学位論文要旨



No 125726
著者(漢字) 大間知,潤子
著者(英字)
著者(カナ) オオマチ,ジュンコ
標題(和) 時間分解分光法によるダイヤモンドにおける低温高密度電子正孔系の物質相
標題(洋)
報告番号 125726
報告番号 甲25726
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7259号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 准教授 井上,慎
 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 准教授 秋山,英文
 東京大学 講師 大岩,顕
 京都大学 准教授 中,暢子
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景と概要

固体中の電子を光励起することにより生じる電子正孔系は、その密度と温度をパラメーターとし様々な相を示すことが知られている。密度は励起光強度により操作可能であり、電子正孔相はいわば光によって作られた擬似的物質相と言える。弱励起において生じる励起子は、フェルミ粒子である電子と正孔の束縛状態として記述される複合ボーズ粒子である。それゆえ、極低温では励起子ガスのボーズアインシュタイン凝縮相の発現が予言されている。また、励起光強度を上げると、クーロン相互作用の遮蔽により励起子はイオン化し、電子正孔プラズマとなる(励起子モット転移)。ある温度以下では、モット転移密度以下の励起光強度においても自発的に高密度な金属状態へと空間凝縮することがあり、電子正孔液滴と呼ばれる。電子正孔液滴は、電子と正孔のフェルミ粒子の性質が巨視的に現れた量子現象であり[1, 2]、マルチバレー構造を持つ間接遷移型半導体において観測される。励起子ガスから電子正孔液滴への気液相転移は、まさに多体相関のダイナミクスであり、この振る舞いを理論的に記述することは難しい。しかしながら、シリコンやゲルマニウムのようにキャリア寿命が長く、マクロな液滴を形成する系においては、液滴表面で励起子が脱離吸着するという、励起子ガスと電子正孔液滴を気体液体相転移になぞらえた、古典的な核形成過程として扱うモデルにより、様々な実験結果が説明できることが知られている [3]。

ワイドギャップ間接遷移型半導体のダイヤモンドにおける電子正孔系の研究は最近になって進展している。これは、1990年代後半の高純度単結晶成長技術の開拓と高密度光励起するのに十分なエネルギーと強度を持つ超短パルス発生技術の進歩によるものである。これまで、時間分解発光測定により、ダイヤモンドの電子正孔液滴は165 K以下の広範な温度領域で観測されることが見出されている[4]。また、発光の形状解析から液滴内部のキャリア密度は1020 cm-3と見積もられ、シリコンやゲルマニウムのキャリア密度と比べると2桁から3桁大きいとされている[4]。これは、通常の金属における電子密度に比べあと2桁に迫る高密度であり、このような高密度相が100 ps程度の時間スケールで、自発的凝縮によって生じることは非常に興味深い。この凝縮相は間接遷移型半導体の光機能を追求する上でも興味ある対象である。ダイヤモンドにおいてこの相転移近傍では非常に大きな光学応答が広い波長領域で生じ、またこれが外場印加によって制御可能であることが予想されることから、能動光素子への応用という観点からも魅力的な対象である。高密度なキャリア間の衝突により、液滴内部のキャリア寿命は1 ns程度と短く、液滴形成は過渡的な現象となる[5]。核形成モデルによる計算では、有限寿命効果から、特に低温において、液滴が少数クラスター状態になると報告されている[6]。

このような背景から本研究では、ダイヤモンドの電子正孔液滴形成に注目し、外場印加による制御、その制御性を高めるための励起法の開拓、さらに生じる電子正孔系の物性を分光学的に定量評価する手法を確立することを目的とした。電子正孔系の物質相の評価は、これまで発光スペクトルの形状解析により行われてきた。しかし、相転移近傍で多様な相(励起子、電子正孔液滴、電子正孔プラズマ等)がスペクトル上で重なること、極低温では生じる状態そのものが明らかではないこと、発光スペクトル形状における電子相関効果の評価が難しいことなどから、発光スペクトル解析のみから定量評価を行うことは困難である。そこで本研究では、低周波領域における誘電応答に注目することとした。低周波数領域の分光法としては、励起子内部遷移の観測により励起子密度を定量評価する励起子ライマン分光法[7]や、テラヘルツ分光を用いた誘電応答測定による励起子モット転移の研究[8]が進められている。これらの光学応答測定では、発光スペクトル解析のみでは得られないキャリア相関の情報を抽出できる可能性がある。本研究では、時間分解発光測定に加えて時間分解誘電応答測定を行い、電子正孔相を定量評価する分光法を確立した。

