学位論文要旨



No 125879
著者(漢字) 大原,海
著者(英字)
著者(カナ) オオハラ,ヒロミ
標題(和) 反芻動物のフェロモン受容機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 125879
報告番号 甲25879
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3579号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

多くの哺乳類は高度に発達した嗅覚を持っており、種内あるいは種間の情報交換における嗅覚の重要性は古くから示唆されてきた。嗅覚情報は種や個体を識別する重要な手掛かりであり、生殖行動をはじめとして様々な行動に多大な影響を及ぼしている。嗅覚情報の中でも、フェロモンは特に種特異的行動の発現に深く関わる生理活性物質である。反籾動物のヤギやヒツジでは雌の繁殖季節外に発情や排卵を誘起する「雄効果」と呼ばれる強力なフェロモン現象が知られている。先行研究によれば、雄効果フェロモンには2つの特徴、すなわち、(1)このフェロモンはヤギとヒツジの間で互いに種を超えて作用し合う可能性があること、(2)フェロモンの受容過程に「主嗅覚系」と「鋤鼻嗅覚系」と呼ばれる2つの嗅覚システムが関与している可能性があること、が示されている。本研究は、こうした雄効果フェロモンの特徴を手掛かりに、雄効果フェロモン受容機構を解明することを目的として、受容体候補分子の探索を行ったものである。

第一章は総合緒言である。哺乳類においてこれまで明らかとなっている嗅覚システムについて概観し、本研究の背景と目的について述べた。

第二章では、雄効果フェロモンの性質と生理作用に関する情報を基盤に、雄効果フェロモン受容体候補分子について検討した。すなわち雄効果フェロモンには、「同種他個体に作用する」というフェロモンの定義に反することになりかねない珍しい特徴がある。それは、ヤギとヒツジの雄効果フェロモンは種を超えて互いに作用し合う、という可能性である。そこで本章では、雄ヤギの被毛から抽出した雄効果フェロモン様活性酸性画分(以下、フェロモン画分という)を非繁殖期の雌ヒツジへと曝露し、生殖内分泌系への作用を解析した。その結果、フェロモン画分を曝露した群では、去勢ヤギより同手順で抽出した酸性画分を曝露した対照群に比較して、黄体形成ホルモンの血液中濃度が有意に増加し、また神経活動の指標とされるFosタンパク質免疫陽性細胞数が主嗅覚系の一部と鋤鼻嗅覚系の多くの神経核において有意に増加していることが明らかとなった。このことから、本章で用いた雄ヤギ被毛由来のフェロモン活性酸性画分は、同種である雌ヤギのみならず雌ヒツジに対しても雄効果フェロモンとしての活性を有することが確認された。以上、雄効果フェロモンが酸性の化学物質であること、ヤギとヒツジの雄効果フェロモンはおそらく活性部位が同一であるかもしくは非常に類似していること、それゆえ受容体についてもヤギとヒツジで類似性が高いこと、などが推察された。これらの条件に合致する雄効果フェロモン受容体候補として、本研究では1型鋤鼻受容体(vomeronasal type l receptor:V1R)に着目し、第三章以下の研究を進めることとした。

第三章では、反芻動物におけるV1R遺伝子について検討した。

V1Rは多重遺伝子ファミリーを形成しており、これまでに同定されているV1R遺伝子ファミリーは動物種によって全く異なるレパートリーを示している。ヤギやヒツジなどといったゲノムデータベースが構築されていない動物種ではV1R遺伝子の同定はほとんどなされていなかった。そこで本章では、これまで同定されているマウス・ラット・イヌのV1R遺伝子配列のコンセンサス領域からプライマーを作製し、ヤギとヒツジのゲノムDNAからPCRによってV1R遺伝子の同定を試みた。ヤギとヒツジのV1R遺伝子を同定する過程で、これら遺伝子は同じ反鯛動物でありゲノム情報が公開されたウシと非常に高い相同性を持つことが明らかとなったことから、ウシのゲノムデータベースをもとに、ウシV1R遺伝子のopen reading frame(ORF)全体を同定するようなプライマーを作製し、同様にPCRを行った。その結果、ヤギとヒツジからORFを有するそれぞれ23、22のV1Rホモログ遺伝子を同定することに成功した。ヤギV1R遺伝子群について、RT-PCRおよびin situ hybridizationによって受容器官における発現を調べたところ、全ての遺伝子が主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系の受容器官である嗅上皮と鋤鼻器の両方に発現しており、嗅覚器官において受容体を発現するV1R遺伝子であることが確認された。同定したヤギ・ヒツジのV1R遺伝子群はほぼ全てがウシのV1R遺伝子と対をなしており、ウシとヤギ・ヒツジの問で共通の遺伝子から分岐した遺伝子(オーソログ遺伝子)であった。このことはヤギ・ヒツジそしてウシのV1R遺伝子レパートリーが酷似していることを示している。また、これらオーソログV1R遺伝子の配列より、三次元構造とリガンド結合部位を予測した結果、3動物種間で非常に類似した構造となることが明らかになった。これらのことを考え合わせると、ウシ・ヤギ・ヒツジのV1Rは同一もしくは極めて類似した構造のリガンドを受容し得る可能性が高いと考えられた。

