学位論文要旨



No 125870
著者(漢字) 杉山,武裕
著者(英字)
著者(カナ) スギヤマ,タケヒロ
標題(和) スペクトルイメージングと励起蛍光マトリクスによる食品の品質計測に関する研究
標題(洋)
報告番号 125870
報告番号 甲25870
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3570号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鍋谷,浩志
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 准教授 佐藤,雅俊
 東京大学 教授 大下,誠一
 農研機構食品総合研究所 計測情報工学ユニット長 杉山,純一
内容要旨 要旨を表示する

食品の偽装表示事件や農薬混入事件などの相次ぐ発生により、「食の安全と安心」が非常に重視される時代になった。また、食品を開発・販売する上で、消費者による食品の「おいしさ」の追求もきわめて重要な要素となっている。食品を生産・加工・流通させる際に、安全性と品質を確保するため、従来の経験と主観に頼った判断以外に、科学的かつ客観的な計測による判断法を用いることが社会的に強く要請されている。

食品に対する既往の計測法は化学分析が主流であるが、専用の分析設備と多数の機器・試薬類が必要となる。また、計測のための操作が煩雑で、熟練した技術者を要するため、費用と時間がかかる欠点が存在する。食品の生産・加工・流通の現場に化学分析法を適用することは困難である。特に全数検査への適用は事実上不可能であるため、食品を計測する際、全体からごく一部のみを抽出して計測するサンプリング分析に頼らざるを得ない場合が多く存在する。

1970年代以降、食品計測の分野に光センシングを中心とする非破壊分析法が導入された。光センシングは簡易・非破壊・非接触・迅速に計測を行なうことが可能であり、全数計測も実現できるため、青果物の等級選別や糖度測定など、既に実用化された技術も多い。光センサ技術の発展とともに、光センシングによって得られる情報は増大の一途をたどっている。センサやコンピュータのハードウェア性能の向上、および解析アルゴリズムやデータマイニング技術の進展によって、光センシングにより得られた膨大な量の計測データを、多変量解析によって様々な観点から解釈することが重要になっている。

既往の光センシングの研究として、可視光線、近赤外線、赤外線、紫外線を用いた研究が多数報告されているが、技術の進歩に伴い、光センシングによって計測できる対象範囲が広がるとともに、既存の化学分析による計測を光センシングに置換可能なケースの増加が期待される。

「画像」という、2次元的な空間情報を保持した状態で分光計測を行なうスペクトルイメージングは、光センサ技術と情報処理技術の発達に伴い、実用可能な技術としてようやく開花し始めた分野といえる。スペクトルイメージングでは、計測手法を選択することによって2次元的な成分分布の情報を得ることが可能なため、光センシングによる食品の計測技術として非常に有用であると考えられる。近年の技術進歩によるCCDの撮影感度の向上や、近赤外領域の可視化に対応したInGaAs(インジウム・ガリウム・ヒ素)素子などの開発によって、従来は撮影が困難であった、可視光より長波長側の近赤外領域においても、スペクトルイメージングによる特定成分の可視化が可能になりつつある。

もう一つの光センシング技術として、励起光波長・蛍光波長・蛍光強度の3次元から構成される計測データを取得する、励起蛍光マトリクス(Excitation Emission Matrix:EEM)計測が存在する。近年の蛍光分光光度計の性能向上に伴い、膨大な量からなるEEM計測データを比較的短時間で取得可能になったため、従来の単一波長による蛍光分光計測では困難であった食品成分の判別や推定を、EEM計測データと多変量解析によって実現することが期待されている。

本論文においては、近赤外スペクトルイメージングと励起蛍光マトリクス計測という、光センシングを応用した2つの手法を食品の計測に適用することにより、従来法では計測が困難であった食品類について、簡易・迅速かつ実際の現場に応用可能な新規計測手法の提案を行なった。

