学位論文要旨



No 125736
著者(漢字) 橋本,資教
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ヨシノリ
標題(和) 線形イオントラップ中に捕獲された同位体イオン挙動の解明
標題(洋)
報告番号 125736
報告番号 甲25736
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7269号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 長谷川,秀一
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 高橋,浩之
 東京大学 准教授 門,信一郎
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

本研究はイオントラップ・レーザ冷却法による同位体分析を実現させることを念頭に置いている.近年レーザ分光技術の発展に伴い同位体分析分野においてもレーザが導入された.その中で共鳴イオン化質量分析法やAtom Trap Trace Analysis法が大成した手法である.これらの手法は従来法である加速器質量分析等と検出限界の較正が行われている.本研究で着目したイオントラップ・レーザ冷却法もレーザを用いた手法であり,これらの手法と同様に非常に高い精度での同位体分析が可能であると考えられる.既往の研究ではレーザ冷却可能な元素に対して実験的および理論的な知見が得られている.しかしながら同位体に着目した場合は,ほとんどの報告において支配的な同位体にほぼ限定され,複数の同位体や元素が存在する場合はほとんど研究対象とされておらず,同位体分析へ本手法を応用するためには知見が不十分である.そこで本研究では線形イオントラップ中に捕獲同位体の挙動を解明することを目的とした.本研究において対象とする元素をCa+とした.Ca+は複数の安定同位体が存在し,半導体レーザを利用することでレーザ冷却に必要な波長が実現でき,様々な分野で同位体分析の応用が期待されている.

本論文ではまず線形イオントラップ中に捕獲された同位体イオンの挙動を観測するために必要となる実験装置の開発を行い,複数同位体が同時に捕獲されている状態で最も支配的な場であるトラップポテンシャルの変化による同位体挙動への影響を明らかにした.さらにイオントラップ中に同時に捕獲される同位体を寒剤として利用した協同冷却による奇数同位体の観測を実現した.さらに天然存在比の小さい同位体の挙動を観測するために必要となる同位体選択的なイオンローディング法である共鳴イオン化法を導入し同位体選択性の評価を行った.

2.レーザ誘起蛍光(LIF)による単一イオンおよび同位体イオン観測システムの開発

少数イオンの取り扱いを実現することは同位体の挙動を測定する上で不可欠である.さらに最小単位である単一イオンは電子シェルビング法を利用した量子跳躍によるLIFの離散的な変化より観測が可能である.さらに冷却を十分行うことにより運動の幅が減少し,LIFのスペクトル観測において同位体シフトを用いた同位体観測が原理上可能となるが,Ca+イオンの場合は支配的な同位体である40Ca+の影響が懸念され直接の同位体を観測した例は報告されておらず,光共鳴イオン化を用いた同位体選択的なローディングが用いられている.そこで本研究では同位体選択的な手法を用いずにCa+同位体の観測を実現することを目的とした.そのために先ず支配的な同位体である40Ca+の単一イオン観測を実現することで,少数イオンの取り扱いを実現し,同位体選択的にローディングされていないCa+同位体イオンの観測を実現した.

3.トラップポテンシャルによる同位体挙動の変化

Mathieuパラメータa,qを操作することでレーザ冷却された同位体イオンが安定領域から外れる条件にし,除去することが原理上可能であるが,我々が知る限り報告された例はない.またMathieu方程式は単一イオンに対して成立する理論であり,同位体,イオン数およびレーザ冷却の効果は考慮されておらず複数の同位体が存在する場合には適応することが出来ない.また線形イオントラップでは四重極質量分析器とはイオンの挙動が異なり軸方向の閉じ込め用キャップ電極の影響も考慮しなければならない.これらの要因から実際にはトラップポテンシャルは理想的なものとは異なり様々な高次成分が含まれ,それによって非線形共鳴が発生する.今までに冷却イオンに関しては限られた範囲に対して報告されているが,同時に複数の同位体が捕獲されている状態での挙動は報告されていない.

そこで複数の同位体が捕獲されている状態で,同位体シフトを利用したLIF観測により偶数同位体に対しRFおよびDC電圧依存性を測定した.その結果,同位体ごとに著しくLIFが低下するディップが存在しMathieuの安定領域内部であっても捕獲イオンの挙動が不安定になる条件を同位体ごとに確認した.更に,複数の同位体が同時に捕獲される場合においては非線形共鳴の理論式と実験結果の間に有意な差が存在し同位体による非線形共鳴の影響を実験的に明らかにした.またこれらの特徴を利用することで,捕獲Ca+同位体イオンの選別を実現した.

