学位論文要旨



No 125846
著者(漢字) 尹,哲友
著者(英字)
著者(カナ) イン,テツユウ
標題(和) 帝国日本における牛疫防疫の展開 : 1910~20年代中国間島地域を中心に
標題(洋)
報告番号 125846
報告番号 甲25846
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3546号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 准教授 万木,孝雄
 東京大学 講師 藤原,辰史
 青山学院大学 教授 飯島,渉
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、19世紀後半から1920年代にかけての帝国日本の牛疫防疫対策を明らかにした上で、特に1910~20年代中国間島地域の牛疫流行をめぐる中国官憲、日本側(日本領事館、朝鮮総督府)の対応を検討するものである。

従来の間島社会経済史研究では、中・日の二重支配下の朝鮮人の貧困な経済状況と不安定な社会的な地位が論じられた。また、このような貧困と不安定のもとで、間島朝鮮人が日本に対し反抗と闘争を繰り返したことが分析されている。ただし、このような従来の研究には、間島朝鮮人に対する日本の懐柔政策及び親日勢力の活動に関する分析を回避する傾向があった。そのため、中・日の間島朝鮮人に対する政策を全体的に把握することができず、日本による懐柔政策の実施と中国官憲の反発の中で、間島朝鮮人社会が順次分化・「親日化」されていく過程を分析の視覚から見逃してしまっている。本研究では、1910~20年代中国官憲、日本領事館が間島の牛疫流行にどう対応したかを当時の政治・経済・社会状況との関係の中で詳しく検討する。またそのような検討を通じて、日本のかかげる懐柔政策の本質と懐柔政策により間島朝鮮人社会が日本の統制システムに編入されていく過程を示す。

牛疫の流行は長い歴史があり、紀元前からユーラシア、アフリカ大陸でその発生の痕跡をみることができる。18世紀、ヨーロッパでは牛疫により畜牛が壊滅的な打撃を受け、獣医学発展のきっかけになった。また1880年代にヨーロッパの牛疫はアフリカ大陸に伝播し、英国やドイツによる植民地化が促進された。

19世紀後半、満洲に対する封禁政策の緩和により、ロシア、モンゴルの牛疫は満洲、朝鮮、日本に伝播された。満洲の東南部に位置する間島にも19世紀後半から牛疫が発生していた。間島は地理的にロシア、中国、朝鮮国境の三角地帯に位置し、牛疫が頻発した。また間島には朝鮮からの移民が多く、朝鮮の成鏡北道と往来が頻繁であるため、咸鏡北道と一つの疫区になって流行を繰り返した。

一方、日本の牛疫は主に朝鮮から伝播するものであった。日本は19世紀後半から朝鮮、ロシア、中国から生牛、牛皮などを輸入し国内の耕牛、牛肉、皮革などの需要を満足させた。その中、朝鮮牛は品質、値段、運搬などで他国より優位に立ったため、輸入量が一番多かった。ただし、外国牛の大量輸入は、牛疫防疫にとっては大きな危険を抱えることになり、その後、日本は牛疫により甚大な被害をうけることになった。

日本には19世紀70年代から牛疫が発生した。1876年2月、日本政府は「疫牛処分仮条例」を発布し、病畜の発見、届出、検診、隔離、告示、撲殺、撲殺手当金の支給、移動禁止などの基本的な防疫措置を実施するようにした。また1896年「獣疫予防法」の施行を通じて、アジアでいち早く海港での検疫を実施した。しかし、日本が開港検疫を実施しても検疫線を突破し日本内地に侵入する牛疫があり、経済的な損失と社会的な恐怖を起こしていた。

日本は1908年に朝鮮の釜山に牛疫検疫所を設置し、日本への牛疫の侵入経路を基本的に遮断した。また朝鮮に牛疫血清製造所(その後、朝鮮総督府獣疫血清製造所と改称)を設置し、朝鮮での牛疫の消滅のために牛疫防疫に重点において防疫対策を積極的に推進した。そしで、牛疫の侵入口である朝鮮北部に多くの獣医を派遣し、防疫体制をいち早く整備した。ただし、朝鮮北部は対岸の中国側と川を境にし、往来が頻繁であるため、牛疫の侵入が絶えなかった。

一方、日本は牛疫免疫学の研究において大きな成果をあげていった。朝鮮総督府獣疫血清製造所の蛎崎千晴は、世界ではじめて不活性ワクチンの開発に成功し、当所は1923年から蛎崎ワクチンの製造を着手した。また当所の中村(〓)治は、1930年代後半にウサギで継代した中村ワクチンの開発に成功した。このような牛疫免疫学の発展により、日本は朝鮮の北部に牛疫免疫地帯を構成することができたのである。

