学位論文要旨



No 125728
著者(漢字) 川崎,猛史
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,タケシ
標題(和) ブラウン動力学法によるコロイド分散系のガラス転移と結晶化に関する研究
標題(洋)
報告番号 125728
報告番号 甲25728
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7261号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 酒井,啓司
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 特任講師 奥薗,透
内容要旨 要旨を表示する

(本文)ガラス状態とは、構造は液体の様に長距離相関はないが、粒子の運動が凍結した状態をいう。ガラス転移現象の大きな特徴は、転移点近傍にある過冷却液体の二体の密度相関関数などで特徴付けられる静的な構造が僅かしか変化しないのに対し、動的な性質が劇的な変化を示すという点にある。ガラス転移に関しては、これまでに膨大な研究がなされてきたが、そのメカニズムは未解明のままである。近年、ガラス転移点近傍において、粒子の運動に協同性が発現し、構造緩和時間が空間的に不均一になることが明らかとなってきた。これを動的不均一性と言い、ガラス転移を理解する上で重要な現象として注目されている。ガラス転移自身に関する研究は、数十年にも及び、その間にモード結合理論など様々な理論が提案されたが、動的不均一性の起源が何に起因するのかという問いに対する、物理的に満足のいく知見は得られていない。

そこで、我々は、結晶化こそがガラス化において重要な役割を担っているという独自の考えに立ち、結晶を基底状態として、ガラス化について系統的な研究を行うことが可能である、多分散(粒径に分散をもたせた)コロイド系(ハードコア系)のブラウン動力学法による計算機実験により研究を進めてきた。本モデルでは、系の体積分率の上昇に伴い、拡散が抑制され、粒径の分散が小さい系では結晶化する一方、分散の大きい系では、多分散性に起因した幾何学的フラストレーションのため、結晶化せずに運動が凍結され、ガラス状態に転移する。そもそも、従来のガラス化の計算においては、結晶化そのものが、ガラス化にとって重要であるという認識がなかったため、ガラス転移の研究に邪魔であると考えられていた結晶化を、完全に阻害した系を用いて、研究するのが一般的であった。これに対し本研究は、結晶化からガラス化までを多分散性という一つの物理因子により制御可能な点に最も大きな特徴を持つ。我々は、結晶化に対するフラストレーションである粒径分散を、制御因子とすることにより、結晶化する場合からガラス化する場合を系統的に調べ、ガラス転移とその周辺の物理現象に対し、結晶化との関係について理解することを目的とし研究を進め、本学位論文にまとめた。

なお、本論文は以下の8章から構成されている。以下、各章の要点について記す。

第1章では、前述の研究背景と目的について説明した。

第2章では、前述のブラウン動力学法を用いた本研究のシミュレーション手法についてまとめた。

第3章から第7章までは研究結果についてまとめている。

第3章では、2次元系における秩序構造とガラス形成能および動的不均一性の関係について調べた結果をまとめた。本章では、まず粒径分散Δ(ガウス分布の分散値)を変化させた時の、ガラス形成能について調べた結果、Δが9%以上において、過冷却状態が安定的に得られる(ガラス化する)ことがわかり、粒径分散Δと体積分率φに対する相図を作成した。次に、ガラス化する系における動的性質を考察するために、構造緩和時間のφ依存性を計算すると、Δの増大に伴いガラス転移点付近で急激に緩和時間が増大するfragileな液体から、アレニウス的なstrongな液体に変化することを見出した。一方で、微視的な視点からガラス転移点近傍における過冷却液体の構造に注目すべく、各粒子に対し六回のボンド配向秩序変数ψ6を計算すると、過冷却液体中に結晶秩序の高い領域が長時間形成されていることを発見した。さらにこの様な結晶的中距離秩序を形成する粒子はそれ以外の粒子に比べて動きにくいという相関が明らかとなり、動的不均一性が結晶的中距離秩序の存在に起因することを示唆する結果を得た。さらに結晶的中距離秩序の特徴的大きさと動的不均一性の空間スケールの比較を行った。すると各粒径分散の系でそれぞれ、理想ガラス転移点φに向かい増大することが分かった。また、各長さスケールと構造緩和時間の関係は、τα=τ0exp(D(S/S0)d/2) (D; フラジリティーインデックス、d;次元)という簡単な関係式で記述されることを確かめた。以上の結果から、ガラス転移点近傍では、結晶的中距離秩序に起因する動的な空間スケールが増大し、これに伴い構造緩和時間が遅くなることがわかった。また、これらの間には、fragilityが深く関係していることを明らかにした。

