学位論文要旨



No 125837
著者(漢字) 宮本,洋臣
著者(英字)
著者(カナ) ミヤモト,ヒロオミ
標題(和) 浮遊性毛顎類の多様性と生物地理に関する分子遺伝学的、形態学的研究
標題(洋) Molecular and morphological studies on the diversity and biogeography of pelagic chaetognaths
報告番号 125837
報告番号 甲25837
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3537号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,周平
 東京大学 教授 木暮,一啓
 東京大学 教授 小島,茂明
 東京大学 准教授 津田,敦
 株式会社三洋テクノマリン 副社長東京大学名誉教授 寺崎,誠
 三重大学 教授 後藤,太一郎
内容要旨 要旨を表示する

海洋漂泳系は地球上で最大の生命圏である。陸上とは異なり顕著な物理的障壁が乏しいため、そこに生息する動物プランクトンの多くは極めて広い海域に分布し、汎世界的に分布すると考えられている種も多い。しかし近年の分子遺伝学的研究は、これら広域分布種の多くが形態では識別が困難な、遺伝的に分化した個体群(隠蔽種)からなることを示し、形態種内の遺伝的構造、個体群・種間の系統関係、種分化様式、高次分類群の系統的位置等についても多くの知見をもたらした。

現在約90種が知られている浮遊性毛顎類は、種多様性は必ずしも高くないが、個体数、生物量ともに大きく、代表的な肉食性動物プランクトンとして海洋の食物連鎖において重要な役割を果たしている。浮遊性毛顎類に関しては旧くから分類や分布生態について研究が行われ、全海洋に生息する種はほぼ網羅されていると考えられている。しかし、生息環境による形態変化、不十分な形態記載などの理由から分類形質の評価が難しく、また種の識別形質や属・種の定義が研究者間で異なるなど、多くの分類学的問題が指摘されている。このような問題の解決には分子分類や集団遺伝学的手法が有効である。一方、近年、底生性毛顎類の分子遺伝学的研究により毛顎類が後生動物のなかで特異な位置を占め、動物進化の上で極めて興味深い動物群であることが注目されている。しかし、浮遊性毛顎類の遺伝的特性と系統関係に関する知見は極めて乏しい。

本研究はこれらの点に着目し、浮遊性毛顎類における種間・種内の遺伝的特性を明らかにするとともに、形態・生態的特徴と比較することにより、形態分類を再検討することを目的とした。さらに、得られた分子系統地理の知見に基づき、漂泳生態系、特に中・深層における種分化機構について考察した。

浮遊性毛顎類の分子分類

浮遊性毛顎類の広範な種における遺伝的特性を把握する目的で、大西洋と太平洋から得られた22種についてミトコンドリアCOI塩基配列(約360bp)(うち1種のみsrRNA塩基配列)を決定し、種内・種間の系統を解析した。この結果、Eukrohniaha〃lataとEu.bathypelagicaの遺伝的関係は形態分類と一致せず、両種が混在する複数の系統に含まれることが示された。また、10種で種内に顕著な遺伝的分化(uncorrected p-distance>0.10)が認められ、現在の形態分類が多様性を著しく過小評価していることが示された。また、遺伝的に分化した集団相互の地理的関係は、大洋間異所性、水塊間異所性、および同所性分布に分類された。これらの知見を参照して、特徴的な分化パターンを示す種と種群について、以下に示す詳細な解析を行った。

Caecosagittama crocephalaの遺伝的多様性と隠蔽的種分化

相模湾(0-1400m)と大西洋(1000-4000m)から中・深層種Ca.macrocephala52個体を採集し、種内の遺伝的分化を解析した結果、大西洋に3集団(mtA、B、D)、相模湾に1集団(mtC)が認められた。また、外群を含めた解析では、[mtA、(mtB、C、D))という系統関係が支持された。この関係は核マーカー(nITS1)でも支持されたが、mtB、C、Dの分化は、核マーカーでは認められなかった。これらのことから、Ca.macrocephalaに少なくとも2種の隠蔽種が存在することが示された。さらに、mtAの分布深度は北大西洋深層水(>2000m)、mtB、C、Dの分布深度は南極中層水(<2000m)に対応したことから、本種においては、鉛直的な水塊構造の成立に起因して隠蔽種が分化したことが示唆された。

Solidosagitta zetesiosの分類の再検討

3大洋の中・深層に広く分布する大型種So.zetesiosの遺伝的分化と形態的特徴を南大西洋と西部北太平洋の試料に基づき解析した結果、太平洋(Pa-1、2)と大西洋(At-1、2)に各2集団が認められた。また、外群を含めた解析から、本種は2つの系統[Pa-1、At-1]と[Pa-2、At-2]からなることが示された。これら2系統の個体間には、前鰭の位置と成熟体長に有意な違いが認められた。さらに系統内集団間で形態を比較したところ、Pa-2とAt-2では違いが見られなかったが、Pa-1とAt-2では前鰭の大きさが有意に異なり、顎毛の色にも相違が認められた。これらの結果から、So.zetesiosの中に少なくとも3種の隠蔽種が存在し、これらは形態的特徴によっても識別可能であることが示された。

