学位論文要旨



No 125730
著者(漢字) 増渕,覚
著者(英字)
著者(カナ) マスブチ,サトル
標題(和) グラフェンナノ構造における量子輸送現象
標題(洋)
報告番号 125730
報告番号 甲25730
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7263号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 町田,友樹
 東京大学 教授 福谷,克之
 東京大学 教授 嶽山,正二郎
 東京大学 教授 染谷,隆夫
 東京大学 准教授 長田,俊人
内容要旨 要旨を表示する

炭素原子が蜂の巣格子状に結合した単分子膜「グラフェン」は、線形なエネルギー分散関係を有し、有効質量ゼロの相対論的粒子が電気伝導を担う。グラフェンは特異な電子輸送特性を示すため、次世代エレクトロニクス材料として期待されている。一方、グラフェンに比べ遙かに長い50年以上の歴史を有する半導体は、まずバルク物性を利用したトランジスターへ応用され、その後微細構造作製によりその応用可能性が飛躍的に高まり、超格子・量子井戸・量子ドットなどの量子デバイスへ進化した。グラフェンナノ構造を利用すれば、半導体ナノ構造の特長とグラフェンの特異な電子輸送特性を融合した新量子デバイスが実現すると期待される。筆者は、グラフェンナノ構造作製技術確立と量子デバイス実現可能性探求を目的として、本研究を開始した。

グラフェン作製技術確立

グラフェンを舞台とする研究を行うために、まずグラフェン電界効果型トランジスター素子を作製する必要がある。国内においては、グラフェンを作製しようと多くの研究グループが研究を開始していたが、すべての研究グループはグラフェンが十層程度積み重なったグラファイト多層膜作製にとどまっており、単層グラフェン素子作製は実現していなかった。

スコッチテープ法を利用し、グラフェンを熱酸化膜付きシリコン基板上に付着させた。単層グラフェンが形成されていることを光学顕微鏡・ラマン分光法により確認した。ホールバー型グラフェン電界効果型トランジスター素子[図1(a)]にて縦抵抗値のゲート電圧依存性を測定し、電子でもホールでも注入できる両極性電界効果を観測した[図1(b)]。磁場B = 9 Tを印加し電気伝導測定を行い、ホール抵抗値がRH = h/4e2(n+1/2)-1, n = 0, ±1, ±2,… に量子化される半整数量子ホール効果を観測した[図1(c)]。この結果は、単層グラフェンの電子輸送特性測定が実現していることを示す。

グラフェンナノ構造における量子輸送現象

グラフェンをチャネル材料として量子ドットを作製すれば、グラフェンの特異な電子輸送特性と量子ドットにおけるエネルギーの離散性を融合した新たな電子輸送特性を持つ量子素子が実現すると期待される。グラフェンは光速の1/300という極めて高いフェルミ速度を有し、単分子膜であることから、既存の半導体・金属を利用した場合に比べ高い温度で動作すると期待される。また、単電子帯電効果と高移動度特性を組み合わせることで高速・高感度光子検出器開発が期待される。しかしグラフェンはゼロギャップ導体であるため、単電子トランジスター素子を作製するためには、まずバンドギャップエンジニアリングを行いゲート電圧による電流のON/OFF制御を実現する必要がある。

そこで筆者はまず、酸素プラズマエッチング法を利用することにより、幅120 nmのナノリボン素子を作製した。T = 1.7 K にてコンダクタンスのゲート電圧依存性を測定し、ディラック点付近においてコンダクタンスがゼロになることを確認した。この結果は、キャリアの量子閉じ込め効果により、ナノリボン中にトランスポートギャップが形成されたことを示している。

