学位論文要旨



No 125880
著者(漢字) 兒玉,有加
著者(英字)
著者(カナ) コダマ,ユカ
標題(和) 社会的相互作用を介したストレス緩衝機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 125880
報告番号 甲25880
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3580号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 准教授 田中,智
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

多くの動物種は同種他個体と群れを作って暮らしている。群れの形成は、例えば捕食者からの逃避や餌の獲得に有利に働くことにより生存率の向上をもたらし、また繁殖上の利点も少なくないと考えられている。群れを形成する動物種では他個体の存在を欲するという性質が先天的に備わっており、他個体の存在そのものが身体面だけでなく心理面においても利益をもたらすことが予想される。実際に先行研究において、同種他個体の存在が被験動物のストレス反応を緩和するといった現象が観察されており、これらは社会的ストレス緩衝作用と呼ばれている。しかし、現象に関する報告はあるものの、他個体由来のどのような情報がどのように受容され、どのような脳内変化をもたらすことによりストレス反応を緩和するのかといったメカニズムに関してはほとんど明らかとなっていない。当研究室では、ラットの恐怖条件付けモデルを用いた研究により、条件付け後から条件刺激再提示までの24時間を同種他個体と共に飼育すると、条件刺激に対するストレス誘発性一過性体温上昇反応(SIH;Stress-induced hypenhermia)が減弱することなどを見出してきた。そこで本研究では、ストレス緩衝作用に有効な共飼育の時期と期間を特定するとともに、他個体から得られるシグナルを絞り込んだ上で共飼育により抑制される脳内領域の探索を行うことにより、共飼育による社会的ストレス緩衝作用のメカニズムを探ることを目的とした。本論文は以下の5章から構成されている。

第一章は総合緒言であり、社会的ストレス緩衝作用に関する先行研究について概観するとともに、恐怖条件付けおよびストレス反応の指標として用いたSIH反応について解説し、本研究の目的を述べた。

第二章では、社会的ストレス緩衝作用をもたらすのに必要な共飼育の時期と期間について検討した。まず、共飼育が恐怖条件付けの記憶形成を阻害することによりSIH反応を緩和する、という作業仮説を立ててこれを検証した。恐怖条件付けの記憶形成後である条件付けの24時間後から共飼育を行ったところ、SIH反応の緩和が認められた。このことから、他個体との共飼育は恐怖条件付けの記憶形成を阻害するものではないことが示され先の仮説は否定された。次にSIH反応の緩和に最低限必要な共飼育期間を調べるために、条件刺激提示試験までの6、12、18、24時間の共飼育をそれぞれ行ったところ、6時間の共飼育ではsm反応は緩和されなかったものの、12時間以上の共飼育で緩和されることが明らかとなった。以上より、社会的ストレス緩衝作用は12時間以上の共飼育によりもたらされ、恐怖条件付けの記憶形成を阻害するのとは異なるメカニズムによりsm反応が緩和されることが示唆された。共飼育は、形成された記憶の維持を阻害するか、もしくは恐怖条件付けの記憶とは無関係にSIH反応の表出を抑制することにより社会的ストレス緩衝作用をもたらしていると考えられる。海馬における記憶の維持には、記憶形成時に活性化される分子経路が周期的に再活性化されることが必要であると報告されていることから、共飼育はこのような記憶の維持を阻害することによりストレス緩衝作用をもたらしているのかもしれない。

第三章では、社会的ストレス緩衝作用をもたらす生体シグナルを絞り込むことを目的とした。他個体からの接触刺激を阻害した際に社会的ストレス緩衝作用が維持されるか否かを、網越しで共飼育を行うことにより検証した。恐怖条件付け直後から、もしくは恐怖条件付けの24時間後から各24時間、中央部に網をとりつけたケージにて網越しに共飼育を行ったところ、いずれの場合においても条件刺激提示に対してSIH反応が緩和されることが明らかとなった。このことから、社会的ストレス緩衝作用に接触刺激は必要とされないことが示唆された。ストレス負荷時に他個体を一緒に導入するという、共提示による社会的ストレス緩衝作用においては、他個体からの嗅覚情報が必要であることが報告されていることから、共飼育による社会的ストレス緩衝作用においても嗅覚情報が重要である可能性が推察された。

