学位論文要旨



No 125766
著者(漢字) 芝本,匡雄
著者(英字)
著者(カナ) シバモト,タダオ
標題(和) 光化学系II反応中心機能分子の酸化還元電位に関する研究
標題(洋)
報告番号 125766
報告番号 甲25766
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7299号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,正
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 教授 工藤,一秋
 東京大学 教授 立間,徹
内容要旨 要旨を表示する

光エネルギーを化学エネルギーに変換する反応である光合成初期過程は、集光性色素分子と反応中心機能分子から構成されている二つの光化学系(Photosystem: PS)I、IIが協同的に働くことにより進行する。光合成初期過程の光変換効率は量子収率にしてほぼ1と驚異的に高いことで知られ、反応中心の機能分子群の酸化還元電位が巧妙に調節されていることにより実現しているとされているが、酸化還元電位の多くは推測にとどまる。PS IIは、光合成初期過程の出発点である水の分解を引き起こし、電子を引き抜くという重要な役割を担っているが、詳細な電子伝達メカニズムは明らかになっていない。本論文は、PS IIの電子伝達メカニズム解明を目指し、酸化還元電位を精密に測定可能な薄層電解セルを用いた分光電気化学的手法により、PS II反応中心機能分子のうち、実測はされているがその値が大きくばらついているプラストキノンQAとヘムタンパク質シトクロム(Cyt) b559の酸化還元電位を精密計測することにより、PS IIの電子伝達メカニズムの一端の解明を試みた。

第1章では、光合成初期過程に関する概説とPS II反応中心機能分子の酸化還元電位に関する現状をまとめ、さらに本研究の目的とそれに対する方策についてまとめた。

第2章では、これまで酸化還元電位の報告値が-300 ~ +100 mVと非常に大きくばらついていたPS II二次電子受容体QAの酸化還元電位の精密計測を行った。QAの酸化還元電位は、蛍光スペクトルの蛍光強度変化から求められている。しかし、当研究室で確立した機能分子の酸化還元電位の精密測定が可能な分光電気化学的手法は、吸収スペクトルの吸光度変化を元にNernstian plotsから求めているので、QAの酸化還元電位計測に適用できない。そこで、分光電気化学的手法を用いて蛍光強度変化からQAの酸化還元電位が計測できるよう、セル室の再設計及び測定条件の最適化を行った。最適化した測定条件を用いて、好熱性シアノバクテリアThermosynechococcus elongatusのPS II中QAの酸化還元電位を求めた。結果、T. elongatusのPS II中QAの酸化還元電位を-140 ± 2 mV(n = 4)と精度良く測定することに成功した。

さらに、計測したQAの酸化還元電位もとに、速度論的解析により求められている各機能分子の自由エネルギー差から、水を酸化するほどの高い酸化力を有するため実測することができないPS II反応中心一次電子供与体P680の酸化還元電位を+1190 mVと推測し、これまで考えられてきたP680の酸化還元電位よりも約100 mV近く卑な値であることを明らかにした。推測されたP680の酸化還元電位は、当研究室で分光電気化学的手法を用いて計測したPS II反応中心一次電子受容体フェオフィチン(Phe) aの酸化還元電位をもとに推測したP680の酸化還元電位と非常に良く一致していることからも、信頼性が高い値であることが裏付けられた。

第3章では、第2章で確立したQAの酸化還元電位を精密に測定可能な分光電気化学的手法を用いてQAの酸化還元電位の生物種依存性について検討した。結果、緑藻であるChlamydomonas reinhardtiiでは-167 mV、高等植物のspinachでは-163 mV、シアノバクテリアのT. elongatusでは-140 mV、紅藻のCyanidioschyzon merolaeでは-110 mVとなり、分光電気化学的手法を用いてQAの酸化還元電位を精密に計測することにより、明らかになっていなかったQAの酸化還元電位の生物種依存性を初めて明確にすることに成功した。

