学位論文要旨



No 125833
著者(漢字) 菊池,夢美
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ムミ
標題(和) アマゾンマナティーの潜水行動および自然回帰に関する研究
標題(洋)
報告番号 125833
報告番号 甲25833
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3533号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 白木原,國雄
 東京大学 准教授 小松,輝久
 東京大学 准教授 佐藤,克文
内容要旨 要旨を表示する

現生の海牛目にはジュゴン科1種とマナティー科3種が属しており,唯一の草食性水棲哺乳動物である.アマゾンマナティー(Trichechus inunguis)は他の海牛類と異なり完全な淡水適応種であり,アマゾン川の固有種である.20世紀に商業用として大規模な乱獲が続いてその生息数は激減し,法律で保護されている現在でもなお,密猟が主な生息数減少の要因となっている.ブラジルの国立アマゾン研究所は,保護事業の一環として密猟に伴う負傷個体や孤児幼体を保護・飼育し,2008年から飼育個体を自然に放流する「自然回帰事業1を開始している.しかし,アマゾン川の広大さや茶褐色で非常に濁った川の水によって放流した個体のその後の行動を把握することは困難であった.

本研究では,潜水深度,遊泳速度,環境水温,加速度,地磁気を高頻度で記録することのできる回収型の記録計(データロガー)を用いて,初めて飼育下のアマゾンマナティーの潜水行動を記録し,行動を代表的なパターンに分類し,飼育個体の自然への放流後,どのように行動が安定していくかを詳細に調べることを目的とした.

1.データロガー装着手法の開発

これまでにデータロガーを海牛類へ応用した例がないため,本研究ではまず最適な装着手法を検討した.海牛類では主に尾鰭基部に巻き付けるベルトを使用して衛星追跡調査が行われて来たが,データロガーで正確な加速度データの記録を行なうためには,機器を体軸に平行に固定して装着する必要がある.そこで,本研究では2種類の装着手法を検討した.ベルトを使ってロガーを装着する方法では,強度と伸縮性のあるベルトを作成して胴回りへ装着し,飼育マナティーで最長46時間の行動記録に成功した.さらに,野外放流に向けてより容易な装着方法を検討し,鯨類等で使用されている吸盤装着型タグをアマゾンマナティー用に改良した.このタグにはデータロガーとタグ回収のためのVHF発信器が浮力体に取り付けられており,吸盤でマナティーの体に装着される.長時間の安定した装着を目指して最も適したタグの形を検証した結果,地磁気を記録できる3MPD3GTと加速度を記録できるD2GTのデータロガーで,野外放流個体からそれぞれ最長12時間のデータ記録に成功した.

2.飼育個体の行動分類

海牛類でこれまでに行われている行動調査は,ほとんどが目視によるものである.生息地利用状況などを調べるため衛星による個体の追跡調査が盛んに行われているが,彼らの生態を知るためにはより詳細な行動を把握する必要がある.本研究では,9個体(オス:5個体、メス:4個体,飼育年数:2-33年,体長:1.2-2.5m)のアマゾンマナティーに加速度ロガーを装着し,得られた行動データからアマゾンマナティーに特徴的な行動を次の4つに分類した,(水底での停止,水底を手で這う行動,遊泳,水面滞在).「水底を手で這う行動」は飼育水槽内で頻繁に見られたため,これはアマゾンマナティーに重要な行動であると判断し,類似した潜水波形を示す「水底での停止」と識別分類する方法を考案した.

結果,潜水深度と加速度データから5秒ごとの標準偏差を算出することで自動的にこの2つの行動を抽出することができた.抽出した行動をビデオ記録の結果と照らし合わせて分類精度を調べた結果,全個体で「水底での停止」を約87%,「水底を手で這う行動」を約85%の精度で分類することが可能であった.摂餌行動については,摂餌時間中の潜水深度と加速度データは共に標準偏差に特徴は現れなかったが,水面に浮く性質の植物を摂餌するために,餌を与えた時間内の「水面滞在」持続時間が非常に長くなる特徴がみられた.昼夜での各行動割合を算出した結果,計9個体のうち8個体は夜間に「水底での停止」を多く行っており,1個体では昼間に「水底での停止」を多く行う傾向がみられた.本研究の分類手法は,動作が緩慢で加速度データに特徴の現れにくい海牛類にも非常に有効であり,これまでの目視に頼った行動調査と比べて詳細な時間スケールで活動を把握することができる.

3.自然回帰個体の行動

ブラジル国立アマゾン研究所では,2008年からアマゾンマナティーの自然回帰事業を開始しているが,目視観察が不可能なアマゾン川において放流個体の行動を把握するための新たな調査手法が求められていた.そこで,本研究ではデータロガーを装着して,放流後の個体の行動記録を行なった.

