学位論文要旨



No 125869
著者(漢字) 柴田,真理朗
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,マリオ
標題(和) 食感性工学による焼成パンのおいしさ予測モデルの開発
標題(洋)
報告番号 125869
報告番号 甲25869
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3569号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鍋谷,浩志
 東京大学 准教授 佐藤,雅俊
 東京大学 教授 大下,誠一
 東京大学 准教授 芋生,憲司
 農研機構食品総合研究所 計測情報工学ユニット長 杉山,純一
内容要旨 要旨を表示する

日本では明治時代初期に本格的な製パン技術が導入されて以来、独自のパン文化が発展している。当初、パンは非常に高価であったため、国民病であった脚気対策として病人および軍人が摂食するにとどまっていた。パンが本格的に普及し始めるのは日清戦争後の明治30年頃で、まず、あんパンやジャムパンといった菓子パンが普及した。さらに、第一次大戦直後の米価の暴騰後、米の代替食および栄養不足を補う健康食として一気に普及していった。太平洋戦争中は外国産小麦の輸入がストップしたために、製粉および製パン産業は壊滅的な状況になったため、パンの消費は落ち込んだが、終戦後の食の欧風化によって急速に消費が増大し、米と同様の主食として認知されるに至っている。

現在、日本で最も消費されているプルマン型パン(食パン)はイギリス人から伝わったものである。明治初期の日本人は、パンのクラスト(褐色の外皮部分)を食さない人が多かったので、クラストが占める割合がフランスパンに比べて少ないイギリス型の食パンが広く作れるようになったと言われている。今日、食パンはパン類の生産量の半分を占めるまでになった。日本の食パンは色が白く、灰分が低いという特性を持ち、非常に柔らかく、きめ細かいすだち(気泡構造)持った世界的にはユニークなパンである。

製パン産業は現代の大規模工場においてさえ、経験豊かな技術者、つまり職人による生産管理が行われている。例えば、焼成工程は製パン工程中でも最も重要な工程の一つであり、熟練した職人による調整が必要不可欠である。また、パンの最終価値を決定するこの工程において、職人は焼成したパン生地の「すだち」と呼ばれる気泡構造から食感を判断するといわれている。しかし、そのような"ノウハウ"にあたる技能は、職人のみが体感・経験している事柄であり、客観的な指標に変換されていない。この、いわゆる匠の技を定量化するには、最終製品のおいしさに関与する品質評価法を確立し、さらに、これらの個別技術により得られたデータの関連性を定量的に明らかにすることにより、最適製パン操作条件の探索手法を開発することが必要である。しかしながら、既往の研究では焼成パンの内部構造あるいは、力学物性と官能評価を関連づけた研究、さらにはそれらを定量的に関連付け、最適化した総合的な研究は数少ない。

そこで、食感性工学の手法を適用して機器測定値および官能評価に至る直列的な因果関係を定量化した焼成パンの「おいしさ」モデルを構築することが出来れば、既往の研究成果を十分に活用できると考えられる。そのためには、おいしさ予測モデルに基づく、「おいしさ」との関連付けや、物理化学的特性(機器測定値)および官能特性(官能評価)の予測を実施するための解析プロトコルの確立が必要である。

そこで、本研究の目的は、1)客観的な画像処理法を用いたパンの気泡構造の定量化アルゴリズムを作成し、2)焼成パンの粘弾性および気泡構造の定量化手法を開発し、3)食感性工学において用いられる数学・統計手法のプロトコルを確立し、4)物理化学的特性および官能評価を定量的に関連付けた焼成パンのおいしさ予測モデルを開発することとした。

本論文は全6章からなり、その内容は大きく分けて焼成パンを用いた構造の定量化および粘弾性計測手法の開発、そしておいしさ予測モデルの開発法から構成されている。

第1章では、まず製パンプロセスの各工程、焼成パンの内部構造とその画像処理、および焼成パンの力学的物性に関する既往の研究をレビューした。その結果、内部構造単独の研究は実施されているが、それらと力学物性を定量的に関連付けた研究例、およびパンの粘弾性を計測した研究は数少ないことがわかった。

