学位論文要旨



No 125878
著者(漢字) 金子,文大
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,フミヒロ
標題(和) シバイヌの攻撃性に関する行動遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 125878
報告番号 甲25878
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3578号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 武内,ゆかり
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

咬傷事故の主な原因となるイヌの攻撃行動は近年深刻な社会問題となっており、米国およびわが国の獣医行動診療科における相談案件で最も多いのが攻撃行動であると報告されている。攻撃行動は個体本来の行動傾向や状況に応じて生じるが、個体の行動傾向というのは「一貫した感情傾向」である気質と呼ばれるいくつかの要素から成り立っていると考えられている。しかしながら、これまでのところイヌの攻撃行動の背景に存在する気質についてはほとんど調べられておらず、ヒトや齧歯類などで知られているような攻撃行動の遺伝的背景に関する研究も立ち後れているのが現状である。本研究はこのような状況を踏まえた上で、シバイヌの攻撃行動に関わる気質と遺伝的背景を明らかにすることを目的とした。日本古来の犬種であるシバイヌは、獣医師を対象にしたアンケート調査から攻撃性が高い犬種であるという結果が得られていること、マイクロサテライトDNAを用いた系統解析からイヌの先祖種であるオオカミと遺伝的に近縁であるとともに遺伝的多様性を保持していることなどから本研究に適した犬種であると考えられる。

本論文は5章から構成され、第1章において背景と目的を論じた後、第2章から第4章では本研究で実施した調査と実験について記述し、第5章において本研究で得られた成果をもとに総合的な考察を行った。

第2章では、攻撃行動の背景に存在する気質を明らかにすることを目的として、飼い主を対象としたアンケート調査および新奇物提示時の反応を評価する行動テストを実施した。第1節では、気質に関する14項目と攻撃対象により分類した攻撃行動に関する6項目から成る5段階評価によるアンケートを作成し、ドッグイベントや動物病院などを通じて、合計195頭のシバイヌの飼い主から回答を得た。気質14項目を用いて因子分析を行ったところ、「生き物に対する反応性」、「ヒトに対する不安」、「音や動きに対する反応性」、「音に対する不安」の4因子が安定して抽出された。続いて、対象別攻撃行動項目を目的変数、気質因子を説明変数として順序ロジスティック回帰分析を行ったところ、飼い主に対する攻撃行動に関しては「音や動きに対する反応性」因子が、子供、他人およびイヌに対する攻撃行動に関しては「音や動きに対する反応性」因子に加えて「ヒトに対する不安」因子が有意に関連することが明らかとなった。第2節では、第1節で攻撃行動との関連が示唆された気質を客観的に評価するための行動テストを立案し、第1節で用いたアンケートと同時に実施することでその有用性を検討した(n=39)。それぞれの行動テストについて個体が示した反応の程度により4~5段階の評価 (行動スコア) を行うとともに、反応までの潜時と反応持続時間を測定し、アンケートによる気質評価結果と比較した。その結果、‘猫じゃらしに対する反応’潜時と「生き物に対する反応性」因子、‘見知らぬヒトへの反応’スコアと「ヒトに対する不安」因子については中程度の相関が認められた。以上の結果より、アンケート調査における「生き物に対する反応性」および「ヒトに対する不安」を行動テストによって客観的に評価できる可能性が示唆された。本章の結果より、シバイヌの攻撃行動は攻撃対象によって異なる気質が寄与しており、飼い主に対する攻撃行動では、「音や動きに対する反応性」が、一方、子供や他人あるいはイヌに対する攻撃行動では、「音や動きに対する反応性」に加えて「ヒトに対する不安」といった気質が関与していることが示唆された。

