学位論文要旨



No 125848
著者(漢字) 中田,達
著者(英字)
著者(カナ) ナカダ,トオル
標題(和) 湖岸湿原における水・物質循環と水質浄化機能の研究 : 霞ヶ浦妙岐ノ鼻湿原を事例として
標題(洋)
報告番号 125848
報告番号 甲25848
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3548号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 大政,謙次
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 講師 飯田,俊彰
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

氾濫源や河岸の湿原は独特の自然環境を保持する自然の重要な構成要素である。その高い生物多様性や、水質保全、洪水緩和機能といった生態系サービスの価値が高く評価され、近年、保全への動きが高まっている。しかし、湿原は周囲の環境の変動によって大きな影響を受け、劇的に生態系が変化する危険性を有している。特に水環境に対する応答は顕著であり、湿原内の水位や水質は優占植生種の選択や保全上重要な種の生育に大きな影響を及ぼす。

また、湿原は水質浄化機能を有するとされており、洪水によって運ばれる懸濁態物質の沈降や、土壌の還元状態によって活性化される脱窒などの機能を持つ。人工湿原の窒素除去能力の研究は数多くの蓄積があり、実用化され、処理排水に含まれる高濃度の窒素の除去を可能にしている。これに対して、自然湿原を対象として水質浄化機能を定量した研究は、流入・流出する水量と物質量を把握することが難しいため非常に限られている。

本研究で対象とする妙岐ノ鼻湿原は,霞ヶ浦最大のヨシ原である。霞ヶ浦における富栄養化等の水質問題は解決には至っておらず,このような富栄養な水系において自然湿原がどれほどの浄化機能を発揮しているかを定量的に明らかにすることは、自然湿原の存在価値を認知させ、保全へとつながる重要な研究となる。また、湿原内には、絶滅危惧種や固有種らが19種確認されているが、近年、植生の変化が進行し、保全種の生育面積が減少している。人為的な湖の水位上昇が、湿原内の水・物質動態を変化させ、植生分布の変化の原因となった可能性がある。

そこで本研究では、妙岐ノ鼻湿原とその周囲の環境との間でやりとりされる水収支・窒素収支を算定し、水質浄化機能を定量化すること、湿原内部における水・物質動態を明らかにすることを目的とした。

2.妙岐ノ鼻湿原の概要

妙岐ノ鼻湿原は茨城県霞ヶ浦(西浦)東南岸,新利根川河口左岸に位置する面積約52haに及ぶ高水敷である(図一1).大部分が高低差約30cm以下のきわめて平坦な土地(YP+1.lm程度、YPとは利根川水系の基準面標高)である。湿原北岸の湖岸には自然堤防(YP+1.7m程度)が存在し湖との水の出入りを妨げているが,湿原東部(先端部)の河川側には自然堤防は見られない.湿原西端から南端の橋脚部までは護岸され,水の出入りは生じない.湿原内には,3本の水路が走り,東端で新利根川と通じている.

湿原内の優占植生種はヨシ(Phragmites australis)である.ヨシの下層にはカサスゲ(Carex dispalata),カモノハシ(Ischaemum aristatum var.glaucum)といった丈の低い植生が生育し,湿原東側(新利根川河口部)にはヨシーカサスゲ群落,西側にはヨシーカモノハシ群落という植生分布になっている。保全上重要な植物の多くはヨシーカモノハシ群落内に生育している。また、湿原西側の一部では、毎年、萱材としてヨシ・カモノハシ等の刈り取りが行われている。

3.水位変化のメカニズムと水循環

妙岐ノ鼻湿原内での水位変化のメカニズムの解明と、氾濫時における湿原内と河川・湖との間を流入・流出する交換水量の定量化を目的とし、湿原内外において水位計・気象観測タワーを設置し、水位・気象観測を行い、湿原の水収支を算定した。

氾濫時の水位変化は以下の3つのメカニズムを持つことがわかった。1)氾濫時の湿原の水位は一様な水面で、湖の水位で決まる。2)YP+1.35mを下回ると、水位低下速度に地点間のばらつきが生じ、それは地形により決まるものである。3)水位が地表以下に低下した際には、貯留量低下は蒸発散によって生じる。現地で測定した比浸出量は0.2程度であり、この値と蒸発散量とで水位変化がきまる。