4.超微細構造を有する奇数同位体43Ca+の観測

これまでの43Ca+に関するイオントラップ実験の報告では,天然存在比が小さいこと(0.135%)を考慮し,同位体濃縮したサンプルの利用や共鳴イオン化を用いた選択的なローディングが行われている.この点に関しては,43Ca+と同等の48Ca+ (0.187%)の取り扱い実績があるため取り扱い可能であるため天然サンプルから直接ローディングできると考えられる.しかしながら43Ca+は奇数同位体であり核スピンI = 7/2を有するため,レーザ冷却で用いる光学遷移のエネルギー準位に超微細構造をもつため,閉じたサイクルを形成し,直接レーザ冷却するためには,複数台のレーザやマイクロ波を用いた超微細構造の再励起が必要となる.更にレーザの偏光により縮退された超微細構造の磁気サブレベルへのポピュレーショントラップが生じるため,回避するために磁場を印加し縮退を解く必要がある.

そこで超微細構造を考慮したレーザシステムおよび磁気サブレベルの縮退を解くために必要となる磁場発生システムを導入した.そして実際に開発したシステム使用した実験によりローディングの段階から43Ca+を直接取り扱うことは隣接する同位体の効果により困難であることが判明した.そこで積極的に同時にローディングされる同位体を寒剤とした43Ca+の協同冷却を実現し,超微細構造に対応するスペクトルを確認した. さらに偶数同位体と同様に電圧を変化させることで43Ca+に対して発生する非線形共鳴を観測し,偶数同位体と同様の挙動を示すことが確認でき,同位体による核構造の違いによらずトラップポテンシャルの変化に伴う同位体挙動を観測可能となった.

5.イオンローディング法の検討

これまで本研究においては簡便なイオンローディング法であるレーザアブレーション法を採用しており,現在の手法では天然存在比の低い同位体である43Ca+の直接ローディングを天然サンプルから行うことは困難である.さらに存在比の小さい微量同位体46Ca(0.004%)および極微量同位体41Ca(10-12%)の挙動を測定するためには,同位体選択的なローディングを行う必要がある.そこで同位体選択的な手法として有用な光共鳴イオン化を実現するために必要となる実験システムを開発し評価を行った.まずレーザアブレーションによるイオンローディングと比較して,光共鳴イオン化ローディングは連続的にローディングできることを確認し,原子蒸気の発生手法として,レーザアブレーションと原子オーブンを比較し存在比の小さい同位体を選択的にイオン化させるためには連続的な原子の供給が必要であることから原子オーブンのほうが適当であることが判明した.

続いて直接ローディングが困難である43Caと存在比が同等である48Caを対象とした光共鳴イオン化ローディングを行いローディングレートおよび同位体選択性を評価した.その結果40Caのローディングレートからの見積値よりも10倍高い値が得られており,レーザ冷却に使用するレーザ等により同位体の挙動が異なることが判明した.さらに得られた値から存在比の小さい43,46Caの選択的ローディングの可能性について検討を行い,特に存在比の小さい46Caのローディングには,イオン化用光源の繰り返し周波数による影響がローディングレートに対して支配的であることが明らかとなった.

6.結論

イオントラップ中に捕獲された同位体イオンの挙動を解明するために必要となる実験装置を開発し,同位体シフトの利用により単一イオンレベルで同位体観測が可能となった.さらに同時に捕獲される複数の同位体を寒剤として利用し,レーザ冷却のスキームが異なる奇数同位体に対して協同冷却を実現し,核構造に対応するスペクトルの観測が可能となった.これにより,イオントラップ中に同時に捕獲された同位体イオンに対して最も支配的な場であるトラップポテンシャル変化による挙動を核構造の違いによらず観測を実現し,安定領域内部であっても挙動が不安定となることが判明した.その結果,複数同位体が捕獲されている場合は,様々な同位体に対して生じる非線形共鳴により理想的な条件での捕獲イオン挙動との有意な差を明らかにした.これは世界初の成果である.更に存在比の小さい同位体の挙動を観測するために同位体選択的なローディング手法である光共鳴イオン化を実現し,イオンローディング時の同位体により挙動が異なることを明らかにした.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,線形イオントラップに捕獲された複数種類の同位体イオンに対して,ある同位体のみをレーザ冷却することで得られる蛍光を測定するために必要となる装置開発を行うとともに,トラップされたイオンの挙動に関する研究を行っており,7章より構成されている.

