学位論文要旨



No 125725
著者(漢字) 飯田,一樹
著者(英字)
著者(カナ) イイダ,カズキ
標題(和) 少数スピン系分子磁性体の中性子動的散乱関数の解明
標題(洋)
報告番号 125725
報告番号 甲25725
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7258号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 佐藤,卓
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 嶽山,正二郎
 東京大学 教授 吉澤,英樹
 東京大学 准教授 求,幸年
内容要旨 要旨を表示する

本研究では中性子非弾性散乱を用いて分子磁性体(molecular nanomagnet)の研究を行った。分子磁性体とは、数百の原子・イオンが集まりクラスターを形成し、そのクラスターが周期的に配列している系の事である。クラスターには数個から数十個の遷移金属磁性イオンが含まれている。これらの磁性イオンはクラスター内の磁性イオンとは互いに磁気相関を持つが、クラスター間には超交換相互作用を媒介する陰イオンが少ないため、そしてクラスター間の距離が 10 A 程度と遠いので磁気双極子相互が弱いためにほとんど磁気相関がない。そのためそれぞれの磁気クラスターは孤立磁気量子系を形成していると見なす事ができる。

分子磁性体は孤立量子系の集合体である事から、系の物性、特に磁性を議論するためにはクラスターの持つスピンハミルトニアンを知ればよい。さて中性子非弾性散乱はゼロ磁場での測定が可能な事から、スピンハミルトニアンを決定するのにきわめて有効な実験手法である。しかし、分子磁性体が強い非干渉性散乱体である水素を多量に含む事、さらに大きな単結晶を得ることが難しい事から、分子磁性体の研究において中性子非弾性散乱はこれまであまり用いられてこなかった。一方、中性子非弾性散乱を用いた分子磁性体の研究はいくつか報告されていたが、散乱関数を厳密に計算して、クラスターのハミルトニアンを決定したという研究はこれまで報告されていなかった。

そこで私は、分子磁性体に対する中性子非弾性散乱の解析手法を以下のように確立した。まず数値的・解析的手法を用いてクラスターのスピンハミルトニアンを厳密対角化する。そして Monte-Carlo 法を用いて粉末試料の散乱関数を計算する。さらに装置分解能関数を考慮したものを計算結果とし、実験で得られた中性子非弾性散乱スペクトルを fitting する。このようにしてスピンハミルトニアンのパラメータを決定するという手法である。さらに励起の Q 依存性を計算し、実験結果と比較した。それは以下のためである。分子磁性体は局在励起であるため分散関係は持たないが、複数個の磁性イオンの相関であるため磁気励起は Q 依存性を持つ。そのため、Q 依存性の実験結果と計算結果を比較する事で、励起の起源を知る事ができる。分子磁性体における、この Q 依存性の重要性も本研究で明らかになった。

本研究で扱った分子磁性体は V3、Cu3、Ni4、Mn6 の 4 種類である。V3 と Cu3 は反強磁性三角リングクラスター、Ni4 は反強磁性正四面体クラスター、Mn6 は強磁性六角リングクラスターである。V3 と Cu3 は磁性イオンが s=1/2 のスピンを持ち、クラスター内の磁性イオンのサイト数も 3 と少ないため、状態数は 8 である。一方、Mn6 は Mn イオンがそれぞれ s=5/2 のスピンを持ち、サイト数も 6 と多いため状態数が 46656 と大きい。また Ni4 は、その状態数がおよそこの中間に分類されるクラスターである。このように、異なる空間配置からなるクラスター、強磁性クラスターや反強磁性クラスター、又、状態数が小さい量子的なクラスターから、状態数が大きいクラスター等を幅広く扱う事で私が確立した上記の分子磁性体に関する中性子非弾性散乱の解析手法が有効であるかどうかを確かめた。

本研究の目的は、分子磁性体に対する中性子非弾性散乱実験の方法を確立し、さらにそれを幅広い系に適用し分子磁性体の研究における中性子散乱分光法の有用性を実証する事である。もうひとつの目標は、それぞれの分子磁性体においてこれまで解明されていなかった事を、中性子非弾性散乱を用いて解決する事である。後者点については以下に、それぞれの物質について個別に述べる。