2.研究の内容と成果

以下に本研究の成果の概要を項目ごとにまとめる。

(1)歪印加による相制御(*1)

ヘルチアン接触法による歪印加でバンド構造を操作した。このヘルチアン接触法は、一軸性印加より大きな歪印加が可能で、結晶内部に不均一歪を生成することが特徴である。タングステンカーバイト球でヤング率の大きいダイヤモンドを歪印加し、最大で4 GPaの圧力を印加することに成功した。モード同期チタンサファイアレーザーの再生増幅光の四倍波を励起光源として用意した。臨界温度近傍での時間積算発光測定により、歪印加により液滴形成が不安定化することを明らかにした。時間分解発光の温度依存性から、液滴形成の臨界温度は15 K低下することがわかった。さらに、歪の空間分布により液滴形成を空間制御できることを見出した。

(2)ダブルパルス励起法による液滴形成制御(*2)

次に、光励起を2つの時間差をつけたパルスで行う方法により、光キャリアの注入による液滴形成過程の制御可能性について調べた。メインパルスを照射後、過飽和な励起子ガスから電子正孔液滴が形成される時間内に、弱いコントロールパルスを照射した。コントロールパルスの照射により、液滴形成が加速し、液滴発光の信号量が増強されることが見いだされた。信号の増強量を、メインパルス照射のみでの発光強度で規格化することにより、液滴一個あたりの光注入による増強度を抽出した。その結果、光注入により最大で30 %も発光が増強することを見出した。この増強度の温度依存性を測定すると、低温よりむしろ臨界温度以下の中間温度領域で液滴形成が安定であることがわかった。これは、更なる低温において従来観測されてこなかった新たな相が出現する可能性を示唆するものである。

(3) 二光子励起による低温電子正孔相の観測(*3)

これまでの一光子励起では、励起光の吸収長が短いため、励起は結晶表面近傍に限られていた。結晶全体に一様に励起するために、チタンサファイア再生増幅光の三倍波を用いた二光子吸収励起法を試みた。この励起法を用いると、一光子励起と比較し、より低温の励起子を生成できることを見出した。これは電子正孔系が結晶の広い領域に分布するために、結晶の格子系と熱接触がよくとれるため、電子正孔系の寿命内でより低い温度になるものと理解される。この励起法を用いて低温相の電子正孔系からの発光を詳細に調べた。その結果、自由励起子発光線と束縛励起子発光線の間に新たな発光ピーク群を観測した。発光線のエネルギー位置は励起光強度によらず、新たな電子正孔対の束縛状態であることを示唆するものである。マルチバレー構造を持つ半導体では多励起子状態が存在することがKittelらにより予測され[9]、実際にシリコンにおいてもダイヤモンドと同様な発光線が観測されている[10]。高感度ストリークカメラを用いた時間分解発光測定による発光の立ち上がりや緩和ダイナミクスの解析から、この状態が多励起子であると結論した。

(4)電子正孔液滴の誘電応答

ダイヤモンドの電子正孔液滴内部のキャリア密度は、発光形状解析により1020 cm-3と見積もられている。これはプラズマ周波数が中赤外領域にあることを示す。同一励起条件下で時間分解中赤外誘導吸収測定と時間分解発光測定を同時に評価する実験を行った。励起子発光のみが観測される弱励起下で中赤外誘導吸収を測定すると、中赤外領域の誘電応答の時間プロファイルは波長によらないことがわかった。この応答特性は励起子発光の時間プロファイルと一致した。励起子の束縛エネルギーが80 meVであることを考慮すると、この誘導吸収は励起子の1s状態から電子正孔のイオン化した状態の連続帯への遷移と考えられる。水素原子様の波動関数を用いて励起子内部遷移の誘電関数を計算し、実験で得られた誘導吸収スペクトルをよく説明できることを明らかにした。また、励起子発光と液滴発光が両方観測される強励起下では、中赤外誘導吸収スペクトル上で励起子と液滴の誘電応答が同時に観測された。この状況では、誘電応答の時間応答特性は波長に強く依存した。発光と中赤外誘導吸収の時間プロファイルを相補的に解析することで、励起子と液滴の誘電応答スペクトル関数を分離して抽出することに成功した。これを、有効媒質理論を用いた解析によって液滴密度を定量評価し、液滴中のキャリア密度が十分な高密度であることを明らかにした。

