学位論文要旨



No 125838
著者(漢字) 馬久地,みゆき
著者(英字)
著者(カナ) メクチ,ミユキ
標題(和) 魚類の腸管内カルシウム沈殿形成に関する分子生理学的研究
標題(洋)
報告番号 125838
報告番号 甲25838
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3538号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,豊二
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 准教授 兵藤,晋
 東京大学 准教授 大久保,範聡
内容要旨 要旨を表示する

生物が生命活動を維持する上で、体液浸透圧などの体内の環境をある一定の範囲内に保つことは重要である。真骨魚の体液浸透圧は淡水魚、海水魚ともにほぼ同じ値(海水の1/3程度)に保たれている。海水魚は体液浸透圧を外部環境より低く保つため、過剰なイオンを排出し、不足する水を取り込む必要がある。そのため海水魚は海水を飲み、不足する水を補っている。腸上皮での水の吸収は浸透圧差による受動的な移動であるため、飲んだ海水から予めイオンを除去することで、浸透圧を体液より低くする必要がある。消化管におけるイオン除去機構は1価イオン(Na+,Cl)と2価イオン(Ca(2+),Mg(2+))で大きく異なる。飲み込んだ海水の1価イオンは食道、腸の上皮細胞上に存在する各種イオン輸送体を介して吸収され、鯉より体外へ排出されることが知られている。一方、2価イオンは腸内液に多量に含まれているため、1価イオン同様に食道、腸で吸収されるとは考えにくい。しかし、2価イオンを除去するメカニズムが存在すると、効率的に体内へ水を吸収することが可能となる。

海水飼育中のウナギは絶食状態にも関わらず白い固形物を腸内で形成し、体外に排出する。白い固形物を簡易的に元素分析したところカルシウムが主成分の物質であることが判明した。白い固形物は淡水飼育個体からは排出されず、海水飼育個体にだけ見られることから、Ca(2+)が関連する海水適応の産物であると考えられる。海水魚が飲んだ海水から効率よく水を吸収するために予めイオンを除去することは重要であるが、Ca(2+)は白い固形物(カルシウム沈殿)として体外へ排出されることにより、腸内から除去される可能性が高い。そこで本研究では、海水魚の2価イオン除去機構を解明するとともに、カルシウム沈殿の生理学的意義を明らかにすることを目的とした。

第1章カルシウム沈殿の物理化学的解析

カルシウム沈殿の物理化学的性質を解明するために、元素分析、構造結晶解析、分子構造解析を行った。まず、走査型電子顕微鏡を用いて表面構造の観察および元素分析を行った。カルシウム沈殿は直径1~5μmの球状構造の集合体で、その表面は粘液に包まれていた。また、カルシウム沈殿の主要元素はCa,Mg,C,Oであり、さらにマッピング解析を行った結果、これらの元素は共在していることが分かった。また定量性の高い蛍光X線分析(C,Oなど原子番号の小さい元素は検出できない)を行った結果、主要元素はCa,Mgでその存在比はそれぞれ全体の77.0%,22.5%であった。その他にPとSがそれぞれ0.36%,0.14%含まれていた。次にX線回折を用いて結晶構造解析を行った結果、カルシウム沈殿は一部Mg・calcite(炭酸マグネシウムと炭酸カルシウムの混合物)として結晶化しているが、残りは非結晶質であることが分かった。さらにフーリエ変換赤外分光分析を用いてカルシウム沈殿の分子構造を解析したところ、ヒドロキシル基が検出され水分子を含むことが分かった。これらの結果より、カルシウム沈殿は粘液に包まれており、沈殿自体はMg・calciteおよび水を含む非結晶質から成ることが宗された。