第一の事例として、単一波長の近赤外スペクトルイメージングによる、魚介加工食品(エビ)に対する食品添加物処理の影響を評価する手法を開発した。冷凍エビにおいてテクスチャは重要な品質であり、筋繊維の組織構造に加えて保水性も重要なキーポイントとなる。従来法では、観察を行なう際に試料の染色処理が必要であるが、染色処理によるアーティファクト(人為的な変化)が存在するため、添加物のみによる変化の影響は観察が困難であった。そこで、添加物によりエビに起きる変化のみを評価することを目的として、近赤外スペクトルイメージングによる新規観察法を適用した。計測に用いたシステムは、マイクロスライサと近赤外照明、1500 nmの分光フィルタ、InGaAs素子を使用した近赤外カメラを組み合わせたものである。近赤外領域で水分の吸光ピークが存在する1500 nmにおいて、近赤外スペクトルイメージングにより、複数の添加物溶液で浸漬処理を行なったエビ試料を撮像した。さらに、各ピクセルの輝度値を吸光度に変換することにより、エビ試料断面の水の吸光度分布を可視化した。近赤外スペクトルイメージングの適用により、染色等の前処理を行なわずにエビの筋繊維が観察可能になるとともに、画像の濃淡の違いによって水の吸光度分布の相違が識別できた。エビ試料の吸光度画像の各ピクセルが持つ吸光度値について、浸漬処理条件に起因する相違を定量比較した結果、濃度1 %のリン酸三ナトリウム水溶液による浸漬処理が、実際の製品に用いられる、調理済の状態に近いゆでエビの水分の吸光度を最大に保持することが明らかになった。

第二の事例として、食品工場の加工工程にある青果物(ブルーベリー果実)に混入した生体由来の微細な夾雑物を、近赤外スペクトルイメージングを適用して検知する技術を開発した。ブルーベリー果実中に混入した葉や茎は、果実由来の果汁により染色されている。可視光領域においては、染色された夾雑物とブルーベリー果実を色彩の相違によって区別することができない。そこで、可視光よりも長波長側の近赤外領域におけるスペクトルイメージングを適用して、夾雑物の検知を試みた。予備試験として、ファイバ型の近赤外分光器を用いて、ブルーベリー果実と、果汁により染色された夾雑物(葉と茎)の表面の吸光度を計測した。得られた試料の各波長における吸光度データに判別分析を適用し、近赤外領域において夾雑物を検知するために最適な複数の波長(1268 nmと1317 nm)を決定した。次に、この2波長において、近赤外スペクトルイメージングによりブルーベリー果実と夾雑物を撮影した。近赤外スペクトルイメージングによって得られた吸光度画像(1268 nmと1317 nmにおける画像で1セット)の中から、果実に該当する領域と、夾雑物に該当する領域を、それぞれ約10000ピクセルずつ抽出した。各々のピクセルが持つ吸光度値に対して判別分析を行ない、正準判別関数によって定義される判別式を求めるとともに、果実と夾雑物を区別するためのしきい値を算出した。得られた判別式を吸光度画像の全てのピクセルに適用し、前出のしきい値を用いて画像を2値化処理することにより、ブルーベリー果実と夾雑物を明確に区別可能な2値画像を得ることに成功した。

第三の事例として、励起蛍光マトリクス(EEM)計測により、穀粉原料の混合割合を推定する技術の開発を行なった。穀粉原料の混合割合を推定する方法は、現在のところ、煩雑で時間がかかる湿式化学分析法しか存在しない。一方、流通の現場では、原料の混合割合を容易に推定可能な計測手法の開発が求められている。本研究では、蛍光分光光度計により得られた励起蛍光マトリクスの計測データを説明変数として、モデル試料となるそば粉と小麦粉の混合割合の推定を試みた。11種類の混合割合で作成したそば粉と小麦粉の混合粉試料に対し、励起波長200 nm-900 nm、蛍光波長200 nm-900 nmの範囲で走査して計測されたEEM計測データから、散乱光などの不要部分を除去し、PLS回帰分析を適用することによって検量線を作成した。キャリブレーション群、バリデーション群ともに、そば粉と小麦粉の混合割合について、実測値と推測値の間に良好な相関が見られた。さらに、計測時間を短縮するために、PLSモデルの推定式の係数(Loading)の分布を基準として、EEM計測データの解析範囲の縮減を試みた。フルレンジ(励起波長・蛍光波ともに200-900 nm)で得られた計測データを、励起波長340-555 nm、蛍光波長500-755 nmの範囲に縮減し、PLSモデルの再構築を行なった結果、ほぼ同一の推定精度を得ることができた。この結果、1回のEEM計測時間は、フルレンジでの計測時間に対し、およそ1/5に短縮できた。