V3 は s=1/2 のスピンを持つ V イオンが三角形の頂点に存在し、反強磁性交換相互作用で結びついているクラスターである。クラスターの基底状態は、全スピン Stotal を用いると、Stotal=1/2 である。この V3 にミリ秒のオーダーのパルス磁場を印加すると、半磁化課程を伴う磁化曲線を示す。この半磁化課程を説明するために、理論的に Dzyaloshinsky-Moriya (DM)相互作用が提唱されている。しかし、これまでは DM 相互作用はその大きさが小さいために、パラメータの大きさが見積もられていなかった。そこで本研究の V3 における目標は中性子非弾性散乱によって半磁化課程の原因である DM 相互作用の大きさを決定する事である。上記で述べた分子磁性体における中性子非弾性散乱の解析手法を用いて、基底状態 Stotal=1/2 から励起状態 Stotal=3/2 への励起スペクトルから、交換相互作用と DM 相互作用からなるハミルトニアンを決定した。さらに得られたハミルトニアンが磁化率や半磁化課程等のマクロスコピックな物性を説明できるハミルトニアンである事を確認した。

Cu3 は V3 と同じく s=1/2 のスピンが三角形の頂点に存在し、反強磁性交換相互作用で結びついているクラスターである。基底状態も V3 と同じく Stotal=1/2 である。Cu3 においては V3 で観測する事ができなかった DM 相互作用の直接の観測、つまり基底状態 Stotal=1/2 の分裂の観測と、パルス磁場磁化曲線中のヒステリシスの原因を探る事を目的として研究を行った。まず、V3 と同様に基底状態 Stotal=1/2 から励起状態 Stotal=3/2 への励起スペクトルから、交換相互作用と DM 相互作用からなるハミルトニアンを決定した。次に高エネルギー分解能を持つ中性子散乱分光器において Stotal=1/2 の分裂を観測し、DM 相互作用が確かに存在する事をミクロスコピックに確認する事に成功した。さらに非弾性散乱ピークの温度変化からクラスターの持つスピン状態がフォノンにほとんど影響を受けていない事を発見した。この事はスピン状態とフォノンの結合が小さい事を示唆していると考えられる。

Ni4 は s=1 のスピンを持つ Ni イオンが四面体の頂点に存在し、互いに反強磁性交換相互作用で結びついている分子磁性体である。基底状態は Stotal=0 である。高磁場までの磁化測定から、交換相互作用定数が磁場依存するという報告がされている。つまり Ni4 においてはスピン格子相互作用が極めて強いと予想される。にもかかわらず、Ni4 のスピンハミルトニアンは磁場応答のみによって決定されてきた。そこで本研究ではゼロ磁場での中性子非弾性散乱から Ni4 の真のハミルトニアンを決定する事をこの物質における目標とした。本研究で確立した手法から、全ての S(|Q|,hw) 領域における中性子非弾性散乱結果を説明できるハミルトニアンを得る事に成功した。さらに磁場中の中性子散乱実験や圧力下での磁化測定から、強いスピン格子相互作用を示唆するというこれまでの報告と一致する結果を得た。

Mn6 は s=5/2 のスピンを持つ Mn イオンが正六角形の頂点に存在する分子磁性体である。隣り合うイオン間に強磁性交換相互作用が働いており、基底状態は Stotal=15 となる。粉末試料の Mn6 の χT - T plot(χT : 磁化率に温度をかけた値)から、これまで報告されていなかった反強磁性相関の存在を示唆する結果を得た。そこで中性子非弾性散乱によってこの反強磁性相関の原因を解明する事を Mn6 における目標として研究を行った。中性子非弾性散乱の結果は Mn6 クラスター内の磁気相関では実験で得られた S(|Q|,hw) 、特に Q 依存性を説明できない事が分かった。そこでクラスター間の反強磁性交換相互作用を導入し、2 つのクラスターからなるモデルを用いると、中性子非弾性散乱の結果を全て説明できることが分かった。この結果は、分子磁性体におけるクラスター間の相関をミクロスコピックに直接観測した最初の例である。特に、Mn6 ではこれまでに 1.5 K までには長距離磁気秩序が観測されていないにもかかわらず、このようなクラスター間の相互作用が観測された事は興味深い。さらに圧力下での磁化測定から、圧力を加えるとクラスター間の距離が縮まるため、反強磁性の相関が増大する事が分かった。