氾濫イベントは一年間で平均3~4回生じ、2007年には4回の氾濫イベントにおいて、新利根川からの流入量は1472mmと計算された。これは氾濫期間中に年間降雨量よりも多い流入量が生じていることを示している。また、水位上昇に占める河川からの流入水の割合は72~82%となり、氾濫による河川からの水、および栄養塩類の影響が大きいことが示唆された。の7~8割が河川からの流入であることを示しています。

4.氾濫時における窒素濃度の動態と窒素浄化機能

妙岐ノ鼻湿原における窒素収支の算定とそれを元にした窒素除去量の定量化を目的とし、湿原内外の窒素濃度の観測、氾濫による窒素交換量の算定を行った。月一回程度の現地踏査の際のサンプリングと、自動採水機による氾濫時の河川からの流入水・流出水の採取により、平水時と氾濫時の水質分析を行った。TNは河川水、湿原の地表水ともに1mgL-1程度であったものの、組成は大きく異なり、湖・河川は、NO3-N、NH4-Nの無機態窒素が6割を占めるのに対し、湿原内は有機態窒素が主で、NO3-Nはほとんど0に近い値であった。

水収支とここで得られた窒素濃度を用いて窒素収支を算定した。それぞれの窒素量は、降雨由来窒素量PN5.8、河川からの流入InN40.2、流出OutN26.2kg ha-1 year-1と求められた。また、湿原北西部では、萱材の利用に地上植生の刈り出しが毎年行われており、植生刈り出し量は、植生地上部の乾重量lkgm-2に窒素含有率0.5%を乗じて求め、50kg ha-1 year-1と算定した。湿原内の窒素循環は1年単位で見れば平衡していると考えられ、湿原内の窒素貯留量の変化ΔASNは0とみなせる。これらの残差として求められるのは、大気と湿原との間でのフラックスとなる。このフラックスは、湿原から大気に向かう「大気放出」と、大気中から窒素を取り込む「生物的窒素固定」の差し引きのネット値となる。これらはともに直接測定することは難しく、その差し引き量としてのフラックスが窒素収支としての意味を持つ。大気間のフラックスが湿原から大気へ向かう方向である場合(つまり脱窒やアンモニア揮散に代表される大気放出が生物的窒素固定よりも卓越している場合)、そのフラックスが窒素浄化機能として定量化される。2007年の窒素収支においては植生の刈り出しも加え、窒素除去量は19.8kg ha-1year-1と算定できた。

ただし、湿原北西部では、植生の刈り出しがあり、かつ、河川水の水質の影響が小さい。そのため、北西部とそれ以外の区域に分けて窒素収支を算定する必要がある。湿原北西部の大気間フラックスは、インプットである降雨由来窒素量とアウトプットである植生の刈り出し量との差であり、大気から湿原へ向かう生物的窒素固定のネット値が44.2kgha-1year-1となった。

5.氾濫時のEC分布とその変化

氾濫によって河川からは多量の栄養塩類が供給されているであろうことがわかったので、河川からの流入水の水質が及ぶ範囲と程度を明らかすることを目的とし、氾濫時の湿原内を踏査してEC電気伝導度分布を測定した。降雨のECは0.1dS m-1程度、それに対して河川のECは0.4~0.5dS m-1と十分区別できるほどの差があり、多地点での観測が容易である。

2008年9月の氾濫を対象とし、水位がピークに達した9月2日に45地点、水位が低下した9月9日に85地点で測定を行い、EC分布を明らかにした。湿原の奥の北西部は氾濫が生じても低ECを維持し、1週間程度で水位低下とともにECが低下するため、河川からの栄養塩類供給の影響をほとんど受けない地域と言える。

6.水・物質移動の物理モデルによる数値解析

氾濫時に湿原に流入する河川水が運搬する溶質の到達範囲をマッピングするために、湿原内の流れの水理モデルを構築した。水移動の基礎方程式は、流量フラックスの式と連続の式、溶質移動は移流拡散方程式である。