第1章は,序論として,本研究の背景とその目的について述べられている.レーザ技術の進展に伴い単一原子の観測が可能になってきており,それに関連した分析技術が概観されている.本研究も応用的な観点では,微量同位体分析を見据えたものであることが触れられているが,そのために必要となるトラップされた複数種の同位体の制御技術と観測技術に関する知見を深める必要があることが述べられている.それらを踏まえて,本研究では単一イオンおよび同位体の制御可能な実験装置の構築とそれを利用した複数種の同位体の観測を行い,その挙動を明らかにすることを目的としていることが述べられている.

第2章は,理論・原理が述べられている.まず,本研究で取り扱っているカルシウムが紹介された後に,線形イオントラップの原理およびそこにトラップされたイオンの挙動に関する理論的背景が説明されている.次にレーザ冷却,それにより観測可能となる量子跳躍について紹介されている.さらに同位体を扱う上で必要となる同位体シフトおよび超微細構造に関する説明があり,その影響が記述されている.

第3章では,単一イオンおよび同位体イオンを観測するために必要となる実験装置システムの構築に関して記述されている.まず,基本的な実験装置(真空装置,レーザ装置,観測光学系)の概要を説明している.それらを踏まえて,Caイオンのレーザ冷却を行って,非対称な蛍光信号を観測し,イオンが冷却されていることを確認している.さらに,階段状の離散的なイオン蛍光を観測し,イオンの個数変化に応じた蛍光観測を実現し,単一イオン観測を実現している.また850nmレーザ光を用いることでイオンの状態を量子跳躍させることで能動的にイオン数の観測を行い,1および2個のイオンが捕獲された状態での蛍光観測に成功している.また397nmのレーザ光波長を掃引することで,Ca-44やCa-48に応じたイオン蛍光信号を観測している.これらの結果から,本研究で構築した実験装置により単一イオンおよび同位体イオンを区別した取り扱いを実現している.

第4章ではイオントラップを用いた質量選別をイオンの同位体シフトを利用して蛍光観測した結果を示している.まず,四重極電極に印加されるrf電圧およびdc電圧がトラップされたイオンに与える影響を議論している.単一イオン挙動を記述するマシュー方程式ではrf電圧はq,dc電圧はaのパラメータにそれぞれ対応している.これらは質量電荷比に依存していることから,同位体毎に異なる値となるため,これを利用して質量選別を行う方法が検討されている.それらを実験的に明らかにするため,各電圧を変化させつつ,各同位体の蛍光を観測している.その結果,非線形共鳴に対応して,各同位体イオンが運動していることを明らかにしている.またそれを利用して質量のハイパスフィルター,ローパスフィルターを実現し,所望の同位体をトラップに残す手順を実験的に明らかにしている.

第5章では,超微細構造をもつCa-43イオンの冷却に必要となるレーザシステムの構築とその観測について述べている.複数の周波数を準備するために,追加のレーザシステムに加えて,電気光学素子,音響光学素子を用いている.また磁気副準位への落ち込みを避けるため,イオンに磁場を与えるためのコイルの設置を新たに行っている.新たに追加したこれらの装置の評価を行い,隣接同位体であるCa-44による協同冷却も用いて,Ca-43イオンの超微細構造に応じた蛍光信号を観測することに成功している.

第6章では,レーザ光共鳴イオン化による同位体選択的なイオン捕獲を行っている.これまで本研究はレーザアブレーションにより発生するイオンをそのままトラップしていたため,同位体選択性がなかった.レーザ光共鳴イオン化を用いることで,イオン生成時に同位体選択性を持たせることで,所望の同位体のみをトラップすることが可能になる.そこで,原子発生源として,レーザアブレーション,抵抗加熱オーブンを利用して,光共鳴イオン化実験を行っている.中性原子の共鳴励起波長423nmに応じて異なる同位体の励起イオン化を確認し,同位体選択的にイオンをトラップすることに成功している.

第7章は結論であり,本研究のまとめが述べられている.

以上を要するに,本論文はイオントラップとレーザ冷却を用いて,同位体を取り扱うための装置開発を行うとともに,それを用いてトラップされた複数の同位体の挙動を明らかにしている.こうした成果はシステム量子工学の進歩に貢献することが少なくない.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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