グラフェンナノリボンをトンネル障壁として利用し、単一量子ドット素子および結合二重量子ドット素子を作製した[図 2 (a), (b)]。単一量子ドット素子において、微分コンダクタンスのゲート電圧依存性・ソースドレイン電圧依存性を測定し、単電子トンネリング現象・およびクーロンブロッケード現象を観測した[図3]。さらに、結合二重量子ドット素子を作製し、電荷安定度ダイアグラムを測定したところ、ハニカム状の電流抑制領域が観測された[図4(a)]。この結果は、グラフェン結合二重量子ドット素子が「人工分子」として動作していることを示す。さらに、量子ドット間に設置されているサイドゲートに電圧を印加したところ、電荷安定度ダイアグラムの電流抑制領域がドット状に変化した[図4(b)]。これらの結果は、ドット間結合の強さがゲート電圧により変調可能であること示しており、グラフェンを伝導チャネルとする制御可能な「二準位系」が形成されていることを示す。以上の結果は、グラフェンを用いて様々な量子回路が作製可能であることを示しており、グラフェンの幅広い応用可能性を示している。

グラフェンナノ構造へのスピン注入

近年、電子の電荷だけでなくスピンをも操作することで、さらなる高機能デバイスの実現を目指す、「スピントロニクス」が注目を集めている。とくに、スピン依存伝導現象をゲート電界により制御する「スピンFET」は、半導体デバイスの機能を飛躍的に進歩させる可能性を有する。グラフェンは強磁性と接合を形成し、スピン依存伝導現象を示すが、これまでグラフェンナノ構造へのスピン注入は実現されてこなかった。グラフェンナノ構造へのスピン注入により、スピン依存伝導現象と量子輸送現象を融合した新量子デバイス開発が期待される。

筆者は、グラフェンにNi強磁性ナノギャップ電極を接合したスピンバルブ素子の輸送特性評価を行った。ナノギャップ電極を有するグラフェン素子においては、電子波が電極間で多数回反射され、電子波のファブリーペロー干渉が生じ、コンダクタンスがゲート電圧に対して周期的に振動する。理論的に、スピン依存伝導現象がファブリーペロー干渉効果により制御可能であることが示されている。磁気抵抗効果測定を行ったところ、磁気抵抗曲線が明瞭なヒステリシスを示し、スピン依存伝導観測に成功した[図 5(a)]。ゲート電圧を変化させると、磁気抵抗効果の符号が正から負に変化し[図 5(b)]、コンダクタンス振動と同期して振動的に変化した。さらに、グラフェンナノリボン素子に強磁性電極を取り付け、スピンバルブ構造を作製し磁気抵抗測定を行ったところ、コンダクタンス振動振幅増大とともに明瞭なヒステリシス曲線が得られ、シグナルが大きく向上した。これらの結果は、グラフェンにおいてファブリーペロー干渉効果を利用することによりスピン依存伝導現象がゲート電解により制御可能であることを示している。

原子間力顕微鏡を利用したグラフェンの微細加工技術確立

従来グラフェンナノ構造の作製には、酸素プラズマエッチングと電子線リソグラフィー法を組み合わせた手法が用いられてきた。しかしこの手法は、プラズマによりグラフェンにダメージが入る・最小加工寸法が数十nm程度である・レジスト材料によるグラフェンへの不純物吸着が避けられないといった課題がある。そこで筆者は、原子間力顕微鏡を利用した陽極酸化法によるグラフェンの微細加工技術の開発を行った。グラフェンは基板表面に形成されている単分子膜であるため極めて高い解像度が期待され、陽極酸化法に理想的な系であるといえる。

原子間力顕微鏡を利用した陽極酸化法を利用し、幅800 nmのホールバーおよび幅55 nmのナノリボン素子[図 6(a)]を作製した。ホールバー素子において、明瞭な半整数量子ホール効果を観測し、陽極酸化法により作製したナノ構造において、ディラックフェルミオンに特有の量子輸送現象が観測可能であることを示した。また、ナノリボン素子において、コンダクタンスの温度依存性を測定することにより、電荷の閉じこめにより単層グラフェンにエネルギーギャップが生じたことを示した。[S. Masubuchi et al., APL 94, 082107 (2009).]