第2章では、食感性工学の既往の研究で用いられている手法とその問題点について言及した。ヒトの味覚や嗜好を定量化し、製品設計に役立てることを目的としている食感性工学の既往の研究で扱われた試料は全て液状食品であり、構造や力学物性を持つ一般的な食品を対象とした研究はなく、一般的な食品に拡張した場合に想定される問題に対して、統計・数学的手法の適用法のプロトコルが存在しないという問題がある。また、既往の研究においてモデリング関数として用いられてきたニューラルネットワークは隠れノード数やオーバーフィットペナルティをはじめとするフィッティングパラメータに試行錯誤が必要であり、モデル構築が困難となる可能性を指摘した。そこで、与えられたデータに対して一意的に曲面を描く多次元スプライン関数応答曲面法が、食感性工学の最も重要な工程であるヒトの感覚と食品の設計パラメータの関係のモデル化のニューラルネットワークに代わる有用な代替手法となり得る可能性を示した。

第3章では、パンの気泡構造を定量化するために、迅速にデータを取得可能なイメージスキャナと画像処理を用いた簡便で客観的な計測手法を開発した。パン試料の画像から気泡を検出し易くするために、直交する4方向から同一試料を撮像し、最も輝度の低い画像の数値をとるmin合成を適用した結果、気泡が強調された画像を得た。次に、Otsuの二値化手法をブロックごとに適用し、画像全体から均一に気泡を検出した。その際の最適なブロックサイズは20×20 pixelであった。さらに、2種類の市販試料について気泡部分をラベリングした後、平均気泡面積、平均周囲長、単位面積当たりの気泡数および気泡面積割合(画像全体に占める気泡面積の割合)を算出した。それらのパラメータにサンプルを要因とするt検定を適用した結果、すべての項目に対して有意な差が検出されたことから、2種類のパン試料において、気泡構造の特徴の差は的確に抽出されたと考えられた。本章で開発されたアルゴリズムは、簡易にデータを採取でき、フィルタに関するパラメータを試行錯誤で決定する必要がない方法である。

第4章では、すだち(気泡構造)からパンの食感を推定するために、粘弾性と気泡パラメータを計測し、さらにそれらの関係の定量化を行った。まず、パンのスライス断面内は不均一と予想されたので、部位間のサンプリングサイズの最適化を実施した。その結果、1辺20 mmの立方体のサンプルを粘弾性計測に、その中心の10.2 mmの正方形領域を気泡画像計測に供試することを決定した。次に、クリープ試験により得られた時間-歪曲線に4要素フォークト粘弾性モデルを適用し、4つの粘弾性係数(瞬間弾性、遅延弾性、遅延粘性および永久粘性)を得た。一方、イメージスキャナにより撮像したデータに、画像処理を利用した前章で構築した気泡検出法を適用し、平均気泡面積、平均気泡周囲長、単位面積当たりの気泡数、および気泡面積割合の4つの気泡パラメータを算出した。最終的に、瞬間弾性、遅延弾性および定常粘性と気泡面積割合(画像全体に占める気泡面積の割合)に有意な相関がみられた(r>0.59, p<0.05)。実際の咀嚼方向の粘弾性とスライス断面の気泡パラメータに相関関係があることから、実際にすだちを目視して、食感を判断することが妥当であることが示された。

第5章では焼成パンのおいしさ予測モデルを開発するための方法を確立するために、折込油脂によって物性の操作が容易なデニッシュペストリーを試料として、その物理化学的特性を特定し、一連のテクスチャ測定法および解析法を提唱した。まず、荷重と歪が線形性の範囲を決定し、さらにクリープ試験により得られた粘弾性係数を食感のパラメータとした。加えて、機器および官能評価データに分散分析および主成分分析を適用することにより、8個の物理化学的特性および5つの知覚因子(主成分分析により変換された官能評価スコア)をモデル変数として選択した。次に、知覚因子とおいしさを重回帰分析により関連づけ、さらに成分と物理化学的属性の最適値を多次元スプラインおよびリグレット関数によって算出した。物理化学的特性が8変数の際の最適値はスプラインの過度の近似による外れ値とみなせたため、クラスター分析による解の検証を行った。その結果、最大高さ、密度、含水率、油分、瞬間弾性 および永久粘性 がデニッシュペストリーの内的属性の最適な組み合わせであることが判明した。最終的にこれらの結果から、おいしさモデル開発のための統計・数学手法の解析プロトコルを提唱した。