第四章では、第三章で確認したV1R発現ニューロンの投射経路を明らかにすることを目的とした。

第三章で、ヤギV1R遺伝子群が嗅上皮と鋤鼻器において発現していることが明らかになったことから、V1R発現ニューロンが主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系の双方の一次中枢神経系へ軸索投射している可能性が推察された。ヤギV1RはGタンパク質共役受容体であり、嗅上皮と鋤鼻器においてguanine nucleotide binding protein,alpha inhibiting2(Gi2)と共役して発現していることが明らかになっているため、本章ではGi2に対する抗体を用いて嗅球組織切片へ免疫組織化学染色を行い、Gi2免疫陽性(Gi2-ir)ニューロンの軸索投射先を検索した。その結果、Gi2-irニューロンは主嗅球と副嗅球の両方へ軸索投射していることが明らかになった。また、このニューロンは、神経軸索のマーカーである細胞接着分子(NCAM)およびolfactory marker protein(OMP)や、グルタミン酸シナプス小胞(VGluT2)と共存していたことから、次のニューロンへ情報を伝達し得るニューロンである可能性が示され、このことは電子顕微鏡観察によっても確認された。以上のことから、主嗅球・副嗅球におけるGi2-irニューロン、すなわちV1R-Gi2ニューロンは主嗅球・副嗅球よりも更に高次の主嗅覚系・鋤鼻嗅覚系へと情報を伝達しているものと考えられる。第二章で示されたように、雄効果フェロモンの刺激で主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系双方が反応することと、本章で示された、V1R発現ニューロンが主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系双方へ軸索投射しているという結果を勘案すると、V1Rが雄効果フェロモン受容体である可能性は高いと考えられる。

第五章は総合考察である。

嗅覚受容体遺伝子群は、生活環境や嗅覚以外の感覚系からも影響を受けながら速い速度で分子進化する遺伝子群であることが最近の研究から示唆されている。本研究の結果から、V1R遺伝子がウシ・ヤギ・ヒツジで非常に良く似たレパートリーを持っていることが明らかになった。おそらくウシ、ヤギ、ヒツジの三種が分岐する過程においても、これら遺伝子群は重要な役割を担っており、保存されてきたのではないかと考えられる。本研究で着目したV1Rについてはこれまで報告されてきた雄効果フェロモンの特徴に照らし合わせてみても矛盾が生じず、これが雄効果フェロモン受容体として機能し得るものと推察される。ヤギのV1Rは主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系双方の受容器官においてGi2と共役して発現している上、その発現ニューロンは主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系の一次中枢神経系へ軸索投射していた。これらのことから、雄効果フェロモンは嗅上皮と鋤鼻器のV1Rに受容されるとGi2シグナル伝達系を介して主嗅覚系・鋤鼻嗅覚系へとその情報が伝達されていくものと推察された。

雄効果フェロモンは強力な性腺刺激効果を有する生理活性物質であり、畜産現場においても潜在的な応用的価値は高い物質と考えられる。本研究では、雄効果フェロモン受容体候補であるV1Rがウシ・ヤギ・ヒツジにおいて高い類似性を持つことが示されたが、このことは、雄効果フェロモンがヤギとヒツジという二種の動物において種を超えて作用するのみならず、近縁の種であるウシにおいても何らかの作用をもたらす可能性を示している。今後、雄効果フェロモンのリガンド分子が同定されれば、乳肉羊毛生産などに関連する畜産業においての活用が大いに期待されることになろう。

