学位論文要旨



No 125802
著者(漢字) 佐々木,江理子
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,エリコ
標題(和) シロイヌナズナのDNAマイクロアレイデータを用いた植物ホルモン機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 125802
報告番号 甲25802
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3502号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅見,忠男
 東京大学 教授 山根,久和
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 准教授 藤原,徹
 東京大学 准教授 嶋田,幸久
内容要旨 要旨を表示する

1章 序論

植物ホルモンは植物により生産される低分子化合物で、植物が受容した環境変化などの刺激をシグナルとして下流に伝えることにより植物の形態形成や環境応答を精密に制御している。これらのメカニズムを理解することは植物の生体システムの解明に不可欠であり、ホルモンを利用した植物の生長調節は農業分野においても有用性が高い。

植物ホルモンの特徴の一つは、作用の多様性にある。個々のホルモンは、それぞれ固有の機能を持ちながらも、互いに拮抗的あるいは協調的に作用し合い、時期や組織に特異的な作用を及ぼす。このため、ホルモンの調節機能は他のホルモンや因子との相互作用と切り離すことができない。しかしながら、クロストークの研究には技術的な課題も多く残されており、単一ホルモンの機能解析に比べて調べられていない点が多い。近年の研究では、ペプチドホルモンや新規なホルモン物質など、新たな機能性因子の介在も次々と報告されている。このように、植物ホルモンネットワークの全体像は未だ混沌の中にある。精密で複雑な生物の生長制御機構を明らかにする上で、全体を俯瞰するような研究が不可欠であり、ホルモン研究は包括的なアプローチが必要な時期に来ていると考えられる。

生体システムを広域に扱うことを目的とした網羅的な解析として注目を集めるアプローチのひとつがオミクス解析である。シロイヌナズナでは、AtGenExpress Projctによりシロイヌナズナの生活環を網羅したマイクロアレイデータが2004年に公開され、トランスクリプトームの研究が進んでいる。現在では、AtGenExpressのデータセットを補完するような細胞種ごとの詳細なデータも公開されており、公開データベースで取得できるデータの量は日々増加し続けている。メタボローム解析においても、組織や生育ステージごとの代謝物プロファイルが収集されるなど、マイクロアレイの実験データを拡張するメタボロームデータの収集も行われており、植物の全体像を描き出す大規模なオミクスデータの解析環境が整いつつある。

本研究では、ホルモンネットワークの全体像をとらえるための効率的なアプローチとして、シロイヌナズナのオミクスデータを用い、植物ホルモンの相互作用ネットワークや生長、代謝調節機構の予測を試みた。

2章植物ホルモン応答の簡易一斉検出法の確立

植物ホルモンのクロストーク研究では、複数のホルモンの状態を一斉に分析し、相対的な内生量や応答のパターンを調べることが必要となる。しかし、内生量が非常に少なく、時期、組織特異的な局在性をもつ植物ホルモンを複数同時に定量する一斉解析では、高精度のデータが得られない場合も多い。そこで本章では、多様な条件下における複数ホルモンの状態を同一試料から一斉に解析する簡易な手法を構築することにした。基盤技術にはマイクロアレイを用いた。マイクロアレイは、生重量50μg以下の試料から全遺伝子の発現レベルが測定できる。シロイヌナズナでは組織や時期特異性、ストレス、ホルモン応答などの遺伝子発現のプロファイルが幅広く網羅されているため、これらからホルモンの状態を予測することができれば、改めて実験を行うことなく、多くの局面におけるホルモンの変動パターンについての知見を集めることができると考えられる。

はじめに、シロイヌナズナ芽生えに7種の植物ホルモン(オーキシン、サイトカイニン、ジベレリン、ブラシノステロイド、アブシジン酸、ジャスモン酸、エチレン)を各々処理した実験データを選び、ホルモン処理により発現レベルが変動する遺伝子群の発現プロファイルを作成した。これらをホルモン応答が活性化している場合のプロファイル(ホルモン応答性プロファイル)と位置づけ、解析ターゲットとするマイクロアレイデータでホルモン応答性プロファイルと相似性のある発現変動が生じているかピアソンの相関係数を用いて調べた。高い正の相関がある場合にはホルモン応答が活性化しており、高い負の値の場合には不活性化していると考えられる。既知のホルモンの応答がみられる7実験を用いて、各ホルモンの応答性プロファイルがホルモン応答を検出できるか検証したところ、すべて有意な水準で既知のホルモン応答が検出された。また、モデル解析として複数のストレス処理実験のタイムコースデータの解析を行ったところ、ストレス応答に関わるホルモンを中心に時間依存的な応答パターンが検出され、いずれもin vivoで証明された既知の知見に合致した。

3章公開マイクロアレイデータ統合のためのネットワーク解析法の確立

2章では、ホルモン処理特異的に応答する遺伝子群(モジュールと定義する)のプロファイルを用いてホルモン応答が生じているプロファイルを特定したが、本章では、この方法を応用して、マイクロアレイ実験の発現プロファイル間の生理的なつながりを予測する有方向性ネットワーク解析法を構築した。植物ホルモンはさまざまな局面で機能し、生長を調節することから、構築したネットワークでは各種の植物ホルモン処理が多くのプロファイルをつなぐ中心となることが予想された。