第2章カルシウム沈殿の形成機構

カルシウム沈殿の形成はウナギに特有なものではなく、海水馴致魚全般に見られる現象であることを確認するために、様々な海産魚を用いてカルシウム沈殿の形成を確かめた。その結果、絶食状態で飼育したほとんどの海産魚がカルシウム沈殿を形成・排出することが確認できた。このことから、カルシウム沈殿を形成し排出することは、海産魚に共通する生理的な現象であると考えられた。さらにウナギを様々な希釈海水で飼育したところ、カルシウム沈殿形成は海水濃度依存的に増加し、カルシウム沈殿の形成は海水適応に関わる現象であることが判明した。

第1章の結果より、ウナギが排出するカルシウム沈殿の主成分はMg-calcite(炭酸カルシウムと炭酸マグネシウムの混合物)であることが分かった。これらの炭酸カルシウムおよび炭酸マグネシウムはCa(2+),Mg(2+)と重炭酸イオン(HCO3-)が反応してできる物質であると予測し、Ca(2+),Mg(2+),HCO3-の由来を検討した。ウナギを低Ca(2+)および低Mg(2+)海水で飼育し、腸内で形成されたカルシウム沈殿量および沈殿中のCa1Mg比を測定したところ、低Mg海水ではカルシウム沈殿量はコントロール群と比較し20%減少し、Mg比も低下した。一方、低Ca海水ではカルシウム沈殿量は約1/10に減少し、Ca比も低下した。これよりカルシウム沈殿は外部環境である海水のCa(2+)およびMg(2+)に由来することが強く示唆され、ウナギが飲んだ海水から2価イオンを沈殿させることで腸内から除去していると考えられた。

次にHCO3-の由来を検討した。腸におけるHCO3-分泌機構は報告されているが、それ以外の器官の関与も考えられるため、膵臓および胆嚢除去個体を作成し、カルシウム沈殿形成量を測定した。その結果、膵臓除去個体において顕著にカルシウム沈殿形成量が減少した。カルシウム沈殿の形成に必要なHCO3-は膵臓および腸から分泌されることが示唆された。

第3章膵臓および腸における重炭酸イオン輸送体の同定

カルシウム沈殿の形成に関わるHCO3-は膵臓および腸で分泌されることが第2章より示唆された。そこで本章では、膵臓および腸の上皮細胞からHCO3一分泌する輸送体を網羅的に探索し、カルシウム沈殿形成に関わるHCO3-Wh送体を同定した。はじめに重炭酸イオン輸送体ファミリーであるSLC4、多機能陰イオン輸送ファミリーであるSLC26、Cl-HCO3-チャネル(cystic fibrosis transmembrane conductance regulator:CFTR)を網羅的にクローニングし、組織別発現解析の結果から膵臓および腸に発現しているHCO3-輸送体を同定した。さらにリアルタイムPCRによる発現解析を行い、淡水馴致個体より海水馴致個体で多く発現しているHCO3輸送体を選別した。海水馴致個体でより多く発現しているHCO3-輸送体は、カルシウム沈殿を形成するためのHCO3-を分泌していると考えられる。クローニングの結果、Slc4a1,Slc4a2,Slc4a8およびSlc26a1,Slc26a3,Slc26a6A,Slc26a6B,Slc26a6C,Slc26a9,Slc26a10,Slc26a11,CFTRの遺伝子配列を得た。このうち膵臓においてはSlc4a8,Slc26a1,Slc26a6A,CFTRが発現しており、腸においてはSlc4a2,Slc26a1,Slc26a3,Slc26a6B,Slc26a11,CFTRが発現していた。リアルタイムPCR発現解析の結果、海水適応下で発現が上昇した輸送体は、膵臓においてSlc26a1,Slc26a6A、腸においてSlc26a1,Slc26a3であり、これらの分子はカルシウム沈殿形成のためのHCO3-分泌に関与することが強く示唆された。

