学位論文要旨



No 125902
著者(漢字) 河村,悠美子
著者(英字)
著者(カナ) カワムラ,ユミコ
標題(和) Sirt3はミトコンドリア機能調節を介してp53誘導性ストレスによる初期胚発生停止を抑制する
標題(洋) Sirt3 endows preimplantation embryos with mitochondrial protection against p53-inducing stress conditions
報告番号 125902
報告番号 甲25902
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3381号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠山,千春
 東京大学 教授 上妻,志郎
 東京大学 准教授 金井,克光
 東京大学 准教授 石井,聡
 東京大学 客員教授 小倉,淳郎
内容要旨 要旨を表示する

体外受精(IVF)、顕微授精(ICSI)、体外培養等は不妊治療における生殖補助医療技術として臨床現場でも広く用いられている。近年、高齢での妊娠や不妊治療は増加傾向にあることより、そうした技術の需要は増加しているが、一方で実際の治療効果向上のためには多くの課題が残されている。また近年では、発生初期の環境要因がエピジェネティック制御に影響を及ぼし、生後の生理状態や疾患発症にも影響を与える可能性が諸研究より示唆されている。従って、初期胚発生過程に関与する分子機序の理解を深めることは、臨床的にも意義を持つと思われる。

受精とそれに続く初期発生の過程は、次世代へと種のゲノム情報を伝えるという重要な任務を担う生命現象であることから、正確に且つ安定的に遂行されねばならない。哺乳類では一般に、排卵から受精、着床に至る過程は低酸素状態で外界から防御された生体内で営まれるが、生殖補助医療におけるような体外の好気的環境下では、高酸素状態に伴う代謝活性の変化に付随して活性酸素種(ROS)が産生され、その過剰による酸化ストレスは胚を傷害することが報告されている。このように、初期胚は代謝変化を含めた、環境変化や生体ストレスに高い感受性を示すが、一方で防御機構も高度に備えていると考えられる。

本研究で注目したSirtuinファミリーは酵母からヒトまで高度に保存された脱アセチル化酵素で、哺乳類ではSirt1~7が同定されている。NAD+濃度依存性にヒストンや多様なタンパク質を脱アセチル化し、老化、癌化、DNA損傷修復、アポトーシス、細胞周期調節、ストレス応答等、多岐に亘る生命現象に関与することが知られており、細胞の代謝状態と生命現象をつなぐ重要な因子として注目されている。その観点から、マウス初期胚においてSirtuinが代謝変化に応答し、細胞傷害性ストレスに対する防御機構の一端を担っているのではないかと推測し注目した。そこで本研究では、その可能性を追求するとともに、そうであるならばそれはどのようなメカニズムによるのかを明らかにすることを目的とした。

まず、Sirtuinの初期胚発生への関与の手がかりとして発現の確認と機能阻害実験を行った。未受精卵と胚盤胞に至る各卵割段階の胚を母体から採取し、Sirt1-7の発現とその変化をRT-PCR法、Sirt1に関してはさらにreal-time PCR法を用いて検討した結果、全メンバーの母性転写産物が胚に遺伝されていること、胚ゲノム由来の遺伝子発現開始後の発現レベルは、Sirt1-3、7は胚盤胞に至る過程で漸減し、Sirt4-6は検出感度以下であった。また、Sirt1の発現挙動はRT-PCR法とreal-time PCR法とでほぼ相関する結果を示した。

IVFと胚盤胞までの培養期間、胚をSirtuin 阻害薬 (nicotinamide, sirtinol, BML-210)添加培地で培養すると、発生に遅延や停止が生じた。その際の代謝との関連を、Sirtuin特異性の高い阻害薬sirtinolで処理した胚に関し、ROSを標識する蛍光プローブCM-H2DCFDAを用いて検討したところ蛍光強度の上昇が見られ、抗酸化剤N-acetyl-L-cysteine(NAC)処理により蛍光が抑制された。さらに電子伝達系阻害剤stigmatellin処理によっても蛍光強度が抑制されたことから、Sirtuin機能阻害胚では代謝変化が生じ、ミトコンドリアでのROS産生が増加することが示された。以上は、Sirtuin の初期胚発生の進行及びミトコンドリアにおけるROS産生への関与を示唆している。