第4章では、2次元系における揺動散逸定理(FDT)の見かけの破れと結晶的中距離秩序の関係について調べた結果をまとめている。FDTの破れとは、Einsteinの関係式で特徴付けられる有効温度Teff=Ds/kBμ(Ds;拡散定数、kB;ボルツマン定数、μ移動度)が、非エルゴード状態において、熱浴の温度(Tbath)と異なった値として観測されるという現象を言う。通常の液体では、構造緩和時間程度の時間スケールでFDTは満たされると考えられているが、超寿命のメソ構造が存在するような液体では、この限りではなく、緩和時間程度の時間スケールでは見かけ上FDTが破れるといった現象が観測されることが予測される。そこで、過冷却液体において長寿命の結晶的中距離秩序が存在する、2次元多分散コロイド系の計算機実験を用い、この是非を確かめた。本研究では、過冷却液体中に、捕捉粒子を用意し、これらに弱い外力を加え、捕捉粒子の移動度μ=νst/Fex (νst;粒子の定常速度、Fex ; 外力の大きさ)を計算し、拡散係数Dsとの比から、Teffを算出した。その結果、結晶的中距離秩序が大きく発達している系ほど、Teffが大きくなり、Tbathから外れるという傾向を見出した。また、実際に捕捉粒子の運動を観察すると、秩序領域に粒子が侵入できず、それが消滅するまで、同じ場所にトラップされることを確認した。結晶的中距離秩序が大きい系ほど長時間粒子がトラップされ、これにより粒子の移動度が小さくなり、有効温度が上昇するという知見を得た。以上、長寿命の結晶的中距離秩序が、FDTの見かけの破れに寄与することを明らかにした。

第5章では、より現実的な3次元系多分散コロイド系における動的不均一性の構造起源について調べた結果をまとめた。本章ではまず、ガラス的挙動を見せ始める粒径分散Δの値を見積ったところ、およそΔが6%以上の時過冷却状態が安定的に得られガラス化が観測されることがわかった。次に、ガラス転移点近傍における静的な構造を解析すべく、各粒子に対して球面調和関数から計算されるボンド配向秩序変数Q6 を計算すると、局所的に秩序度の高い領域が存在することが分かった。さらに秩序度の高いクラスター内の構造を、静的構造因子などから計算すると、それらが六方最密充填(hcp)構造をとっており、3次元系においても結晶的中距離秩序が存在することを発見した。さらに、秩序を構成している粒子の運動は遅く、我々が見つけた結晶的中距離秩序が、3次元においても, 動的不均一性の起源の一つとなっているという知見を得た。

第6章では、前章に引き続き3次元系における、過冷却液体の結晶化について調べた結果をまとめた。過冷却液体が結晶化する際の素過程を構造面から観察したところ、hcp構造をもつ結晶的中距離秩序の中心付近から、面心立方格子(fcc)的な構造をもつ結晶核が生成することがわかった。古典核形成理論では、バルクや界面のエネルギーは、均一な液体と終状態の結晶構造から計算される。一方で、本研究により、液体中に結晶の前駆体となりうる中距離秩序が存在し、その中からのみ、結晶核が生成し成長することが分かった。このことは、均一な液体中から結晶核が生成・成長する場合と比べ、中距離秩序の内部からの方が、臨界核サイズを越える際のエネルギー障壁が低いことを示唆している。先行研究において、実験結果の古典核形成理論との不一致などが多々報告されているが、この物理的起源は、中距離秩序が結晶核の前駆体になっていることであると考えられる。

第7章では、2次元と3次元系における過冷却液体のエイジング過程における構造とダイナミクスの関係について調べた結果をまとめた。液体をクエンチすると、熱力学的により安定な状態への遷移を反映して、エイジングとして知られる現象が観測される。クエンチ直後から、時間(待ち時間tw)が経つと、粘性率や緩和時間の増大が観測される。この現象は、様々なガラス形成物質において観測されているが、エイジング過程における緩和の減速の物理的な起源は非自明である。そこで前章までの研究を踏まえ、構造とダイナミクスの関係について調べると、2次元と3次元系ともに、twの増大に伴い結晶的中距離秩序の大きさが大きくなることを見出した。さらに、相関長と緩和時間の間にはエルゴード系で得られた、τα=τ0exp(D(S/S0)d/2)の関係がエイジング系においても成り立つことを見出した。

第8章では、以上の結果の総括を行った。

最後に、本研究の成果をまとめる。以上で記した通り、コロイド分散系の計算実験の結果、本系の過冷却液体において見出された結晶的中距離秩序の存在が、ガラス転移を特徴付けるスローダイナミクスと、これに関係する様々な物理現象と密接に関係していることを強く示唆する結果を得た。これに加え、過冷却液体が結晶化する過程において結晶的中距離秩序がその前駆体を担っていることを見出した。このことは、 結晶化に対するフラストレーションの強さが、ガラス形成能およびガラス転移および結晶化そのものの性質を制御していることを意味している。つまり、ガラス化はフラストレーションの影響下での隠れた結晶化の過程であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、ブラウン動力学法を手段とし、コロイド分散系のガラス転移点近傍での遅い構造緩和、動的不均一性、エイジングといったガラス転移にかかわる未解明問題の物理的起源を明らかにすることを目的として行なわれた。

