学位論文要旨



No 125908
著者(漢字) 神垣,司
著者(英字)
著者(カナ) カミガキ,ツカサ
標題(和) サル大脳後頭頂皮質における行動柔軟性の神経機構
標題(洋) Neuronal mechanisms of cognitive flexibility in macaque posterior parietal cortex
報告番号 125908
報告番号 甲25908
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3387号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河西,春郎
 東京大学 教授 狩野,方伸
 東京大学 教授 岡部,繁男
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
 東京大学 准教授 坂井,克之
内容要旨 要旨を表示する

[序文]

困難な状況に直面した際に、我々は自らの考え方、物の見方といったものを柔軟に変えて対応することができる。この認知的柔軟性には、外界からの要求が変化するに応じて素早く行動を切替える過程、すなわち認知セット切替えが要求される。心理学実験に基づき、認知セット切替えには主に2つの認知過程が動員されるという説が提唱されている(Allport et al., 1994; Meiran, 1996; Rubinstein et al., 2001; Ruthruff et al., 2001; Mosell, 2003)。1つは準備過程 (preparatory process)と呼ばれているもので、外界からの要求変化が知らされた後、これから行うべき行動のために構える過程である。もう1つは実行過程(execution process)といって、構えを実際に行動に移す過程である。

これらの認知過程に関与する大脳領域の同定については、ヒトを用いた機能的磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging, fMRI)による研究が進められており、後頭頂皮質(posterior parietal cortex, PPC)や前頭前野(prefrontal cortex, PFC)といったいくつかの大脳皮質領域が、認知セット切替えに含まれる個々の認知過程に関与していることが示唆されている(Kimberg et al., 2000; Sohn et al., 2000; Monchi et al., 2001; Sakai and Passingham 2003; Badre and Wagner, 2006; Dosenbach et al., 2006; Gruber et al., 2006; Chiu and Yantis, 2009; Ruge et al., 2009)。しかし、このニューロイメージング手法には時間分解能、空間解像度の限界があり、同定された脳領域が、認知セット切替えを構成する2つの認知過程をどのように処理しているか、その単一神経細胞レベルのメカニズムはいまだ未解明のままである。

行動中のサルから単一神経細胞活動計測をおこなう電気生理学的研究では、PPCやPFCにおいて、サルがある特定のルールに基づいて行動しているときに選択的に発火する神経細胞群が存在することが報告されており、これらの神経活動は、ルールすなわち認知セットを維持する機構を反映したものであることを示唆する (Whiete and Wise, 1999; Asaad et al., 2000; Wallis et al., 2001; Stoet and Snyder, 2004; Johnston and Everling, 2006; Mansouri et al., 2006)。しかし、これらの研究は、サルが実際に行動を切替えた試行、すなわち切替え試行と、切替えが不要な非切替え試行とを明確に区別しておらず、切替え試行にのみ特異的に出現する可能性のある神経活動を検討していない。これは、実験条件下で動物に認知セット切替えを素早く行わせることがしばしば困難であるためであり(Asaad et al., 2000; Wallis et al., 2001; Mansouri and Tanaka, 2002; Mansouri et al., 2006)、実際にどの試行でサルが切替えを成功させたのか明確に同定することができないからである。他の電気生理学的研究において、PFCあるいはその近傍領域内の神経細胞群が、動作の切替えに関連した活動を示すことが報告されているが (Shima and Tanji, 1998; Genovesio et al., 2005; Johnston et al., 2007; Isoda and Hikosaka, 2007; Quilodran et al., 2008)、これらの実験パラダイムは、例えばプロサッカード(提示刺激に視点を移動する)とアンチサッカード(提示刺激と反対方向に視点を移動する)といった単純な動作指令の切替えを調べるものであり、抽象的な認知セットの切替えではない。さらにこれらの研究のほとんどが、認知セット切替え機能を構成する2つの認知過程のうち準備過程にのみ注目しており、準備過程と実行過程とをつなぐ神経機構はいまだ明らかになっていない。本研究は、これら2つの認知過程を担う単一神経細胞レベルメカニズムを検討することを目的とした。

[方法]

本研究ではウィスコンシン・カード分類課題(Wisconsin Card Sorting Test, WCST)を改変し、2頭のマカクサルにトレーニングを施した。WCSTは元来、臨床の場でヒトの認知的柔軟性を検査するために広く使われており、認知セット切替えをテストするのに最も適した課題である(Anderson et al., 1991; Milner, 1963)。改変版WCSTでは、提示される図形に色・形という2つの次元があり、関連する1つの次元に基づいて行動することが要求された。関連する次元は数試行ごとに変更され、この次元変更のたびにサルは自らの認知セットを切替え、新しい次元に基づいて行動しなければならなかった。改変版WCST遂行中のサル大脳領域のうち、後頭頂皮質PPCより単一神経細胞活動計測をおこなった。

[結果・考察]