3.まとめと展望

本研究では、間接遷移型半導体ダイヤモンドを対象とし、光励起により生じる電子正孔系の物質相を制御し、さらにその物質相を定量評価する分光法を確立した。歪印加による相制御では、バンド構造の操作により液滴が不安定化することがわかった。光注入による液滴形成制御では、液滴形成時間内に光注入することで液滴形成を加速できることがわかった。これらの実験は、ダイヤモンドの電子正孔系が制御性に優れていることを証明した。また、二光子吸収励起法により低温相で広い密度領域の観測を初めて行うことに成功した。この励起法を用いることで低温下で多励起子束縛状態が存在することを見いだした。さらに、時間分解発光測定と中赤外領域誘導吸収測定を組み合わせることで、液滴密度を定量評価する分光法を確立し、ダイヤモンド電子正孔液滴のキャリア密度が、中赤外誘電応答で観測するのに十分な高密度であることを証明した。

本研究で得られた結果から今後の展望を述べる。歪印加によるバンド構造の操作は、液滴を不安定化するだけでなく、低温において観測される多励起子状態の制御も行えると考えられる。二光子吸収励起法においては、励起法の特徴を生かし、励起子準位への共鳴励起による低温励起子の生成や、不均一歪分布した試料内部への選択励起が考えられる。これらの研究の過程で観測される電子正孔相は、本研究で確立した分光法による定量評価が有用である。最後に、間接遷移型半導体における励起子ボーズアインシュタイン凝縮(BEC)相について考える。これまで、間接遷移型半導体は、液滴相が励起子BEC相生成の障壁になると考えられてきた。しかし本研究で、低温では液滴形成が促進されないことがわかった。さらに、低温で観測された多励起子状態は歪印加により制御できる可能性がある。以上より、間接遷移型半導体においても励起子BEC相の研究が進むことが期待される。

参考文献[1] L. V. Keldysh, Proceedings of the Ninth International Conference on Physics of Semiconductors, Nauka, Leningrad (1968), p.1307.[2] "Electron-hole droplets in semiconductors", edited by C.D. Jefferies and L.V. Keldysh, (North-Holland, Amsterdam, 1983).[3] R. M. Westervelt, phys. stat. sol. (b) 74 (1976) 727.[4] R. Shimano, M. Nagai, K. Horiuchi, and M. Kuwata-Gonokami, Phys. Rev. Lett. 88 (2001) 057404.[5] M. Nagai, R. Shimano, K. Horiuchi, and M. Kuwata-Gonokami, Phys. Rev. B 68 (2003) 081202(R).[6] J. Jiang, M.W. Wu, M. Nagai, and M. Kuwata-Gonokami, Phys. Rev. B 71 (2005) 035215.[7] T. Tayagaki, A. Mysyrowicz and M. Kuwata-Gonokami, J. Phys. Soc. Jpn. 74 (2005) 1423.[8] T. Suzuki and R. Shimano, Phys. Rev. Lett. 103 (2009) 057401.[9] J. S. Wang and C. Kittel, Phys. Lett. 42A (1972) 189.[10] A. G. Steel, W. G. McMullan and M. L. W. Thewalt, Phys. Rev. Lett. 59 (1987) 2899.(*1) N. Naka, J. Omachi and M. Kuwata-Gonokami, Phys. Rev. B 76 (2007) 193202.(*2) J. Omachi, N. Naka, K. Yoshioka and M. Kuwata-Gonokami, J. Phys. Conf. Ser. 148 (2009) 012051.(*3) N. Naka, T. Kitamura, J. Omachi and M. Kuwata-Gonokami, phys. stat. sol. (b) 245 (2008) 2676.
審査要旨 要旨を表示する

