学位論文要旨



No 125835
著者(漢字) 早川,淳
著者(英字)
著者(カナ) ハヤカワ,ジュン
標題(和) 相模湾長井におけるサザエの初期生態に関する研究
標題(洋)
報告番号 125835
報告番号 甲25835
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3535号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 河村,知彦
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 准教授 山川,卓
 日本海区水産研究所 室長 林,育夫
内容要旨 要旨を表示する

サザエTurbo cornutusは我が国沿岸域における最も重要な水産資源の一つであり、暖流の影響下にある各地で漁獲および種苗放流が行われている。本種の漁獲量は、地域的に数年単位で大きく増減することが知られており、これは卓越年級群の発生と関連があると考えられていが、本種の資源量変動の機構は明らかでない。サザエ資源を持続的に利用・維持して行くための漁業管理および種苗放流方策を確立するためには、天然におけるサザエの繁殖生態・初期生態に関する知見を集積し、加入量変動の機構を明らかにする必要がある。

本研究は加入量変動に係わるサザエの初期生態の解明を目的とした。サザエが地先の重要な水産資源となっている相模湾東部の長井沿岸において、着底直後から成長段階を追って継続的にサザエを採集することにより、産卵の行われた時期の特定、および発生した稚貝の成長・生残を調査した。特にサザエの初期生態と海藻群落の関係性を重視し、海藻群落の浮遊幼生の着底場としての機能を検討するため、野外調査と室内実験により、各種海藻に対する浮遊幼生の着底・変態およびその選択性を調べた。また、複数の海藻群落で継続的に調査を行い、稚貝の生息密度や成長・生残を海藻群落間で比較した。同時に各海藻群落内の動物相を調査することでサザエの生残に影響する要素を検討し、室内実験によりサザエの被食による死亡について調べた。加えて、給餌実験および摂餌器官である歯舌の形態観察により、成長段階ごとにサザエの食性を推定し、野外調査等の結果から重要な初期生息場であることが分かった有節サンゴモ群落とテングサ群落について、その内部におけるサザエにとっての餌料環境を調査した。

浮遊幼生の着底・変態

2005年7月~2008年12月の長井沿岸における着底初期稚貝の出現状況と生殖巣熟度指数の変化から、6~10月がサザエの産卵期であり、産卵期間中に複数のコホートが出現することが明らかになった。各コホートの出現時における成貝の生殖腺熟度指数の減少幅と各コホートの着底初期稚貝の採集個体数には明瞭な関係は認められず、浮遊幼生の着底量は成貝の産卵量以外の要因にも影響されると考えられる。

水深2~3mに存在する4種の海藻群落(有節サンゴモ群落、テングサ群落、アラメ・カジメ海中林、無節サンゴモ転石)を対象とした着底直後のサザエ稚貝の採集調査では、有節サンゴモ群落内とテングサ群落内で着底直後の個体数密度が高いことがわかった。それに対し、アラメ・カジメ海中林内や無節サンゴモ転石上からは着底初期稚貝はほとんど採集されなかった。サザエ浮遊幼生の各種海藻種に対する着底・変態を調べた室内実験においても、浮遊幼生は有節サンゴモ類やテングサ類に対して他の海藻種よりも有意に高い着底・変態率を示した。また、浮遊幼生は、単独で供試した場合には高い着底・.変態率を示す他の海藻種が同時に供試された場合でも、有節サンゴモ類に対して選択的に着底・変態することが明らかになった。浮遊幼生の着底・変態率が最も高かった有節サンゴモ類については、藻体中に含まれる化学物質がサザエ浮遊幼生の着底・変態を誘引することが室内実験によってわかった。また、サザエ初期稚貝の各種海藻種に対する蝟集行動を室内実験により調べたところ、着底後の初期稚貝は他の海藻群落へ移動せずに有節サンゴモ群落内に留まると考えられた。これらの野外調査と室内実験の結果から、有節サンゴモ群落内のみに認められる着底後数ヶ月のサザエ稚貝の高密度分布は、浮遊幼生が有節サンゴモ類を着底基質として選択するとともに、着底後の初期稚貝も有節サンゴモ類藻体を選好することによって生じると推察される。

初期稚貝および稚貝の生残

成貝の産卵期間である6~10月には、有節サンゴモ群落とテングサ群落内における2005~2008年発生群の初期稚貝密度は増減を繰り返した。これは、長井周辺海域に生息するサザエ個体群の散発的な産卵による間欠的な幼生の供給と着底後の初期稚貝の減耗が繰り返されたことによると考えられる。産卵期末の10月以降に群落内の初期稚貝密度が急速に低下したことに加え、野外から採集された死亡個体の90%以上が殻径2mm未満であったことから、着底後数カ月間の減耗がそれ以降に比べて著しく大きいと考えられる。