次に、初期胚の酸化ストレス防御機能へのSirtuinの寄与について検討するため、酸化ストレス刺激に起因したSirtuinの発現変化を解析した。4細胞期胚を過酸化水素処理したところ、Sirt4,5以外のSirtuin遺伝子の発現上昇がRT-PCR法にて認められた。

酸化ストレス応答とミトコンドリア機能とが密接に関与することは既知の知見である。本研究でも、Sirtuin機能阻害実験にてSirtuinとミトコンドリアROS産生との関連が見られた。そこでミトコンドリア局在性メンバー(Sirt3-5)に注目し、中でも発現が過酸化水素刺激に対し増加したこと、電子伝達系複合体Iを始めとするミトコンドリア局在性の代謝関連タンパク質群の脱アセチル化を介してミトコンドリア機能を調節していることが報告されていることから本研究ではSirt3に解析の焦点を絞ることにした。

まず、Sirt3にEGFPを結合したmRNAを受精卵へ顕微注入しタンパク発現挙動を追う手法を用いて、Sirt3が初期胚でもミトコンドリアに局在することをEGFP蛍光とMitoTracker染色との局在の一致から確認した。

初期胚発生におけるSirt3の関与と役割を探るため、Sirt3特異的siRNAを前核期胚に顕微注入し、胚盤胞期まで観察した結果、コントロールsiRNA群に比べ、Sirt3 ノックダウン群では発生に遅延や停止が生じた。さらに、Sirt3欠損配偶子を用いたIVFと体外培養の実験系でも、Sirt3完全欠損胚で胚盤胞までの発生率にノックダウン胚と同様の低下が見られたことから、Sirt3が体外培養下での初期発生過程に重要であることの確証を得た。

また、Sirt3 ノックダウン胚でも、ROS産生が亢進していること、ROSの細胞内主要産生源とされているNAD(P)H oxidaseと電子伝達系の各々の阻害薬apocyninとstigmatellinで処理するとstigmatellinでその産生がより抑制されることがCM-H2DCFDA標識を用いて検出されたことから、ミトコンドリアROS産生が亢進することが示唆された。さらに、NAC処理でこのROS産生は抑制され、且つノックダウンで低下した胚発生率が改善されたことより、産生されたROSの過剰が胚発生異常を引き起こしたものと推測される。

また先述のSirt3欠損配偶子を用いたIVF-体外培養実験では、精子のSirt3遺伝子型非依存的にSirt3欠損卵子を用いた場合に胚発生率が低下する現象が見出された。Sr2+処理により単為発生を誘導したSirt3欠損卵や誘導後Sirt3 ノックダウン処理した卵が、胚盤胞形成率の低下を示したことからも、卵子由来のSirt3の重要性が示唆された。ミトコンドリアがほぼ母親に由来し、着床前には数の増殖が抑制されていることとの関連性が推測される。

以上の結果と既報の知見から、体外環境下では好気的な代謝活性が高まるが、Sirt3による脱アセチル化を介した電子伝達系の機能調節を欠く状態では電子伝達系が正常に機能せず、酸素分子への直接的な電子伝達が亢進する結果、ROSが過剰に産生され胚発生を阻害した、と推測した。

さらに着床前胚におけるSirt3ノックダウンが及ぼす着床後胚発生への影響について検討した。Sirt3またはコントロールsiRNA導入後、24時間と72時間の異なる培養期間後に仮親マウスに移植し、着床率と移植後18.5日における生存率で評価した。結果、長期間培養したSirt3ノックダウン群で着床率と生存率がともに低下した。ノックダウン胚では、初期発生に重要な遺伝子Oct3/4、Nanog、Cdx2の桑実胚期での発現が低下していることがRT-PCR法により見出されたことより、初期胚培養時にSirt3が十分に機能することが、個体形成に至る正常胚発生の維持に重要であると考えられた。

最後に、Sirt3機能低下によるROS産を上昇から胚発生異常に至る分子メカニズムを解明するにあたり、ストレスに応答してDNA修復や細胞周期停止、アポトーシス等に機能するp53シグナル経路に注目した。過酸化水素処理胚、Sirt3 ノックダウン胚、Sirt3ノックアウト胚の遺伝子発現変化を指標にp53シグナル経路の関与の検討をしたところ、p53及びその下流のp21のmRNAまたはタンパクレベルでの発現誘導がRT-PCR法またはWestern blotting法を用いて認められた。また、p53による転写抑制が知られるNanogがp21に相反する遺伝子発現変化を示したことからも、p53シグナル経路の関与が示唆された。