ダイヤモンドは構造と物性共に固体物理学における典型物質として古くから研究されてきた。その高い熱伝導性、高硬度性、紫外線および赤外線透過性といった性質により応用上も重要な物質として知られている。最近では、ダイヤモンドの欠陥に束縛された単一電子のスピン自由度を量子ビットに利用する可能性が注目され、スピン系の緩和や操作法について研究がすすめられている。ダイヤモンドは間接遷移型のワイドギャップ半導体であり、電子構造はシリコンと類似している。近年、高温高圧下での結晶成長やCVD法により、高品質の単結晶を成長する技術が開拓され、人工結晶を用いて、伝導特性や光学特性について詳細な研究が行われるようになった。また、レーザー技術の進歩により、紫外領域の波長可変レーザー光源を用いた分光実験や、紫外の強力なパルス光源による高密度励起現象の探索が可能となり、様々な励起条件下での光学特性の評価が進められるようになってきた。本研究は、紫外領域のフェムト秒パルス光源を用いて、ダイヤモンド結晶を強く励起し、高密度の電子正孔系の挙動について分光学的に調べるとともに、電子正孔系の物質相の制御法について分光学的に探索したものである。

本論文は以下の8章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、本論文の序論として、電子正孔系の物質相探索という観点からダイヤモンドに着目する理由を述べ、本研究の背景を説明している。次に、本研究の目的を述べ、本論文の構成を示している。

第2章では本研究の理論的背景として間接遷移型半導体の電子正孔系が示す状態として、励起子ガス状態、励起子分子状態、多励起子束縛状態、電子正孔液滴状態について、電子状態の性質と分光学的な特徴について述べている。

第3章では、本研究の主題である、ダイヤモンドについてその基礎光物性についてまとめている。さらに本研究で用いた単結晶試料についてその基礎評価の結果を示している。

第4章では、歪印加によって電子正孔液滴相を制御する実験について述べている。まず、一軸応力下での電子状態変化とそれに伴う電子正孔系の安定相の変化について考察している。続いて、ヘルチアン接触法による不均一歪場発生の原理を説明し、この手法を用いた実験について述べている。発光スペクトル観察の結果から、歪印加による伝導電子帯の縮退度の低下によって、電子正孔液滴形成が抑制されると結論した。

第5章では、液滴形成のダイナミクスを探る新しい手法として、ダブルパルス励起下での発光相関測定法について述べている。実験法について測定系と測定原理について述べた後、実験結果を示し、液滴形成のダイナミクスについて得られた知見についてまとめている。その結果、低温領域で液滴形成が抑制されることが見いだされた。

第6章では、2光子励起法による実験について述べている。2光子励起法は結晶の広い領域に一様に電子正孔を励起できることが特徴である。この場合電子正孔系と格子系との熱接触がよくとれ、電子正孔系が低温になることが確認された。この状態で広い励起密度領域で発光を観察したところ、特徴的な発光が観測された。この起源について、理論的に予言されているマルチバレー構造を有する電子系に特有な多励起子束縛状態である可能性について検討が行われた。また低温領域において、この多励起子束縛状態を経由して、液滴が形成されることが示唆される結果を得た。

第7章では、電子正孔系の性質を評価する別の手法として、光励起によって生じた電子正孔による中赤外領域の光学応答の検出について論じている。励起子をイオン化する過程に対応する光学吸収のスペクトル形状と強度について議論し、励起子数の定量評価法として利用できることを示している。高密度励起下で生じる電子正孔液滴は中赤外領域に表面プラズモンに特有なスペクトルを示すことについて述べ、そのスペクトル解析から、液滴中の電子正孔密度を評価できることを指摘している。これらをふまえ、実際に実験を行い、励起子ガス相と電子正孔液滴相を分離することに成功した。これにより、液滴中の電子正孔密度が発光スペクトル形状からの推測される値とほぼ一致し、非常に高密度になっていることが確認された。

第8章では、本研究の結果をまとめ、残された課題と今後の展望について述べている。

以上のように本研究は、高品質のダイヤモンド単結晶を用いて、時間分解発光測定および中赤外領域のポンププローブ分光法、歪印加により強い紫外パルス光照射のもとで生じる電子正孔系の諸相について系統的な研究を行ったものである。歪場による電子正孔液滴相の抑制、低温領域での液滴形成の抑制、多励起子束縛状態を示唆する発光の検出、電子正孔液滴中の密度評価などに成功した。これらは、半導体光物性研究の中心課題の一つである、電子正孔系の物質相について新たな知見を与えるものである。また、今後応用上も重要となるダイヤモンドの光学特性について新たな知見を与えており、工学的にも意義のある成果である。また、本研究で開拓された、レーザー分光法に基礎をおく実験手法は紫外パルスや中赤外パルスを用いた光物性研究の端緒となるものである。これら本研究の成果は今後の物理工学の発展に大きく寄与することが期待される。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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