1913年、間島の局子街付近の村落に牛疫が流行したため、中国官憲は朝鮮総督府獣医を嘱託して、防疫を開始した。中国官憲が総督府獣医を嘱託した背景には岩永覚重・在局子街日本領事分館主任の勧誘があった。日本領事館側が総督府獣医の採用を勧誘したのは、第一に、間島の牛疫は間島だけでなく朝鮮、日本の畜産にとっても大きな脅威であること、第二に、嘱託獣医の採用は間島朝鮮人の撫育に有利であること、第三に、嘱託獣医の採用とそれに伴う日本領事館の防疫事業への参加は日本が商埠地から雑居区に進出するきっかけになること、第四に、日露戦争後、間島から撤退していたロシアが防疫事業への援助を理由に間島に進出する恐れがあること、などの理由があったためである。

当時間島の中国官憲には防疫に関する近代的な経験、技術がなく、獣医も配置されていない状況であり、総督府獣医の嘱託はやむえないことであった。

日本領事館は間島防疫への参加後、間島行政に対する発言力が高くなり、干渉の程度も高まった。陶彬は吉林都督に日本側から「内政の干渉」を受けていると報告している。結局、陶彬は国家主権を守ることを優先に考え、嘱託獣医を解雇した。

また間島に牛疫の発生した直後、中国官憲は緊急的な防疫措置の実施と牛疫防疫の「制度化」に乗り出した。またその過程で、日本・ロシア領事館の支援を得た。つまり、当時間島の中国官憲は、外国から直輸入するかたちで防疫体制確立の第一歩を踏み出したのであった。

翌年(1914年)から、中国官憲による自主的な牛疫防疫が始まった。しかし、その防疫体制には穴が多く、その後数年間、間島には牛疫の発生が絶えず、中国官憲は対応に追われることになった。そこで、一番問題になったのは警察の職務怠慢により牛疫の発見が遅れることであった。また吉林省財政の緊迫により、防疫費が慢性的に不足していることも、間島の防疫体制が不全に陥った原因の一つになっていた。

他方では、農村でも農民による自主的な牛疫対策が行われていた。村落を単位とする農民の自主的な対応には交通の遮断、健康牛の隔離などの措置があった。ところで、牛疫発生地域において、農民はこのような組織的な対応を行なう一方で、個々の農民によって罹患牛を販売したり食用にしたりする行為も行われていた。地域社会の組織的な対応は、農村社会に存在する個別農民による違法行為を阻止しきれないという限界もあった。

1920年代日本は朝鮮への牛疫の侵入を防ぎ、間島朝鮮人を懐柔する目的で、間島の防疫に介入した。当初(1921年)は「共同計画」によって、防疫の第1線を牛疫の侵入口である他県と間島の境界に設定して、外部からの獣疫の侵入を遮断しようとした。つまり、間島を一つの独立した事業対象地域とみなして、間島域内の獣疫の終息を政策の目標にしていた。

しかし、朝鮮総督府からの支援を得られず、1年後に「予防計画」へと修正されるようになった。「予防計画」は「牛疫ノ鮮内侵入防遇及在住鮮農保護」を目標にし、朝鮮との境界に防疫の第1線をおいて、間島の防疫よりも朝鮮への牛疫の侵入防止を優先にした。朝鮮総督府による間島防疫事業の実施及び1921年の牛疫大流行(朝鮮)により、間島を朝鮮の防疫帯として位置づける防疫計画が制定されたのである。

1923年から日本による牛疫防疫は本格化した。しかし、間島における日本の防疫は豆満江沿岸に偏った防疫であったため、他県から間島への牛疫の侵入を阻止できず、間島における牛疫の発生は1925年まで増加傾向にあった。

他方で、日本は宣伝啓蒙事業にも力をいれ、防疫の宣伝と啓蒙教育を同時に推し進め、日本の「近代性」をアピールし、間島における日本の影響力を拡大した。

ただし、1920年代前半、日本の防疫政策は制度的に朝鮮人農民にとって魅力的なところは少なく、中国官憲の反発や村落内での人間関係への配慮などにより、朝鮮人農民から支持を得るには至らなかった。

1920年代中国官憲の防疫の実態は1910年代の延長線上にあった。1910年代と同様に警察の防疫措置、とりわけ牛疫調査には依然として職務怠慢の問題が存在していた。日本による間島防疫の介入は、中国に対する主権の侵害だけでなく、朝鮮人懐柔、朝鮮人統制を通じて日本の勢力拡張にもつながっており、中国官憲からの反発を招いた。ただし、中日の警察の間で、防疫をめぐるトラブルがあっても、大きな事件にまで発展する事例はなかった。

1920年代後半、朝鮮総督府は中国との境界に牛疫免疫地帯を構成し、朝鮮への牛疫侵入防止をさらに強化した。そして、間島においても豆満江沿岸に免疫地帯を設置し、牛疫ワクチンを接種した。朝鮮総督府獣疫血清製造所の蛎崎千春技師が不活化ワクチンの開発に成功したことにより、このような大規模的な免疫地帯を構成することができるようになった。また日本は防疫における朝鮮人民会の業務を拡大し、防疫を処理する機関として位置づけて、朝鮮人に対する統制を強化した。

