学位論文要旨



No 125843
著者(漢字) 高橋,大輔
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ダイスケ
標題(和) 日本農業における農業調整問題の実証研究
標題(洋)
報告番号 125843
報告番号 甲25843
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3543号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 中嶋,康博
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,農業の経済活動としての側面に焦点を当て,他産業に対する農業生産性の相対的な低下が生じた原因を実証的に分析することを中心的な課題とする,1961年に制定された農業基本法では「他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上する」ことが目的とされたが,1960年以降の就業者当たりの国内総生産は経済全体に比べて低く,また緩やかに低下を続けている.このような労働生産性の相対的な低位状態が続くことに関する経済学的なメカニズムは必ずしも明らかではない.本間(2006)が主張するように,国民経済的視点に立った上で,日本農業において市場の調整メカニズムが機能不全に陥っている原因を経済学的に解明することは現在の日本にとって喫緊の課題である.

本研究では,日本農業において産業調整の遅れが生じた原因について統一的な枠組みによって論じるために,速水(1986)によって提唱された「農業調整問題」という概念に着目した.分析の対象は,農業の構造調整が主要な政策課題となった1960年以降の,稲作を中心とした土地利用型農業である.そして,第1章における既存研究の整理,第2章における記述統計の分析を踏まえて,第3章から第5章にかけて労働市場,米政策,農地政策の分析を行った.分析結果の要約は以下のとおりである.

第1章では「農業調整問題」に関する既存研究のレビューを行った.「農業調整問題」は主に「農産物価格と農家所得の低下」「産業調整の遅れにともなう生産要素の報酬率の低下」「政治的過程による農業保護の発生」という3つの仮説によって構成される.このうち,農産物価格の低下については,大きな意見の食い違いはなく,また記述統計の分析によっても容易に確認される.しかし,労働生産性の低下が生じた要因と,農業保護の発生メカニズムについては,その主張の多くが記述統計の整理に基づく仮説の提示という段階に留まっており,数学的なモデル化と定量的分析が十分に行われていない.また,構造調整を妨げる具体的な要因についても更なる検討が必要である.

第2章では「農業調整問題」に関連する主要な統計である労働生産性と農業保護水準に関する統計の分析を行った.まず,「農業の比較生産性」を要因分解することによって,農業の実質比較生産性が低下するのと同時に農産物の相対価格が上昇し,結果的に名目比較生産性がおおむね一定に保たれたことが分かった.また,農業の労働生産性を土地生産性と土地労働比に分解した結果,1970年代後半からは労働移動による土地労働比の上昇が続く一方で土地生産性はほぼ横ばいであることが明らかになった.さらに,日本農業の農業保護水準に関する主要な統計を検討した結果,日本農業の農業保護水準は依然として高水準にあることや,WTO農業協定による国内助成の規律によっても農業保護水準の実質的な削減にはつながっていないことが分かった。

第3章では,戦後日本農業における「過剰就業」,つまり「一つの産業における労働の限界生産力が,他の部門における労働の限界生産力にくらべて恒常的に低位にある」ことの原因を考察した.この中では,Schultz(1953)の「農業問題」として提示された「労働投入の適応作用がラグをもって行われるため,生産資源が最適水準に調整されるまでに時間がかかり,その過程で生産資源の摩擦的な過剰状態が発生する」という仮説に着目した.そして,「農業問題」の概念に沿う形で労働投入の調整過程を動学最適化モデルによって分析した.推計結果は全体的に良好であり,調整費用に焦点を当てた研究が日本農業の実態と整合的であることを示すものである.また,労働投入の現実の値と最適水準を比較することにより,米価に対する賃金の相対的な上昇により労働投入の最適水準が傾向的に低下し,調整費用の影響により現実の労働投入の調整が遅れることから「過剰就業」が発生することが明らかになった.

第4章では,日本における農業保護政策の発展過程を検討するために,1960-2006年における米政策の所得移転効果を定量的に評価するとともに,その背景にある要因を計量分析によって検討した.まず,Otsuka and Hayami(1985)の定式化を参考にした部分均衡モデルによって,生産奨励金・政府米買入・生産調整という3つの政策手段のポリシーミックスによりもたらされた農家への所得移転額と消費者・財政支出への負担額を評価した,米の産出額に対する農家への所得移転額の比率(%移転額)は,1970年代後半ごろまで上昇を続け,その後は多少の変動がありながらほぼ横ばいとなっており,政府が米政策を通じて農家に所得移転を安定的に行ってきたことが裏付けられた.一方で,生産調整政策を中心とした現行の米政策は消費者と財政支出に多大な負担を強いており,社会全体での資源配分の非効率性は現在に至るまで改善されていない.また,米の産出額に対する農家への所得移転額の比率についての計量分析を行った結果,%移転額と農業の比較優位性の間に負の相関関係が存在することが明らかになった.これは,第1章において示された「農業部門の比較優位性の低下が農業保護政策を引き起こす」という仮説を改めて支持するものとなっている.