採集された殻径2mm未満の死亡個体の28.0%(446個体中125個体)において、貝殻に円形または楕円形の孔が認められた。各海藻群落内の動物相調査では、有節サンゴモ群落内やテングサ群落内において新腹足目アクキガイ科の肉食性巻貝が優占していることが明らかになり、貝殻上に穿孔痕が存在する死亡個体はこれらの肉食性巻貝類によって捕食されたと推察される。有節サンゴモ群落およびテングサ群落内で優占する複数の肉食性巻貝類を用いた捕食実験により、最も活発にサザエ初期稚貝・稚貝を捕食するヒメヨウラクが、捕食時にサザエ初期稚貝・稚貝の貝殻に円形または楕円形の穿孔痕を残すことが明らかになった。また、幅広い体サイズのサザエ初期稚貝・稚貝がヒメヨウラク成貝および稚貝に捕食されることもわかった。これらのことから、群落内に同所的に生息するヒメヨウラクによる被食は、サザエの初期生活史における主要な減耗要因の一つと考えられた。その一方で、複雑な形状を持つ有節サンゴモ類藻体の存在が、サザエ稚貝に対するヒメヨウラクの捕食を低減させることも室内実験によって明らかになった。ヒメヨウラクの個体数密度が他の海藻群落でも同程度に高いことから、群落外に比べれば有節サンゴモ群落内での被食死亡は少ないと推察される。テングサ群落については、有節サンゴモ群落に比べればヒメヨウラクの捕食を低減する効果は低いと考えられた。

テングサ群落では着底後数ヶ月間でサザエ初期稚貝が消失したが、有節サンゴモ群落では着底後約1年間にわたって初期稚貝・稚貝が連続的に採集された。

初期生息場の餌料環境

有節サンゴモ類やテングサ類の藻体上の付着珪藻密度を人為的に変化させた給餌実験を行うことにより、これらの海藻藻体と藻体上の珪藻の餌料価値を比較した。その結果、殻径4mm以下のサザエ初期稚貝・稚貝にとっては、有節サンゴモ類の藻体自体よりも藻体上の付着珪藻が餌料として重要であることが明らかになった。一方、殻径3mm以上の初期稚貝・稚貝にとっては、テングサ類の藻体が好適な餌料であることもわかった。初期稚貝・稚貝の成長に伴う歯舌の形態変化から、殻径1.2mm前後で付着珪藻食性から海藻食性への食性転換が始まることが推察された。付着珪藻に加え、有節サンゴモ類藻体上に着生する大型海藻類の幼芽や微小な海藻類がサザエ初期稚貝の重要な餌料源となっている可能性が考えられる。

2007年7月から2009年10月にかけて、水深2~3mに群落を形成していた有節サンゴモ類の藻体上の付着珪藻密度と種組成を調べた結果、藻体上の付着珪藻密度は夏季に低く、冬季に高かった。夏季には植食動物の摂食圧が高い環境下で優占することが知られるCeceoneis属の珪藻が全珪藻密度の大半を占めていたのに対し、冬季には摂食圧が低い環境下で増殖しやすいと考えられる群体性の珪藻種が出現し、水温変化に伴う植食動物による摂食圧の変化が藻体上の付着珪藻の密度と種組成に強く影響すると考えられた。動物相の調査から、有節サンゴモ群落内ではチグサガイが最も個体数の多い植食動物であることが分かり、群落内におけるチグサガイの個体数密度が高い時に藻体上の珪藻密度が低下することも明らかになった。さらに、室内実験によって、チグサガイとサザエ初期稚貝が藻体上の付着珪藻を巡る競合関係にあることも示された。これらのことから、着底直後の夏季には、飢餓による死亡もサザエの主要な減耗要因となっていると考えられる。

成長に伴う稚貝の有節サンゴモ群落からの移動

有節サンゴモ群落内における着底後数ヶ月間の成長速度は年によって、あるいはコホート間でも変動したが、いずれのコホートも着底の約1年後に殻高10~15mmに成長した。有節サンゴモ群落内においても、殻高が10mm以上に成長したサザエ稚貝の個体数は減少し、それらが群落外へと移動したものと考えられる。室内実験の結果から、殻高10mm以上のサザエ稚貝はヒメヨウラクにはほとんど捕食されなくなること、また有節サンゴモ藻体上の付着珪藻の餌料価値が大きく低下することがわかったことから、サザエ稚貝の成長に伴い、有節サンゴモ群落の隠れ場および摂餌場としての有効性が低下することが稚貝の群落外への移動の原因であると推察される。

本研究によって、有節サンゴモ群落が、着底直後から約1年間にわたりサザエの初期生息場として重要な機能を果たしていることが明らかになった。また、サザエの初期成長・初期生残には、餌料源となっている付着珪藻や海藻幼芽などの種組成や密度、餌料を巡る競合者となるチグサガイ類や主要な捕食者であるヒメヨウラクの個体数密度など、有節サンゴモ群落内の生物相が強く影響を及ぼすことが示された。サザエの加入量変動は、初期生息場である有節サンゴモ群落の生物的環境の変動による生残率の高低によって引き起こされると結論される。