さらに、NAC処理したSirt3ノックダウン胚では、p21の誘導及びNanogの抑制が解除されたことから、ノックダウンにより増加した細胞内ROSがp53シグナル経路を誘導したものと考えられるが、p53の発現は抑制されなかったことから、ROS以外のp53誘導経路の存在が示唆される。

p53シグナルの胚発生率低下への関与を調べるため、Sirt3ノックダウン胚にp53 siRNA処理を施しp53シグナルを抑制したところ、胚盤胞形成率が顕著に改善した。この結果から、Sirt3ノックアウトやノックダウンにより生じる胚発生遅延や停止にp53シグナル経路が中心的な役割を果たしていることが明らかになった。

[総括] Sirt3は正常な初期発生を進行させるためにミトコンドリア機能の調節を介して酸化ストレスに対して防御的に機能する。Sirt3が十分に機能しない場合、ミトコンドリアの電子伝達系の正常機能が阻害され、電子伝達系でのROS産生が亢進する。過剰なROSが酸化ストレスとなりp53シグナル経路を誘導することで、胚発生の遅延や停止を招いたものと考えられる。本結果は、初期胚の生理機能についての理解につながるとともに、生殖補助技術の向上に新しい視点を与えるものと期待される。

図.初期胚発生におけるSirt3によるミトコンドリアの機能調節機構

A. Sirt3正常機能時。

B. Sirt3ノックダウンまたは欠損時のミトコンドリア機能調節機構の破綻時。本研究で明らかにしたROS-p53経路以外にも、図示したLKB1-AMPK経路等、 p53シグナル経路を誘導する別の経路の存在が推定される。

審査要旨 要旨を表示する

高等動物の初期胚は環境変化や生体ストレスに高い感受性を示す一方で、防御機構も高度に備えていると考えられている。本研究は発生工学的手法及び分子生物学的な手法を用いたマウス着床前胚の解析により、NAD+ (nicotinamide adenine dinucleotide)依存性脱アセチル化酵素として知られるSirtuinファミリーの、その機構への関与とその作用機序の解明を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 未受精卵から胚盤胞に至る初期発生過程におけるSirt1~7の発現がRT-PCR法により検出され、これらの発現は胚盤胞期に至るまでの過程で減少または消失した。この結果より、体内の嫌気的環境下では、卵子形成過程で発現した産物が遺伝していること、胚ゲノム由来の発現は低いことが明らかとなった。今後、Real-time PCR法などを用いて定量的に評価し、結果の精度を高める必要がある。

2. 受精卵をSirtuin 阻害薬 (nicotinamide, sirtinol, BML-210) 添加培地で培養すると、胚盤胞に至る発生が遅延または停止したことから初期胚発生へのSirtuinの機能的関与が示唆された。

3. Sirtuinに特異性の高い阻害薬sirtinol処理胚では、活性酸素種(ROS)検出プローブであるCM-H2DCFDAを用いた蛍光標識で細胞内ROSの上昇が認められた。ミトコンドリア電子伝達系複合体I及びIIIの阻害薬stigmatellinで処理することによりROSが減少したことから、Sirtuin機能阻害胚では主にミトコンドリアを産生源とした細胞内ROSが増加することが明らかとなった。

4. 過酸化水素による活性酸素刺激後にSirt4,5以外のメンバーで発現レベルが上昇することが、RT-PCR法により検出され、Sirtuinの初期胚における酸化ストレス応答性が示唆された。本結果についても定量的に評価する必要がある。

5. Sirt3の役割に注目し、受精卵へのSirt3 siRNAのマイクロインジェクション法によるノックダウンを行ったところ、コントロールsiRNA群に比べ、ノックダウン胚では胚盤胞の形成が有意に抑制されたことから、Sirt3の初期胚発生への関与が示唆された。