第4章膵臓における重炭酸イオン分泌機構の解明

カルシウム沈殿形成に必要なHCO3-は膵臓および腸から分泌されることが考えられたが、膵臓におけるHCO3-の分泌機構は魚類において報告がない。そこで魚類の膵臓におけるHCO3-分泌機構の存在とそのメカニズムの解明を試みた。まず、膵臓の構造を明らかにするため、酵素処理により膵臓の各組織を単離した。その結果、腸の前端部に開口部を持つ膵管が単離された。次に単離した膵管からHCO3が分泌されることを証明するため、pH蛍光指示薬(BCECF・dextran)を用いてHCO3-の分泌を可視化した。膵管培養液中にHCO3-を添加すると膵管内のpHが上昇したが、第3章で同定したHCO3-輸送体の阻害剤(4,4-diisothiocyanato-stilbene-2,2-disulfonicacid:DIDS)を膵管内に添加すると膵管内のpHは上昇せず、HCO3-分泌が阻害されたと考えられる。次に、導管細胞内でのHCO3-産生の可能性を検討するために、CO2とH20よりHCO3-を産生する反応を触媒する炭酸脱水酵素(CA)の活性を測定した。淡水馴致個体と海水馴致個体で比較したところ、活性に有意な差は見られなかった。さらに導管細胞の血管側に存在するHCO3輸送体(Na,HCO3-共輸送体:NBC)を免疫組織化学的手法によりその存在を確認したところ、淡水馴致個体と海水馴致個体で発現に有意な差は見られなかったが、導管細胞の血管側にNBCの局在が観察された。これらの結果より、HCO3-は膵管の導管細胞で産生されるのではなく、血液などを含む膵管外部を満たす体液のHCO3-を導管細胞が血管側から細胞内へ取込み、管腔側から膵管内へ分泌しているのではないかと予測された。

第5章カルシウム沈殿形成阻害による海産魚の浸透圧調節障害

カルシウム沈殿形成が魚類にとって海水適応時に必要なものであるかを検討するために、海水馴致ウナギの腸内に塩酸を注入してカルシウム沈殿形成の阻害を行った。腸内へ塩酸を注入することによりカルシウム沈殿形成が減少傾向を示した。それに伴い体液浸透圧、血漿中のNa+,Cl-,K+,Mg(2+),Ca(2+)濃度が上昇し、また血液中の固形成分量を示すヘマトクリット値も上昇した。さらにウナギの体重も減少し、筋肉の水分含量も減少した。これらの結果を総合的に判断すると、ウナギは塩酸注入により水の補給が阻害されることが示された。このことは、塩酸を添加することでカルシウム沈殿が形成されにくい状況になり、腸内の浸透圧が効率よく下げられず、その結果、腸での水の吸収が阻害されたと考えられる。カルシウム沈殿形成は、魚類が海水に効率よく適応するために重要な現象であることが示された。

以上、本研究により魚類の腸管内で形成されるカルシウム沈殿について、生理学的観点より包括的な理解が得られた。未知の物質であったカルシウム沈殿の物理化学的分析を行い、その形成機構を解明し、さらにカルシウム沈殿形成は魚類が海水に適応する上での生理的な現象であることが証明された。魚類が海水適応するためには水吸収に先駆けて飲んだ海水のイオンを除去しなければならない。2価イオンの除去機構は不明な点が数多く残されてきたが、本研究はカルシウム沈殿を形成することでCa(2+)およびMg(2+)が腸内から除去される機構を明らかにした。本研究で得られた研究成果をもとに、魚類の海水適応における水代謝機構の全貌が解明されることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究ではウナギを用いて、海水魚が浸透圧調節のために腸管内で形成するカルシウム沈殿の形成メカニズムと形成意義の解明を目指した。

1.カルシウム沈殿の物理化学的解析

カルシウム沈殿の元素分析、結晶構造解析、分子構造解析を行った。カルシウム沈殿は粘液に包まれた直径1~5μmの球状構造の集合体であった。構成元素はCa,Mg,C,0,P,Sであり、主要元素Ca,Mgは全体の77.0%,22.5%を占めていた。さらに結晶構造解析、分子構造解析を行った結果、カルシウム沈殿は一部Mg-calcite(炭酸マグネシウムと炭酸カルシウムの混合物)として結晶化し、残りは水分子を含む非晶質であることが分かった。