本研究では、サルにほぼ1試行レベルという素早さで認知セット切替えができるよう訓練することに成功し、切替え試行を明確に同定することを可能にした。改変版WCST遂行中のサルPPCから単一神経細胞活動を記録し、切替え試行と非切替え試行における活動を比較することにより、切替えに関連した活動を同定した。さらに認知セット切替えに含まれる、準備過程・実行過程にそれぞれ注目することにより、以下に述べる2つの主要な事実を見つけた。

第一に、切替え試行内でおこなわれる準備過程に特異的な活動を示すPPCニューロン群を見つけた。これらのニューロンは、サルが認知セットを一方向に切替える時のみに選択的に反応する(例えば形から色に切替える際には反応するが、色から形には反応しない)という活動特性を所持しており、'uni-dimensional preparatory-related (udPR)' ニューロンと命名した。これらの神経活動はさらに重要な性質をもっており、サルが実際に行動する約4秒も前に出現し、認知セット切替えが成功するかどうかを予測する性質をも示した。これは、udPRニューロンの活動が、行動切替えに強く結びついたものであることを示唆する。

第二に、切替え試行の実行過程において、他の非切替え試行ではみられない特異的な活動変化を示す別のPPCニューロン群を見つけ、'trial-type-dependent execution-related (tER)' ニューロンと命名した。tERニューロン群の内、過半数はさらに準備過程でも切替え特異的な活動変化を示した一方、残りのtERニューロンは実行過程のみに特化していた。さらに、次元変更が明示的に知らされる前にサルが自発的に予期して認知セット切替えを行った場合においても、tERニューロンの切替え特異的な活動変化は、実行過程・準備過程の双方において観察された。これは、この神経活動が、外界からの要求が変化したこと自体に反応しているのではなく、認知セット切替え処理そのものを反映したものであることを裏付ける。

以上の結果は、認知セット切替えの2つの主要な過程である準備過程および実行過程がPPC内において別々の神経回路によって処理されていることを示唆する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、霊長類に備わる高次大脳機能の根幹をなす行動柔軟性の神経メカニズムを解明するため、マカクサルに柔軟な行動切替えを要求する課題を訓練し、課題遂行中の大脳後頭頂皮質PPCから単一神経細胞外活動計測を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. マカクサル2頭を用いその行動柔軟性をテストするため、改変版ウィスコンシン・カード分類課題WCSTをデザインした。この課題では、維持していた認知セットを数試行おきに柔軟に切替えることが要求された。サルに、ほぼ1試行レベルという素早さで認知セット切替えができるよう訓練することに成功し、認知セット切替えが要求された切替え試行と、要求されなかった非切替え試行とを明確に区別することを可能にした。この条件下で、課題遂行中のサルPPCより単一神経細胞外活動を計測し、切替え試行と非切替え試行における活動を比較することにより、切替えに関連した神経活動が同定された。さらに切替え試行内に含まれる2つの要素過程、準備過程・実行過程にそれぞれ注目することにより、以下2, 3に述べる2つの主要な事実が示された。

2.PPC内のあるニューロン群は、切替え試行内の準備過程に特異的な活動を呈することが示された。これらのニューロン群は、サルが認知セットを一方向に切替える時のみに選択的に反応する(例えばあるニューロンは、形から色に切替える際には反応するが、色から形には反応しない)という活動特性を所持しており、'uni-dimensional preparatory-related (udPR)'ニューロンと命名した。またこれらの神経活動は、サルが実際に行動をおこす約4秒も前に先行して出現し、その認知セット切替えの成功・失敗を予測するという予知的性質をも所持していることが示された。

3.PPC内のある別のニューロン群は、切替え試行内の実行過程において、他の非切替え試行ではみられない特異的な活動変化を呈することが示され、'trial-type-dependent execution-related (tER)' ニューロンと命名した。tERニューロン群の内、その過半数はさらに準備過程でも切替え特異的な活動変化を示した一方で、残りのtERニューロンは実行過程のみに特化していた。さらに、認知セット切替えが明示的に要求される前にサルが自発的に認知セット切替えを行った場合においても、tERニューロンの切替え特異的な活動変化は、実行過程・準備過程の双方において観察された。これによりこの切替え特異的な神経活動が、外的な要因だけでなく内的な要因によっても引き起こされうることが示された。

以上、本論文は認知セット切替えを遂行中のサルから単一神経細胞外活動計測をおこなうことにより、切替え特異的な活動を呈する神経細胞群がPPC内に存在すること、そしてその活動特性を明らかにした。さらに、認知セット切替えを構成する2つの要素過程、準備過程・実行過程には、別々の神経細胞集団が関与しており、これら2つの過程がPPC内における別々の神経回路網によって処理されていることが示唆された。本研究はこれまで未知に等しかった、行動柔軟性を支える大脳メカニズムについて、その単一細胞レベルのメカニズム解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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