6. Sirt3 ノックダウン胚においても細胞内ROSの上昇がCM-H2DCFDA標識により認められた。細胞内ROSの主要産生源として知られるNAD(P)H Oxidaseとミトコンドリア電子伝達系、各々の阻害薬apocynineとstigmatellinでノックダウン胚を処理したところ、Stigmatellin処理でより有意にROS産生が抑制されたことから、Sirt3ノックダウン胚でも主にミトコンドリアでのROS産生が亢進することが示された。ROSの過剰産生は、胚におけるミトコンドリア機能異常を示唆するものである。

7. Sirt3ノックダウン胚を活性酸素阻害薬N-acetyl-L-cysteine(NAC)で処理すると、細胞内ROSレベルが低下し、胚盤胞の形成に改善が見られた。この結果より、ノックダウン胚の胚発生異常は細胞内で産生されたROSが誘引したものであることが示唆された。

8. Sirt3ノックアウトマウス由来の卵子及び精子を用いた体外受精と体外培養の実験を行い、Sirt3完全欠損胚では胚発生率が低下するという、初期胚発生におけるSirt3の重要性を示唆する、ノックダウン実験結果を支持する結果を得た。さらに、精子のSirt3遺伝子欠損の有無に関わらず、卵子がSirt3を欠損する場合に、より胚発生率が低下する現象が認められた。

9. Sr2+処理で単為発生を誘導した後Sirt3をノックダウンした卵及びノックアウト卵子に単為発生の誘導をかけた卵は、ともに胚盤胞形成率の低下を示したことから、初期胚発生の初期段階の細胞防御機構には卵子形成過程で転写され蓄積されている母親由来のSirt3が重要な機能を果たしている、という示唆を得た。1,4の結果より、胚性の遺伝子発現開始後は、環境やストレス刺激に応じて発現を生じ、胚の防御に寄与するものと考えられる。

10. Sirt3ノックダウン及びノックアウト胚の遺伝子発現変化に注目した。初期発生に重要な遺伝子のうち内部細胞塊のマーカー遺伝子として知られるOct3/4及びNanog、栄養外胚葉への分化マーカーとして知られるCdx2に注目し、桑実胚期での遺伝子発現レベルをRT-PCR法(ノックダウン胚はReal-time PCR法でも検討)を用いて検討した結果、当該遺伝子すべてにおいて発現レベルの低下が示された。この結果は、正常に胚発生が進行していないことが遺伝子発現レベルでも確かめられたことを意味する。

11. 体外培養に起因するストレスとSirt3の関係及び、体内環境に戻した後への影響を探るため、siRNA導入後、24時間と96時間の培養期間条件の差をつけて仮親マウスに移植し、着床率と胎生18.5日生存率を評価した。その結果、長時間培養Sirt3 ノックダウン群のみ有意に着床と生存率が低下した。すなわち、培養時におけるSirt3の働きは、個体形成に至る胚発生の維持に重要であることが示唆された。

12. Sirt3 ノックダウン胚、Sirt3ノックアウト胚、過酸化水素処理胚においてp53およびその下流遺伝子p21の誘導、及びp53により転写の抑制を受けることが報告されているNanogのp21に相反した遺伝子発現がWestern blotting法またはRT-PCR法によりが認められた。さらに、ノックダウン胚を NAC処理することにより、p21の誘導およびNanogの抑制が解除された。これらの結果から、Sirt3ノックダウン胚の胚発生停止には細胞内ROSに誘導されたp53シグナル経路が関与している、という示唆を得た。本実験のRT-PCR法によって得られた結果を、定量的に評価し結果の精度を高める必要がある。

13. Sirt3と同時にp53 をsiRNAで抑制することにより胚盤胞形成率が著明に改善したことから、Sirt3ノックダウンによる胚発生の停止や遅延は、誘導されたp53シグナル経路を介したものであることが明らかとなった。

以上、本論文ではSirt3が体外受精や培養に伴うストレス環境下において、正常な初期発生を進行させるために防御的に機能すること、p53シグナル経路がSirt3のノックダウンや欠損により生じる胚発生遅延や停止を生じるメカニズムにおいて中心的な役割を果たしていることを明らかにした。

本研究結果は、生殖細胞や初期発生においてこれまで未知に等しかったSirtuinの役割の解明及び、ミトコンドリア機能やエネルギー代謝の調節機構が複雑に関連する初期胚発生のメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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