学位論文要旨



No 125789
著者(漢字) 梨,秀樹
著者(英字)
著者(カナ) タカナシ,ヒデキ
標題(和) イネにおけるミトコンドリアDNA量の組織間差異
標題(洋)
報告番号 125789
報告番号 甲25789
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3489号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 准教授 中園,幹生
 東京大学 准教授 高野,哲夫
内容要旨 要旨を表示する

高等植物のミトコンドリアゲノムは動物など他の生物種と比較してサイズが大きく,またその内部の多数のリピート配列間での組み換えによって,様々なサイズの環状構造DNA分子が生じると考えられている.高等植物細胞内に多数存在するミトコンドリアは,これらの多様な環状DNA分子を様々な組み合わせでその内部に保持していると考えられている.しかしながら,高等植物細胞内には数百個のミトコンドリアが存在するが,抽出したミトコンドリアDNA(以下mtDNAと略す)の総量とミトコンドリアの数のカウント結果から,植物細胞内には全てのミトコンドリアがゲノム全体を持てるほどのmtDNA量がないという報告があり,槙物細胞内のmtDNAの構成には不明な点が多く残されていた.さらに,細胞の状態によってミトコンドリアゲノム中のmtDNA分子の構成が変化すること,細胞の成長に従ってミトコンドリア核様体(凝集したDNA-タンパク質の複合体,以下mt核様体と略す)に含まれるmtDNA量が減少すること,および卵細胞では巨大なmt核様体が非常に大量のmtDNAを保持していること等が報告され,これらの結果は植物ミトコンドリアゲノムが,1個のミトコンドリアが1セットのゲノムを維持するといった単純な制御ではなく,非常に複雑な制御下にあることを示唆している.

しかしながら,これまでの研究では,植物細胞内において個々のミトコンドリア,あるいは1個の卵細胞には具体的にどの程度のmtDNAが保持されているのか,また個々のミトコンドリアが保持するmtDNA量には差があるのかといった疑問には答えきれていなかった.本論文ではこれまでの研究では明らかにされなかった,高等植物のミトコンドリア1個あたりのmtDNA量および卵細胞1個あたりのmtDNA量に焦点を当て研究を行った.

1.イネにおけるミトコンドリアー個あたりに含まれるDNA量の組織間差異

高等植物の個々のミトコンドリアは全ゲノム情報を保持していない可能性が高いという報告があったものの,個々のミトコンドリアをはっきりと識別した上でのミトコンドリアあたりのDNA量解析を行った研究はいまだなされていない.そこで,本研究ではまずタバコ培養細胞(BY-2)を用いて,ミトコンドリアとmt核様体をそれぞれMito TrackerとSYBR GreenIで染色し,ミトコンドリアをはっきりと識別した上でミトコンドリアとmt核様体を同時に観察した.その結果,mt核様体が観察されないミトコンドリアが多数存在することがわかった.また,観察されたmt核様体のシグナル強度が同一細胞内においても個々のミトコンドリア間で大きく異なることから,BY-2において個々のミトコンドリアの持つDNA量には大きなばらつきがあることが示唆された.

次に,培養細胞ではなく植物体において,個々のミトコンドリアの持つDNA量は具体的にどの程度なのか,またそのDNA量にぱらつきはあるのかを調べるために,イネの根の基部,中間部,根端部における個々のミトコンドリアに含まれるmtDNAの量を調べた.実験には,ミトコンドリアを可視化する目的でGFPをミトコンドリアに局在させた形質転換イネを用いた.それぞれの部位をDNA染色液のDAPI溶液中で破砕し,溶液中にミトコンドリアを浮遊させた状態でmt核様体を染色し,蛍光顕微鏡下でGFP蛍光画像とDAPI蛍光画像を記録し,個々のミトコンドリアあたりのDAPI蛍光強度を測定した.その結果,培養細胞と同様にイネの根においても明確なmt核様体がみられないミトコンドリアが多数存在していることがわかった.明確なmt核様体を持たないミトコンドリアの割合は根の基部で67%,中間部で59%,根端部で9%であり,根端部では有意に少ないことが明らかになった.次に,サイズ既知のλDNA,BACクローンを同様にDAPIで染色し,DAPI蛍光強度とDNA量(kbp相当量)間の検量線を作成し,これを用いてミトコンドリアー個あたりに含まれるおおよそのDNA量(kbp相当量)を推定した.その結果,根の基部,中間部では個々のミトコンドリアの持つDNA量の平均値には大きな差は見られないものの(それぞれ29.5kbp相当,28.4kbp相当),その二つと比較して根端部のミトコンドリアのもつDNA量の平均値は有意に大きいことがわかった(109.8kbp相当).以上のことから,分裂組織を含む根端部のミトコンドリアは他の部分に比べて明確なmt核様体を持っている割合が高く,またそれぞれが持っているDNA量も多い傾向があるということが明らかになった.一方で個々のミトコンドリアの持つDNA量に注目すると,ほとんどDNAを持たないと思われるミトコンドリアから全ゲノムの数倍におよぶ大量のDNAを持つミトコンドリアまでが混在していた.以上の結果から,イネにおいて個々のミトコンドリアの持つmtDNA量は組織間で大きな差異があり,また同一組織内でも個々のミトコンドリアは常に均一な遺伝情報を持つわけではないことがわかった.また,イネのミトコンドリアゲノムサイズが491kbpであることを考えると,イネの根においてほとんどのミトコンドリアはミトコンドリアゲノム全体を持たない可能性が高いことが明らかになった.

2.イネ卵細胞のミトコンドリア形態および保持するmtDNA量

植物において,栄養細胞でのミトコンドリアの形態は通常小型・粒状であることが知られている.一方で,ゼラニウムやトウモロコシの卵細胞では樹脂包埋切片観察や電子顕微鏡観察によって巨大な多層カップ状構造のミトコンドリアが観察され,またゼラニウム卵細胞ミトコンドリアは大量のmtDNAを保持しているとの報告があった.このように卵細胞ミトコンドリアは非常にユニークな特徴をもつとされるものの,現在までイネ卵細胞ミトコンドリアのこれらの特徴についての報告はない.そこで本研究ではイネ卵細胞におけるミトコンドリアの形態および保持するmtDNA量を明らかにすることを目標に実験を行った.

本研究ではこれまでに複数報告されているイネ卵細胞単離法の中から,単離操作によって卵細胞に与える影響が小さいと考えられる,固定・酵素処理を行わずに生細胞の状態で卵細胞を単離する手法を採用した.まず,イネ卵細胞ミトコンドリアを観察するために生細胞の状態でイネ卵細胞を単離したのち,単離卵細胞のミトコンドリアとmt核様体をMitoTrackerとSYBRGreenIで同時に染色して観察を行った.その結果,ゼラニウムやトウモロコシとは異なり,イネ卵細胞においては小型・粒状のミトコンドリアおよび小型・粒状のmt核様体のみが観察されることが明らかになった.しかしながら,今回の手法で観察した場合,単離・染色の際のアーティファクトで本来巨大であったミトコンドリアおよびmt核様体が小型・粒状になってしまったという可能性が否定できない.そこでまず,電子顕微鏡観察によって巨大なミトコンドリアが観察されるトウモロコシ卵細胞を生細胞染色の手法で観察することで,生細胞染色によるミトコンドリア形態への影響を検討した.その結果,生細胞染色による観察でもトウモロコシ卵細胞には巨大な多層カップ状構造のミトコンドリアが多数観察されることが明らかになった.この結果は,・生細胞染色はミトコンドリア形態に対して大きな影響を与えないことを示唆している.次にイネ雌蕊をゼラニウムと同様の手法で固定し,樹脂包埋切片を作製後,DAPI染色によりイネ卵細胞に含まれる核様体の形態を観察した.その結果,イネ卵細胞では生細胞染色の手法と同様に小型・粒状の核様体のみが観察されることが明らかになった.これらの結果から,イネ卵細胞ミトコンドリアおよびmt核様体はゼラニウムやトウモロコシとは異なり,小型・粒状である可能性が高いことが強く示唆された.

次に,ゼラニウムと同様にイネ卵細胞は大量のmtDNAを保持しているかを検証するため,イネ根由来プロトプラストのミトコンドリアとmt核様体をイネ卵細胞と同様に染色し,イネ卵細胞における染色像と比較した.その結果,前章での結果と同様にイネ根由来プロトプラストにはmt核様体が観察されないミトコンドリアが多数存在するのに対し,イネ卵細胞ではほとんど全てのミトコンドリアが非常に明確なmt核様体を持つことから,イネ卵細胞はイネ根由来プロトプラストと比較して大量のmのNAを保持していることが示唆された.細胞あたりのmtDNA量に関してさらに詳しい解析を行うため,real-time PCRを用いて,ミトコンドリアゲノム上にコードされているcob,coxll,nad6,atp9の4遺伝子についてイネ卵細胞と,大量の調整が容易であるイネ緑葉由来プロトプラストを用いた定量PCRを行い,細胞あたりに含まれる各遺伝子のコピー数を定量した.その結果4遺伝子全てにおいて,イネ卵細胞はイネ緑葉由来プロトプラストと比較して11倍以上に及ぶコピー数を保持していることが明らかになった.この値は,定量に用いた卵細胞と緑葉由来プロトプラストの細胞体積比(5.2倍)よりも大きいことから,イネ卵細胞において細胞あたりの各遺伝子のコピー数が多いのは単に細胞が大きいからではなく,イネ卵細胞は緑葉由来プロトプラストと比較して体積当たりの各遺伝子コピー数も多いことによるということが明らかになった.

本研究から,イネにおいて個々のミトコンドリアの持つmtDNA量には組織間で大きな差異があり,また同一組織内でも個々のミトコンドリアは常に均一な遺伝情報を持つわけではないこと,およびイネの根においてほとんどのミトコンドリアはミトコンドリアゲノム全体を持たない可能性が高いことが明らかになった.このようにゲノムが不足していると考えられるミトコンドリアでも,特に目立った呼吸活性の低下等の不具合が起きていないように見えることから,高等植物においてはいまだ直接的には実在の証明がなされていないミトコンドリア間の相補作用の存在が強く示唆された.また,根端や卵細胞といった分裂組織では,細胞あたりおよび個々のミトコンドリアが保持するmtDNA量が非常に多くなっており,この現象は,細胞分裂時に娘細胞に対して不均等・不十分なmtDNAの分配が起こることへの防止策であると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

高等植物のミトコンドリアゲノムは, その内部の多数のリピート配列間での組み換えによって生じる様々なサイズの環状構造DNA分子の集合体であると考えられている. 高等植物細胞内に多数存在するミトコンドリアは, これらの多様な環状DNA分子を様々な組み合わせでその内部に保持していると考えられている.本論文は,これまでの研究では明らかにされなかった, 高等植物のミトコンドリア1個あたりのmtDNA量および卵細胞1個あたりのmtDNA量に焦点を当てて研究が行われた.

1. イネにおけるミトコンドリア一個あたりに含まれるDNA量の組織間差異

高等植物の個々のミトコンドリアは全ゲノム情報を保持していない可能性が高いという報告があったものの, 個々のミトコンドリアをはっきりと識別した上でのミトコンドリアあたりのDNA量解析を行った研究はいまだなされていない. そこで申請者は,植物体において個々のミトコンドリアの持つDNA量は具体的にどの程度なのか, またそのDNA量にばらつきはあるのかを調べるために, イネの根の基部, 中間部, 根端部における個々のミトコンドリアに含まれるmtDNA量を調べた. 実験には, ミトコンドリアを可視化する目的でGFPをミトコンドリアに局在させた形質転換イネを用いた. それぞれの部位をDNA染色液のDAPI溶液中で破砕し, 溶液中にミトコンドリアを浮遊させた状態でmt核様体を染色し,個々のミトコンドリアあたりのDAPI蛍光強度を測定した. その結果, イネの根においては明確なmt核様体が観察されないミトコンドリアが多数存在し, その割合は根の基部で67 %, 中間部で59 %, 根端部で9 %であることが明らかになった. 次に, DAPI蛍光強度からミトコンドリア一個あたりに含まれるおおよそのDNA量 (kbp相当量) を推定した. その結果, 根の基部, 中間部では個々のミトコンドリアの持つDNA量の平均値には大きな差は見られないものの (それぞれ29.5 kbp相当, 28.4 kbp相当), その二つと比較して根端部のミトコンドリアのもつDNA量の平均値は有意に大きいことがわかった (109.8 kbp相当). 以上のことから, 分裂組織を含む根端部のミトコンドリアは他の部分に比べて明確なmt核様体を持っている割合が高く, またそれぞれが持っているDNA量も多い傾向があるということが明らかになった. 一方で個々のミトコンドリアの持つDNA量に注目すると, ほとんどDNAを持たないと思われるミトコンドリアから全ゲノムの数倍におよぶ大量のDNAを持つミトコンドリアまでが混在していた. 以上の結果から, イネにおいて個々のミトコンドリアの持つmtDNA量は組織間で大きな差異があり, また同一組織内でも個々のミトコンドリアは常に均一な遺伝情報を持つわけではないことがわかった. また, イネのミトコンドリアゲノムサイズが491 kbpであることを考えると, イネの根においてほとんどのミトコンドリアはミトコンドリアゲノム全体を持たない可能性が高いことが明らかになった.

2. イネ卵細胞のミトコンドリア形態および保持するmtDNA量

植物において, 栄養細胞でのミトコンドリアの形態は通常小型・粒状であることが知られている. 一方で, ゼラニウムやトウモロコシの卵細胞では樹脂包埋切片観察や電子顕微鏡観察によって巨大な多層カップ状構造のミトコンドリアが観察され, またゼラニウム卵細胞ミトコンドリアは大量のmtDNAを保持しているとの報告があった. このように卵細胞ミトコンドリアは非常にユニークな特徴をもつとされるものの, 現在までイネ卵細胞ミトコンドリアのこれらの特徴についての報告はない. そこで申請者は,イネ卵細胞におけるミトコンドリアの形態および保持するmtDNA量を明らかにすることを目標に実験を行った. まず, イネ卵細胞ミトコンドリアを観察するために生細胞の状態でイネ卵細胞を単離したのち, 単離卵細胞のミトコンドリアとmt核様体をMitoTrackerとSYBR Green Iで同時に染色して観察を行った. その結果, ゼラニウムやトウモロコシとは異なり, イネ卵細胞においては小型・粒状のミトコンドリアおよび小型・粒状のmt核様体のみが観察されることが明らかになった. また, イネ雌蕊の固定・樹脂包埋切片のDAPI染色像からも, イネ卵細胞には小型・粒状の核様体のみが観察されたことから, イネ卵細胞ミトコンドリアおよびmt核様体はゼラニウムやトウモロコシとは異なり, 小型・粒状である可能性が高いことが強く示唆された. 次に,イネ卵細胞が保持するmtDNA量を評価するため, real-time PCRを用いて, ミトコンドリアゲノム上にコードされているcob, coxII, nad6, atp9の4遺伝子についてイネ卵細胞と, 大量の調整が容易であるイネ緑葉由来プロトプラストを用いた定量PCRを行い, 細胞あたりに含まれる各遺伝子のコピー数を定量した. その結果4遺伝子全てにおいて, イネ卵細胞はイネ緑葉由来プロトプラストと比較して11倍以上に及ぶ多量のmtDNAを保持していることが明らかになった.

以上本論文では,個々のミトコンドリアの持つmtDNA量には組織間で大きな差異があり, また同一組織内でも個々のミトコンドリアは常に均一な遺伝情報を持つわけではないこと, およびイネの根においてほとんどのミトコンドリアはミトコンドリアゲノム全体を持たない可能性が高いことを明らかとした. また, 根端や卵細胞といった分裂組織では,個々のミトコンドリアが保持するmtDNA量が非常に多くなっており, この現象は, 細胞分裂時に娘細胞に対して不均等・不十分なmtDNAの分配が起こることへの防止策であると考えられた. これらの知見は,高等植物のミトコンドリアのゲノム構成やその遺伝様式について基礎的な知見を与えるものであり,学術上きわめて価値あるものである.したがって,審査委員一同は本論文が博士(農学)に値するものと認めた.

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