第四章では、条件刺激に対して活性化される脳内領域のうち、いずれが共飼育の作用により抑制されることでSIH反応が緩和されるのかということについて、神経活動の指標となるFosおよびZIF268蛋白質発現量の比較により検討することを目的とした。第三章で使用した被験動物を用い、条件刺激提示試験開始60分後の脳内9領域におけるFosおよびZIF268蛋白質発現を観察した。単独飼育群では、条件付けにより室傍核、視床下部背内側核、扁桃体中心核、扁桃体外側核、扁桃体基底核、中脳水道周囲灰白質背内側核、中脳水道周囲灰白質腹外側核のFos蛋白質発現が、また室傍核、視床下部背内側核、中脳水道周囲灰白質腹外側核のZIF268蛋白質発現がそれぞれ増強した。一方、網越し共飼育群では、Fos蛋白質は中脳水道周囲灰白質腹外側核においてのみ、ZIF268蛋白質は室傍核においてのみ発現の増強がみられた。以上の結果から、単独飼育群では恐怖条件付けとストレス反応に関わる全ての領域で条件付けによる神経活動の増強が認められたのに対して、網越し共飼育群では多くの領域でその増強が抑制されることが示された。今回観察を行った体温調節に関わる領域のうち、視床下部背内側核のみ単独飼育個体において条件付けによるFosおよびZIF268蛋白質の発現が増強され、共飼育によってその増強が抑制されたことから、視床下部背内側核がsm反応に関わっていることが示唆された。恐怖条件付けにおいては、条件刺激の情報は扁桃体外側核を経由して扁桃体中心核に伝達され、さらにそこから脳幹や視床下部などに伝達されてストレス行動や自律反応が生じるとされている。視床下部背内側核へは、扁桃体中心核からの投射が認められていることから、条件刺激に対して生じるSIH反応の経路としては、扁桃体外側核から扁桃体中心核を介した視床下部背内側核への経路が推測される。さらに共飼育により、扁桃体および視床下部背内側核の両領域においてFos蛋白質発現の減少がみられたことから、共飼育は扁桃体に影響を及ぼすことでSIH反応を緩和した可能性が高いと考えられる。

第五章では、総合考察を行った。本研究により、(1)12時間以上の共飼育は恐怖条件付けの記憶形成を阻害するのとは異なるメカニズムにより社会的ストレス緩衝作用をもたらすこと、(2)社会的ストレス緩衝作用に他個体との接触は必要ないこと、(3)条件刺激に対して引き起こされる恐怖条件付けやストレス反応に関わる脳内領域の活性化が共飼育により抑制されること、が明らかとなった。

本研究では、共飼育によりSIH反応は抑えられるもののすくみ行動には影響を及ぼさない、という自律反応と行動反応の乖離がみられた。単独でいるときには危険を察知して自律反応を生じることで危険に備えることが適応的であるものの、普段仲間とともに暮らしているときには極端な自律反応を抑えて適切な行動反応をとるといった機能は過剰なエネルギー消費を抑えるという観点からも適応的であろうと考えられる。今後、本研究で重要性が示唆された扁桃体や視床下部背内側核に共飼育がどのような機序で作用することにより条件刺激に対するSIH反応の緩和をもたらすのかを探究していくことで、共飼育による社会的ストレス緩衝作用のメカニズムを解明する必要があろう。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類において多くの動物種は同種他個体と群れを作って暮らしているが、群れの形成は捕食者からの逃避や餌の獲得に有利に働くなど生存率の向上をもたらし繁殖上の利点も少なくない。さらには先行研究から同種他個体の存在によりストレス反応が緩和されるといった現象も観察されているが、そのメカニズムに関しては不明である。本研究では、ラットの恐怖条件付け処置後から条件刺激再提示までの24時間を同種他個体と共に飼育すると条件刺激に対するストレス誘発性一過性体温上昇反応(SIH;Stress-induced hyperthermia)が減弱するという共飼育モデルを用いて、社会的ストレス緩衝作用のメカニズムを探ることを目的に研究が行われた。本論文は5章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第4章では本研究で実施された各実験について記述され、第5章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が展開されている。