R1(オス,飼育年数:9年,体長:2.0m)とR2(オス,飼育年数:9年,体長:1.9m)の2個体をアマゾン川に放流した結果,3次元遊泳経路から2頭が餌植物の豊富な水没森林に向かったことが確認された.R1では潜水頻度に飼育時と放流後で違いは無かったが,R2では放流後に潜水頻度が高まった.放流後の2頭の行動を「停止行動,活動,呼吸,その他の水面滞在」に分類した結果,2頭は停止行動をほとんど行なっておらず,ロガー脱落時間まで常に活動的であることが分かった.R1では「その他の水面滞在」が放流後に頻繁にみられ,飼育時の「呼吸」よりも水面滞在の持続時間が長いことが分かった.これは他の飼育個体の摂餌時の特徴と同様であり,R1が浮き草や沈水性植物などの水面付近の餌植物を摂餌していた可能性を示した.

4.回転行動の飼育時と野外放流後の比較

飼育環境下では,動物が様々な影響を受けることが知られており,同じ動作を繰り返す行動(常同行動)が他の生物種では多数報告されている.国立アマゾン研究所の飼育水槽ではアマゾンマナティーが円を描くように回転しながら泳ぐ様子が頻繁に確認された。回転行動は保護・飼育されているアメリカマナティーでも確認され,ストレス性の行動である可能性が報告されているが,放流後の個体ではこれまでに確認されていない.そこで,本研究では回転行動を飼育時と放流後で比較し,ストレスや飼育の影響を調べることとした.

放流した2個体(R1,R2)では放流直後からロガー脱落時刻まで連続的に回転行動が続けられており,全データ記録時間に占める回転行動の割合は80%以上であった.回転行動時には遊泳速度が記録されていたことから,移動しながら行われていたことが明らかになった.回転の持続時間や回転頻度を飼育時と放流後で比較した結果,R1ではいずれも違いは見られなかったが,R2では放流後に短時間で頻繁に回転していたことが分かった.第3章で,放流後にはRlがR2よりも落ち着いていた傾向がみられたが,Rlの「活動」は飼育時よりも増加していたことから,飼育時と同様に落ち着いていたとは考えられない.しかしながらR1の回転行動が飼育時と同様であったことから,回転行動がストレスの指標とはならない可能性が示された.また,Rlでは経過時間とともに若干回転が減少する傾向がみられたがR2ではみられなかった.飼育の影響か否かを判断するためにはさらに長期間のデータ記録によって回転行動の増減を調べる必要がある.2頭ともに回転行動が最も多く行なわれていたのは水深lm以浅であり,潜水深度と回転持続時間の間に負の関係がみられ,水面付近でゆっくりと回転する傾向が見られた.マナティーは視力が弱く,エコーロケーション能力も持たないため,体に散在する感覚毛は周囲を認識する上で重要な器官であることから,体を回転する独特の潜水行動をとるようになったかもしれない.既に述べたように放流後2頭が水没森林へ入ったことから,未知の環境を把握するための手段として海牛類特有の感覚毛を使用していた可能性が推測された.

5.本研究のまとめと今後の課題

本研究では,これまで行動調査が困難であったアマゾンマナティーに初めてデータロガーを装着し,飼育個体を用いて加速度ロガーのデータから行動を分類する手法を確立し,自然へ放流した個体の詳細な行動を把握することができた.

野外へ放流した2頭めマナティーから最長12時間の行動データ記録に成功し,三次元の遊泳経路から2頭が水没森林へと移動したことが分かった.これは野生のアマゾンマナティーにとって重要な餌場であり,身を隠すことのできるシェルターの役割を果たしているため,長期間の飼育個体が水没森林へ向かったことは,自然環境への適応を調べるうえで重要な結果である.放流した2頭は常に活動的であったが,R1では潜水頻度が飼育時と変わらず,放流後に摂餌を行なっていた可能性が示唆された.反対に,R2では潜水頻度が放流後に増加し,自然環境下で行動が落ち着いた様子は見られなかった.

また,放流後に2頭が飼育時と同様の回転行動を繰り返しながらも,移動していたことは興味深い結果である.放流後に「活動」が増加したR1で回転行動に飼育時と違いがなかったことや,2頭共に水面付近で回転時間が減少する傾向がみられたことから,この行動は飼育やストレスの影響だけではなく,別の目的を有する可能性が示唆された.長期間飼育されていたアマゾンマナティーが放流後に水没森林へ入ったことからも,未知の環境を把握するための手段として海牛類特有の感覚毛を使用していた可能性が考えられる。

希少動物の放流事業は個体数回復のため重要であるが,これを有意義なものにするためには放流後の個体の動向を詳細に把握することで放流成功を評価し,放流事業を改善する必要がある.本研究では,2頭のマナティーにおいて,これまでの衛星追跡や目視調査ではブラックボックスであった個体の詳細な水中活動を経時的に把握することができた.今後,放流後の個体がどのように自然環境下へ適応していくかを明らかにするためには,長期間の行動記録によるさらなる調査が必要である.