本論文においては、食品の計測に複数の光センシング技術を適用することにより、食品の生産・加工・流通現場において適用が可能となる測定技術を開発した。いずれも既存の計測手法では達成が困難であり、なおかつ迅速・簡易な測定法であるため、湿式化学分析などの既往の手法と比べて計測に要するコストを大幅に減らすことができるとともに、全数計測への発展も可能である。

「食の安全・安心」が強く求められる現代において、食品の低コスト要請や流通の国際化に伴う食品表示の偽装、農薬の残留などの事案が増えつつある中、食品の生産段階のみならず、流通過程における検査も必要とされている。本研究において提示した測定技術は、既往の分析技術では困難であった新規性を有するとともに、計測に用いる機器類や手法、データの解析手法などにさらなる改良・検討を加えることによって、今後の技術の進歩に対しても一定の目標を呈示することができたと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

食品の偽装表示事件や農薬混入事件などの相次ぐ発生により、「食の安全・安心」が重視されるようになった。消費者による食品の「おいしさ」の追求も、食品を販売する上で非常に重要な要素になっている。食品を生産・加工・流通させる際に、安全性と品質を確保するために、従来の主観と経験に頼った判断から、食品を科学的かつ客観的に計測して判断することが必要である。既往の食品の計測は化学分析法が主流であったが、食品の生産・加工・流通の現場に化学分析法を適用することは困難で、特に全数検査に適用するのは事実上不可能であり、現状では一部のみを抽出するサンプリング分析に頼らざるを得ない。

1970年代以降、食品計測の分野に光センシングを中心とする非破壊分析法が導入され始めた。既に青果物の等級選別や糖度測定などで実用化されているものも多い。技術の進歩とともに、光センシングにより計測できる対象、または既存の化学分析法を光センシングに置換可能な場合が今後さらに増えていくと期待される。

画像という2次元的な空間情報を保った状態で分光するスペクトルイメージングは、光センサ技術と情報処理技術の発達に伴い、ようやく実用可能な技術として開花し始めた分野といえる。スペクトルイメージングでは、ひとつの利用法として2次元的な成分分布の情報が得られるため、光センシングによる食品の分析技術として有用である。近年のCCD技術の進歩による撮影感度の向上や、近赤外領域の可視化に対応したInGaAs(インジウム・ガリウム・ヒ素)素子などの開発によって、従来は困難であった可視光より長い波長領域において、特定成分の可視化イメージングが可能になりつつある。また、励起光波長・蛍光波長・蛍光強度の3次元から構成されるデータを記録する励起蛍光マトリクス(Excitation Emission Matrix:EEM)計測が存在する。近年の蛍光分光光度計の性能向上に伴い、膨大な量のEEM計測データが比較的短時間で得られるようになり、従来の単一波長による蛍光分光計測では不可能であった判別や成分同定が期待できる。

本論文においては、近赤外スペクトルイメージングと励起蛍光マトリクス計測という、光センシングを応用した2つの手法を食品の計測に適用することにより、従来の方法では困難な計測や、著しく労力が必要とされていた計測に対して、簡易・迅速かつ実際の現場に応用可能な新規計測手法の提案を行なった。