日本側が懐柔政策を通じて朝鮮人に対する統制を強化する一方で、中国警察の朝鮮人農民に対する弾圧もエスカレートしていった。民会の対日協力、日本の勢力拡張に対して危機感を感じた中国側は、その危険をとり除くため朝鮮人を排斥しようとしたのである。1920年代前半は末端警察による自発的な反発が殆どであったのに対して、1920年代後半には、中国側が政策的な手法を用いて、日本側の防疫を阻止し、朝鮮人と日本の関係を遮断しようとした。

審査要旨 要旨を表示する

朝鮮半島と接する中国間島地域には19世紀末以降に朝鮮人が移住し始め、朝鮮人社会を形成していった。朝鮮(韓国)の保護国化の後、日本領事館と韓国統監府(後には朝鮮総督府)は朝鮮人の保護を名目として、間島への外交的・行政的干渉を強化していった。本研究は、牛疫に対する両国の対策に焦点を当てることで、1910年代から20年代にかけての中国官憲と日本側(日本領事館、朝鮮総督府)との対立関係の具体像を明らかにした。その上で、間島朝鮮人社会の対応に関しても分析を行った。

19世紀後半、満洲に対する封禁政策の緩和により、ロシア、モンゴルの牛疫が満洲に伝播し、やがて朝鮮、日本にも伝った。満洲の東南部に位置する間島にも19世紀後半から牛疫が発生しはじめた。間島は地理的にロシア、中国、朝鮮国境の三角地帯に位置しており、牛疫が頻発した。

1913年、間島の局子街付近の村落に牛疫が流行したため、中国官憲は朝鮮総督府獣医を嘱託して、防疫を開始した。中国官憲が総督府獣医を嘱託した背景には岩永覚重・在局子街日本領事分館主任の勧誘があった。日本領事館が間島防疫に参加したことで間島行政に対する発言力が高くなり、干渉の程度も高まった。道尹・陶彬は吉林都督に日本側から「内政の干渉」を受けていると報告している。結局、陶彬は国家主権を守ることを優先に考えて嘱託獣医を解雇した。

1913年の牛疫発生の後、中国官憲は緊急的な防疫措置の実施と牛疫防疫の「制度化」に乗り出した。またその過程で、日本・ロシア領事館の支援を得た。つまり、当時間島の中国官憲は、外国から制度と技術を直輸入するかたちで防疫体制確立の第一歩を踏み出したのであった。翌14年から、中国官憲による自主的な牛疫防疫が始まった。しかし、その防疫体制には穴が多く、その後数年間、間島には牛疫の発生が絶えなかった。その際一番問題になったのは警察の職務怠慢により牛疫の発見が遅れることであった。また吉林省財政の緊迫により、防疫費が慢性的に不足していたことも、間島の防疫体制が不全に陥った原因の一つになっていた。

1920年代日本は朝鮮への牛疫の侵入を防ぎ、間島朝鮮人を懐柔する目的で、間島の防疫に介入した。当初(1921年)は「共同計画」によって、防疫の第1線を牛疫の侵入口である他県と間島の境界に設定して、外部からの獣疫の侵入を遮断しようとした。つまり、間島を一つの独立した事業対象地域とみなして、間島域内の獣疫の終息を政策目標とした。しかし、朝鮮総督府からの支援を得られず、1年後に「予防計画」へと修正がなされた。「予防計画」は「牛疫ノ鮮内侵入防遇及在住鮮農保護」を目標として、朝鮮との境界に防疫の第1線をおいて、間島の防疫よりも朝鮮への牛疫の侵入防止を優先した。これにより間島を朝鮮の防疫帯とする防疫計画が制定されたのである。

1923年から日本による牛疫防疫は本格化した。しかし、間島における日本の防疫は豆満江沿岸に偏った防疫であったため、他県から間島への牛疫の侵入を阻止できず、間島における牛疫の発生は1925年まで増加傾向にあった。1920年代後半、朝鮮総督府は中国との境界に牛疫免疫地帯を構成し、朝鮮への牛疫侵入防止をさらに強化した。そして、間島においても豆満江沿岸に免疫地帯を設置し、牛疫ワクチンを接種した。朝鮮総督府獣疫血清製造所の蛎崎千春技師が不活化ワクチンの開発に成功したことにより、このような大規模的な免疫地帯を構成することができるようになった。また日本は防疫における朝鮮人民会の業務を拡大し、防疫を処理する機関として位置づけて、朝鮮人に対する統制を強化した。

日本側が懐柔政策を通じて朝鮮人に対する統制を強化する一方で、中国警察の朝鮮人農民に対する弾圧もエスカレートしていった。民会の対日協力、日本の勢力拡張に対して危機感を感じた中国側は、その危険をとり除くため朝鮮人を排斥しようとしたのである。1920年代前半は末端警察による自発的な反発が殆どであったのに対して、1920年代後半には、中国側が政策的な手法を用いて、日本側の防疫を阻止し、朝鮮人と日本の関係を遮断しようとした。日本と中国官憲との狭間で、間島における朝鮮人は政治的な地位を弱化させていった。

以上、本研究においては、おもに日本外交資料館および中国梢案館の史料を綿密に比較検討しつつ、間島における牛疫防疫をめぐる中・日政府間の対立関係および間島朝鮮人の対応について明らかにした。この分析成果は、学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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