ここで、qは流量ベクトル、hは水位(水面標高)、須(のは流量コンダクタンス、げは水深、θ(のは比浸出量、Pは降雨量、ETは蒸発散量、Sは貯留水量、Cは溶質濃度、Dは拡散係数である。

流量は水頭勾配に比例する形で表現し、流量ベクトルqは、水位勾配と流量コンダクタンスT(d)の積で表される。流量コンダクタンスT(d)は水位hと地表面標高Zとの差である水深ゴの関数である。水深dが正(水位が地表面よりも上)であるときには流量はマニング式で表すとし、水深dが負(水位が地表面下)であるときには、流量コンダクタンスT(d)は透水量係数で表すとした。水移動は陰的差分による反復法を用いて水位hと流量ベクトルqを計算し、溶質移動は陽解法にて溶質濃度Cを求めた。

このモデルを用いて、2008年9月の氾濫イベントを再現した。境界条件として、湖の境界節点に湖の実測水位を与え、湿原西側と南側の堤防域は流量フラックスを0とした。初期条件は湿原内の水位を一様に与えた。

氾濫時には主に河川側から流入・流出が生じていることが流量ベクトルにより図示できた。また、溶質の濃度分布から、河川水の水質の影響をうける範囲を明らかにできた。

7.研究の総括

植生の刈り出しのない湿原における窒素に関する水質浄化機能は、脱窒による生化学的大気放出である。この大きさは、他の外部からの窒素インプットに依存する。もしも高層湿原のように降雨以外に水の流入がない場合や、本研究の妙岐ノ鼻湿原の北西部のように水の流入があっても富栄養な水質の影響を受けない場合は、降雨(湿性沈着)と乾性沈着による窒素供給しかなく、これとほぼ釣り合う大気放出(脱窒-窒素固定)となり、窒素流出はほとんどないであろう。一方、氾濫原や湖岸湿原では、氾濫時に河川や湖からの水の流入・流出があり、これによって窒素等の物質の交換が生じる。したがって、浄化機能(脱窒)の大きさは、流入水に含まれる窒素濃度と氾濫時の水交換量に基本的に依存する。

図-1 調査地および観測機器設置点

Fig.1 Study site and water level observation points

図-2 植生の刈り出しの有無による窒素収支の違い

Fig.2 Difference of Nitrogen budgets by mowing vegetation

図-3 2008年9月の氾濫における湿原内EC分布

(a):9月2日(水位ピーク),(b):9月9日(水位低下後)

Fig.3 EC distribution in the floodplain with a flood event in Sep.2008

(a):9/2(peak of flooding),(b):9/9(after drawdown)

図-4 湿原内溶質分布の計算結果

(a):氾濫開始後30時間後,(b):100時間後

Fig.3 Estimation of solute distribution in the floodplain

(a):30hours later,(b):100 hours latar

審査要旨 要旨を表示する

湿原・湿地は、陸上生態系と水圏生態系の接点として変化に富んだ環境条件から、水質浄化機能や高い生物多様性などの生態系サービスの価値が高いとされている。河畔(または湖畔)の湿地は、河川(湖)との間の水の流入・流出とこれに伴う栄養塩類の流入・流出が水質浄化機能を規定するとともに、湿原内の生態系を条件づける。本研究で対象とする妙岐ノ鼻湿原は、霞ヶ浦の湖畔に唯一残っている湖岸湿原であり、湿原内には、絶滅危惧種が19種確認されているが、近年、植生の変化が進行し、湖や河川からの水や栄養塩類が湿原内の生態系に影響を及ぼしている可能性がある。本論文は、この湿原において現地観測によってと河川(湖)との間で交換される水・窒素の量を算定して水質(窒素)浄化機能を定量化するとともに、水理モデルに基づく解析によって、湖の水位変動に応答した湿原内部の水・物質動態を解明した。