Eu.hamataとEu.bathypelagicaの分類学的再検討と分子系統地理

遺伝子と形態の統合的解析により、広域に分布する中・深層種Eu.hamataとEu.bathypelagicaの分類を再検討した。全球的に採集された試料に基づく系統解析の結果、両種が4っの集団(ham-a、b、c、d)からなることが示された。しかし、これらの形態種はいずれも単系統群を形成せず、各集団には両種が混在していたことから、従来の卵巣形態の相違に基づく両種の形態分類は遺伝的系統関係を反映していないことが示された。

4集団の形態を比較した結果、ham-dのみ腹側の顎毛が鋸歯状を呈し、他の3集団は相互に有意な成熟体長の相違を示した。また、ham-a、b、c、dは、それぞれ南大洋、温帯域、熱帯域、北太平洋北部に多く出現したことから、各集団の分化が大洋の水塊構造と関係することが示唆された。また、ham-bとcではさらに集団内の遺伝的分化が認められたが、ham-aとdでは分化は認められず、冷水域に比べ温帯・亜熱帯域で、より高頻度で遺伝的分化が起きたことが示唆された。ham-c内の亜集団の分布は重なり、明瞭な地理的構造は認められなかったが、ham-bでは本州南岸以北と赤道域の間に遺伝的分化が認められた。また、その他の亜集団においても集団内でさらに異所的分化が起きていることが示唆された。ham-aとdを各々1つの任意交配集団としてミスマッチ解析を行った結果、それぞれ6万年前、10万年前に個体数が減少し、その後急増したことが示唆された。この時期は最終氷河期の前期および中期にあたるため、個体群の減少は気候変動に起因するものと推察された。

Pseudosagirta属における種の系統関係と分類学的検討

同一種内の形態的多型である可能性が指摘されているPs.scrippsaeとPs.lyraの形態分類を遺伝学的解析に基づき評価した。また、本研究の初期の段階で確認されたPs.lyraの4集団と形態的多型との関係について解析した。この結果、Ps.lyraとPs.serippsae間にミトコンドリアおよび核マーカーのいずれにおいても分化が認められ、両種が生殖的に隔離されていることが示唆された。しかし、Ps.scrippsaeはPs.lyraの内群として存在し、Ps.lyraの4集団の単系統性は支持されず、Ps,scrippsaeとの種分化以前にPs.lyra内の集団が分化したことが示された。また、Ps.lyraの遺伝的集団は、従来報告されている形態的多型とは一致せず、多型が個体発生にともなう形態変化であることが示された。

Pseudosagitta4種はそれぞれ北大西洋亜寒帯域(Ps.scrippsae)、温帯・熱帯域(Ps.lyra)、南大洋(Ps.gazellae)、深層(Ps.maxima)に異所的に分布する。系統解析の結果、4種は、[Ps.maxima{Ps.gazellae(Ps.scrippsae、Ps.lyra)}]という関係にあり、中層と深層への鉛直的分化に引き続き、中層の祖先種がさらに地理的に分化したものと推察された。Ps.gazellaeと[Ps.scrippsae、Ps.lyra]は遺伝距離から漸新世にあたる32万年前に分化したと推定された。漸新世は、南極環流が成立した時期であり、環流の成立とともに種分化したことが推察された。

浮遊性毛顎類ミトコンドリアゲノムの構造的特性

浮遊性毛顎類の遺伝学的特性と後生動物の系統学に関する基礎的知見を得ることを目的として、Zonosagitta nagae、Mesosagitta decipiens、Floccisagitta enLflataのミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。3種のゲノムの全長は、それぞれ11459、11121、12631bpで、一般的な後生動物にコードされている37の遺伝子のうち23を失っていた。コードされている遺伝子は系統的に離れた底生性の2種と同じであり、欠失は祖先種において起きたと推察された。また、COII-III、ND1-3、SrRNA,およびtRNA(met)は毛顎類で共通する遺伝子配置であり、祖先形質であると考えられた。

以上本研究により、現在認められている形態種の多くに複数の遺伝的に分化した集団が存在し、形態分類が種多様性を過小評価していることが示された。また、一部の隠蔽種については種間の形態的識別点が明らかになった。さらにこれらの結果を生態的情報と統合することにより、漂泳系における種分化機構解明のための多くの示唆が得られた。本研究は外洋域の中・深層に生息する種を主な対象としたが、今後、未だ知見の乏しい低緯度沿岸種や外洋表層種について解析することにより、全球規模での浮遊性毛顎類の多様性と種分化機構が明らかになるものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

