、「現代貧民区」と見られるようになっていた。2000年に制定された「台北市都市更新地区案」では、これらは再び「更新」の対象となったのである。第5章ではこのような都市更新のあり方を検証する。

結章では、戦後台湾都市更新の特徴として、戦後台北の都市更新は、1960年代初頭から始まった。都市更新には都市計画の実現と住宅問題の解決という2つの目的があった。その特徴は1975年の国民住宅条例制定を境に異なり、1975年以前では違章建築を都市更新の対象物とし、更新の結果道路インフラと整建住宅が建設された。一方、1975年以後には眷村が都市更新の対象で、公園、学校などの都市施設と国民住宅が建設された。都市更新の到達点として、都市更新を通じて行われた住宅建設により、違章建築及び眷村住民は、近代的な設備を持つ多層集合住宅に移住することができた。この住宅改良は都市更新の1つの到達点とも言える。また、都市更新の限界として、南機場社区と華江社区のように、一度更新したものが30、40年後、再度更新されるという事実は、都市更新の時間的射程の限界を示す。また1960年代に都市スラムと見られた南機場違章建築区の一部は、都市更新の結果南機場住宅、水源路住宅へと変化したが、1990年代以降再び都市スラムと見なされることになった事実は、都市更新という手法によっては都市の周縁性を解消できないことを示す。そして都市更新により、都市施設、整然とした道路インフラ、国民住宅に加え、「眷村文化」も創出された。消失していく住居とその生活が「文化」として取り扱われることは都市更新に対する市民側からの反動であり、市民にとって、都市更新のプロセスから生じる一つの問題と考えられよう。

以上のように、中華民国国民党政府は日本から接収した台湾を、孫文の思想と彼の著作に含まれている「民主化」と「近代化」の理念に基づいて建設しようとしていた。このような理想の下で、国民の全員に適切な居住を提供するために、都市にとどまらず、台湾の全土に国民住宅の建設を発案された。しかし、実際の都市では、中、低収入の市民の住居を支えているのが、彼らの手による簡易住宅、すなわち、のち違章建築と見られたもの、であった。また、軍事機関は、軍と共に中国から移駐してきた、軍人とその家族を安置するために、眷村を計画し、建設した。だが、眷村建設の予算は、常に応急的な臨時予算、あるいは各界からの寄付という側面から考えてみれば、軍事機関にとって、眷村の建設は当時の政治状況という不可抗力による政策しかすぎないとも思われる。違章建築と眷村は、戦後において中華民国に直面していた現実の政治状況による建設された都市住宅を考えられる。

また、初期に建設された国民住宅は、国民全員に対しての政策ではなく、主にアメリカ援助の資金によって、違章建築を解体させるための対処法だった。台北市の改正と伴う大規模な都市建設の下で、さらに大量な違章建築は、「現代的な都市」を建設するために解体され、違章建築住民は整建住宅に移住された。1975年以後、都市施設と正規の国民住宅を建設するために、眷村も解体の対象となり、眷村住民は次々と国民住宅に移ってきた。こうした現象は、国民に住宅を提供するために、国民の住宅を破壊するという矛盾を生じていると言えよう。

審査要旨 要旨を表示する

第二次世界大戦の終結と同時に、台湾は日本から中華民国政府の統治下に置かれることとなった。そして1949年には、中華民国は南京から台北へとその首都を遷した。この政治的変動は台湾都市に対し、中華民国の政治理念の注入による社会の「混乱」、そして短期間で大量に流入する移民およびそれが引き起こす住宅不足をもたらした。これらが要因となり、台湾都市は大幅に都市の姿を改変されることとなった。中華民国の、台湾における住宅政策は住宅不足の解決から始まった。

本審査対象論文(以下本論文と略)はこのような歴史的背景を踏まえ、戦後の台湾都市で新たに形成された住宅、すなわち不法占拠、眷村(けんそん)、国民住宅の形成・変容過程を解明することを通して、戦後台湾における都市更新が発生し、定着する過程とその意味を論じている。本論文における都市更新とは、全面的再開発、都市修復、都市保全などを含む、都市再開発より包括的な概念である。