モジュールの選抜は、p-valueとシグナルレシオ(Log2(処理区発現値/対照区発現値))による統計的な閾値を用いて行った。同じ処理を受けたシロイヌナズナのプロファイルが安定して高い相関を示す閾値を検討し、AtGenExpress、Gene Expression Omnibus(GEO)で公開されている195の実験データを用いてネットワーク(リレーションマップ)を構築した。

植物ホルモン処理のプロファイルは、ホルモンの非感受性変異体や阻害剤処理、中間体などとの間に相関を示し、また、異なるホルモン処理プロファイル間やホルモン生合成遺伝子欠損変異体との間で、クロストークを示す相関も検出された。さらに、本解析結果を公開するデータベースAtCASTを構築し、研究者らが自らのマイクロアレイデータをアップロードしてサーバー上のデータと比較解析を行うためのツールの開発、公開を行った。

4章植物生長調節物質の新規機能の解析

植物生長調節物質として知られる化合物には、主な作用に加えて複数のターゲットサイトを有するものも多い。これらは特異性が低い反面、ターゲットサイトの特定によりホルモン阻害剤のリード化合物として有用な情報をもたらす可能性がある。本章ではサイトカイニン(CK)を取り上げ、上述の解析系を適用してCK応答を低下させる化合物を探索し、その機能解析を行った。CKは生合成阻害剤や通常の生育条件下で内生量が減少する変異体が見つかっておらず、生合成阻害剤の開発はCKの機能解明の上でも有用性が高い。

既知のホルモン阻害剤処理のデータセットのプロファイルでCKの応答を調べたところ、トリアゾール系化合物で低下している傾向が見られた。中でも、ジベレリン(GA)、ブラシノステロイド(BR)の生合成阻害活性、アブシジン酸(ABA)の代謝阻害活性が知られているウニコナゾN-P処理で、CKの応答の低下が再現性よく見られた。CKの応答の低下がGA、BR、ABAの内生量の変化によるものかを調べるために各ホルモンの非感受性変異体にウニコナゾール-Pを処理し、定量PCRでCK応答性遺伝子の発現量を調べたところ、野生型、変異体ともに発現量の大幅な減少が見られた。発現量の減少はCK処理によって回復した。また、ウニコナゾール-P処理により、活性型CKであるt-Zeatinの内生量が有意に減少することが明らかになった。t-Zeatin生合成経路では、トリアゾール化合物のターゲットとなるP450酵素CYP735Aが存在する。ウニコナゾールーPのCYP735Aに対する阻害活性を酵素活性試験によって測定した結果、濃度依存的な阻害活性が検出された。以上の結果から、ウニコナゾール-Pは活性型CKの生合成阻害活性を有しており、CYP735Aがターゲットの一つになっていることが示唆された。

5章,オミクス解析による植物ホルモン関連変異体のプロファイリング

植物ホルモンが制御する代謝物と代謝経路を網羅的に明らかにするために、ホルモンの生合成やシグナル伝達の異常が報告されている28変異体のトランスクリプトームおよびメタボロームの解析を行った。

発芽7日後の芽生えからマイクロアレイによる遺伝子発現プロファイルおよびLC-Q-TOF/MS、GC-TOF/MS、LC-IT-TOF/MS、CE-TOF/MSによる代謝物プロファイルを取得した'。各変異体を野生型と比較解析し、発現量、蓄積量が変動している遺伝子および代謝物を特定した。また、植物ホルモンが制御する代謝物、代謝経路を明らかにするため、ホルモンごとに変異体を分類し、ホルモングループごとに影響を受けている経路を調べた。さらに、本研究で取得した大規模なオミクスデータを用いて遺伝子と代謝物の共発現解析を行い、ホルモン変異体で協調的な蓄積パターンを示す遺伝子と代謝物を調べたところ、植物ホルモン生合成遺伝子、応答性遺伝子は、有機酸や糖などの代謝物の蓄積と相関のある発現パターンを示すことが明らかになった。

*オミクスデータの収集は、理研メタボローム基盤研究グループとの共同研究により行った

6章総括

本研究では、マイクロアレイデータの解析を中心として、植物ホルモンの状態を一斉分析する簡易な手法を確立した。この手法を発展させたリレーションマップからは植物ホルモンを含む多様な遺伝子発現プロファイル間の生理的な相似性が明らかになった。これらの解析結果からはトリアゾール系化合物ウニコナゾール-Pが植物体内でCKの応答を低下させることが予測され、実際にCK生合成阻害活性を有していることが一連の実験で示された。植物ホルモン変異体のオミクスデータの解析からは、植物ホルモンが制御する経路や代謝物が網羅的に明らかになった。

tGoda H., tSasaki E., Akiyama K., Maruyama-Nakashita A., Nakabayashi K., Li W., et al., The AtGenExpress hormone and chemical treatment dataset: experimental design, data evaluation, model data analysis and data access, Plant J. 55: 526-542 (2008) t These authors contributed equally to this work.Sasaki E., Takahashi C., Asami T., Shimada Y., The relation map, which enables the visualization of relationships among large-scale Arabidopsis DNA microarray experiments in a sample-wise network (2009) submitted
審査要旨 要旨を表示する