審査要旨 要旨を表示する

現生の海牛目にはジュゴン科1種とマナティー科3種が属しており、草食性水棲哺乳動物として知られている。アマゾンマナティー(Trichechus inunguis)は他の海牛類と異なり完全な淡水適応種であり、アマゾン川の固有種である。20世紀に商業用として大規模な乱獲が続いてその生息数は激減し、法律で保護されている現在でもなお、密猟が主な生息数減少の要因となっている。ブラジルの国立アマゾン研究所は、保護事業の一環として密猟に伴う負傷個体や孤児幼体を保護・飼育し、2008年からは飼育個体を自然に戻す「自然回帰事業」を開始している。しかし,アマゾン川の広大さや茶褐色で非常に濁った川の水によって自然へ戻した個体のその後の行動を把握することは困難であった。

本論文申請者は、第一章では、潜水深度,遊泳速度,環境水温,加速度,地磁気を高頻度で記録することのできる日本が開発した世界最先端のデータロガー(D2GTと3MPD3GT)を用いて、飼育下のアマゾンマナティーの代表的な潜水行動を整理し、その成果をもとに、飼育個体を自然回帰させた個体の自然環境への適応度合いを調査する'目的を述べた。第二章では、データロガーをマナティーに装着する最適な2種類の装着手法を検討した。ベルトを使ってロガーを装着する方法では、強度と伸縮性のあるベルトを作成して胴回りへ装着し、飼育マナティーで最長46時間の行動記録に成功した。次に、野外放流に向けてより容易な装着方法を検討し、鯨類等で使用されている吸盤装着型タグをアマゾンマナティー用に改良した。このタグにはデータロガーとタグ回収のためのVHF発信器が浮力体に取り付けられており、吸盤でマナティーの体に装着される。長時間の安定した装着を目指して最も適したタグの形を検証した結果、地磁気を記録できる3MPD3GTと加速度を記録できるD2GTのデータロガーで、野外放流個体からそれぞれ最長12時間のデータ記録に成功した。第三章では、ブラジルの国立アマゾン研究所が飼育している個体を用いて、アマゾンマナティーに特徴的な潜水行動を次の4つに分類した(1.水底での停止行動、2.水底を前肢で這う行動、3.遊泳行動、4.水面滞在行動)。「水底を前肢で這う行動」は飼育水槽内で頻繁に見られたため、これはアマゾンマナティーに重要な行動であると判断し、類似した潜水波形を示す「水底での停止行動」と識別分類する方法を考案した。抽出した行動をビデオ記録の結果と照らし合わせて分類の精度を調べた結果、全個体で「水底での行動停止」を約87%,「水底を前肢で這う行動」を約85%の精度で分類することが可能になった。昼夜での各行動割合を算出した結果、計9個体のうち8個体は夜間に停止行動を多く行っており、1個体では昼間に停止行動を多く行う傾向がみられた。第4章では、ブラジルの国立アマゾン研究所の保護事業の一環として、野生で負傷または孤児となった個体を一時的に保護・飼育した後に自然に戻す「自然回帰事業」が実施されている。本研究で開発したシステムをこの事業に応用し、放流後の個体の行動記録を行い、自然環境への適応評価を行った。自然回帰した2個体のマナティー(RlとR2)は、放流後、餌植物の豊富な水没森林に向かったことが確認された。放流後の2頭の行動を「停止行動、活動、呼吸行動、その他の水面滞在行動」に分類した結果、2頭は停止行動をほとんど行なっておらず、ロガー脱落時間まで常に活動的であることが分かった。Rlでは「その他の水面滞在行動」が放流後に頻繁にみられ、飼育時の「呼吸行動」よりも水面滞在の持続時間が長いことが分かった。これは他の飼育個体の摂餌時の特徴と同様であり、R1が浮き草や沈水性植物などの水面付近の餌植物を摂餌していた可能性を示した。第5章では、放流した2個体は放流直後からロガー脱落時刻まで連続的に回転行動が続けられており、全観察時間に占める回転行動の割合は80%以上であった。回転行動時には遊泳速度が記録されていたことから、移動しながら行われていたことが明らかになった。回転の持続時間や回転頻度を飼育時と放流後で比較した結果、Rlではいずれも違いは見られなかったが、R2では放流後に短時間で頻繁に回転していたことが分かった。マナティーは視力が弱く、エコーロケーション能力も持たないため、体に散在する感覚毛は周囲を認識する上で重要な器官であることから、体を回転する独特の潜水行動していた可能性が示唆された。また、放流後に摂餌を行なっていた可能性も示唆された。本研究では、アマゾンマナティーに世界最先端のデータロガーを装着し、水槽飼育されている個体に装着し、行動解析を行うとともに、ビデオ記録と併用して基本的な行動の分類を明らかにした。この飼育個体から2頭のマナティーを選択し、アマゾン川に自然回帰実験を行った。自然環境下への順応実験を実施した際に、マナティーが体を回1伝していること、および水中の自然林で休止していることなど、これまで知られていない研究成果をあげることができた。以上のことから、本研究が高く評価される。

以上、本研究は、海洋動物の潜水行動の解明に極めて有意義な知見を得たことから、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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