学位論文要旨



No 125733
著者(漢字) 淺田,義和
著者(英字)
著者(カナ) アサダ,ヨシカズ
標題(和) オントロジーおよびヒューマンファクター工学に基づく医療インシデントレポート分析支援システムに関する研究
標題(洋)
報告番号 125733
報告番号 甲25733
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7266号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 教授 青山,和浩
 東京大学 教授 大澤,幸生
 東京大学 准教授 菅野,太郎
内容要旨 要旨を表示する

医療分野では、重大事故にならずに済んだ軽度な事故やヒヤリ・ハットなどインシデント事象は航空などの産業と比較して膨大な件数が発生している。これらのインシデント事象はインシデントレポートとして提出され、各病院・施設での医療安全対策部によって分析が行われ、発生要因の調査、および再発防止対策の考案がなされている。しかし、レポートの山積している状況に加え、レポート分析が行える専門家の人手不足などの理由から、内容の集計・統計的な分析にとどまってしまうのが現状である。医療分野におけるインシデントレポートから背後要因や発生の因果関係をとらえ、再発防止対策を行う作業をより効果的に行うことは、安全性・信頼性の向上のために必要不可欠である。

こうした背景から、本研究では、以下の3つを研究目的として掲げる。

(目的1)医療インシデントの発生要因、および因果関係を整理し、インシデント分析を効率的に行うためのオントロジーを構築する。

(目的2)オントロジーを元に、インシデントレポートとして入力されたデータを自動処理し、背後要因や因果関係、および再発防止対策の推論・提示を行う分析システムを設計する。

(目的3)分析システムによる結果を用い、インシデントをその発生要因や因果関係から体系的にとらえ、再発防止対策の考案を行いやすくするために、インシデントの発生パターンについて整理を行う。

(目的1)については、過去のインシデントレポートのデータや分析事例などを元に、医療事故発生における要因として考えられる知識をP-mSHELLオントロジー、およびインシデントの因果オントロジーとして整理を行った。これらのオントロジーは、

1.インシデント分析に必要となる知識を階層的に整理し、

2.同義語などの特徴要素をタグ情報として持たせ、

3.必要に応じて、インシデントの因果に関するリンクを持たせる

という形で作成を行った。オントロジー設計にあたっては、実際のインシデントレポートや事故報告書、統計情報などを参考にしつつ手作業で行った。

P-mSHELLオントロジーは、医療事故の原因分析に用いられるP-mSHELLモデルに基づき、医療事故の原因として考えられる要素をP(患者)、m(マネジメント)、S(ソフトウェア)、H(ハードウェア)、E(環境)、L(人間)の視点で分類・整理をしたものである。P-mSHELLオントロジー設計の際には、薬品名や器具の名称などの同義語、過去の発生件数から算出した、その要素がインシデント発生に繋がった際の危険度などをタグとして付加した。

因果オントロジーはインシデント発生時の因果関係を整理するためのオントロジーである。このオントロジーではP-mSHELLの観点から、P起因で発生するインシデント、m起因で発生するインシデント、という形で整理を行う。インシデント発生時の因果関係は複数考えられる事があるため、P-mSHELLオントロジーとして要因を整理した後、因果オントロジーとして整理された内容を用いて因果関係の連鎖を特定していく事を行う。

このようにして設計したオントロジーを用いて、(目的2)としてレポート分析システムの設計を行った。レポート分析システムについては、以下の流れで動作を行う。

1.インシデントレポートの内容を電子データとして入力する。

2.キーワード情報、および自由記述で書かれた部分を抽出する。

3.自由記述の文章に関しては、形態素解析、および係り受け解析を行い、語句間の関連性を整理する。

4.2~3で得られたキーワード情報を、オントロジー上にある語句と照らし合わせ、マッピング(配置)を行う。マッピングの際、複数箇所に候補となるキーワードがある場合は、この段階では全てに対応付けを行い、後のステップで選定を行う。