海洋漂泳系には顕著な物理的障壁が乏しく、そこに生息する動物プランクトンの多くは極めて広い分布域をもつものと考えられてきた。しかし近年の分子遺伝学的研究から、これらの種の多くが形態では識別が困難な遺伝的に分化した集団(隠蔽種〉からなることが明らかになってきた。現在約90種が知られている浮遊性毛顎類は重要な肉食性プランクトンだが、生態研究の基礎となってきた形態分類には多くの問題が指摘されている。しかし浮遊性毛顎類の遺伝的特性と系統関係に関する知見は極めて乏しい。本研究はこれらの点に着目し、浮遊性毛顎類における種間・種内の遺伝的特性を明らかにし、形態分類を再検討するとともに、漂泳生態系における種分化機構について考察したものであり、以下のように要約される。

第1章:浮遊性毛顎類の生物学に関する知見を総説するとともに形態分類と遺伝子研究における問題点を指摘し、研究の目的を明示した。

第2章:以後の章に共通する材料と方法を記述した。

第3章:浮遊性毛顎類の広範な種における遺伝的特性を把握する目的で大西洋と太平洋から採集した22種のミトコンドリアCOI塩基配列(約360bp)を決定し、種内・種間の系統を解析した。この結果EukrohniahamataとEu.bathypelagieaの個体は両種が混在する複数の系統に含まれること、また10種で種内に顕著な遺伝的分化が認められ、現在の形態分類が多様性を著しく過小評価していることが示された。

第4章:相模湾と大西洋から採集した中・深胴種Caecosagitta macroceρhalaにおける種内の遺伝的分化を解析し、大西洋に3集団(mtA、B、D)、相模湾に1集団(mtC)を認めた。また外群を含めた解析により、[mtA、(mtB~D)]という系統関係を見いだし、本種に少なくとも2種の隠蔽種が存在することを示した。

第5章:3大洋の中・深層に分布するSolidosagitta zetesiosの遺伝的分化を解析し、太平洋(Pa-1、2)と大西洋(At-1、2)に各2集団を認めた。外群を含めた解析から、本種は2つの系統[Pa-1、At-1]と[Pa-2、At-2]からなることを示すとともに、2系統の個体間には前鰭の位置と成熟体長に有意な違いがあることを見いだした。これらの結果から本種には少なくとも3種の、形態的に識別可能な隠蔽種が存在することが示された。

第6章:遺伝子と形態の統合的解析により、広域に分布する中・深makTiEu.hamataとEu.bathypelagicaの分類を再検討し、両種が4つの集団(ham-a~d)からなることを示した。しかし各集団には両形態種が混在していたため、従来の卵巣形態に基づく両種の分類は系統関係を反映していないことが判明した。また4集団のうちham-dのみ腹側の顎毛が鋸歯状を呈することを見いだした。Ham-bとcではさらに集団内の遺伝的分化が認められたがham-aとdでは分化は認められず、冷水域に比べ熱帯・亜熱帯域で、より高頻度で遺伝的分化が起きたことが示唆された。

第7章:同一種内の形態的多型の可能性が指摘されているPseudosagitta scrippsaeとPs.lyraの分類を遺伝学的解析により評価した。Ps.lyraとPs.scrippsae間にはミトコンドリアおよび核マーカーのいずれにおいても分化が認められたが、後者は前者の内群として存在したことからPs.scrippsaeとの種分化以前にPs.lyra内の集団が分化したものと推定した。また、Ps.lyraの多型が個体発生にともなう形態変化であることを示した。

第8章:従来知見のない浮遊性毛顎類のミトコンドリアゲノム全塩基配列を3種について決定した。3種のゲノムの全長は11459、11121、12631bpで、ほとんどの後生動物にコードされている37の遺伝子のうち23を失っていた。コードされている遺伝子は系統的に離れた底生性の2種と同じであり、欠失は祖先種において起きたと推察された。

第9章:以上の結果をもとに遺伝集団の系統地理と海洋の古環境を比較した結果、中・深屑性毛顎類では大陸塊等の物理的障壁による生殖隔離のない環境下で集団の分化が生じたこと、また漂泳生態系における種多様性の創出に側所的あるいは同所的租分化機構が重要であることが示唆された。

以上本研究は浮遊性毛顎類の形態種の多くが複数の遺伝集団を含み、形態分類が種多様性を過小評価していることを示し、一部の隠蔽種については種間の形態的相違を明らかにした。さらにこれらの結果を生態的情報と統合することにより漂泳系における種分化機構に関する多くの示唆を与えており、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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