2.カルシウム沈殿の形成機構

カルシウム沈殿の材料であるCa(2+),Mg(2+)と重炭酸イオン(HCO3-)の由来を検討した。ウナギを低Ca(2+),低Mg(2+)海水で飼育したところ、カルシウム沈殿量は減少した。これよりカルシウム沈殿は外部環境である海水のCa(2+),Mg(2+)に由来することが強く示唆された。

次にHCO3-の由来を検討するため、HCO3-分泌器官候補の膵臓および胆嚢の除去個体を作成し、カルシウム沈殿量を測定した。膵臓除去個体で顕著にカルシウム沈殿量が減少したことよりカルシウム沈殿形成に必要なHCO3-は以前より報告されている腸の他に膵臓からも分泌されることが示唆された

3.膵臓および腸における重炭酸イオン輸送体の同定

膵臓、腸の上皮細胞からHCO3-輸送体solute carrier(SLC)4および26ファミリー、Cl-/HCO3-チャネル(cystic fibrosis transmembrane conductance regulator:CFTR)を網羅的にクローニングし、得られた遺伝子配列を基に、遺伝子特異的プライマーを作製し、組織別発現解析を行った。膵臓ではSlc4a8,Slc26a1,Slc26a6A,CFTRが発現し、腸ではSlc4a2,Slc26a1,Slc26a3,Slc26a6B,Slc26a11,CFTRが発現していた。さらにリアルタイムPCRにより海水適応下で発現が上昇した輸送体を選別した。膵臓においてSlc26a1,Slc26a6A、腸においてSlc26a1,Slc26a3が海水適応下でHCO3-分泌に関与することが示された。

4.膵臓における重炭酸イオン分泌機構の解明

魚類の腸でのHCO3-分泌機構は解明されつつあるが、膵臓においては皆無であるため、膵臓でのHCO3-分泌機構解明を試みた。膵臓より膵管を単離し、pH蛍光指示薬を膵管内に注入したところ、膵管外にHCO3-が有るときのみ膵管内へHCO3-が分泌される様子が観察された。またHCO3-輸送体の阻害剤を添加するとHCO3-分泌が阻害された。これよりHCO3-は膵管外から供給され、HCO3-輸送体を介して分泌されることが示唆された。さらにHCO3-を産生する炭酸脱水酵素の活性は膵臓において低いことより、HCO3-は膵臓外で産生されていることが示唆された。その上、導管細胞の血管側にNa,HCO3-共輸送体が確認されたことよりHCO3-は膵管外より導管細胞内へ取込まれ、それを膵管内に分泌しているという機構の存在が強く示唆された。

5.カルシウム沈殿形成阻害による海産魚の浸透圧調節障害

カルシウム沈殿形成の形成意義を検証するため、腸内に塩酸を注入しカルシウム沈殿形成の阻害を行った。塩酸注入によりカルシウム沈殿量は減少傾向を示した。また、体液浸透圧、血漿中のNa+,Cl-,K+,Mg(2+),Ca(2+)濃度も上昇傾向を示し、脱水の指標となるヘマトクリット値、筋肉の水分含量、体重も減少した。これらの結果を総合的に判断すると、カルシウム沈殿形成が阻害されると、Ca(2+)が腸内より除去されにくくなり、水の補給に支障をきたすと考えられた。カルシウム沈殿形成は、海水魚が水を効率よく吸収するために重要であると示された。

以上の結果、魚類の腸管内で形成されるカルシウム沈殿について、生理学的観点より包括的な理解が得られた。未知の物質であったカルシウム沈殿の物理化学的分析を行い、その形成機構を分子生理学的に解明し、さらにカルシウム沈殿形成は魚類が海水に適応する上での生理的な現象であることが証明された。これらの知見は学術上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学術論文として価値のあるものと認めた。

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