第2章では、社会的ストレス緩衝作用の発現に必要な共飼育の時期と期間が検討された。恐怖条件付けの記憶形成後に相当する条件付け24時間後から共飼育を行った場合にも、条件刺激に対してSIH反応の緩和が認められたことから、他個体との共飼育は恐怖条件付けの記憶形成プロセスを阻害するものではないことが示唆された。次にSIH反応の緩和に最低限必要な共飼育期間が調べられ、6時間の共飼育ではSIH反応は緩和されないものの12時間以上の共飼育で緩和されることが明らかとなった。すなわち社会的ストレス緩衝作用は12時間以上の共飼育によりもたらされ、恐怖条件付けの記憶形成を阻害するのとは異なるメカニズムによりSIH反応が緩和されることが示された。

第3章では、社会的ストレス緩衝作用の発現に関与する他個体からの生体シグナルの種類を絞り込む目的で、接触刺激を阻害した際にSIH反応が緩和されるか否かが検証された。恐怖条件付けの直後から、もしくは恐怖条件付けの24時間後から、それぞれ24時間にわたって、中央部に網をとりつけたケージを用いて網越しに共飼育を行ったところ、いずれの実験条件においても条件刺激に対するSIH反応の緩和が観察された。このことから社会的ストレス緩衝作用の発現に直接的な接触刺激は必要とされないことが示された。

第4章では、条件刺激に反応して活性化される脳内領域のうち、どの部位が共飼育によって影響を受けることでSIH反応が緩和されるのか、を明らかにする目的で、神経活動の指標となるFosおよびZIF268蛋白質の発現量が各部位で比較検討された。条件刺激提示試験開始60分後の脳内9領域におけるFosおよびZIF268蛋白質発現量を比較検討したところ、条件付けにより、単独飼育群では室傍核、視床下部背内側核、扁桃体中心核、扁桃体外側核、扁桃体基底核、中脳水道周囲灰白質背内側核、中脳水道周囲灰白質腹外側核のFos蛋白質発現が、また室傍核、視床下部背内側核、中脳水道周囲灰白質腹外側核のZIF268蛋白質発現がそれぞれ増強した。これに対して、網越し共飼育群では、Fos蛋白質は中脳水道周囲灰白質腹外側核においてのみ、またZIF268蛋白質は室傍核においてのみ、それぞれ発現の増強がみられた。すなわち単独飼育群では恐怖条件付けおよびストレス反応に関わる全ての領域において条件付けによる神経活動の増強が認められたのに対して、網越し共飼育群では大部分の領域でそうした増強が抑制されることが示された。こいうした結果から、とくに共飼育群において発現増強の抑制がみられた扁桃体や視床下部背内側核域が、社会的ストレス緩衝作用の指標であるSIH反応の緩和に関わっている可能性が推測された。

以上、本研究では共飼育による社会的ストレス緩衝作用のメカニズムを解明する目的で、恐怖条件付けモデルを用いて自律機能、行動そして神経活動を指標とする反応が詳細に検討された。その結果、12時間以上の共飼育によって恐怖条件付けの記憶形成を阻害するのとは異なるメカニズムにより社会的ストレス緩衝作用がもたらされること、社会的ストレス緩衝作用に他個体との接触は必要ないこと、条件刺激に対して生じる恐怖条件付けやストレス反応に関わる脳内領域の活性化が共飼育により抑制されることが示された。また今後の課題として扁桃体や視床下部背内側核といった神経核に焦点を当てた神経行動学的研究を展開する必要があること、などが明らかとなった。こうした研究の成果は、哺乳類にとって重要な社会的行動の基盤となる神経メカニズムを理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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