第1章では、前述の背景と研究の目的を述べた。

第2章では、研究対象地である茨城県霞ヶ浦湖岸の妙岐ノ鼻湿原に関する、地形的特徴、植生の分布状況、湿原内での人間活動について説明した。

第3章では、湿原内の水位・気象観測を行い、妙岐ノ鼻湿原内での水収支から湖と湿地との間の水交換量を算定した。水位変化については、1年間で3-5回程度、河川(湖)からの氾濫が生じ、その際には平水時から600mm程度水位が上昇し、大きな水位上昇は、主に湖・河川からの流入によるものであると確認された。観測期間3年間を平均した年間の水収支の結果は、降雨蜘111mm、蒸発鯉839mm、湖・河川からの総流入は3295mm(うち、氾濫時の流入1200mm)、流出は3567mmとなった。この結果から、湖・河川との間の水の交換が湿原内の物質循環にも影響が大きいと示唆された。

第4章では、湿原内外の水質を観測し、窒素濃度について時間的・空間的な比較を行った。河川水はNO3-N、NH4-Nの濃度が高く、湿原内は有機態窒素が主で、NO3-Nはほどんど0に近い値であった。また、3章で得られた水収支を用いて窒素収支を算定した。湿原北西部では、萱材の利用のために地上植生の刈り出しが毎年行われており、河川水の水質の影響を受けない区域でもあるため、植生の刈り出しの有無に分けて窒素収支を算定した。植生の刈り出しがない区域での窒素収支は、降雨6.4、湖・河川からの流入47.4、湖・河川への流出31.7kgha-1y-1となった。湿原内の窒素貯留量の変化は、季節変動するものの1年単位で見れば流出・流入量に比べて十分に小さいとみなせるので、窒素収支の残差として、湿原から大気へのフラックス(「脱窒一生物的窒素固定」で表されるネット値)が求められ、刈り出しがない区域では、大気放出として22.1kg ha-1y-1となった。刈り出しがある区域での植生持ち出し量は50kg ha-1y-1と算定され、大気へのネットフラックスは-43.6kg ha-1y-1で大気から湿地に向かうフラックスとなり生物的窒素固定が脱窒より卓越し、インプットの多くを占めた。

第5章では、湖・河川からの流入水の水質が及ぶ範囲と程度を明らかすることを目的とし、氾濫時の湿原内を踏査してEC(電気伝導度)分布を測定した。湿原の奥の北西部では、河川から流入した水がもともとあった水を押しながら水位上昇させた結果、氾濫が生じても降雨と同様の低EC(0.1dSm-1)を維持し、河川からの栄養塩類供給の影響をほとんど受けない区域であることがわかった。低ECが維持される区域は、萱の刈り出しが行われている区域と一致し、貧栄養な環境と人的撹乱が保全上重要な種の生育適地となっていることが確認された。

第6章は、氾濫時の水移動・溶質移動の現象を、物理モデルを構築して解析した。流量は地表面流をマニング式、地下水流をダルシー式で与え、連続式と連立させ、水移動を計算した。溶質移動は移流拡散方程式で表した。水移動は陰的差分により水位hと流量ベクトルqを計算し、溶質移動は陽解法にて溶質濃度Cを求めた。湿原北西部では河川水の水質の影響を受けないことが確認され、5章で実測したEC分布とよく対応していた。

第7章は、湖岸湿原の窒素除去機能発揮のメカニズムと湿原の水・物質循環が生態系に及ぼす影響について一般的に考察した。河川や湖から流入する水の量が大きく、その窒素濃度が高いほど湿地が発揮する河川下流や湖に対する水質浄化機能は大きいはずである。また植生の刈り出しや野焼きは脱窒量を減らし生物的窒素固定を増加させる。河川・湖からの流入水が生態系に及ぼす影響の範囲と程度は湿原の地形(地盤標高の分布)と河川・湖の水位によって決まり、水・物質移動の水理モデルによって具体的に表現できる。

以上、本研究は、算定が容易でない自然湿原における窒素収支をもとめ、湿原の窒素浄化機能を定量化するとともに湿原の内部で保全上重要な種の維持に必要な貧栄養な水環境が形成されるメカニズムを現地観測とモデル解析の両面から明らかにしたものである。このように、湖岸湿原の水・物質循環を明らかにしたことは学術上、応用上貢献するところが大きい。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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