これまでの台湾都市史の研究においては、日本植民地時代が主な研究対象であり、戦後の都市計画・都市建設はその延長線上にあるとみなされ、重視されてこなかった。しかし、戦後の都市計画と都市の実態の把握なしに、今日の台湾都市を理解することはできない。その意味で本論文は台湾都市史研究の空白に着目し、その空白を補填する重要な研究である。また本論文は一次史料を幅広く渉猟した実証的な研究であり、その中には戦前の台湾総督府報、アメリカの各大学図書館に散在する戦時中および戦後初期の地図資料、中華民国各級政府の公報、各級議会議事録、中華民国国防部公文書、台北市政府所蔵の各種地図、都市計画書などが含まれる。本研究により初めて発見された史料も数多い。

本論文の構成は序論、第1章から第5章、終章および付録(地図、表など)からなる。以下はそれぞれの概要と意義を述べておく。

まず序論では、1945年以後の台湾での政治状況から生まれた、政策としての都市建設の理想と、実態としての都市状況が分析され、不法占拠、眷村と国民住宅から都市更新を論じる有効性が示された。

第1章では、1945年より都市に流入した人々が建設した住居の分布状況とその実態が、都市更新の起点として丹念に描出された。ここでは、これらの住宅が不法占拠としてみなされるようになる端緒が明らかとなり、都市計画と市民の視点の齟齬が読み解かれた。また、不法占拠の住民のすべてが中国大陸からの移民というわけではなく、戦前から台湾に住んでいた人々も含まれていたというのは重要な指摘である。

第2章では、国民住宅政策とその建設状況が通時的に検討され、国民住宅政策の理念と実施状況の乖離が説明された。国民住宅の建設は、国民全体に住宅を提供する政策である一方、「非正規」の国民(不法占拠により住んでいる住民)が「正規」の国民(国民住宅に住む国民)に編入される契機でもあったことが指摘された。また、台湾において、多層集合住宅という居住形態はこの国民住宅政策から生まれたことが明らかにされた。

第3章では、軍事機関により建設された兵舎団地(眷村)が、軍事機関、政府、住民の三者の視点から検証され、戦後台湾都市の特徴とも言える眷村の実態が相当程度解明された。それは大きく四点に整理される。一点目は眷村建築には戦前の建設業者の設計・施工によるものが数多くあったことである。二点目は、一点目と関連して、眷村の住居の一部は旧日本軍の宿舎をそのまま転用したことから、日本植民地時代の建設技術と生活習慣が、眷村という媒体を通じて、無意識のうちに戦後まで継承されたという点であった。三点目は、1980年代中頃まで政府と軍事機関という2つの権力組織が存在したため、眷村建設が都市計画から逸脱し、眷村が市街地を低密度に使用する状況が「異質」とみなされるようになったことである。四点目は、住民自らの手により建設され、増築された眷村は、人々の生活と都市空間が拮抗する場であったことである。

第4章では、1960年代後半から、経済成長により都市更新が加速していく状況下での、都市更新モデルの形成過程が明らかにされた。

そして第5章では、眷村の解体と大量国民住宅建設の関係性が、法制度と都市空間の各側面から考察された。また1960年代から1970年代にかけての都市更新の過程で建設された国民住宅が、僅か30、40年間で再び都市更新の対象とみなされるようになったという事実から、都市更新の射程と限界が指摘された。第3章から第5章では、都市空間の変容を通して眷村の形成と解体過程が明らかにされたが、さらにこの過程において、眷村に暮らす「外省人」が眷村から国民住宅に移住することで、外省人の位置づけが変更されたことが指摘された。

以上の各章概要からも明らかなように、本論文では主に政府による都市計画や住宅建設計画を考察対象としているが、それだけではなく都市住民の生活の視点から住民と都市の関係を、主に新聞、請願書、現地インタビューから、描き出すことにも成功している。ただし、国際情勢を踏まえた台湾都市の分析などはさらなる考究の余地があり、その点は今後の課題でもあろう。

不法占拠、眷村、国民住宅の考察を通じて都市更新を論じた本論文は、従来の都市計画史の手法を踏まえた上で、さらに政治史、生活史、社会史の各側面に注意を払い、豊かな論点を提示した優れた研究と評価できる。これらの理由より、本論文は博士(工学)の学位を授与するにふさわしい業績であると認められる。

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