以上まとめると、本研究ではこれまで確立されていなかった分子磁性体における中性子非弾性散乱の解析手法を確立した。つまり、散乱強度を厳密に計算し、非弾性散乱スペクトルを fitting し、スピンハミルトニアンとそのパラメータを決定する。さらに Q 依存性の実験結果と計算結果を比較する事で励起の起源の議論をする事にも成功した。さらにこの手法を用いて以下のように個々の分子磁性体の物性を議論した。V3 では、交換相互作用と DM 相互作用からなるスピンハミルトニアンを決定した。また Cu3 においては半磁化課程の原因である DM 相互作用の直接の観測に成功した。さらにヒステリシスの原因を解明するヒントとなる高温まで消えない非弾性散乱ピークを観測した。Ni4 ではゼロ磁場において S(|Q|,hw) をよく再現するスピンハミルトニアンを求める事に成功し、さらに磁場・圧力応答から強いスピン格子相互作用を示唆する結果を得た。Mn6 においては、χT - T plot からこれまで報告されていなかった反強磁性相関を発見し、中性子非弾性散乱の Q 依存性からその起源がクラスター間の反強磁性相互作用であることを解明した。さらに、圧力下においてこの反強磁性相関が強められる事を確認した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文で取り上げられている分子磁性体(molecular nanomagnet)とは数個から数十個の磁性イオン(スピン)がなす磁気クラスターが周期的に配列している物質である。磁気クラスター間は十分に離れておりその間の相互作用は十分に弱いため、個々のクラスターはほぼ孤立量子系と見なす事ができる。このような少数量子スピン系では、系の量子性が強く現れるため量子トンネリングや巨視的量子コヒーレンス等の興味深い物性が見られる事が知られているが、それらの現象の理解には微視的モデルハミルトニアンおよびそのパラメータの精密決定が欠かせない。本博士論文では、中性子非弾性散乱手法を用いて、空間対称性、スピン量子数、構成スピン数の異なる4種類の分子磁性体の微視的モデルハミルトニアン構築とそのパラメータ決定を行い、それらに見られる特徴的な量子現象の原因を確定した。この過程で、モデルハミルトニアンに対する中性子散乱関数の一般的な計算方法を確立し、粉末中性子非弾性散乱データから得られる豊富な情報(強度のエネルギー・波数依存性)を用いたパラメータ決定の優位性を実証した。本論文は8章からなる。以下に各章の内容を概説する。

第1章ではこれ迄の分子磁性体研究の歴史がまとめられている。

第2章では中性子散乱の基礎がまとめられている。

第3章では本研究で開発された粉末試料分子磁性体の中性子散乱関数測定値を用いたモデルハミルトニアンおよびそのパラメータの決定法が記されている。モデルに対する散乱関数計算においては、状態数の小さな系に対しては厳密対角化、大きな状態数の系に対しては既約テンソル法を用いた固有状態および行列要素計算が用いられている。さらに、粉末平均に関してはモンテカルロ法を用いた有限数サンプリングが行われている。個々の計算方法の多くは既に報告されているものではあるが、それらの手法を有効的に組み合わせる事で、従来精度に疑問のもたれていた粉末試料散乱関数のエネルギー・波数依存性を現実的な計算量で十分精密に求める方法を確立している。さらに、その手法を用いることで、他の実験手法に比較して曖昧さの少ないハミルトニアンパラメータ決定を可能にしている。

第4章ではs=1/2三角スピンクラスター物質である V3 の研究結果が記述されている。V3 クラスターではパルス磁場中での磁化測定で磁化が 1μB, 2μB, 3μB と整数で変化する事が知られていたが、この中で2μB のステップは古典的には理解出来ない。この所謂半磁化過程はハミルトニアン中にジャロシンスキー守谷(DM)相互作用が存在する為と考えられていたが、その大きさは見積もられていなかった。本章では、s=1/2 から s=3/2 への遷移に対応する中性子非弾性散乱ピークを観測し、そのピーク幅からs=1/2 および s=3/2 準位の分裂幅を決定する事でDM相互作用の大きさを見積もっている。