以下に、本論文の具体的手法と成果について概説する。

第一の事例として、近赤外スペクトルイメージングによる、魚介加工食品(エビ)に対する食品添加物処理の影響の評価技術を開発した。冷凍エビにおいて、テクスチャは重要な品質であり、テクスチャには保水性が重要なキーポイントとなっている。従来の方法では、観察を行なう際に試料の染色処理が行なわれていたが、染色処理によるアーティファクト(人為的な変化)が存在し、添加物だけによる影響を観察することは困難であった。そのため、添加物の影響のみによって保水性を評価することを目的として、光センシングとイメージング技術による新規観察法を試みた。計測システムは、マイクロスライサと近赤外照明、分光フィルタ、InGaAs素子を使用した近赤外カメラを組み合わせ、水分の吸収ピークがある1500nmにおける近赤外スペクトルイメージングにより、異なる添加物溶液で処理を行なったエビ試料を撮像し、各ピクセルの輝度値を吸光度に変換することにより、水分の可視化を行った。得られた画像から定量的に各処理条件の保水性の違いを比較した結果、濃度1 %のNa3PO4溶液での浸漬処理が、製品原料として用いられるゆでエビの水分を最大に保持する条件であることが明らかになった。

第二の事例として、食品工場において加工工程中の果実中に混入している細かい夾雑物を、近赤外スペクトルイメージングにより検知する技術を開発した。果実に混入した葉や茎は果実由来の果汁により染色されており、可視光領域においては色によって果実表皮と区別することができない。そのため、可視光よりも長波長側の近赤外領域におけるスペクトルイメージング技術により、夾雑物の可視化を試みた。まず、夾雑物を検知するのに最適な2波長(1268 nm・1317 nm)を見いだし、その上で、その2波長で、ブルーベリー果実および夾雑物の近赤外スペクトルイメージング計測を行なった。夾雑物を検出するための判別式を導出するとともに、果実と夾雑物を区別するためのしきい値を算出した。判別式を画像の各ピクセルに適用し、上記の手法により得られたしきい値を用いて2値化処理することによって、ブルーベリー果実と夾雑物が明確に分離した画像を作出することに成功した。将来的には、近赤外スペクトルイメージングをオンラインに展開し、果実中に混入した夾雑物を自動判別するシステムの構築が期待される。

第三の事例として、励起蛍光マトリクス(EEM)計測により、穀粉原料の混合割合を推定する技術の開発を行なった。現在、穀粉原料の混合割合を推定する方法は煩雑で時間のかかる湿式化学分析法しか存在せず、実際の流通現場においては、原料の混合割合を容易に推定可能な計測手法の開発が求められている。本研究では、蛍光分光光度計により得られた励起蛍光マトリクスの計測データを説明変数として、そば粉と小麦粉の混合割合の推定を試みた。励起波長200nm-900nm、蛍光波長200nm-900nmで走査して得られたEEMデータから散乱光などの不要部分を除去し、PLS回帰分析を適用することによって、検量線を作成した。キャリブレーション群、バリデーション群ともに穀粉原料の実測値と推測値の間に良好な相関が見られた。さらに、計測時間を目的として、PLSモデルの推定式の係数(Loading)の分布を基準にEEMデータの解析範囲の縮減を試みた。励起波長340-555 nm、蛍光波長500-755 nmに縮減し、PLSモデルの再構築を行った結果、ほぼ同じ推定精度を達成することができた。この場合、1回のEEM計測時間は、フルレンジ(200-900nm)での計測時間に対し、約1/5に短縮できた。本計測手法は、平易な操作による高精度の穀粉混合割合の予測を実現したもので、実際の流通現場における活用が期待される。

以上、本論文においては、複数の光センシング技術を食品の計測に適用することによって、食品の生産・加工・流通現場において適用できる測定技術を確立した。いずれも、既存の計測手法では達成困難なものであり、迅速・簡易な測定法であるため、化学分析などの既往の手法と比べて、低コストであり、非破壊、全数計測への応用が可能な技術である。

以上の審査結果から、審査委員一同は本論文の学術的な独創性と実用的な有用性を高く評価し、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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