以上より、本研究ではまず、パン気泡構造の迅速、客観的な計測法が確立された。さらに得られた気泡パラメータと粘弾性との定量的な相互関連性を探索した結果、官能評価データとの関連付けが可能な気泡構造および粘弾性パラメータが得られることがわかった。物理化学的特性および官能特性をモデル化し、おいしさを最大化する物理化学的および官能特性を算出するための一連の統計・数学手法のフローを開発した。モデル関数として多次元スプライン関数を食品分野に適用したのは本研究がはじめてである。

今後は製造工程の最適化までモデルを拡張するために、パン生地の構造および物性、特に気泡構造の原因であるグルテンネットワークを定量化し、ミキシングなどの製造条件と関連付けることが期待される。具体的にはミキシングおよび焼成温度などの製造条件、パン生地および焼成パンの内部構造、粘弾性パラメータおよび官能評価データを直列に関連づけた「おいしさ」予測モデルを開発することが期待される。この「おいしさ予測モデル」が開発されれば、製造条件から焼成後のパンの官能特性を予測すること、さらには官能評価データをベンチマークとして、製造条件を最適化することが可能となり、食品産業における伝統的な匠の技を定量化されたノウハウとして次世代に継承することが可能となるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

製パン産業は現代の大規模工場においてさえ、経験豊かな技術者、つまり職人による生産管理が行われている。そのような"ノウハウ"にあたる技能は、職人のみが体感・経験している事柄であり、客観的な指標に変換されていない。この匠の技を定量化するには、最終製品のおいしさに関与する品質評価法を確立し、さらに、これらの個別技術により得られたデータの関連性を定量的に明らかにすることにより、最適製パン操作条件の探索手法を開発することが必要である。しかしながら、既往の研究では焼成パンの内部構造あるいは、力学物性と官能評価を関連づけた研究、さらにはそれらを定量的に関連付け、最適化した総合的な研究は数少ない。

本研究では、1)客観的な画像処理法を用いたパンの気泡構造の定量化アルゴリズムを作成し、2)焼成パンの粘弾性および気泡構造の定量化手法を開発し、3)食感性工学において用いられる数学・統計手法のプロトコルを確立し、4)物理化学的特性および官能評価を定量的に関連付けた焼成パンのおいしさ予測モデルを開発した。

以下に、本論文の具体的手法と成果について概説する。

第1章では、まず製パンプロセスの各工程、焼成パンの内部構造とその画像処理、および焼成パンの力学的物性に関する既往の研究をレビューした。その結果、内部構造単独の研究は実施されているが、それらと力学物性を定量的に関連付けた研究例、およびパンの粘弾性を計測した研究は数少ないことがわかった。

第2章では、食感性工学の既往の研究で用いられている手法とその問題点について言及した。ヒトの味覚や嗜好を定量化し、製品設計に役立てることを目的としている食感性工学の既往の研究で扱われた試料は全て液状食品であり、構造や力学物性を持つ一般的な食品を対象とした研究はなく、一般的な食品に拡張した場合に想定される問題に対して、統計・数学的手法の適用法のプロトコルが存在しないという問題がある。また、既往の研究においてモデリング関数として用いられてきたニューラルネットワークは隠れノード数やオーバーフィットペナルティをはじめとするフィッティングパラメータに試行錯誤が必要であり、モデル構築が困難となる可能性を指摘した。そこで、与えられたデータに対して一意的に曲面を描く多次元スプライン関数応答曲面法が、食感性工学の最も重要な工程であるヒトの感覚と食品の設計パラメータの関係のモデル化のニューラルネットワークに代わる有用な代替手法となり得る可能性を示した。