5.マッピングされたキーワードに対して、オントロジー上に張られたリンクを用いて、その因果関係、背後要因の抽出を行う。それぞれの因果リンクに対し、

(ア)その原因・結果となるキーワードが共にマッピングされている場合、その因果関係が存在していたと判断する。

(イ)原因のみ、あるいは結果のみの場合、リンク先の階層を前後に参照し、マッピングされている項目があれば因果関係の候補として判断する。

6.再発防止対策案に関して、原因となった項目、および因果関係の情報に対し、原因の除去や代替案の必要性に関する推論・提示を行う。

7.得られたキーワード項目、因果関係情報、および再発防止対策案として判断された項目をまとめ、担当者による認証を行う。

(ア)インシデントの複雑さや危険度を考慮し、特に問題がなければシステムの分析結果を最終結果として用いる。

(イ)より詳細な分析が必要と判断した際は、システムの結果を参考にしながら人力での分析処理を続ける。

システムによる自動分析のステップは、この流れの中で2~6までである。最終的に人による判断を加えているのは、未知のインシデントや複雑・重大なインシデントに関しては人手を加えてより詳細に調査・分析を行う必要があるためである。本研究、および本システムは全インシデントレポートの自動分析を目的としているものではなく、山積したレポートを効率的に処理し、似通った傾向のインシデントが何度も発生してしまう状況を回避するとともに、入念な分析の必要があるインシデントに対して分析の人手を回しやすくするためのものである。

本システムの分析結果に関する検証は、システムの出力そのものを確認してもらうエキスパートジャッジに加え、既に詳細な分析がなされているレポートの分析結果とシステムによって得られた分析結果とを比較することで行っている。比較分析の際には、その発生要因や因果関係が正しく分析されているか否か、再発防止対策案が妥当なものであるか否か、インシデント全体の傾向が正しく反映されているか否か、という観点からインシデントの分析結果を比較し、妥当性の検証を行った。

検証を行ったシステムを用い、インシデントレポートからのパターン抽出という(目的3)を遂行した。インシデントレポートの分析結果において、その背後要因を入念に見ていくと、結果として表れるインシデントは全く違う物であっても、その根本要因として存在する物は同一である場合がある。また、インシデント発生までの因果連鎖の中で、複数種類のインシデントにおいて共通する、発生傾向の高い因果関係が存在する。こうした要因や因果関係を、インシデント発生に関するパターンとして整理することで、インシデントの傾向を正しくとらえ、再発防止対策を考案しやすくすることができる。また、インシデントの発生場所や日時などの統計情報に加え、発生までの傾向を観点に加えて整理を行うことで、安全文化の教育など、組織としての取り組みを行う上でも重要な指針として扱う事が可能になる。

このパターン分析を行う際には、複数のインシデントレポートを分析システムによって処理を行い、その結果に関して背後要因、および因果関係情報に着目して整理する。この背後要因、および因果関係情報について、インシデント間での共起判定を行い、共通項目として得られた要因を発生パターンの候補として取り上げることを行った。

本研究において、医療分野における全てのインシデントを網羅するには、用いるべき知識量が膨大になってしまう。そのため、(目的1)で設計したオントロジーは主に病室看護に関するインシデントを中心として設計してあり、外科手術中のインシデントなどに関しては不十分である。また、インシデントの分析システムに用いる事を主目的として設計したオントロジーとなっているため、教育等の他目的で用いる場合には応用のしやすい形でオントロジーを整理し直す必要がある。このため、インシデントオントロジーの更新、および発展性を考えた整備が今後の目標として掲げられる。また、これに伴って、新たなインシデントが発生した際、そのインシデント分析に必要とされる情報をオントロジーへ追加していく作業が必要になる。現状のシステムではこれらは手作業で行うことになっているが、インシデントのパターンに着目し、共通性を見出す事で、オントロジーの成長に関しても自動化ないし半自動化を図ることが可能となる。