植物ホルモンは固有の機能を持ちながらも、互いに拮抗的あるいは協調的に作用し合い、時期や組織に特異的な作用を及ぼす。この相互作用機構(クロストーク)は、ホルモンの機能に多様性を生み出す一因となっている。このためホルモン研究においてクロストークの解析は重要であるが、一斉分析における微量ホルモンの定量が困難である他、普遍的に利用できるホルモン応答性のマーカー遺伝子が少ないなど技術的な課題も多く、明らかにされていない点が多い。植物ホルモンの研究を発展させる為には、全体を俯瞰するような包括的な解析技術が必要である。そこで本博士論文研究では、ホルモンネットワークの全体像をとらえるためのアプローチとして、シロイヌナズナのオミクスデータを利用し、植物ホルモンのクロストークや生長、代謝調節機構の予測を試みた。

2章では、マイクロアレイデータを用いて、シロイヌナズナの複数ホルモンへの応答状態を同一試料から一斉に解析する簡易な手法を構築した。ホルモン応答性遺伝子群の発現プロファイルを各ホルモンについて定義し、これらと解析対象とするマイクロアレイデータの間の発現変動の相関を求めることにより、高い精度でホルモン応答の一斉解析が可能になった。本手法の特徴は、複数の応答性遺伝子群の発現変動パターンを解析するため、個々のマーカー遺伝子の発現特異性の影響を受けにくく、安定した解析を行うことができる点である。

3章では、前章の植物ホルモン応答の一斉解析法を発展させ、マイクロアレイ実験から得られた遺伝子発現プロファイル群の間に存在する生物学的なつながりを予測する有方向性ネットワーク解析法を構築した。プロファイルごとに、実験処理に対して発現量が変動する遺伝子群を統計的な閾値で選抜し、これらの遺伝子群のプロファイル(モジュール)を用いた相関解析によってプロファイル間の類似性の予測することで、大規模なプロファイルの生理的なつながりを明らかにすることができた。本手法の特徴は、すべての遺伝子群のプロファイルを比較する従来のクラスタリング法と異なり、モジュールの発現パターンを比較するため、実験環境や組織の違いなどに起因するノイズの影響を受けにくいことである。この解析を用いて、マイクロアレイ公開データベース上の多数の実験データのネットワーク(リレーションマップ)を構築し、シロイヌナズナのプロファイル間の様々なつながりを明らかにした。リレーションマップの閲覧と、同解析を研究者に提供するツールAtCASTの開発、公開を行った。

4章では2章、3章で構築した解析系を適用して、サイトカイニンの応答を低下させる化合物としてウニコナゾールを特定し、この既知の化合物がサイトカイニンの内生量を減少させる機能を有することを一連の実験で示した。ウニコナゾールは、活性型サイトカイニンであるt-zeatinの生合成経路に含まれるP450酵素CYP735Aの阻害活性を有しており、t-zeatinの内生量を減少させた。サイトカイニンは生合成阻害剤や通常の生育条件下で内生量が減少する変異体が見つかっていないため、効果的に活性型サイトカイニンの内生量を減少させるリード化合物と、その標的が示されたことは有用性が高い。また、以上の結果は、ホルモン応答の簡易一斉検出法やリレーションマップの解析結果が、植物体内の応答の変化と一致しており、化合物の機能予測に利用可能なことを一例として示した。

5章では理研メタボローム基盤研究グループとの共同研究により、シロイヌナズナのホルモン変異体のトランスクリプトームおよびメタボローム解析を行い、各変異体で発現量や蓄積量が変動している遺伝子および化合物を特定した。ジベレリンに着目して遺伝子と化合物の変動傾向を調べた結果、ジベレリン生合成や信号伝達の欠損変異体では、糖合成、二次代謝、細胞壁の伸展機能などに変化が生ずることが明らかになった。また、本研究で取得した大規模なオミクスデータを用いて遺伝子と代謝物の共発現解析を行った結果、植物ホルモン生合成遺伝子、応答性遺伝子は、有機酸や糖などの化合物の蓄積と相関のある発現パターンを示すものが多いことが示唆された。

以上、本研究ではシロイヌナズナのオミクスデータを利用し、複数ホルモンへの応答状態を同一試料から一斉に解析する簡易手法と、遺伝子発現プロファイル群間の相関性を予測する有方向性ネットワーク解析法を確立した。さらに、これらの手法を適用して既知のホルモン阻害剤の機能を再解析し、解析結果に基づく一連の実験から、ウニコナゾールがサイトカイニンの生合成を阻害することを明らかにした。また、ホルモン変異体のオミクス解析を行い、遺伝子発現、化合物蓄積変動プロファイルを明らかにした。これらの結果は学術的にも応用的にも寄与するところが多い。よって審査委員一同は、本研究が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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