第3章では、シバイヌの攻撃行動と関わる遺伝子を明らかにすることを目的とし、気質関連候補遺伝子多型とシバイヌの行動特性との関連を解析した。第1節では、関連解析で用いる候補遺伝子多型数を増やすために、他種動物において不安や攻撃行動に関わると報告されているセロトニンの脳内律速酵素であるtryptophan hydroxylase 2 (TPH2) 遺伝子に注目し、翻訳領域内の多型を探索することにした。ビーグル犬の脳組織から抽出したmRNAより作製されたcDNAを鋳型として翻訳領域の塩基配列を決定するとともに多型を検索したところ、TPH2遺伝子翻訳領域内に5つの一塩基多型 (SNP)が見つかり、シバイヌを用いた本研究の候補遺伝子多型となりうることが示唆された。第2節ではTPH2遺伝子多型に加えて、神経伝達物質の動態に関わる既報の9遺伝子20多型とシバイヌの行動特性との関連を解析した。まず、雑誌と動物病院を通じて、シバイヌの飼い主を対象に日常的に生じる出来事について26項目、5段階評価のアンケート調査を行った(n = 77)。同時に、血液あるいは被毛を回収してゲノムDNAを抽出し、候補遺伝子多型の遺伝子型を判定した。アンケート結果を因子分析したところ、攻撃性因子や反応性因子といった合計8因子が抽出された。続いて、遺伝子多型との関連を調べたところ、solute carrier family 1 (glial high affinity glutamate transporter), member 2(SLC1A2)遺伝子のT471C多型と攻撃性因子スコアが有意に関連していることが明らかとなった。第3節では、第2節で攻撃性との関連が示されたSLC1A2-T471C多型がアミノ酸置換を伴わない多型であることから他に原因変異が存在する可能性を考え、T471C近傍の多型を検索した。本節ではシバイヌのDNAを鋳型としてSLC1A2遺伝子エクソン1の上流1.4kbのプロモーターと想定される領域および全11エクソン領域について、攻撃性因子スコアが高い10個体と低い10個体で多型を探索するとともに攻撃性因子との関連を解析した。その結果、プロモーターと想定される領域に9 SNPsと3欠失/挿入多型が、エクソン11の非翻訳領域に2 SNPsと1欠失/挿入多型が同定されたが、いずれも関連性が低く、T471C多型よりも有力と推定される多型は見出せなかった。本章の結果より、現時点においてはSLC1A2-T471C多型のみがシバイヌの攻撃性と関連する可能性が高いことが示唆された。

第4章では、第2章においてシバイヌの攻撃行動は対象により異なる気質が寄与していることが示されたことから、対象別の攻撃行動や攻撃行動に関わる気質因子とSLC1A2-T471C多型との関連を解析することとした。第1節においては、攻撃行動の対象により分類したシバイヌの攻撃行動とSLC1A2-T471C多型との関連を解析した。第2章第1節で実施したアンケート調査時に被毛を回収してゲノムDNAを抽出し、SLC1A2-T471C多型の遺伝子型を判定した。続いて対象別の攻撃スコアとSLC1A2-T471C多型の遺伝子型との関連を解析した。その結果、有意な関連はみられなかったものの、いずれの攻撃行動においても、Tアレルを持つ個体ではスコアが高くなるという様子がみられた。続いて、第3章第2節でアンケート調査を行った個体を用いて同様の解析を行ったところ、いずれの攻撃行動においても有意な関連が認められた。以上のことから、SLC1A2-T471C多型はシバイヌの飼い主、子供、他人およびイヌに対する攻撃に関わっている可能性が示唆された。第2節においては、シバイヌの気質因子とSLC1A2-T471C多型との関連を解析した。第2章第1節において作成したアンケートの気質項目から抽出された「生き物に対する反応性」、「ヒトに対する不安」、「音や動きに対する反応性」、「音に対する不安」の4因子とSLC1A2-T471C多型との関連解析を行ったところ、Cアレルを持たない個体は、音や動きに対する反応性因子の因子得点が高くなる傾向が認められた。さらに、第2章第2節で実施した行動テストにおいて得られた行動指標とSLC1A2-T471C多型との関連を解析したところ、見知らぬヒトへの反応の持続時間がSLC1A2-T471C多型の遺伝子型と関連している傾向が認められた。本章の結果より、SLC1A2-T471C多型は、飼い主、子供、他人およびイヌに対する攻撃行動と、さらにこれらの攻撃行動の背景に存在する「音や動きに対する反応性」や「ヒトに対する不安」といった気質因子と関連する可能性が示唆された。

以上、本研究より(1)シバイヌの攻撃行動は基本的に「音や動きに対する反応性」という気質に依存して生じ、攻撃対象が見知らぬヒトやイヌの場合は「ヒトに対する不安」が動機付けとして加わっていること、(2)シバイヌの攻撃性がSLC1A2-T471C多型と関連していること、(3)SLC1A2-T471C多型は、攻撃行動の背景に存在する「音や動きに対する反応性」や「ヒトに対する不安」といった気質と関連する可能性のあること、が明らかとなった。本研究で得られた知見をもとに、アンケート調査や行動実験といった評価方法を組み合わせて改善していくことで、イヌの攻撃行動に関わる気質についてより正確な評価が可能になると考えられる。また、本研究で攻撃行動および気質との関連が示唆されたSLC1A2遺伝子が気質に影響をおよぼす分子機構と脳内作用機序を解明するとともに、ゲノムワイド解析によってさらに関連する遺伝子群を探索していく必要があろう。今後こうした研究の集積がイヌにおける攻撃行動の早期予測、個体の気質に合わせた飼育方法や攻撃行動治療方法の確立に貢献することが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