半整数量子ホール効果

グラフェンの電気伝導を担うディラックフェルミオンが示す顕著な量子物性に、半整数量子ホール効果が挙げられる。グラフェンの基礎物性解明の観点から、半整数量子ホール効果の研究も行った。非破壊型ロングパルスマグネットを利用することにより、最大磁場53T、パルス幅80msのパルス強磁場を発生させた。電子・ホールを注入したグラフェン試料においてホール抵抗値の磁場依存性を測定したところ、どちらのキャリアを注入した場合も、ホール抵抗値がRH = h/4e2(n+1/2)-1, n = 0, ±1, ±2, ±3に量子化され、半整数量子ホール効果観測に成功した[図7]。この結果は、パルス強磁場技術を利用した半整数量子ホール効果の初めての観測例であり、パルス強磁場技術がグラフェンの量子ホール効果研究に適用可能であることを示している。[S. Masubuchi et al., JPSJ 77, 113707 (2008).]

結論

グラフェンをチャネル材料として利用し、単一量子ドット・結合二重量子ドット素子を作製した。クーロンブロッケード現象観測、ドット間結合の電気的制御が実現し、グラフェンを利用した量子回路実現可能性を示した。さらに、グラフェンナノ構造におけるスピン依存伝導現象解明に取り組み、電子波のファブリーペロー干渉効果によるスピン依存伝導現象制御可能性を見いだした。また、グラフェンナノ構造のさらなる微細化のため、原子間力顕微鏡を利用した陽極酸化法によるグラフェン微細加工技術を確立した。基礎物性解明の観点から、半整数量子ホール効果研究にも取り組んだ。これらの結果は、グラフェンナノ構造の応用可能性を示しており、本研究によりグラフェンナノデバイス研究の基礎・応用両面での発展に向けた基礎を築いた。

図1.(a) グラフェンホールバー素子の光学顕微鏡写真。(b) B = 0 TにおけるRxx のVg依存性。(c) B = 9 T におけるRxx、RHのVg依存性。

図2.(a) 単一量子ドット, (b) 結合二重量子ドット素子のAFM写真。

図3. 単一量子ドット素子にて測定した微分コンダクタンスのソースドレイン電圧・ゲート電圧依存性。

図4. 結合二重量子ドット素子にて測定した、ドット間結合が(a) 強い場合 (b) 弱い場合の電荷安定度図。色の薄い部分でコンダクタンスが増大。

図5.Vg = (a) 31.85 V, (b) 32.35 V における2端子抵抗値の磁場依存性 (T = 4.2 K)

図6.(a) 単層グラフェンナノリボン素子のAFM 写真。(b) T = 300 (点線), 77(破線), 4.2 K (実線) におけるコンダクタンスのゲート電圧依存性。

図7.パルス強磁場技術を利用して測定した、ホール抵抗値の磁場依存性。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、グラフェンナノ構造の作製とその量子デバイス実現に向けた基礎研究に関するものである。新たなグラフェンナノ構造作製技術を確立するとともに、グラフェン量子ドット・グラフェン結合二重量子ドット・ナノ構造スピンバルブ素子などの新たな量子機能素子が実現可能であることを実験的に示している。論文は以下の内容の7章から構成されている。

第1章では序論として、研究の背景と目的が記述されている。炭素原子が蜂の巣格子状に結合した単分子膜「グラフェン」は、線形なエネルギー分散関係を有し、有効質量ゼロの相対論的粒子が電気伝導を担う特殊な系である。長年の間、机上の産物と考えられていたが、近年、劈開法という驚くほど原始的な手法でその形成が確認され、特異な電子輸送特性から物性的な興味を集めるとともに次世代エレクトロニクス材料としても期待されている。グラフェンナノ構造作製技術の確立と、グラフェンナノ構造を利用した量子デバイス実現が本研究の目的である。

第2章ではグラフェン素子作製技術として、単層グラフェンの作製法・評価法について記述されている。論文執筆者が研究を開始した当時、グラフェン素子作製に成功した研究グループは世界でも非常に限られていた。本研究ではメカニカル劈開法を利用してグラフェン電界効果型トランジスター素子を作製し、両極性電界効果・半整数量子ホール効果を観測している

第3章ではグラフェンナノ構造作製技術として、原子間力顕微鏡を用いたグラフェンナノ構造の作製技術開発について記述されている。原子間力顕微鏡を利用した陽極酸化法に着目し、幅55 nm程度のナノリボン素子が作製されている。ナノリボン素子の電気伝導測定によりコンダクタンスの顕著な温度依存性と非線形性が観測され、トランスポートギャップの形成が確認されている。この結果は陽極酸化法を利用したはじめてのグラフェンナノデバイス作製例である。

第4章では電子線リソグラフィー法とプラズマエッチングの組み合わせによる量子ドット素子の作製技術の開発について記述されている。グラフェンナノリボンを基本構造として利用し、単一量子ドット素子および結合二重量子ドット素子が作製されている。単一量子ドット素子において単電子トンネリング現象・クーロンブロッケード現象を観測している。さらに結合二重量子ドット素子の電荷安定度ダイアグラム測定において、ハニカム状の電流抑制領域が観測されている。この結果は、グラフェン結合二重量子ドット素子が「人工分子」として動作していることを示している。さらに、量子ドット間に設置されているサイドゲート電圧の調整により電荷安定度ダイアグラムの電流抑制領域がストライプ状・ドット状に変化する様子が観測され、量子ドット間結合がゲート電圧により変調可能であること示している。以上の結果は、グラフェンを用いて様々な量子回路が作製可能であることを示しており、グラフェンの幅広い応用可能性を示している。

第5章はグラフェンナノ構造へのスピン注入として、グラフェンにおけるスピン伝導とその制御について記述されている。近年、電子の電荷だけでなくスピンをも操作することで、さらなる高機能デバイスの実現を目指す「スピントロニクス」が注目を集めている。とくに、スピン依存伝導現象をゲート制御する素子は半導体デバイスの機能を飛躍的に進歩させる可能性を有する。グラフェンに強磁性ナノギャップ電極を接合したスピンバルブ素子において磁気抵抗曲線が明瞭なヒステリシスを示し、スピン依存伝導が観測されている。さらにナノギャップ電極を有するグラフェン素子においては、ファブリーペロー干渉効果に起因すると考えられるコンダクタンス振動と、それに同期した磁気抵抗効果の変調が観測されており、グラフェンにおいてファブリーペロー干渉効果を利用することによるスピン依存伝導制御の可能性を示している。

第6章はパルス強磁場を利用した半整数量子ホール効果の測定について記述されている。非破壊型ロングパルスマグネットを利用することにより、最大磁場53 T、パルス幅80 msのパルス強磁場を発生させ、輸送現象測定を行っている。電子・ホールのどちらのキャリアを注入した場合でも半整数量子ホール効果が観測されており、パルス強磁場技術がグラフェンの量子ホール効果研究に適用可能であることを示している。本測定はパルス強磁場技術を利用した半整数量子ホール効果の初めての観測例である。

第7章は結論として、本研究をまとめている。本研究では新たなグラフェンナノ構造作製技術を確立するとともに、ナノ構造における離散的エネルギー準位形成効果とグラフェンの特長を利用することで、グラフェン結合二重量子ドット・ナノ構造スピンバルブ素子などの新たな量子機能素子が実現可能であることを実験的に示した。これらの結果は、グラフェンナノ構造を利用した応用素子実現に向けた重要な一歩であるとしている。

以上、本研究ではグラフェンナノ構造の作製技術の開発と、その量子輸送現象特性に関する研究がまとめられている。審査員からは、二重量子ドットの量子輸送現象に関する実験結果の詳細な議論、本研究で世界に先駆けて実現したAFMリソグラフィーのメリットのアピール、グラフェンにおけるディラックフェルミオン特有の現象が観測されている部分の説明、グラフェンという新規材料の研究をゼロから立ち上げる上での困難であった点など、より詳細な説明と議論を加えるべきという指摘があったが、本研究はグラフェンという新規材料系の物性解明と素子応用への展開を拓く点で大きな意義があり、学位論文として十分な水準にあることが審査員全員によって認められた。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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