インシデント分析そのものの結果に関しては、レポートの内容によって推論が必要となる量が大きく異なり、それに応じて結果の妥当性も変化している。インシデントレポートによっては発生時の状況をチェックするだけのものであったり、自由記述として1,2文が短く記載されているだけであったりするものも多い。このような場合にはレポート分析のほとんどが推論に頼ることになってしまい、詳細情報までは分析しきれない事が多い。一方、詳細な内容が平文として記載されているものであれば、因果関係や背後要因の推論の妥当性も高くなる。このため、発生パターンに着目した分析を行って推論精度を高めるほか、インシデントレポートの形式の定型化を行い、システムによる詳細な分析を容易に行えるよう調整していく必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、医療分野におけるインシデントレポートの要因分析を支援するシステムの提案を行うものである。インシデント分析に関する専門的な知識を整理したオントロジーを構築し、それに基づいてインシデントの要因および発生時の因果関係情報の探索を行うシステムを構築することで、これまで人手による処理が必要不可欠であった要因分析の一部を自動処理によって支援することに成功した。さらに、複数のレポートから得られる分析結果に着目することで、医療インシデント発生のパターンを抽出可能であることを示し、その具体例の提示を行ったとしている。

本論文は10章から構成される。

第1章は序論であり、医療分野におけるインシデント分析に関する背景、および提案モデルを考案するに到った理由を述べ、研究内容の概要を示す。

第2章では、ヒューマンエラーに関するこれまでの知見が述べられている。一般的なヒューマンエラーの特徴および分類を述べた後、医療現場に特有である特徴およびその対応策に関して概略し、他分野と比較した際の発生要因およびその因果関係の複雑さに関して説明している。

第3章では、インシデント分析に用いられる重要ないくつかの分析モデルを紹介する。構築したオントロジーに用いているP-mSHELLモデル、4STEP/M手法について解説を行った後、一般的なインシデント分析の作業フローおよび提案システムを用いる事で改善される作業フローについて解説する。

第4章では、提案システムの主体となるオントロジーの解説である。まず、一般的なオントロジーについて述べた後、提案システムで用いられるP-mSHELLオントロジーおよび因果オントロジーについてその構造、および構築方法に関しての説明が続く。このオントロジー構築においては、第2章および第3章で述べられた知見やモデルも使用されている。また、システムの運用を通じてオントロジーを更新していくための手法に関しても述べている。

第5章では、提案するインシデントレポート分析システムに関して述べている。提案システムはインシデントレポートから得られるテキスト情報について、インシデント分析に必要となる情報を抽出し、オントロジーの探索を通してその要因や因果関係などの提示を行うものである。その構造やアルゴリズムに関して記述されている。

第6章では、提案システムの妥当性を確認するための検証実験について、その方法および結果が示される。検証実験では日本医療機能評価機構によって集められたインシデント事例について、エキスパートジャッジによる分析結果とシステムによる分析結果とを比較し、分析手法が妥当であるとしている。

第7章では、横浜市立大学病院で発生した患者取違えの医療事故に関して、その概略および発生要因の解説を行った後、提案システムを用いて事故報告書の分析を行い、実事例に対する結果を提示している。

第8章では、医療インシデントの発生パターンについて述べている。提案システムの結果を用いたパターン抽出の手法について解説を行った後、その抽出結果としてパターンの例示が行われる。

第9章では、第8章までの研究についての考察および今後の展望が述べられている。オントロジーを成長・学習させることによる分析性能の向上、分析アルゴリズムの改良案、セマンティックWebの手法を応用する事による病院間での連携、およびインシデントのパターン整理を行う事による安全文化の学習支援としての側面に関して解説している。

最後に、第10章は本研究の結論である。

以上のように、本研究の成果は、医療事故分析に関する知見をオントロジーに整理し、それを用いたインシデント分析支援システムを提案したことであり、現場における医療インシデント分析に対して重要な知見を与えるものである。今後、本研究に関する洞察を基に、インシデント分析システムの改良が進められ、医療現場における利用を通じて医療安全の向上へと役立つ事が期待される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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