個体の行動傾向は「一貫した感情傾向」である気質と呼ばれる要素から成り立っていると考えられる。咬傷事故の主な原因となるイヌの攻撃行動は深刻な社会問題となっているが、イヌの攻撃行動に関わる気質については明らかにされていない。本研究では、攻撃性が高く遺伝的多様性が保たれているなど研究上の利点を有する犬種と考えられるシバイヌを対象に、攻撃行動に関わる気質と遺伝的背景の解明を目的とした研究が行われた。本論文は5章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第4章では本研究で実施された各実験について記述され、第5章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が展開されている。

第2章では、気質に関する14項目と、攻撃対象により分類した攻撃行動に関する6項目から成る5段階評価のアンケートが作成され、シバイヌの飼い主を対象とした調査が行われた。気質に関する14項目を用いた因子分析により、「生き物に対する反応性」、「ヒトに対する不安」、「音や動きに対する反応性」、「音に対する不安」の4因子が安定して抽出された。対象別攻撃行動の項目を目的変数として、また気質因子を説明変数として順序ロジスティック回帰分析が行われた結果、飼い主に対する攻撃行動では「音や動きに対する反応性」、子供、他人およびイヌに対する攻撃行動では「音や動きに対する反応性」に加えて「ヒトに対する不安」が有意に関連することが明らかとなった。次にアンケートから得られた気質因子の妥当性を検討するための行動テストが考案され、アンケートから得られた結果との比較検討が行われた結果、'猫じゃらしに対する反応'潜時と「生き物に対する反応性」、'見知らぬヒトへの反応'スコアと「ヒトに対する不安」については中程度の相関が認められるなど、気質因子を行動テストにより客観的に評価できる可能性が示された

第3章では、気質の遺伝的背景を解析する前提として候補遺伝子多型数を増やす目的で、tryptophan hydroxylase 2 (TPH2) 遺伝子に注目し翻訳領域における多型が探索された。その結果、5つの一塩基多型 (SNP)が見つかり、これらは候補遺伝子多型となりうることが示された。次に、TPH2遺伝子多型を含む神経伝達物質の動態に関わる合計9遺伝子20多型とシバイヌの行動傾向との関連が解析された結果、solute carrier family 1 (glial high affinity glutamate transporter)、 member 2 (SLC1A2)遺伝子のT471C多型と、攻撃性因子スコアが有意に関連しているという結果が得られた。T471C多型の他に原因変異となる多型が存在しないかを確認するため、SLC1A2遺伝子のプロモーター想定領域および全11エクソン領域について、攻撃性因子スコアが高い10個体と逆にスコアが低い10個体で多型を探索するとともに、攻撃性因子との関連が検討された結果、合計11のSNPsと4欠失/挿入多型が同定された。しかし、T471C多型よりも有力な多型は見出されず、現時点ではT471C多型がシバイヌの攻撃性と関連する可能性が最も高いことが示された。

第4章では、第2章と第3章でそれぞれアンケート調査を実施した群を用いて、攻撃の対象により分類した攻撃行動とT471C多型との関連が検討された。その結果、第2章の群では有意な関連はみられなかったもののTアレルを持つ個体ではスコアが高くなる様子がみられ、第3章の群ではいずれの攻撃行動においても有意な関連が認められた。次にアンケートから得られた気質4因子とT471C多型との関連解析が行われた結果、Cアレルを持たない個体は、「音や動きに対する反応性」の因子得点が高くなる傾向が認められた。さらに、行動テストから得られた行動指標とT471C多型との関連が検討された結果、見知らぬヒトへの反応の持続時間がT471C多型と関連する傾向が認められた。すなわち、T471C多型は、飼い主、子供、他人およびイヌに対する攻撃行動、さらに「音や動きに対する反応性」や「ヒトに対する不安」といった気質因子と関連する可能性が示された。

以上、本研究では攻撃性に生得的基盤を有することが予測されるシバイヌを研究対象として、飼い主へのアンケート調査と行動テストを用いた気質因子の解析が行われ、さらに様々な神経伝達物質関連遺伝子の多型との関連が調べられた。その結果、攻撃性の基盤となる複数の気質因子が同定され、また部分的ではあるが攻撃傾向との関連が推測される遺伝子多型も見出された。こうした研究の成果は、伴侶動物の気質を把握し人と動物の適正な関係性を構築する上で役立つばかりでなく、哺乳類の生得的行動発現の背景となる中枢メカニズムを理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。

よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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