第5章では,日本農業の構造調整を妨げる要因として農地問題に着目し,農地に関する取引費用が農地流動化をどれだけ阻害しているかを部分均衡分析の応用によって検討した.まず,農地流動化を阻害する要因として取引費用の影響の可能性を論じた後に,農家が取引費用に直面した場合の農地貸借市場の部分均衡をモデル化し,取引費用によって貸借量と市場均衡地代がどのように変化するかを考察した.モデル分析の結果からは,取引費用が農家を農地貸借から退出させることと農家が直面する地代に取引費用を組み入れることによって農地流動化を阻害することが示された.さらに,1980・1990・2000年の『世界農林業センサス』と『農地の移動と転用』から得られる2種類の借入面積率を被説明変数とした計量分析によって,生産条件と直接の関係のない集落機能や農地の質に関する変数が農地流動化と相関していることが示された.これは,農地貸借に影響を与える取引費用の具体的な要因を示すものである.

本研究から得られる政策的な含意は以下の二点である.

第一の政策的含意は,農業調整問題を解決するための「産業調整政策」の重要性である.産業調整政策とは,「農業労働者などの産業特殊的な生産資源に対して一時的な援助を行いつつ,長期的には,環境変化のために衰退産業となった産業から成長産業へ生産資源が移転することを促進しようとする政策」として定義される(奥野・本間,1998).まず,第3章で論じられているとおり,労働投入の過剰状態を解決するためには,農村部での職業訓練や労働市場の流動性を高めることなどにより,労働の移動費用を軽減することが有効である.また,農地あたりの労働力を相対的に減少させるためには,農地移動を円滑化するために農地流動化政策を行うと同時に,農地の大規模農家への集約を進めることが必要である.具体的には,第5章で指摘されたような農地の取引費用を軽減させるために,基盤整備事業への公共投資を行うことや,農地転用規制の強化などの制度構築を行うことなど,政府が取引費用を軽減するための組織や制度を整備するべきである.

第二の政策的含意は,農業政策の決定過程における政治的要因を考慮することの重要性である。第4章における米政策の定量的分析からも明らかなとおり,現行の農業政策は農家に所得移転を行う際に莫大な経済的損失を発生させるものである.しかし,農業保護政策が農業部門の比較優位性の低下を補償するために行われているという第2章と第4章の分析結果を考えれば,効率性のみを判断基準とした農政改革論は,経済学的な観点からは正当であっても,政治的な政策決定過程で実現することは困難である.むしろ,過渡的な所得補填政策によって一時的な農家所得の低下を食い止めながら,担い手支援や農地制度改革などの構造政策を行うことによって農業部門の生産性を向上させ,農業保護政策を要求する政治的な圧力が消滅するような農業構造を確立することを目指すべきである.

なお,本研究では土地利用型農業の持つ多面的機能,特に食料安全保障のために果たす役割について,また土地利用型農業の再生のための具体的な制度設計については十分な検討を行うことができなかった.これらの論点についての研究は今後の課題としたい.

速水佑次郎『農業経済論』岩波書店,1986年.本間正義「国際化に対応する日本農業と農政のあり方」『農業経済研究』,第78巻,第2号,2006年,pp.85-94.Otsuka,K.andY.Hayami,"Goals and Consequences of Rice Policy in Japan,1965-80",American Journal of Agricul tural Economics,Vo1.67,No。3,1985,pp.529-538.奥野正寛・本間正義「日本農業の将来と農業政策」奥野正寛・本間正義編『農業問題の経済分析』,日本経済新聞社,1998年,pp.227-256.Schultz,T.W.,Economic Organization of Agriculture,McGraw Hil1,1953.
審査要旨 要旨を表示する