第1章では、上記研究背景と目的について記されている。ガラス転移現象における未解明問題として、液体の構造にほとんど変化がないにもかかわらず、緩和時間が10桁も増大すること、さらに、系のダイナミクスの空間的な不均一化(動的不均一性)が挙げられる。近年行われた、静的な構造と動的不均一性の関係に注目した研究例にも触れ、 静的な構造と動的不均一性のかかわりを調べることで、ガラス転移に伴う遅いダイナミクスの物理的起源に迫ろうという本論文の中心的な目的が記されている。

第2章では、前述のブラウン動力学法を用いた本研究のシミュレーション手法について、粒子間相互作用の効率の良い計算法や周期的境界条件といった粒子計算の詳細について記されている。

第3章では、2次元多分散コロイド系において、幾何学的フラストレーション(粒系分散)の度合いを制御した際の、過冷却液体のフラジリティー、ボンド秩序構造と動的不均一性の関係について記されている。本章の研究により、ガラス化する粒系分散9%以上の系における動的性質(構造緩和時間の充填率依存性)を調べた結果、粒径分散の増大に伴い、ガラス転移点付近で急激に緩和時間が増大する傾向が弱くなることが見出された。一方、過冷却液体中の構造に注目すると、結晶的中距離ボンド秩序(結晶構造に近いボンド対称性をもち、構造緩和時間よりも長い寿命を持つクラスター)が存在することが明らかとなった。また、動的不均一性と結晶的中距離ボンド秩序の間に、ほぼ一対一の関係があることが明らかとなった。

第4章では、2次元多分散コロイド系における見かけ上の揺動散逸定理の破れと結晶的中距離ボンド秩序の存在との関係について調べた結果が記されている。過冷却液体において長寿命の結晶的中距離ボンド秩序が存在する過冷却液体中に、プローブ粒子を用意し、それを外力により駆動した際の移動度と熱揺らぎのもとでの粒子の拡散係数との比から有効温度を算出した。その結果、過冷却液体の緩和時間程度の時間スケールで観測された有効温度は、熱浴の温度から外れ、揺動散逸定理が見かけ上破れてしまうことがわかった。これより、本系を特徴付ける最長の時間スケールは、構造緩和時間ではなく秩序構造の寿命であることが見出された。

第5章では、より現実的な系としての3次元多分散コロイド系における動的不均一性の構造起源について研究について記されている。本章では、過冷却液体が比較的安定的に得られる粒系分散6%以上の系において、ガラス転移点近傍における静的な構造を観察すべく各粒子に対してボンド配向秩序変数を計算したところ、六方最密充填(hcp)構造に対応する結晶的中距離ボンド秩序が存在することが見出された。さらに、秩序の高い領域の粒子の運動は遅く、結晶的中距離ボンド秩序が、3次元においても、動的不均一性の起源の一つとなっているという知見が得られた。

第6章では、3次元単分散過冷却コロイド液体の結晶化の素過程についての研究が記されている。過冷却液体が結晶化する際の素過程を、構造面から調べた結果、hcp構造をもつ結晶的中距離ボンド秩序の領域の中から、面心立方格子(fcc)的な構造をもつ結晶核が生成することが本研究により見出された。このことは、古典核形成理論の前提となっている均一かつ乱雑な構造を持つ液体中から結晶核が生成・成長するという描像と異なり、核生成の際、界面エネルギーの損失が少ない中距離ボンド秩序の高い領域内に、選択的に結晶核が発現するというシナリオが示唆された。先行研究において、古典核形成理論と実験結果との不一致などが多々報告されているが、その物理的起源は、本章で見出された現象と大いに関係があると考えられる。

第7章では、2次元と3次元多分散コロイド系における過冷却液体のエイジング過程における構造とダイナミクスの関係について調べた結果が記されている。本研究により、2次元と3次元系ともに、待ち時間の増大に伴う緩和の減速と同時に、結晶的中距離ボンド秩序の相関長が長くなることが見出された。さらに、結晶秩序の構造緩和時間と相関長の間には、エルゴード系で得られた関係式が、エイジング系においてもそのまま成り立つことが明らかになった。このことは、ガラス化に伴うスローダイナミクスが結晶的中距離ボンド秩序の大きさによって特徴付けられることを示唆するものである。

以上のように、本研究で得られた成果は、ガラス転移にともなう遅いダイナミクスの起源について新しい視点を提示しており、物理工学上非常に重要なものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク