学位論文要旨



No 125800
著者(漢字) 菊池,直也
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ナオヤ
標題(和) カイガラムシ色素の生合成に関する研究
標題(洋)
報告番号 125800
報告番号 甲25800
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3500号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 渡邉,秀典
 東京大学 教授 浅見,忠男
 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 准教授 作田,庄平
内容要旨 要旨を表示する

カイガラムシは、その体内に蓄積される鮮やかな色素が染料や食品添加物として有効利用されるため、資源生物としての役割を持っている。代表的なカイガラムシ色素であるコチニール色素やラック色素は、大量飼育したカイガラムシから色素を抽出することで生産されている。もし、それら色素の一成分を大量生産する技術が確立すれば、現在使用されている合成色素に代わる自然に優しい天然色素として、インクなどの色素成分に利用することが可能となる。カイガラムシ色素の生産技術としては、生合成遺伝子を利用した生合成工学が第一に挙げられるが、これまでにカイガラムシ色素の生合成に関する知見は全く得られていない。

これまでに知られているカイガラムシ色素は図1に示したlaccaic acid D、deoxyerythrolaccinあるいはemodinを基本骨格とするアントラキノン構造を有する。emodin骨格は真菌の代謝産物や植物中にも見出されているが、前二者の骨格はカイガラムシに特有である。これらアントラキノン骨格はオクタケタイドとして生合成されると考えられ、その生合成にはポリケタイド合成酵素(PKS)の関与が推定される。

PKSは微生物や植物の二次代謝に見られ、昆虫自身が持つという報告はない。従って、カイガラムシ色素の生合成を探る上ではカイガラムシに普遍的に共生する細胞内共生細菌との関係を考える必要がある。

以上の背景から、本研究では、飼育方法が確立され、ライフサイクルが40日と短いフジコナカイガラムシ(Planecoecus kraunhiae)を対象とし、その虫体に含まれる色素の生産者及びその生合成機構を解明することを目的に以下の実験を行った。

1.フジコナカイガラムシの虫体内色素の同定と色素非生産変異体の解析

まず、フジコナカイガラムシの虫体内色素を分析した。その結果、主成分としてendocrocin(1)を単離同定した。1は真菌の代謝産物として知られるが、カイガラムシ色素として単離されたのは初めてであった。さらに、emodin8-O-β-D-glucopyranoside(2)、2-hydroxyemodin8-β-D-glucoside(3)、1,6,8-trihydroxyanthraquinone-2,3-dicarboxylic acid(4)の3種の色素を副成分として単離、同定した。3及び4は新規化合物であった。

これらの色素の生合成経路を図2のように推定した。ポリケタイド経路によって色素の基本骨格である1が生成し、グルコシル化、水酸化によって2及び3が、メチル基の酸化によって4が生成すると推定された。2の前駆体と考えられるemodinは生体から得られなかった。これら色素はカイガラムシのどの生育段階においても体重の増加に比例して生産されていた。

一方、フジコナカイガラムシの飼育の過程で、体色の異なる変異体を見出し、その系統化に成功した。変異体の虫体からは前述の1~4の色素のいずれもが全く検出されなかった。変異体には細胞内共生細菌として、β-プロテオバクテリア及びγ-プロテオバクテリアが野生型と同様に存在していた。

一方、野生型と変異体を用いて交配実験を行ったところ、野生型と変異体をヘテロに交配した群のF1世代の表現型は野生型と変異体型が混在していた。従って、色素の生合成には、雌の垂直伝搬で伝わる共生細菌ではなく、昆虫自身が関与していることが示唆された。

2.フジコナカイガラムシのEST解析とendocrocin生合成遺伝子の同定

endocrocin生合成遺伝子を得るため、まず1型、II型、III型のPKS遺伝子それぞれについて、PCRによる探索を行ったが、候補遺伝子を見出すことができなかった。そこで、EST解析により、カイガラムシ中で発現している遺伝子を網羅的に取得した。得られた遺伝子の中に芳香族系化合物を生成する1型、II型あるいはIII型PKS遺伝子と相同性を有する配列は存在しないことが確認された。

次に脂肪酸生合成酵素(FAS)の遺伝子に着目した。EASはPI(Sと類似した遺伝子構造をしており、違いはEASではポリケタイド鎖を還元するがPKSでは必ずしも還元しないことである。そこで、EST解析データをもとに、FAS遺伝子と相同性の高い配列に関して、5'-RACE及び3'-RACEを行い、endocrocin生合成に必要と推定されるケトシンターゼ(KS)ドメイン及びアシルトランスフェラーゼ(AT)ドメインを有し、endocrocin生合成に不必要と推定されるアルコールデヒドロゲナーゼ(ADH)ドメイン、ケトレダクターゼ(紐)ドメインは持たない遺伝子を探索した。その結果、全長2kb~7kbの4種の候補遺伝子を取得した。それら遺伝子に関して、野生型と変異体における遺伝子の発現解析を行ったが、いずれの遺伝子においても野生型と変異体間での発現差は見られなかった。現在、それらの候補遺伝子の塩基配列を、野生型、変異体それぞれにおいて解析し、異なる配列がないか調べている。また、RNAiによる遺伝子ノックダウンによる表現型の解析を行っている。

3.emodin glucosyltransferaseの精製

フジコナカイガラムシの虫体内色素として単離されたemodin8-O-β-D-glucopyranoside(2)は、emodinを基質としてglucosyltransferaseによってグルコシル化され生成することが予想された。この酵素の情報が、カイガラムシ色素の生合成機構の解明に役立つと考え、emodin glucosyltransferaseの精製を試みた。まず、酵素活性の測定系の確立を試みた。emodinとUDP-glucoseを含むTrisバッファーに酵素粗抽出液を加え、26.5℃でインキュベートした結果、2の生成が認められた。2の生成量は反応時間及び酵素粗抽出液量とそれぞれ比例関係にあった。

酵素の抽出法に関して、虫体を破砕し、Trisバッファーで抽出した際の沈殿をO.1%TritonX-100を含むTrisバッファーで再抽出した溶液において活性が強く観察された。

次に酵素の精製方法について検討した。Q SepharoseではpH11で活性の吸着が見られた。SPsepharoseでは、pH7.5、pH6.0では活性が吸着せず、pH4.5では酵素が失活した。ButylSepharose、Octyl Sepharose、Phenyl Sepharose、Butyl-S Sepharoseについて検討を行ったところ、Buty1-S Sepharoseでのみ、効率よい活性の吸着及び溶出が見られた。CHTI(ハイドロキシアパタイトクロマトグラフィー)では吸着後活性が失われ、Reactive yellow 86(アフィニティークロマトグラフィー)、MonoP(クロマトフォーカシング)では、活性が吸着しなかった。これらの結果を踏まえ、硫安沈殿、Butyl-S Sepharose、Q Sepharose、Superdex200による4段階の精製の結果、活性を約90倍に濃縮することに成功した。現在、更なる精製段階の検討を行っている。

総括

フジコナカイガラムシはendocrocin及びその誘導体を虫体内色素として有していた。また、色素非生産変異体を用いた交配実験から、色素生合成遺伝子は昆虫ゲノム内に存在していることが強く示唆された。アズキゾウムシやアブラムシでは共生細菌のゲノムの水平転移が報告されており、カイガラムシにおいても微生物の色素生合成遺伝子が水平伝搬した可能性が考えられた。しかし、EST解析の結果から、微生物由来のPKS遺伝子と相同性の高い配列は得られなかった。一方、色素生合成候補遺伝子として、昆虫のFAS遺伝子に相同性の高い遺伝子を4種見出した。これらはKSドメイン及び、ATドメインを遺伝子内に有している一方、KRドメインについては部分的にアミノ酸配列が欠損していた。昆虫においてこのようなドメイン構造をもっ遺伝子は、現在までにエンドウヒゲナガアブラムシのゲノム解析によって得られた推定遺伝子のみである。また、昆虫におけるPKS遺伝子の例は初めてであるので、emodin glucosyltransferaseやその他の色素生合成関連遺伝子が昆虫ゲノムの近傍に存在してクラスター構造を形成している可能性もあり、興味深い。今後の研究によりカイガラムシ色素生合成機構の全容解明が期待される。

図1カイガラムシ色素の構造

図2フジコナカイガラムシ色素の推定生合成経路

審査要旨 要旨を表示する

カイガラムシは、その体内に蓄積する鮮やかな色素が染料や食品添加物として有効利用されるため、資源生物として重要である。代表的なカイガラムシ色素であるコチニール色素やラック色素は、大量飼育したカイガラムシから抽出・生産されている。それらの色素をさらに大量生産する技術として、生合成遺伝子を利用した生合成工学が有力と考えられるが、これまでにカイガラムシ色素の生合成に関する知見は全く得られていない。既知のカイガラムシ色素はアントラキノン構造を有する。アントラキノン骨格はオクタケチドとして生合成されると考えられ、その生合成にはポリケチド合成酵素(PKS)の関与が推定される。PKSは微生物や植物の二次代謝に見られ、これまで昆虫自身が持っという報告はないので、カイガラムシに普遍的に共生する細胞内共生細菌の可能性を考慮する必要がある。本論文は、フジコナカイガラムシ(アノa"ococcuskraunhiae)の虫体に含まれる色素の生産者及びその生合成機構を解明することを目的に行ったもので、序論以下3章から成る。

まず、序論で研究背景を述べた後、第1章では、フジコナカイガラムシの虫体内色素の同定と色素非生産変異体の解析を行っている。まず、虫体内色素を分析し、主成分としてendocrocin(1)を、副成分としてemodin1-O-β-D-glucopyranoside(2)、7-hydroxyemodin1-O-β-D-glucoside(3)、1,6,8-trihydroxyanthraquinone-2,3-dicarboxylic acid(4}の3種の色素を単離、同定した。3及び4は新規化合物であった。これら色素はカイガラムシのどの生育段階においても体重の増加に比例して生産されていた。一方、フジコナカイガラムシの飼育の過程で、体色の異なる変異体を見出し、その系統化に成功している。変異体の虫体から前述の1~4の色素は全く検出されなかった。変異体には細胞内共生細菌として、β-プロテオバクテリア及びγ-プロテオバクテリアが野生型と同様に存在していた。野生型と変異体を用いた交配実験の結果から、色素の生合成には、雌の垂直伝搬で伝わる共生細菌ではなく、昆虫自身が関与していることが示唆された.

第2章では、フジコナカイガラムシのEST解析とendocrocin生合成遺伝子の探索を行っている。endocrocin生合成遺伝子を得るため、まずI型、II型、III型のPKS遺伝子それぞれについて、PCRによる探索を行ったが、候補遺伝子を見出すことができなかった。そこで、EST解析により、カイガラムシ中で発現している遺伝子を網羅的に取得した。得られた遺伝子の中に芳香族系化合物を生成するI型、II型、III型PKS遺伝子と相同性を有する配列は存在しないことが確認された。そこで、次に、脂肪酸生合成酵素(FAS)の遺伝子に着目した。EST解析データをもとに、FAS遺伝子と相同性の高い配列に関して、5'-RACE及び3'-RACEを行い、endocrocin生合成に必要と推定されるケトシンターゼ(KS)ドメイン及びアシルトランスフェラーゼ(AT)ドメインを有し、不必要と推定されるアルコールデヒドロゲナーゼ(ADH)ドメイン、ケトレダクターゼ(KR)ドメインは持たない遺伝子を探索した。その結果、全長2~7kbの4種の候補遺伝子を取得した。それら遺伝子に関して、野生型と変異体における遺伝子の発現解析を行ったが、いずれの遺伝子においても発現差は見られなかった。一方、RNAiによる遺伝子ノックダウンを行い、4種の中の1種が色素含量を有意に減少させることがわかった。

第3章では、emodin glucosyltransferase遺伝子が色素合成遺伝子の近傍にあることを想定して、この酵素をまず精製し、その遺伝子を取得することによって色素の合成遺伝子を取得することを計画した。まず、この酵素の活性測定系を確立し、これを用いてemodinglucosyltransferaseの精製を試みた。虫体を破砕し、Tris緩衝液で洗浄した残りの沈殿を0.1%Triton X-100を含むTris緩衝液で抽出した溶液に高い活性が回収された。これについて種々の精製法を検討した結果に基づいて、硫安沈殿、Butyl-S Sepharose、QSepharose、Superdex200による4段階の精製を行った結果、活性を約90倍に濃縮できたが、まだ単離にまでは至っていない。

以上、本論文は、フジコナカイガラムシの色素が昆虫自身によって生合成されることを初めて示し、その生合成の候補遺伝子を取得したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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