本研究の課題は、農業の経済活動に焦点を当て、他産業に対する農業生産性の相対的な低下が生じた原因を実証的に明らかにすることである。1961年の農業基本法制定以来、他産業との生産性の格差是正は農政の大きな課題であるが、農業の労働生産性の相対的な低位状態が続いていることに関する経済学的なメカニズムは必ずしも明らかではない。本研究では、労働と農地という農業の基本的生産要素に焦点を当て、外的条件の変化に対してそれらがいかに調整され農業全体にどの様に影響するかを、産業調整問題として分析している。

第1章では農業調整問題に関する既存研究をレビューし、農業調整問題は主に、農産物価格と農家所得の低下、産業調整の遅れにともなう生産要素の報酬率の低下、および政治的過程による農業保護の発生、という3つの仮説によって構成されるが、それぞれの仮説が検証されているか否かでこれまでの研究の評価を行っている。

第2章では農業調整問題に関連する労働生産性と農業保護水準に関する統計分析が行われている。農業の比較生産性を要因分解することによって、農業の実質比較生産性が低下するのと同時に農産物の相対価格が上昇し、結果的に名目比較生産性がほぼ一定に保たれたことが解明された。また、農業の労働生産性を土地生産性と土地労働比に分解した結果,1970年代後半からは労働移動によって土地労働比の上昇が続く一方で、土地生産性はほぼ横ばいであることが明らかにされた。

第3章では、日本農業における過剰就業問題、つまり、農業の労働の限界生産力が他部門にくらべて恒常的に低位にあることに着目し、その原因が究明されている。外的条件が変化したとき労働などの生産資源が最適水準に調整されるまでに時間がかかるため、その過程で生産資源の摩擦的な過剰状態が発生する、という仮説を設定し、この仮説に沿う形で労働投入の調整過程を動学最適化モデルによって分析している。推計結果は全体的に良好であり、調整費用に焦点を当てた研究が日本農業の実態と整合的であることを示す結果となっている。

第4章では,日本における農業保護政策の発展過程を検討するために,1960-2006年における米政策の所得移転効果を定量的に評価し、その要因を計量分析によって明らかにしている。部分均衡モデルによって、生産奨励金・政府米買入・生産調整という3つの政策手段のポリシーミックスによりもたらされた農家への所得移転額と消費者・財政支出への負担額を評価した結果、米の産出額に対する農家への所得移転額の比率は1970年代後半ごろまで上昇を続け、その後は多少の変動があるもののほぼ横ばいとなっていることが明らかとなった。この結果は、政府が米政策を通じて農家に所得移転を安定的に行ってきたことを裏付けるものである。一方で、生産調整政策を中心とした現行の米政策は消費者と財政支出に多大な負担を強いており、社会全体での資源配分の非効率性は現在に至るまで改善されていないことが指摘されている。

第5章では、日本農業の構造調整を妨げる要因として農地問題に着目し、農地に関する取引費用が農地流動化をどれだけ阻害しているかを、部分均衡分析の応用によって検討している。農地流動化を阻害する要因として取引費用の影響の可能性を論じた後に,農家が取引費用に直面した場合の農地貸借市場を部分均衡のモデルで分析し、取引費用によって貸借量と市場均衡地代がどのように変化するかを明らかにしている。その結果、取引費用が農家を農地貸借から退出させること、および農家が直面する地代に取引費用を組み入れることによって農地流動化を阻害するメカニズムが明らかとなった。

第6章では、本研究の政策的含意と今後の課題が検討されている。政策的含意として、農業調整問題を解決するために、資源移動への支援や転業訓練といった産業調整費用を引き下げるための政策の重要性が強調されている。また、農業政策の決定過程における政治的要因を考察することの重要性も指摘されている。効率性のみを判断基準とするのではなく、担い手支援や農地制度改革などの構造政策を行うことによって農業部門の生産性を向上させ、農業保護政策を要求する政治的な圧力が消滅するような農業構造を確立するべきである、としている。残された課題としては、土地利用型農業の持つ多面的機能、特に食料安全保障のために果たす役割や、また土地利用型農業の再生のための具体的な制度設計があげられている。

以上のように、本研究は日本農業の基本問題である構造変化がなぜ遅れるのかを、稲作を中心として包括的に分析したものであり、政策論まで踏み込んだ優れた研究である。生産物市場と労働、農地といった投入要素市場を関連づけて総合的に分析されており、経済理論に裏打ちされた計量的研究として高く評価できる。また、これからの日本農業のあり方を考える上でも示唆に富む結論が得られている。このように本研究は学術上かつ応用上の価値が高く、よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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