第5章ではやはり s=1/2 三角スピンクラスター物質である Cu3 の研究結果が記述されている。Cu3 クラスターは V3 と同様に半磁化過程を示すが、2μB 磁化がより明確に観測される等、より強い DM 相互作用が示唆されている。本論文では s=1/2 から s=3/2 の励起を中性子散乱で観測する事、さらにそれらの散乱強度の波数依存性から励起準位のアサインメントを確認する事を行い、モデルハミルトニアンのパラメータ決定を行っている。さらに、Cu3 に対しては基底 s=1/2 2重項(が2重縮退しており合計4準位)の分裂を0.103meV のピークとして直接観測する事に成功し、これよりこの系のDM 相互作用を完全に確定した。さらに非弾性散乱ピークの散乱強度の温度依存性から Cu3 におけるスピン系が他の摂動項(フォノン等)から良く独立していると考えられる事が示されている。

第6章では、s=1 スピンが近似的に正4面体を形成し反強磁性的に相互作用する Ni4 スピンクラスターについて記されている。この物質は過去の研究から磁化のステップが磁場に等間隔ではない為に、磁場依存する相互作用パラメータ等が提案されていたが、無磁場でのスピンハミルトニアンは決定されていなかった。本章では交換相互作用、シングルイオン異方性、双二次交換相互作用からなるモデルハミルトニアンを仮定し、中性子非弾性散乱スペクトルを再現する無磁場でのハミルトニアンパラメータを決定した。また磁場中の中性子弾性散乱から強いスピン格子相互作用が示唆されている。

第7章では s=5/2 が強磁性的にカップルした6角リングを形成する Mn6 に関する研究結果が記されている。本研究で行われたバルク磁化率測定よりこの系に反強磁性的なクラスター間相互作用が示唆されたが、これに対応して中性子非弾性散乱スペクトル中には hω= 0.54 meV のクラスター内相互作用に対応する非弾性散乱ピーク、さらに hω = 0.26 meV のクラスター間相互作用に対応する非弾性散乱ピークが観測された。即ち、2つ以上のスピンクラスター間に低温で量子コヒーレンスが発達しその結果エネルギー準位が分裂するというモデルが提案されている。この結果は巨視的量子コヒーレンスの観点からも興味深い。

第8章では、本研究の成果がまとめられている。

付録として中性子散乱の解析例、様々な方向・サイト依存性を持つ DM 相互作用の行列要素計算例、既約テンソル法が紹介されている。

以上をまとめると、本論文は空間対称性、スピン量子数、構成スピン数の異なる 4種の分子磁性体に対して中性子非弾性散乱を駆使する事により、それらのモデルハミルトニアンを決定し、バルク測定においてそれぞれの分子磁性体に見られていた興味深い量子現象の起源を微視的に解明した。審査会では、他の手法に対する優位性を明確にする事、有限サイズクラスター系研究における本研究成果の位置付けを明確にする事等のコメントがあったが、本論文では、孤立少数量子スピン系と考えられる系からクラスター間の相互作用が無視できない物質迄の系統的な研究結果が示されており、特に、後者ではクラスター間の量子コヒーレンス形成が観測されるなど、今後の分子磁性体研究に新しい切り口を与える知見を得たと言える。さらに、研究の過程で、粉末分子磁性体試料の中性子非弾性散乱スペクトルをモデルハミルトニアンから求まる計算散乱関数と最小自乗フィットする事で、ハミルトニアンパラメータを決定する手法を開発している。用いられた個々の手法は既に知られている物ではあったが、それらを組み合わせる事でリーズナブルな計算量で実験値からハミルトニアンパラメータを決定できる事を実証する事で、中性子散乱研究に新しい精密性をもたらしたと言える。

よって本論文は物性科学・物理工学の発展に寄与するところ大であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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