各生物種間でPS II構成サブユニットなどを比較検討したところ、表在性タンパク質の相違が、QAの酸化還元電位の生物種依存性を示す要因として考えられた。表在性タンパク質は、水を触媒的に酸化するマンガンクラスターを安定化する機能を有するタンパク質サブユニットで、表在性タンパク質を構成するサブユニットは生物種によって異なり、緑藻と高等植物ではPsbO, PsbP, PsbQから、シアノバクテリアではPsbO, PsbV, PsbUから、紅藻ではPsbO, PsbV, PsbU, PsbQ'から構成される。表在性タンパク質を構成するサブユニットが同一な緑藻と高等植物ではQAの酸化還元電位がほぼ同一であるのに対して、表在性タンパク質を構成するサブユニットが異なる生物種ではQAの酸化還元電位が最大約60 mV異なる。表在性タンパク質は、QAを含む反応中心サブユニットD1, D2タンパク質と一部相互作用していることがPS IIのX線結晶構造解析の結果から明らかとなっており、表在性タンパク質の相違が、生物種間においてアミノ酸配列が高度に保持されたD1, D2タンパク質のコンフォメーションに影響を与えるため、QA近傍での静電相互作用や水素結合の強弱が生物種間で差異が生じると予測される。そのため、QAの酸化還元電位が生物種依存性を示すのではないかと考えられる。この結果は、QAとQA近傍のアミノ酸との水素結合の強弱とPhe aとQAの相互作用が生物種によって異なるというQAの酸化還元差FTIRスペクトルを生物種間で比較した結果からも示唆される。

第4章では、ヘムタンパク質Cyt b559の酸化還元電位の精密計測を行った。当研究室で確立した機能分子の酸化還元電位を精密に測定可能な分光電気化学的手法を用いて、spinach由来のPS II反応中心複合体中Cyt b559の酸化還元電位を計測するための測定条件を確立した。確立した条件を用いて、これまで+25 ~ +150 mVとばらついていたCyt b559の酸化還元電位をpH = 6において+90 ± 2 mV (n = 4)と非常に高精度に計測することに成功した。

第5章では、第4章で確立したヘムタンパク質Cyt b559の酸化還元電位を精密に計測可能な方法を用いてCyt b559酸化還元電位のpH依存性について検討した。これまで、Cyt b559の酸化還元電位のpH依存性から、酸化還元反応するヘムに配位している2つのヒスチジン(His)残基の内、1つの酸解離平衡がヘムの酸化還元反応に影響をしていると考えられてきた。しかし、近年のPS IIのX線結晶構造解析の結果から、2つのHis残基とヘムとの距離が両者とも約2 Aとほぼ同じであることが明らかとなり、2つのHis残基の酸解離平衡がCyt b559の酸化還元反応に影響を与えている可能性が高い。計測したCyt b559酸化還元電位は、pH 4 ~ 9の間で+115 mVから+50 mVと約65 mV卑にシフトしpH依存性を示した。pH依存性をより詳細に解析するべく、ヘムの酸化還元電位のpH依存性に関するモデル式を用いて解析を行った。結果、ヘムに配位している2つのHis残基のうちの1つがpH依存性に影響を与えていると仮定した場合よりも、2つのHis残基共にpH依存性に影響を与えていると仮定した方が、より実験結果に一致していることが分かり、2つのHis残基共にCyt b559の酸化還元反応に影響していることが示された。pH = 4.0ではHis残基のイミダゾール基は正に帯電しているが、pHの増加に伴いイミダゾール基の正電荷が徐々に消失し、Cyt b559+との静電相互作用が相対的に強まることでCyt b559+が安定化しやすくなり、Cyt b559の酸化還元電位が卑にシフトするのではないかと考えられる。

第6章では、以上の結果を総括し、PS IIの電子伝達メカニズムについて本研究で得られた結論をまとめ、今後の研究の展望について述べた。

審査要旨 要旨を表示する

光合成では,集光色素と反応中心機能分子からなる光化学系Photosystem(PS)IとIIが直列に働いて光エネルギー変換が進む。総合量子収率が1に迫る高い効率は,機能分子群の精密な空間配置に加え,酸化還元電位E°' の精妙なチューニングにより生じると推測されるが,正確なE°' 値が判明していない機能分子も多い。本論文の研究は,PS II反応中心を構成する機能分子のうち,プラストキノンQAと,ヘムタンパク質シトクロム(Cyt) b559のE°' 値を精密計測することにより,PS IIの電子伝達メカニズム解明に資する知見を得ている。