審査要旨 要旨を表示する

サザエTurbo eornutusは我が国沿岸域における最も重要な水産資源の一つであり、暖流の影響下にある各地で漁獲および種苗放流が行われている。本種の漁獲量は、地域的に数年単位で大きく増減することが知られているが、資源量変動の機構は明らかではない。本研究は、相模湾長井沿岸におけるサザエの加入量変動に係わる初期生態の解明を目的とした。

第1章の緒論では、サザエの生態に関するこれまでの知見を整理し、本研究の目的を明示した。

第2章では、長井沿岸における浮遊幼生の着底時期、および発生した稚貝の成長・生残過程を明らかにした。2005年7月から2009年12月にかけて、着底直後から成長段階を追って継続的にサザエを採集した。特に、サザエの初期生態と海藻群落の関係性に着目し、水深2~3mに存在する4種の海藻群落で調査を行い、稚貝の生息密度や成長・生残を海藻群落間で比較した。その結果、有節サンゴモ群落とテングサ群落内で着底直後の個体数密度が高いことがわかった。それに対し、アラメ・カジメ海中林内や無節サンゴモ転石上からは着底初期稚貝はほとんど採集されなかった。また、いずれの年発生群についても、テングサ群落内では着底後数ヶ月間で初期稚貝が消失したが、有節サンゴモ群落内では着底後約1年間にわたって初期稚貝・稚貝が連続的に採集された。産卵期末の10月以降に群落内の初期稚貝密度が急速に低下したことに加え、採集された死亡個体の90%以上が殻径2mm未満であったことから、着底後数ヶ月間の減耗がそれ以降に比べて著しく大きいと考えられた。

第3章では、室内実験により、各種海藻に対する浮遊幼生の着底・変態率を調べた。各種海藻をそれぞれ単独で供試した場合、浮遊幼生は有節サンゴモ類やテングサ類に対して他の海藻種よりも有意に高い着底・変態率を示した。複数の海藻種を同時に供試した場合には、浮遊幼生は有節サンゴモ類に対して選択的に着底・変態することが明らかになった。また、初期稚貝の各種海藻種に対する蝟集行動を室内実験により調べたところ、初期稚貝は有節サンゴモ藻体に対して高い選択率を示した。これらの結果から、サザエ稚貝が有節サンゴモ群落内に高密度分布するのは、浮遊幼生が有節サンゴモ類を着底基質として選択するとともに、着底後の初期稚貝も有節サンゴモ類藻体を選好することによると推察された。

第4章第1節においては、各海藻群落内の動物相を調査することにより、サザエと強い種間関係を持つ動物種を推定した。第2節では、第1節において有節サンゴモ群落内で優占することが分かった小型肉食性巻貝類を用いた室内実験を行い、サザエの被食による死亡について調べた。その結果、殻高1~12mmのサザエ初期稚貝・稚貝がヒメヨウラクの成貝および稚貝に活発に捕食されることがわかった。このことから、有節サンゴモやテングサ群落内でサザエ稚貝と同所的に生息するヒメヨウラクによる被食は、サザエの初期生活史における主要な減耗要因の一つと考えられた。一方、別の室内実験によって、有節サンゴモ類藻体の複雑な形状が、サザエ稚貝に対するヒメヨウラクの捕食を低減させることも明らかになった。第3節では、給餌実験および摂餌器官である歯舌の形態観察により、成長段階ごとにサザエの食性を推定し、有節サンゴモ群落とテングサ群落内におけるサザエにとっての餌料環境を調査した。有節サンゴモ類やテングサ類の藻体上の付着珪藻密度を人為的に変化させた給餌実験を行うことにより、これらの海藻藻体と藻体上に付着する珪藻の餌料価値を比較した。その結果、サザエ初期稚貝にとっては、有節サンゴモ類の藻体自体の餌料価値は低く、藻体上の付着珪藻が主要な餌料であることが明らかになった。殻高約3mm以上に成長すると、サザエ稚貝はテングサ類藻体を餌料として利用できることが分かった。また、有節サンゴモやテングサ群落内に高密度に生息するチグサガイは、サザエ初期稚貝と付着珪藻を巡る競合関係にあることが明らかになった。

第5章総合考察では、第2章から第4章までの結果をあわせて、長井におけるサザエの新規加入量変動要因を考察した。サザエの新規加入量は、主要な生息場である有節サンゴモ群落内における餌料環境や捕食圧の強度に強く影響され、それらに伴って変動すると推察された。

以上、本研究は、4年間にわたる継続した野外調査と多くの室内実験により、相模湾におけるサザエの初期生態を解明し、サザエ資源の加入量変動要因を具体的に明らかにした。本研究の結果は、サザエの資源管理に不可欠な初期生態に関する新知見を数多く提供するとともに、今後の底生動物の個体数変動研究に応用が期待される新たな着眼点を提示した点で高く評価できる。よって審査委員一同は本論文が学位(農学)に値するものと判断した。

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