審査要旨 要旨を表示する

反芻動物のヤギやヒツジでは非繁殖季節の雌に排卵を誘起する雄効果と呼ばれる強力なフェロモン現象が知られている。先行研究から雄効果フェロモンには特徴的な2つの性質、すなわちフェロモン分子がヤギとヒツジという異種間で作用し合う可能性とフェロモン受容過程に主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系の両嗅覚システムが関与している可能性が示されている。本研究では、こうした特徴を手掛かりに、フェロモン受容体候補分子の探索とフェロモン受容機構の解明を目指した研究が行われた。本論文は5章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第4章では本研究で実施された各実験について記述され、第5章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が展開されている。

第2章では、雄ヤギ被毛から酸性抽出した雄効果フェロモン活性画分(以下、フェロモン画分)を非繁殖期の雌ヒツジに呈示した際の、生殖内分泌系の反応が解析された。その結果、フェロモン画分の呈示により、対照群(去勢ヤギから同手順で抽出した酸性画分を呈示)に比較して、黄体形成ホルモンの血中濃度が有意に増加し、また神経活動の指標であるFosタンパク質免疫陽性細胞数が主嗅覚系の一部と鋤鼻嗅覚系の多くの神経核において有意に増加していることが明らかとなった。このことから、雄ヤギ被毛由来のフェロモン画分は、雌ヒツジに対しても雄効果フェロモン活性を有することが確認されるとともに、雄効果フェロモンが酸性化学物質でヤギとヒツジの雄効果フェロモンは同一分子か少なくとも構造的に活性部位が酷似していること、それゆえ受容体についてもヤギとヒツジで類似性が非常に高いことなどが推察された。

第3章では、上記の条件に合致する雄効果フェロモン受容体候補として1型鋤鼻受容体(vomeronasal type 1 receptor:V1R)に着目した研究が進められた。V1Rは多重遺伝子ファミリーを形成しており、これまでに同定されたV1R遺伝子ファミリーは動物種によって異なるレパートリーを示している。ヤギやヒツジのV1R遺伝子は未解明であったことから、本章ではヤギとヒツジのゲノムDNAからV1R遺伝子群を同定し、近縁種でゲノムデータベースが構築されているウシのV1R遺伝子群との比較解析が行われた。その結果、ヤギ・ヒツジ・ウシのV1R遺伝子群は、ほぼ全てが共通の遺伝子から分岐したオーソログ遺伝子であり、V1R遺伝子レパートリーが極めて類似していることが明らかとなった。またオーソログV1R遺伝子の配列から三次元構造とリガンド結合部位を予測した結果、三種間で非常に類似した構造となることが示され、このことからも反芻動物三種の間ではV1Rは同一もしくは極めて類似した構造のリガンドを受容する可能性が示された。

第4章では、上記のように同定したヤギV1R遺伝子群について、RT-PCRおよびin situ hybridizationによって受容器官における発現が調べられた。その結果、同定した全てのV1R遺伝子が嗅上皮と鋤鼻器の両方に発現していることが明らかになった。またヤギV1RはGタンパク質共役受容体であり、嗅上皮と鋤鼻器においてguanine nucleotide binding protein, alpha inhibiting 2(Gi2)と共役して発現していることが先行研究から示されていたため、本章ではGi2に対する抗体を用いた免疫組織化学により、Gi2免疫陽性(Gi2-ir)ニューロンの軸索投射先が解析された。その結果、Gi2-irニューロンは主嗅球と副嗅球の両方へ軸索投射しており、さらにGi2-irニューロンは神経軸索のマーカー分子である細胞接着分子(NCAM)およびolfactory marker protein(OMP)や、グルタミン酸シナプス小胞(VGluT2)と共存していたことから、次のニューロンへ情報を伝達し得るニューロンである可能性が示され、このことは電子顕微鏡観察によっても確認された。すなわち、V1R-Gi2ニューロンは主嗅球・副嗅球を介して高次の主嗅覚系・鋤鼻嗅覚系へと情報を伝達していることが示された。

以上、本研究では雄効果フェロモンの受容体候補として1型鋤鼻受容体V1Rファミリーに着目し、その遺伝子の構造と発現が詳細に検討された。その結果、ヤギ、ヒツジおよびウシの近縁動物三種の間でオーソログ遺伝子の存在が高頻度に認められ、これらの動物種間ではフェロモン受容機構(おそらくはフェロモン分子本体も)の類似性が高いことが示唆された。また嗅覚神経系におけるV1Rの発現様式から、雄効果フェロモンの情報は主嗅覚系と鋤鼻嗅覚系の両者へ伝達されるものと推察された。こうした研究の成果は、反芻動物におけるフェロモン受容機構の解明に貢献することはもとより、哺乳類におけるケミカルコミュニケーションの実体とその生物学的背景を理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。

よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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