第1章(序論)では,光合成初期過程を概説しPS II反応中心機能分子の酸化還元電位に関する研究の現状をまとめ,本研究の目的を述べている。

第2章では,E°' の報告値が-300 ~ +100 mVという広い範囲にあったPS II二次電子受容体QAの検討結果を述べている。従来QAのE°' 値がばらついていた主因は化学酸化還元滴定法にあると考え,短時間で平衡化し平衡達成が確実に判定できる薄層セル分光電気化学的手法を用い,電位印加に伴う蛍光強度変化を追跡できる計測手段の構築と最適化を行った。その結果,好熱性シアノバクテリアThermosynechococcus elongatusで,QAのE°' 値を-140 ± 2 mV(n = 4)ときわめて精度よく計測することに成功している。

さらに,実測したQAのE°' 値を用い,速度論的解析で得られてきた機能分子間のギブズエネルギー差から,強い酸化力をもつため水系試料中では実測できないPS II反応中心一次電子供与体P680のE°' 値を+1190 mVと推測した。これは従来の推定値より約100 mV近くも卑な値である。また,本研究による推測値が,分光電気化学的計測によるPS II反応中心一次電子受容体フェオフィチン(Phe) aのE°' 値からの推定値にきわめて近いという事実も,上記計測結果の高い信頼性を保証している。

第3章では,確立した分光電気化学的手法を他の生物種にも適用し,QAのE°' 値として,緑藻のChlamydomonas reinhardtiiで-167 mV,高等植物のホウレンソウで-163 mV,紅藻のCyanidioschyzon merolaeで-110 mVという値を得た。T. elongatusの実測値(-140 mV)と合わせ,長らく憶測の域を出なかった「E°' 値の生物種依存性」を初めて明確にしている。

こうしたE°' 値の生物種依存性をPS II構成タンパク質などの知見にもとづき検討し,酸素発生用触媒Mnクラスターの安定化に働く表在性タンパク質の異同がQAのE°' 値を左右するものと推測している。表在性タンパク質の構成サブユニットは生物種ごとに異なり,緑藻と高等植物はPsbO・PsbP・PsbQ,シアノバクテリアはPsbO・PsbV・PsbU,紅藻はPsbO・PsbV・PsbU・PsbQ'となる。表在性タンパク質が共通の緑藻と高等植物でQAのE°' 値がほぼ等しい事実と,表在性タンパク質が異なる生物種間でQAのE°' 値が数十mV異なる事実が,上記の推測を裏づける。また,表在性タンパク質の相違がQA近傍のミクロ環境に及ぼす影響についても妥当な推定を行っている。

第4章では,ヘムタンパク質Cyt b559のE°' 値に関する計測法の工夫と計測結果を述べている。ホウレンソウ由来のPS IIコア(D1/D2タンパク質複合体)を試料に用い,電位印加に伴う吸光度変化を分光電気化学法で追跡することにより, 過去の報告で+25 ~ +150 mVの範囲にばらついていたCyt b559のE°' 値をpH 6で+90 ± 2 mV(n = 4)と求めることに成功している。

第5章では,前章で確立した精密計測法を用い,Cyt b559のE°' 値のpH依存性を検討している。実測結果は,pH 4→9で+115→+50 mVと,負方向に約65 mVシフトするpH依存性を示した。X線結晶構造解析結果を見ると,Cyt b559のヘムには距離およそ2 Aで2個のヒスチジン(His)残基が配位しているため,両残基の酸解離平衡がCyt b559のE°' 値に影響する可能性が高い。それをもとにした理論式で実測データが十分に説明できたことより,His残基1個の酸解離平衡がE°' 値のpH依存性をもたらすという従来説の誤りを明らかにした。pH 4で正帯電のイミダゾール基が,pH上昇に伴い正電荷を徐々に減らし,Cyt b559+ との静電相互作用を相対的に強めてCyt b559+ の安定化に寄与し,Cyt b559のE°' 値を負にシフトさせたと結論している。

第6章では以上の実測・解析結果を総括し,今後の展望を述べている。

以上要するに本論文は,光合成の光化学系II電子授受プロセスを駆動する機能部品のE°' 値に関する計測手法の考案・確立により,重要な機能部品2種のE°' 値を初めて精密に実測することを通じ,生体機能化学や光合成機能の工学応用にとって有用な知見を得たものだといえる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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