第3章では、パンの気泡構造を定量化するために、迅速にデータを取得可能なイメージスキャナと画像処理を用いた簡便で客観的な計測手法を開発した。パン試料の画像から気泡を検出し易くするために、直交する4方向から同一試料を撮像し、最も輝度の低い画像の数値をとるmin合成を適用した結果、気泡が強調された画像を得た。次に、Otsuの二値化手法をブロックごとに適用し、画像全体から均一に気泡を検出した。その際の最適なブロックサイズは20×20 pixelであった。さらに、2種類の市販試料について気泡部分をラベリングした後、平均気泡面積、平均周囲長、単位面積当たりの気泡数および気泡面積割合(画像全体に占める気泡面積の割合)を算出した。それらのパラメータにサンプルを要因とするt検定を適用した結果、すべての項目に対して有意な差が検出されたことから、2種類のパン試料において、気泡構造の特徴の差は的確に抽出されたと考えられた。

第4章では、すだち(気泡構造)からパンの食感を推定するために、粘弾性と気泡パラメータを計測し、さらにそれらの関係の定量化を行った。まず、パンのスライス断面内は不均一と予想されたので、部位間のサンプリングサイズの最適化を実施した。次に、クリープ試験により得られた時間-歪曲線に4要素フォークト粘弾性モデルを適用し、4つの粘弾性係数(瞬間弾性、遅延弾性、遅延粘性および永久粘性)を得た。一方、イメージスキャナにより撮像したデータに、画像処理を利用した前章で構築した気泡検出法を適用し、平均気泡面積、平均気泡周囲長、単位面積当たりの気泡数、および気泡面積割合の4つの気泡パラメータを算出した。最終的に、瞬間弾性、遅延弾性および定常粘性と気泡面積割合(画像全体に占める気泡面積の割合)に有意な相関がみられた。実際の咀嚼方向の粘弾性とスライス断面の気泡パラメータに相関関係があることから、実際にすだちを目視して、食感を判断することが妥当であることが示された。

第5章では焼成パンのおいしさ予測モデルを開発するための方法を確立するために、折込油脂によって物性の操作が容易なデニッシュペストリーを試料として、その物理化学的特性を特定し、一連のテクスチャ測定法および解析法を提唱した。まず、荷重と歪が線形性の範囲を決定し、さらにクリープ試験により得られた粘弾性係数を食感のパラメータとした。加えて、機器および官能評価データに分散分析および主成分分析を適用することにより、8個の物理化学的特性および5つの知覚因子(主成分分析により変換された官能評価スコア)をモデル変数として選択した。次に、知覚因子とおいしさを重回帰分析により関連づけ、さらに成分と物理化学的属性の最適値を多次元スプラインおよびリグレット関数によって算出した。物理化学的特性が8変数の際の最適値はスプラインの過度の近似による外れ値とみなせたため、クラスター分析による解の検証を行った。その結果、最大高さ、密度、含水率、油分、瞬間弾性E0および永久粘性ηNがデニッシュペストリーの内的属性の最適な組み合わせであることが判明した。最終的にこれらの結果から、おいしさモデル開発のための統計・数学手法の解析プロトコルを提唱した。

以上より、本研究ではまず、パン気泡構造の迅速、客観的な計測法が確立された。さらに得られた気泡パラメータと粘弾性との定量的な相互関連性を探索した結果、官能評価データとの関連付けが可能な気泡構造および粘弾性パラメータが得られることがわかった。物理化学的特性および官能特性をモデル化し、おいしさを最大化する物理化学的および官能特性を算出するための一連の統計・数学手法のフローを開発した。モデル関数として多次元スプライン関数を食品分野に適用したのは本研究がはじめてである。

本研究の成果を発展させることにより、食品産業における伝統的な匠の技を定量化されたノウハウに次世代に継承することが可能となるものと期待される。

以上審査委員一同は、こうした本論文の学術的な独創性と実用的な有用性を高く評価し、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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